松尾鉱業:40億円の合理化計画と1971年の松尾鉱山閉山
1964年〜第一銀行の要望で送り込まれた神戸製鋼所の3人
1964年5月、松尾鉱業では小島岩太郎社長と得能善太郎専務がそろって退いた。退任を求めたのは、貸し手として最大で、大株主にも名を連ねる第一銀行だった。硫黄の値が上向いた矢先のことで、各国で需要が急に伸びて世界の需給が逆転し、国内でも供給が足りなくなる気配が出たため、10年近く沈んでいた硫黄は1963年7月と10月の2度、各トン2000円程度ずつ上がっていた。社長の座には神戸製鋼所専務の山野上重喜氏が送り込まれ、副社長には神戸製鋼所へ鉄鉱石を納める日本高周波鉱業の常務だった中村武晴氏が入った。前神戸製鋼所顧問で元通産省機械局長の佐枝新一専務はすでに入社しており、この3人が経営を担う体制となった。第一銀行は、松尾鉱業の硫化鉄鉱を資源化する意欲から大株主となっていた系列下の神戸製鋼所に、松尾鉱業への経営乗り出しを要請していた。
- 実業の世界 1969年10月号
- [1]1964年5月、第一銀行の要望で小島岩太郎社長と得能善太郎専務が退任した
- [2]10年近く続いた硫黄不況が世界需給の転換で反転し、1963年7月と10月に各トン2000円程度値上がりした
- [3]神戸製鋼所の山野上重喜専務が社長、日本高周波鉱業の中村武晴常務が副社長として着任した
- [4]前神戸製鋼所顧問で元通産省機械局長の佐枝新一専務と3人で経営陣を組んだ
- [5]第一銀行が系列下の神戸製鋼所に松尾鉱業への経営乗り出しを要請し、神戸製鋼所は硫化鉄鉱の資源化を狙って大株主となっていた
経営陣が入れ替わった時期、硫黄業界は貿易自由化への対応を迫られていた。硫黄は自由化困難な産業としてハード・コア・ウェイバー品目とされていたが、1961年のガット総会で同制度を1962年から廃止する決議が行われ、通産省は硫黄を1968年度または1970年度までに自由化する方針を立てた。通産省の試算では、1968年度の国内需要35万トンに対し、軽質油からの回収硫黄が理論計算で22万トン、最小でも15万トン、自由化により輸入が5万〜10万トンとなり、鉱山硫黄の需要対象は10万〜15万トンにすぎない。通産省は、輸入価格トン1万5000円と競争できるコストダウンが要ると結論づけた。工場渡し1万7000円で成り立つ合理化ができるかという諮問に対し、全国の業者を一丸とする日本硫黄企業連盟は、業界全体の合理化資金合計30億円の低利資金斡旋その他の条件が満たされれば合理化目標を達成できると答申した。
- 実業の世界 1969年10月号
- [6]1961年当時、貿易自由化の声が高まり各産業界で自由化対策が検討された
- [7]硫黄はハード・コア・ウェイバー品目とされたが1961年のガット総会で同制度の廃止が決議され、通産省は1968年度または1970年度までの自由化方針を立てた
- [8]1968年度の国内需要35万トンに対し回収硫黄15万〜22万トン、輸入5万〜10万トンで鉱山硫黄の需要対象は10万〜15万トン
- [9]輸入価格トン1万5000円と競争できる合理化コストダウンが必要と結論した
- [10]工場渡し1万7000円の諮問に対し日本硫黄企業連盟は合理化資金30億円の斡旋を条件に達成できると答申した
松尾鉱業は業界第一の生産量を持ちながらコストが高く、大手のなかで最も弱く、過去2度の再建計画も実績が上がらなかった。山野上重喜社長らは、松尾鉱山で研究と試験を重ねていた流動製錬・直熱製錬と、終戦直後にGHQから示唆された第1鉱体の露天掘り化を3本の中核とする計画を立てた。露天掘り採掘で硫黄トン当たり3000円、流動製錬・直熱製錬と排ガスの硫酸化で5000円、合わせて8000円のコストダウンを行い、大更渡し1万3500円に需要工場までの平均運賃トン2000円を加えた工場渡し1万5500円でペイし得ると称し、所要合理化資金約40億円の斡旋を通産省に要請した。通産省の当局者は東北開発公庫と興業銀行に極力推薦し、第一銀行その他の民間銀行との協調融資で40億円の借款を取り結ばせた。業界全体が要望した合理化資金30億円を10億円上回る資金が、松尾鉱業1社に出た。
- 実業の世界 1969年10月号
- [11]松尾鉱業は業界第一の生産量を持つがコストが高く大手中最も弱体で、過去2度の再建計画も実績が上がらなかった
- [12]流動製錬・直熱製錬と終戦直後にGHQから示唆された第1鉱体の露天掘り化を3本の柱とする計画を立てた
- [13]露天掘りで3000円、流動直熱製錬と排ガス硫酸化で5000円、計8000円のコストダウンで工場渡し1万5500円としてペイすると称し約40億円の斡旋を要請した
- [14]通産省が東北開発公庫・興業銀行に推薦し、第一銀行ほか民間銀行との協調融資で40億円の借款が結ばれた
- [15]業界全体が要望した30億円を10億円上回る資金が松尾鉱業1社に出た
参考文献[1]-[15]
- 実業の世界 1969年10月号
- [1]1964年5月、第一銀行の要望で小島岩太郎社長と得能善太郎専務が退任した
- [2]10年近く続いた硫黄不況が世界需給の転換で反転し、1963年7月と10月に各トン2000円程度値上がりした
- [3]神戸製鋼所の山野上重喜専務が社長、日本高周波鉱業の中村武晴常務が副社長として着任した
- [4]前神戸製鋼所顧問で元通産省機械局長の佐枝新一専務と3人で経営陣を組んだ
- [5]第一銀行が系列下の神戸製鋼所に松尾鉱業への経営乗り出しを要請し、神戸製鋼所は硫化鉄鉱の資源化を狙って大株主となっていた
- [6]1961年当時、貿易自由化の声が高まり各産業界で自由化対策が検討された
- [7]硫黄はハード・コア・ウェイバー品目とされたが1961年のガット総会で同制度の廃止が決議され、通産省は1968年度または1970年度までの自由化方針を立てた
- [8]1968年度の国内需要35万トンに対し回収硫黄15万〜22万トン、輸入5万〜10万トンで鉱山硫黄の需要対象は10万〜15万トン
- [9]輸入価格トン1万5000円と競争できる合理化コストダウンが必要と結論した
- [10]工場渡し1万7000円の諮問に対し日本硫黄企業連盟は合理化資金30億円の斡旋を条件に達成できると答申した
- [11]松尾鉱業は業界第一の生産量を持つがコストが高く大手中最も弱体で、過去2度の再建計画も実績が上がらなかった
- [12]流動製錬・直熱製錬と終戦直後にGHQから示唆された第1鉱体の露天掘り化を3本の柱とする計画を立てた
- [13]露天掘りで3000円、流動直熱製錬と排ガス硫酸化で5000円、計8000円のコストダウンで工場渡し1万5500円としてペイすると称し約40億円の斡旋を要請した
- [14]通産省が東北開発公庫・興業銀行に推薦し、第一銀行ほか民間銀行との協調融資で40億円の借款が結ばれた
- [15]業界全体が要望した30億円を10億円上回る資金が松尾鉱業1社に出た
1965年〜トン8000円のコストダウン計画と実績の乖離
松尾鉱業は1964年10月、5カ年計画による剥土資金・設備資金計約40億円の融資を得て合理化に着手した。露天掘りは冬季も通して1965年5月までに340万立方メートルを剥土し、同月から採鉱を始める目算だったが、冬季の作業不能と1日2万立方メートルという剥土能率の予定が空転し、採鉱開始は1967年5月にずれ込んだ。流動製錬・直熱製錬は1966年1月に操業を開始し、4月から月計3350トンを生産する予定が7月からの試験開始にずれ、その後も故障と修理が続いた。排ガスは高低差60メートル・距離300メートル下方の東北鉱化工業の硫酸工場へ送ったが、硫化水素と硫黄ミストが浄化されず不純な硫酸しかできないとわかり、日産化学のパテント浄化装置やアメリカからの触媒輸入で2年を空振りした。修理その他で約6億円、当初の設備資金と合わせて約10億円を投入し、1968年春にようやく正常運転に入った。
- 実業の世界 1969年10月号
- [16]1964年10月から5カ年計画の剥土資金・設備資金計約40億円の斡旋融資を得て合理化に着手した
- [17]露天掘りは1965年5月までに340万立方メートルを剥土する予定が空転し、採鉱開始は1967年5月にずれ込んだ
- [18]流動製錬・直熱製錬は1966年1月操業開始、4月から月3350トン生産の予定が7月からの試験開始にずれ、故障と修理を繰り返した
- [19]排ガスを東北鉱化工業の硫酸工場へ送ったが硫化水素と硫黄ミストが浄化されず、浄化装置と触媒輸入で2年を空振りした
- [20]修理その他で約6億円、当初の設備資金と合わせ約10億円を投入し1968年春に正常運転に入った
露天掘りと流動製錬・直熱製錬がどうにか平常の操業に入ったのは1968年だが、剥土採鉱費は鉱石トン当たり550円という目標に対し、償却と金利を抜いても1000円以上に達した。遊離硫黄に対する実収率は計画の80%に届かず60〜65%で止まり、硫黄1トンを得るのに見込んだ鉱石5トンではなく7〜8トンを使った。排ガスは鉱石に換算して月1万1000トン使う計画だったのに、実際は月2200トンで、効率は20%にとどまる。硫黄トン当たりの大更渡しコストは2万1500円を8000円引き下げて1万3500円にする計画で、下げ幅の少なくとも50%は実現する必要があったのに、結果はかえって以前のコストより高くなった。
- 実業の世界 1969年10月号
- [21]1968年になって露天掘りも流動直熱もまがりなりにも正常操業となったが実績は計画から外れた
- [22]採鉱費は鉱石トン当たり550円の目標に対し償却金利抜きで1000円以上となった
- [23]実収率は遊離硫黄に対し80%の目標が60〜65%、硫黄1トン対鉱石5トンの計画が7〜8トンを消費した
- [24]排ガスは鉱石換算月1万1000トンの計画に対し月2200トン、効率20%にとどまった
- [25]トン2万1500円を8000円下げて1万3500円とする計画に対し実績は逆に前コストよりアップした
合理化が停滞していた1967年春、松尾鉱業は850名の希望退職案を打ち出し、11億円の資金計画を立てて金融機関に融資を懇請した。賃金差と福利厚生費差で月4000万円を節減するという理由だったが、金融機関の多くは断った。経営者が通産省に泣きつくと、鉱山局の課長が東北開発公庫と興業銀行へ出向いて政策的なテコ入れを約し、11億円の退職金融資を得て1967年9月に900名を整理した。しかし硫黄が2000トンの減産となり、月4000万円の節減効果はゼロに終わった。借入金は山野上重喜社長の就任前の22億〜23億円から5年で65億円に膨らみ、累積赤字は18億5000万円、実質23億円に増えた。売掛金その他を含む債務は約80億円に達し、1968年6月には日本ブルドーザー工事の受取手形額面2億円の不渡り問題が起き、通産省の懇請による東北開発公庫の緊急融資で危機を脱した。
- 実業の世界 1969年10月号
- [26]1967年春に850名の希望退職案を打ち出し11億円の資金計画で金融機関に融資を懇請した
- [27]450名の臨時下請で賃金差・福利厚生費差により月4000万円を節減する理由だったが金融機関の多くは断った
- [28]通産省鉱山局の課長が東北開発公庫と興業銀行に嘆願し、11億円の退職金融資を得て1967年9月に900名を整理した
- [29]硫黄2000トンの減産で月4000万円の節減効果はゼロに終わった
- [30]借入金は就任前の22億〜23億円から65億円に拡大し、累積赤字18億5000万円、実質23億円となった
- [31]売掛金その他を含め債務は約80億円、1968年6月の日本ブルドーザー工事の受取手形2億円の不渡り問題は東北開発公庫の緊急融資で回避された
参考文献[16]-[31]
- 実業の世界 1969年10月号
- [16]1964年10月から5カ年計画の剥土資金・設備資金計約40億円の斡旋融資を得て合理化に着手した
- [17]露天掘りは1965年5月までに340万立方メートルを剥土する予定が空転し、採鉱開始は1967年5月にずれ込んだ
- [18]流動製錬・直熱製錬は1966年1月操業開始、4月から月3350トン生産の予定が7月からの試験開始にずれ、故障と修理を繰り返した
- [19]排ガスを東北鉱化工業の硫酸工場へ送ったが硫化水素と硫黄ミストが浄化されず、浄化装置と触媒輸入で2年を空振りした
- [20]修理その他で約6億円、当初の設備資金と合わせ約10億円を投入し1968年春に正常運転に入った
- [21]1968年になって露天掘りも流動直熱もまがりなりにも正常操業となったが実績は計画から外れた
- [22]採鉱費は鉱石トン当たり550円の目標に対し償却金利抜きで1000円以上となった
- [23]実収率は遊離硫黄に対し80%の目標が60〜65%、硫黄1トン対鉱石5トンの計画が7〜8トンを消費した
- [24]排ガスは鉱石換算月1万1000トンの計画に対し月2200トン、効率20%にとどまった
- [25]トン2万1500円を8000円下げて1万3500円とする計画に対し実績は逆に前コストよりアップした
- [26]1967年春に850名の希望退職案を打ち出し11億円の資金計画で金融機関に融資を懇請した
- [27]450名の臨時下請で賃金差・福利厚生費差により月4000万円を節減する理由だったが金融機関の多くは断った
- [28]通産省鉱山局の課長が東北開発公庫と興業銀行に嘆願し、11億円の退職金融資を得て1967年9月に900名を整理した
- [29]硫黄2000トンの減産で月4000万円の節減効果はゼロに終わった
- [30]借入金は就任前の22億〜23億円から65億円に拡大し、累積赤字18億5000万円、実質23億円となった
- [31]売掛金その他を含め債務は約80億円、1968年6月の日本ブルドーザー工事の受取手形2億円の不渡り問題は東北開発公庫の緊急融資で回避された
1969年〜全従業員の総退職と5名だけの残務整理
手形が不渡りになる寸前に更生を申し立てたことで、松尾鉱業は銀行取引の停止を免れ、生産と販売をそれまでどおり続けることを認められた。申請先は東京地方裁判所で、日付は1968年12月18日、財産保全命令は同年12月24日に出ている。管財人には通産省と非鉄金属業界が推した万座硫黄社長の浅田寛二氏が指定され、1969年1月15日に更生手続の開始が発令された。もっとも、裁判所が意見を聞く場でも管財人を決める場でも大口債権者である金融機関の意向はほぼ顧みられず、手続は通産省の考えを軸に進んだため、金融機関は抗議した。3月15日の第1回関係人会議で示された更生計画の確立期限は12月25日で、通例の6カ月ではなくほぼ1年後に置かれた。上場は3月19日、東京証券取引所1部が更生または整理を理由に廃止した。
- 実業の世界 1969年10月号
- [32]手形不渡り直前の更生申立のため銀行取引は停止とならず生産販売業務の継続が許された
- [33]1968年12月18日に東京地方裁判所へ会社更生法の適用を申請し、12月24日に財産保全命令が出された
- [34]1969年1月15日、通産省と非鉄金属業界の推薦で万座硫黄社長の浅田寛二氏が管財人に指定され更生手続開始が発令された
- [35]管財人決定などで債権者の意向はほとんど無視され通産省の意見で運ばれ、大口債権者から抗議が出た
- [36]3月15日に第1回関係人会議が開かれ12月25日までに更生計画を確立するよう指示された
- [37]更生計画確立までの期間は通例6カ月だが松尾鉱業ではほぼ1年後の12月25日とされた
富士石油・大協石油・東亜燃料・日本石油の後発4社が常時操業に入り、重油脱硫で回収される硫黄が増え始めたのは1969年1月で、松尾鉱業が倒産した後のことだった。それでも当時の各紙・各局は、脱硫で得た安い硫黄が大量に市場へ流れ、山から掘る硫黄の買い手がいなくなったことを倒産の原因として一様に伝え、通産省も旧経営者も管財人も同じ説明をした。原因の大半はむしろ通産省の指導の誤りと、旧経営者の合理化と経営の失敗にあるとする見方もあった。1969年1〜9月の回収硫黄生産は月平均1万2240トン、うち重油脱硫分は6240〜6740トンで、鉱山硫黄への影響度は約30%、出鉱の半分が硫黄鉱だった松尾鉱業が受けるべき影響度は15%と算定された。安売りはむしろ鉱山側にあり、松尾鉱業は1968年9月からトン2万円の大台を割って1万9000円でダンピングを始め、これが鉱山硫黄業界全体に年間20数億円の損害をもたらした。
- 実業の世界 1969年10月号
- [38]重油脱硫の回収硫黄が伸びたのは後発4社の常時操業が始まった1969年1月頃からで松尾の倒産以後のことだった
- [43]松尾鉱業が1968年9月から2万円の大台を割り1万9000円でダンピングを始め、鉱山硫黄業界全体に年間20数億円の損害をもたらした
- 実業往来 1969年
- [39]松尾がピンチに立った理由として一般に言われていたのは、回収硫黄の進出で競争ができなくなったという見方だった
- 実業の世界 1970年
- [40]閉山の原因を各テレビ各新聞が重油脱硫の回収硫黄に帰し、通産省・旧経営者・管財人にも都合のよい理由づけだった
- [41]本当の原因理由の大部分は通産省の指導の誤りと旧経営者の合理化および経営の失敗にあり、回収硫黄の影響は若干部分にすぎない
- [42]1969年1〜9月の回収生産は月平均1万2240トン、うち重油脱硫分6240〜6740トン、鉱山硫黄への影響度約30%、松尾の受くべき影響度15%
管財人の浅田寛二氏は、退職金に回す資金がないことを理由に、1000人余りの従業員を抱えたまま売れ行きのない硫黄を掘り続けた。手続が始まった当初から大口債権者の金融機関が大幅な人員整理を迫っていたのを、退けた形である。同年9月末、管財人は閉山が避けられないことを労組の代表に告げた。10月に入ると松尾村と岩手県が急ぎ対策に乗り出し、全日本金属鉱山労働組合の中央行動や通産・大蔵・労働の各省への陳情が重ねられ、石油業界も1億5000万円の協力費を出した。硫黄と硫化鉱の在庫を残らず集めて充てた結果、退職金は1人平均25万円、規定額の4分の1の支払いで決着した。11月11日限りで職員・従業員と管理職員のすべてが退職し、一切の作業が止まった。松尾鉱業鉄道は1969年12月に全列車を運休した。松尾鉱山は1971年に閉山し、黄鉄鉱に絞った後継会社が1972年に鉱業権を放棄して完全閉山となった。同年10月10日、松尾鉱業鉄道が全線を廃止した。
- 実業の世界 1969年10月号
- [44]大口債権者の金融機関は大幅な人員整理を求めたが浅田寛二管財人は退職資金がないとして行わず、1000人余の従業員を抱え売れない硫黄の生産を継続した
- 実業の世界 1970年
- [45]1969年9月末に浅田寛二管財人が労組代表に閉山の止むなきに至ったと吐露した
- [46]10月の松尾村・岩手県の活動、全鉱の中央行動、通産・大蔵・労働各省への陳情、石油業界の1億5000万円の協力費提供を経て1人平均25万円(規定額の4分の1)で決着した
- [47]1969年11月11日限りで職員従業員と管理職員のすべてが退職し一切の作業を停止した
参考文献[32]-[47]
- 実業の世界 1969年10月号
- [32]手形不渡り直前の更生申立のため銀行取引は停止とならず生産販売業務の継続が許された
- [33]1968年12月18日に東京地方裁判所へ会社更生法の適用を申請し、12月24日に財産保全命令が出された
- [34]1969年1月15日、通産省と非鉄金属業界の推薦で万座硫黄社長の浅田寛二氏が管財人に指定され更生手続開始が発令された
- [35]管財人決定などで債権者の意向はほとんど無視され通産省の意見で運ばれ、大口債権者から抗議が出た
- [36]3月15日に第1回関係人会議が開かれ12月25日までに更生計画を確立するよう指示された
- [37]更生計画確立までの期間は通例6カ月だが松尾鉱業ではほぼ1年後の12月25日とされた
- [38]重油脱硫の回収硫黄が伸びたのは後発4社の常時操業が始まった1969年1月頃からで松尾の倒産以後のことだった
- [43]松尾鉱業が1968年9月から2万円の大台を割り1万9000円でダンピングを始め、鉱山硫黄業界全体に年間20数億円の損害をもたらした
- [44]大口債権者の金融機関は大幅な人員整理を求めたが浅田寛二管財人は退職資金がないとして行わず、1000人余の従業員を抱え売れない硫黄の生産を継続した
- 実業往来 1969年
- [39]松尾がピンチに立った理由として一般に言われていたのは、回収硫黄の進出で競争ができなくなったという見方だった
- 実業の世界 1970年
- [40]閉山の原因を各テレビ各新聞が重油脱硫の回収硫黄に帰し、通産省・旧経営者・管財人にも都合のよい理由づけだった
- [41]本当の原因理由の大部分は通産省の指導の誤りと旧経営者の合理化および経営の失敗にあり、回収硫黄の影響は若干部分にすぎない
- [42]1969年1〜9月の回収生産は月平均1万2240トン、うち重油脱硫分6240〜6740トン、鉱山硫黄への影響度約30%、松尾の受くべき影響度15%
- [45]1969年9月末に浅田寛二管財人が労組代表に閉山の止むなきに至ったと吐露した
- [46]10月の松尾村・岩手県の活動、全鉱の中央行動、通産・大蔵・労働各省への陳情、石油業界の1億5000万円の協力費提供を経て1人平均25万円(規定額の4分の1)で決着した
- [47]1969年11月11日限りで職員従業員と管理職員のすべてが退職し一切の作業を停止した
出典・参考
3件
- 実業の世界 1969年10月号
- 実業往来 1969年
- 実業の世界 1970年