第3章 年〜年

松尾鉱業:福田董の社長就任と1000余名の人員整理

1954年〜中村正雄社長の逝去で専務から昇格した福田董社長

1954年2月、2代社長の中村正雄氏が逝去し、専務だった福田董氏が後任社長に就任した。福田董氏は中村正雄氏の妹の夫にあたる義弟で、中村正雄氏と同じく篤いクリスチャンであり、上智大学経済学部の教授でもあった。松尾鉱業の経営方針は人道的で信仰的なものとなり、岩手県の松尾鉱山は当時"山上の文化都市"と称された。海抜878メートルに置かれた鉱山事務所から見おろす台地には鉄筋コンクリートのアパートが並び、住宅施設が完備していた。松尾鉱業は硫化鉱で1951年に65万トン、硫黄で1952年に6万2000トン余りを産し、いずれも全国鉱山中の首位にあった。鉱石の推定埋蔵量は1億トン以上と見積もられた。

  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「松尾鉱業」の項
    • [1]1954年2月に2代社長の中村正雄氏が逝去し、福田董氏が専務から後任社長に就任した
    • [5]1951年に硫化鉱65万トン、1952年に硫黄6万2000トン余りに達し、いずれも全国鉱山中首位を占めた
  • 実業の世界 1969年10月号
    • [2]福田董氏は中村正雄氏の義弟(正雄氏の妹の夫)で、篤いクリスチャンであり上智大学経済学部の教授だった
    • [3]松尾鉱業の経営方針は人道的信仰的たらんとし、当時「山上の文化都市」と称された
  • 硫酸 1965年「工場見学 松尾鉱業株式会社松尾鉱業所見学記」
    • [4]海抜878メートルの鉱山事務所が建つ台地に鉄筋コンクリートのアパートが並び、住宅施設が完備していた
    • [6]松尾鉱山の鉱石の推定埋蔵量は1億トン以上

福田董社長のもとで松尾鉱業がまず取り組んだのは製錬コストの引下げだった。1955年1月に乾式連続硫黄製錬設備の建設を始め、同年秋に一部を操業させた。同年3月には資本金が8億900万円となった。鉱床の探査も続き、1950年に遊離硫黄を多く含む第3鉱体を、1956年には硫化鉄を多く含む第4鉱体を発見した。第1・第2・第3鉱体からの鉱石のうち、遊離硫黄25%以上のものは硫黄製錬の原料として自家消費に回り、全硫黄36%以上のものは25ミリ以下に粉砕した松尾粉鉱となった。第4鉱体の鉱石は遊離硫黄2〜3%、硫化鉄鉱態硫黄32〜34%と品位が低く、破砕・摩鉱・浮選の工程を経て硫黄50%の硫化鉄鉱精鉱に仕上げた。

  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「松尾鉱業」の項
    • [7]1955年1月にコスト引下げのため乾式連続硫黄製錬設備の建設に着手し、同年秋に一部操業した
    • [8]1955年3月に資本金が8億900万円となった
  • 硫酸 1965年「工場見学 松尾鉱業株式会社松尾鉱業所見学記」
    • [9]第3鉱体は1950年、第4鉱体は1956年に発見され、第4鉱体はおもに硫化鉄を多く含む
    • [10]第1〜第3鉱体の鉱石は遊離硫黄25%以上を硫黄製錬原料として自家消費し、全硫黄36%以上は25mm以下に粉砕して松尾粉鉱とした
    • [11]第4鉱体の粗鉱は遊離硫黄2〜3%、硫化鉄鉱態硫黄32〜34%で、破砕・摩鉱・浮選を経て硫黄50%の硫化鉄鉱精鉱とした

松尾鉱業の鉱石は重さの面でも不利で、粗鉱の比重は2.4〜2.5と、よその鉱山の金属硫化鉱の3.0〜3.8より20%ほど軽く、同じ容積を運んでもトン数が稼げないぶん運搬費がかさんだ。しかも1954年に始まった供給過剰で業界の不況は底が見えず、1955年から1956年の小康景気も、需要側の業界が輸入を増やしすぎたことで途切れていた。品位は群馬の諸山より低く、運賃も高かった。硫黄を年6〜7万トン、硫化鉱を年50万トン掘り出しても、5000人近い従業員を抱えたままではコストが下がらなかった。再度の再建計画も労働組合の反対ストライキにあい、効果は薄かった。

  • 硫酸 1965年「工場見学 松尾鉱業株式会社松尾鉱業所見学記」
    • [12]松尾鉱山の粗鉱の比重は2.4〜2.5で、他鉱山の金属硫化鉱の3.0〜3.8に比べ20%程度軽く、運搬費が割高になった
  • 実業の世界 1969年10月号
    • [13]1954年からの供給過剰による業界不況は底が深く、1955〜56年の小康景気も需要業界の過剰輸入で終わった
    • [14]5000人近い従業員を抱え、群馬の諸山より低い品位の鉱石と運賃高では硫黄年6〜7万トン・硫化鉱年50万トンを生産してもコストが高かった
    • [15]再度の再建計画も労働組合の反対ストにより効果が薄かった
参考文献[1]-[15]
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「松尾鉱業」の項
    • [1]1954年2月に2代社長の中村正雄氏が逝去し、福田董氏が専務から後任社長に就任した
    • [5]1951年に硫化鉱65万トン、1952年に硫黄6万2000トン余りに達し、いずれも全国鉱山中首位を占めた
    • [7]1955年1月にコスト引下げのため乾式連続硫黄製錬設備の建設に着手し、同年秋に一部操業した
    • [8]1955年3月に資本金が8億900万円となった
  • 実業の世界 1969年10月号
    • [2]福田董氏は中村正雄氏の義弟(正雄氏の妹の夫)で、篤いクリスチャンであり上智大学経済学部の教授だった
    • [3]松尾鉱業の経営方針は人道的信仰的たらんとし、当時「山上の文化都市」と称された
    • [13]1954年からの供給過剰による業界不況は底が深く、1955〜56年の小康景気も需要業界の過剰輸入で終わった
    • [14]5000人近い従業員を抱え、群馬の諸山より低い品位の鉱石と運賃高では硫黄年6〜7万トン・硫化鉱年50万トンを生産してもコストが高かった
    • [15]再度の再建計画も労働組合の反対ストにより効果が薄かった
  • 硫酸 1965年「工場見学 松尾鉱業株式会社松尾鉱業所見学記」
    • [4]海抜878メートルの鉱山事務所が建つ台地に鉄筋コンクリートのアパートが並び、住宅施設が完備していた
    • [6]松尾鉱山の鉱石の推定埋蔵量は1億トン以上
    • [9]第3鉱体は1950年、第4鉱体は1956年に発見され、第4鉱体はおもに硫化鉄を多く含む
    • [10]第1〜第3鉱体の鉱石は遊離硫黄25%以上を硫黄製錬原料として自家消費し、全硫黄36%以上は25mm以下に粉砕して松尾粉鉱とした
    • [11]第4鉱体の粗鉱は遊離硫黄2〜3%、硫化鉄鉱態硫黄32〜34%で、破砕・摩鉱・浮選を経て硫黄50%の硫化鉄鉱精鉱とした
    • [12]松尾鉱山の粗鉱の比重は2.4〜2.5で、他鉱山の金属硫化鉱の3.0〜3.8に比べ20%程度軽く、運搬費が割高になった

1958年〜無配転落と南ローデシアのスツケ鉱山

業界不況は配当に直に出て、松尾鉱業は1958年3月期から無配を続けた。人員の削減も繰り返し、1958年に320人、1960年に800人を減らした。硫黄の埋蔵量は豊富でも、硫黄と硫化鉱はいずれも需要が伸び悩み、松尾鉱山は苦難期に入っていた。硫黄の主な納入先は化繊・合繊・人絹スフ用のパルプ業界、硫化鉱の納入先は硫酸・硫安・農薬の各業界で、いずれの需要業界の停滞も松尾鉱業の販売を直に押し下げた。株価も低迷し、東京市場での1960年中の高値は52円、安値は33円と、額面50円を割り込む水準にとどまった。1961年に入って株価が額面を上回ってからも、復配はこの先2、3期は難しいと見込まれた。

  • 野田経済 1961年4月24日号
    • [16]松尾鉱業は1958年3月期から無配を継続した
    • [21]1961年1月以来株価は額面を上回ったが、業績はここ2〜3期復配困難の予想だった
  • 実業往来 1969年
    • [17]人員整理は1958年に320人、1960年に800人
  • ダイヤモンド会社産業総覧 1964年版「松尾鉱業」
    • [18]松尾鉱山は硫黄の埋蔵量は豊富だが硫黄・硫化鉱とも需要が伸び悩み苦難期に入っていた
    • [19]硫黄の主需要先は化繊・合繊・人絹スフ用パルプ業界、硫化鉱は硫酸・硫安・農薬に使われた
    • [20]1960年中の東京市場の株価は高値52円・安値33円(額面50円)

合理化は選鉱と製錬の両面で進んだ。1960年に浮遊選鉱設備を完成させて外販鉱石の品位を引き上げ、1961年には流動製錬設備を完成させた。運輸部門は1960年9月に分離し、八幡平観光と松尾貨物運送の2社を設けた。1961年10月には神戸製鋼所・日産化学工業との共同出資で資本金5億円の東北鉱化工業を設立し、松尾鉱山山麓の屋敷台に日産300トンの硫酸工場を建設した。八幡平観光は八幡平国立公園の松尾鉱山口の開発に進出し、夏冬兼用リフトと観光ホテルの建設、定期バス路線の延長、貸切バス営業、スキー場の造成を進めた。

  • 硫酸 1965年「工場見学 松尾鉱業株式会社松尾鉱業所見学記」
    • [22]1960年に浮遊選鉱設備を完成して外販鉱石の品位向上を図り、1961年に流動製錬設備を完成した
  • ダイヤモンド会社産業総覧 1964年版「松尾鉱業」
    • [23]1960年9月に運輸部門を分離して八幡平観光と松尾貨物運送を設立した
    • [24]1961年10月に神戸製鋼所・日産化学工業との共同出資で資本金5億円の東北鉱化工業を設立し、松尾鉱山山麓の屋敷台に日産300トンの硫酸工場を建設した
    • [25]八幡平観光は八幡平国立公園の松尾鉱山口開発に進出し、夏冬兼用リフト・観光ホテルの建設、定期バス路線の延長、貸切バス営業、スキー場の造成を進めた

硫黄の需要先である化繊・パルプ工業の不振は、硫黄に頼る事業構成そのものを先細らせた。松尾鉱業は1957年ごろから南アフリカへ技師2人を送り込んで踏査を行い、1960年に南ローデシアのソールスベリーに近いスツケ鉱山を得た。この鉱山はペグマタイト鉱床で、タンタルとベリリウムの原鉱石を精鉱換算で25万トン埋蔵すると予測された。採掘にあたっては同系列の増田屋を通じて現地法人マツオローデシア・マイニング・カンパニーを設立し、資本金2500万円は全額を松尾鉱業が出資した。当初はタンタル原鉱を月2トン、ベリリウム原鉱を15トン採掘する計画だった。

  • 野田経済 1961年4月24日号
    • [26]化繊・パルプ工業の不振とともに硫黄中心では時代の波に乗り遅れると判断した
    • [27]4年前(1961年時点)から南アフリカに技師2人を送り込んで踏査を行い、1960年に南ローデシアのソールスベリーに近いスツケ鉱山を得た
    • [28]スツケ鉱山はペグマタイト鉱床で、タンタル・ベリリウムを精鉱換算25万トン埋蔵と予測された
    • [29]同系列の増田屋を通じて現地法人マツオローデシア・マイニング・カンパニーを設立し、資本金2500万円は全額松尾鉱業の出資
    • [30]当初はタンタル原鉱月2トン、ベリリウム原鉱15トンで採掘を始める計画だった
参考文献[16]-[30]
  • 野田経済 1961年4月24日号
    • [16]松尾鉱業は1958年3月期から無配を継続した
    • [21]1961年1月以来株価は額面を上回ったが、業績はここ2〜3期復配困難の予想だった
    • [26]化繊・パルプ工業の不振とともに硫黄中心では時代の波に乗り遅れると判断した
    • [27]4年前(1961年時点)から南アフリカに技師2人を送り込んで踏査を行い、1960年に南ローデシアのソールスベリーに近いスツケ鉱山を得た
    • [28]スツケ鉱山はペグマタイト鉱床で、タンタル・ベリリウムを精鉱換算25万トン埋蔵と予測された
    • [29]同系列の増田屋を通じて現地法人マツオローデシア・マイニング・カンパニーを設立し、資本金2500万円は全額松尾鉱業の出資
    • [30]当初はタンタル原鉱月2トン、ベリリウム原鉱15トンで採掘を始める計画だった
  • 実業往来 1969年
    • [17]人員整理は1958年に320人、1960年に800人
  • ダイヤモンド会社産業総覧 1964年版「松尾鉱業」
    • [18]松尾鉱山は硫黄の埋蔵量は豊富だが硫黄・硫化鉱とも需要が伸び悩み苦難期に入っていた
    • [19]硫黄の主需要先は化繊・合繊・人絹スフ用パルプ業界、硫化鉱は硫酸・硫安・農薬に使われた
    • [20]1960年中の東京市場の株価は高値52円・安値33円(額面50円)
    • [23]1960年9月に運輸部門を分離して八幡平観光と松尾貨物運送を設立した
    • [24]1961年10月に神戸製鋼所・日産化学工業との共同出資で資本金5億円の東北鉱化工業を設立し、松尾鉱山山麓の屋敷台に日産300トンの硫酸工場を建設した
    • [25]八幡平観光は八幡平国立公園の松尾鉱山口開発に進出し、夏冬兼用リフト・観光ホテルの建設、定期バス路線の延長、貸切バス営業、スキー場の造成を進めた
  • 硫酸 1965年「工場見学 松尾鉱業株式会社松尾鉱業所見学記」
    • [22]1960年に浮遊選鉱設備を完成して外販鉱石の品位向上を図り、1961年に流動製錬設備を完成した

1961年〜小島岩太郎社長と得能善太郎専務による1082人の整理

福田董社長は1961年に退任した。後任には中村正雄元社長に見込まれて入社した譜代の元専務・小島岩太郎氏が就任し、住友の逸材として長く鉱業所長を務め常務だった得能善太郎氏が専務となった。小島岩太郎社長と得能善太郎専務は人員整理と硫黄の月7〜8000トンへの能率アップを励行し、流動製錬と直熱製錬の研究・試験を並行させて相当のコストダウンにつなげた。松尾鉱業は1962年に1082人を整理し、同年秋の1000余名の人員整理と経営陣の交替により再建に着手した。焼取製錬竈の燃料を石炭から重油へ切り替える改造工事も1962年10月に始め、1963年4月までに30基を終えた。

  • 実業の世界 1969年10月号
    • [31]福田董社長は1961年に退任した
    • [32]中村正雄元社長に見込まれて入社した譜代の元専務・小島岩太郎氏が社長に、住友の逸材で長く鉱業所長を務め常務だった得能善太郎氏が専務となった
    • [33]人員整理と硫黄月7〜8000トンへの能率アップを励行し、流動・直熱の研究と試験を併行して相当のコストダウンに寄与した
  • 実業往来 1969年
    • [34]1962年の人員整理は1082人
  • ダイヤモンド会社産業総覧 1964年版「松尾鉱業」
    • [35]1962年秋の1000余名の人員整理と経営陣交替により再建に着手した
    • [36]焼取製錬竈の燃料を石炭から重油に転換するため1962年10月に改造工事へ着手し、1963年4月現在30基を完了した

再建の中核は硫酸への一貫化と人件費の圧縮だった。東北鉱化工業の硫酸工場は1963年1月に操業を開始し、松尾鉱業は焙焼硫化鉱の月約1万トンを全量供給した。従業員は1963年3月末で2484人、平均年齢は36.6歳を数え、5000人近くを抱えた1950年代半ばからおよそ半分に減った。資本金10億円に対し、借入金は21億円から23億円程度にとどまっていた。販売実績では1962年9月期に硫鉱が53.3%、精製硫黄が34.2%、鉄道営業が8.4%を占め、1963年3月期にはそれぞれ49.9%、38.7%、8.0%となった。

  • ダイヤモンド会社産業総覧 1964年版「松尾鉱業」
    • [37]東北鉱化工業の硫酸工場は1963年1月から操業し、焙焼硫化鉱月約1万トンを全量供給した
    • [38]1963年3月末の従業員は2484人、平均年齢36.6歳
    • [40]1962年9月期・1963年3月期の販売実績で硫鉱53.3%・49.9%、精製硫黄34.2%・38.7%、鉄道営業8.4%・8.0%
  • 実業の世界 1969年10月号
    • [39]借入金は21億〜23億円程度、資本金は10億円

1963年6月末の大株主は第一銀行と神戸製鋼所がともに持株比率2.5%で並び、日の本産業2.4%、日東化学工業2.4%、倉敷レイヨン2.1%がこれに次いだ。松尾鉱業は財閥系の親会社を持たず、単独で経営を支える大口株主を欠いていた。硫黄で30%、硫化鉱で15%の市場占有率を占め、この2品目で売上高の9割を占めた。岩手県の松尾鉱山のほかに青森県唐川と岩手県都南の鉱山で金・銀・銅・亜鉛を産したが、量は少なく他社へ売鉱していた。それでも無配は解消せず、品位の低い鉱石と運賃高から来るコスト高が、10年近く続いた硫黄不況のもとで残った。

  • ダイヤモンド会社産業総覧 1964年版「松尾鉱業」
    • [41]1963年6月末の大株主は第一銀行2.5%、神戸製鋼所2.5%、日の本産業2.4%、日東化学工業2.4%、倉敷レイヨン2.1%
    • [42]大株主の最大持株比率は2.5%で、財閥系の親会社を持たなかった
    • [43]硫黄30%、硫化鉱15%の市場占有率をもち、硫黄・硫化鉱で売上高の9割を占めた
    • [44]青森県唐川・岩手県都南の鉱山で金・銀・銅・亜鉛を産したが量的に少なく、他に売鉱していた
  • 実業の世界 1969年10月号
    • [45]10年近く続いた硫黄不況のもと、低品位の鉱石と運賃高でコストが高かった
参考文献[31]-[45]
  • 実業の世界 1969年10月号
    • [31]福田董社長は1961年に退任した
    • [32]中村正雄元社長に見込まれて入社した譜代の元専務・小島岩太郎氏が社長に、住友の逸材で長く鉱業所長を務め常務だった得能善太郎氏が専務となった
    • [33]人員整理と硫黄月7〜8000トンへの能率アップを励行し、流動・直熱の研究と試験を併行して相当のコストダウンに寄与した
    • [39]借入金は21億〜23億円程度、資本金は10億円
    • [45]10年近く続いた硫黄不況のもと、低品位の鉱石と運賃高でコストが高かった
  • 実業往来 1969年
    • [34]1962年の人員整理は1082人
  • ダイヤモンド会社産業総覧 1964年版「松尾鉱業」
    • [35]1962年秋の1000余名の人員整理と経営陣交替により再建に着手した
    • [36]焼取製錬竈の燃料を石炭から重油に転換するため1962年10月に改造工事へ着手し、1963年4月現在30基を完了した
    • [37]東北鉱化工業の硫酸工場は1963年1月から操業し、焙焼硫化鉱月約1万トンを全量供給した
    • [38]1963年3月末の従業員は2484人、平均年齢36.6歳
    • [40]1962年9月期・1963年3月期の販売実績で硫鉱53.3%・49.9%、精製硫黄34.2%・38.7%、鉄道営業8.4%・8.0%
    • [41]1963年6月末の大株主は第一銀行2.5%、神戸製鋼所2.5%、日の本産業2.4%、日東化学工業2.4%、倉敷レイヨン2.1%
    • [42]大株主の最大持株比率は2.5%で、財閥系の親会社を持たなかった
    • [43]硫黄30%、硫化鉱15%の市場占有率をもち、硫黄・硫化鉱で売上高の9割を占めた
    • [44]青森県唐川・岩手県都南の鉱山で金・銀・銅・亜鉛を産したが量的に少なく、他に売鉱していた

1954年〜1963年の業績

決算期 区分 売上高 純利益 主な投資
億円 YoY 億円 利益率
1954年03月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a
1955年03月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a
1956年03月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a
1957年03月期 単体 43 n/a 2 5.7% n/a
1958年03月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a
1959年03月期 単体 31 n/a ▲2 ▲9.0% n/a
1960年03月期 単体 38 +22.6% 0 2.0% n/a
1961年03月期 単体 42 +9.3% 0 0.8% n/a
1962年03月期 単体 43 +4.4% 0 0.6% n/a
1963年03月期 単体 38 ▲11.7% ▲8 ▲21.0% n/a

出所:ダイヤモンド会社産業総覧 1964年版【過去の業績】半期合算、ダイヤモンド会社産業総覧 1964年版【業績一覧表】半期合算、ダイヤモンド会社産業総覧 1964年版【業績一覧表】半期合算(第85期+第86期)/同誌注記の有価証券報告書ベースは売上38.27億円、税込純利益-0.42億円

出典・参考

6件
出典・参考
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「松尾鉱業」の項
  • ダイヤモンド会社産業総覧 1964年版「松尾鉱業」
  • 実業の世界 1969年10月号
  • 野田経済 1961年4月24日号
  • 硫酸 1965年「工場見学 松尾鉱業株式会社松尾鉱業所見学記」
  • 実業往来 1969年

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