松尾鉱業:1952年の硫黄・硫化鉱の全国首位とIMC統制の解除
1950年〜硫化鉱の重点生産で戦前水準へ戻した坑内外の復旧
戦後の松尾鉱業は企業整理の網にもかかり、1946年8月に受けた特別経理会社の指定は翌9月に外れ、1948年2月の過度経済力集中排除法による指定も同年12月に解かれた。食糧が乏しいなかで、同社には肥料をつくるための硫化鉱をもっと掘り出すよう求めが寄せられた。重点を硫化鉱の生産に置いた同社は、戦時中に傷んだ坑内と坑外の設備を直して整え、そのうえで新設や拡張にも踏み込んで産出を押し上げた。戦前並みの量に戻って求めをまかなえるようになったのは、1950年ごろのことである。硫黄もGHQの求めで肥料増産に向けたフル生産に入り、株式市場では人気銘柄に数えられた。従業員は多い時で6000人に上り、鉱山のある岩手県松尾村から近い盛岡市の繁華街では、胸に松尾のバッジがあれば初顔の客でも付け払いが通ったと伝えられる。
- 株式会社年鑑 1950年版「松尾鑛業」沿革
- [1]昭和21年8月に特経指定を受け、同年9月に解除された
- [2]昭和23年2月に集排法に基づく指定を受けたが、同年12月に解除された
- 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「松尾鉱業」の項
- [3]戦後の逼迫した食糧事情のため、化学肥料の原料である硫化鉱の増産を要請された
- [4]硫化鉱重点生産を目標に、荒廃した坑内外の生産設備を復旧整備し拡張新設を図って増産に努めた
- [5]1950年ごろに戦前の生産量に回復し、その需要を満たすまでになった
- 実業往来 1969年
- [6]戦後GHQの要請で肥料増産のため硫黄のフル生産を行い、証券界でも人気の株だった
- [7]従業員は最高で6000人を数え、岩手県松尾村に近い盛岡市の繁華街では松尾のバッジを胸につけていれば初めての客でもツケがきいた
松尾鉱業は創業以来、松尾鉱山ただ一つを対象とする一山一社経営を続けた。硫化鉱は月産5万トンで全国比30%を占め、会社単位では柵原・花岡をもつ同和鉱業に次いだが、鉱山単位では断然他を圧した。硫黄も月産3000トンに上り、全国の47%を占めた。採掘した鉱石は、遊離硫黄の多いものを硫黄鉱、硫化鉄の比較的多いものを硫化鉱として分け、硫黄鉱は自家製錬所で製錬し精製硫黄として販売した。松尾鉱山は本邦硫化鉱埋蔵量の86%を擁する一方、硫黄含有量は34%と低位で立地条件もやや劣り、その難は延長12キロの松尾鉄道を利用した八戸港での船積みで若干補われた。1946年には住友系の井華鉱業の従属会社に指定されたものの、親会社が持つ松尾鉱業株を従業員が譲り受けた結果、1949年3月に従属会社の関係は解消した。一山一社の形は、戦後の資本関係の整理を経ても変わらなかった。
- 新日本経済 1951年
- [8]創業以来、一山一社経営で今日に至っている
- [9]硫化鉱は月産5万トンで全国比30%に上り、会社としては柵原・花岡をもつ同和鉱業に次ぐが、鉱山単位では断然他を圧した
- [10]硫黄は月産3000トンに上り、全国の47%を占めた
- [12]本邦硫化鉱埋蔵量の86%を擁する一方、硫黄含有量は34%と低位で立地条件もやや劣るが、延長12キロの松尾鉄道を利用した八戸港での船積みで若干補われた
- ダイヤモンド会社産業総覧 1964年版「松尾鉱業」
- [11]遊離硫黄の多いものを硫黄鉱、硫化鉄の比較的多いのを硫化鉱とし、硫黄鉱は自家製錬所で製錬して精製硫黄として販売する
- 株式会社年鑑 1950年版「松尾鑛業」沿革
- [13]昭和21年に井華鉱業の従属会社に指定されたが、親会社保有の当社株式を当社従業員が譲り受けた結果、24年3月に従属会社関係は解消した
硫化鉱と硫黄の増産に合わせ、松尾鉱業は輸送と製品加工の幅も広げた。1948年3月、それまで自社製品を運んでいた鉄道で地方鉄道による一般運輸事業を開始。松尾鉱山鉄道は東八幡平と国鉄大更線を結ぶ12.3キロの路線で、松尾鉱業製品の輸送を主としながら一般貨物輸送も担った。1950年5月2日には東京証券取引所へ株式を上場した。同年11月には精製硫黄を原料として自家粉化工場で粉末硫黄の製造を開始した。硫化鉱のほうは粉砕・ふるい分け・浮遊選鉱の過程を経て精鉱とし、硫酸・硫安・農薬に使う関連会社へ納入した。
- ダイヤモンド会社産業総覧 1964年版「松尾鉱業」
- [14]1948年3月、地方鉄道による一般運輸事業を開始した
- [15]松尾鉱山鉄道は東八幡平〜国鉄大更線間12.3キロで、大部分は自社製品の輸送にあたるが一般貨物輸送も担当する
- [16]1950年5月2日に東京市場へ上場した
- [17]1950年11月、精製硫黄を原料とし自家粉化工場において粉末硫黄の製造を開始した
- [18]硫化鉱は粉砕・ふるい分け・浮遊選鉱などの過程を経て精鉱とし、硫酸・硫安・農薬などに使う関連会社に納入する
参考文献[1]-[18]
- 株式会社年鑑 1950年版「松尾鑛業」沿革
- [1]昭和21年8月に特経指定を受け、同年9月に解除された
- [2]昭和23年2月に集排法に基づく指定を受けたが、同年12月に解除された
- [13]昭和21年に井華鉱業の従属会社に指定されたが、親会社保有の当社株式を当社従業員が譲り受けた結果、24年3月に従属会社関係は解消した
- 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「松尾鉱業」の項
- [3]戦後の逼迫した食糧事情のため、化学肥料の原料である硫化鉱の増産を要請された
- [4]硫化鉱重点生産を目標に、荒廃した坑内外の生産設備を復旧整備し拡張新設を図って増産に努めた
- [5]1950年ごろに戦前の生産量に回復し、その需要を満たすまでになった
- 実業往来 1969年
- [6]戦後GHQの要請で肥料増産のため硫黄のフル生産を行い、証券界でも人気の株だった
- [7]従業員は最高で6000人を数え、岩手県松尾村に近い盛岡市の繁華街では松尾のバッジを胸につけていれば初めての客でもツケがきいた
- 新日本経済 1951年
- [8]創業以来、一山一社経営で今日に至っている
- [9]硫化鉱は月産5万トンで全国比30%に上り、会社としては柵原・花岡をもつ同和鉱業に次ぐが、鉱山単位では断然他を圧した
- [10]硫黄は月産3000トンに上り、全国の47%を占めた
- [12]本邦硫化鉱埋蔵量の86%を擁する一方、硫黄含有量は34%と低位で立地条件もやや劣るが、延長12キロの松尾鉄道を利用した八戸港での船積みで若干補われた
- ダイヤモンド会社産業総覧 1964年版「松尾鉱業」
- [11]遊離硫黄の多いものを硫黄鉱、硫化鉄の比較的多いのを硫化鉱とし、硫黄鉱は自家製錬所で製錬して精製硫黄として販売する
- [14]1948年3月、地方鉄道による一般運輸事業を開始した
- [15]松尾鉱山鉄道は東八幡平〜国鉄大更線間12.3キロで、大部分は自社製品の輸送にあたるが一般貨物輸送も担当する
- [16]1950年5月2日に東京市場へ上場した
- [17]1950年11月、精製硫黄を原料とし自家粉化工場において粉末硫黄の製造を開始した
- [18]硫化鉱は粉砕・ふるい分け・浮遊選鉱などの過程を経て精鉱とし、硫酸・硫安・農薬などに使う関連会社に納入する
1951年〜価格統制解除を機に転じた硫黄増産と3割配当
硫黄は、化繊やパルプなど関連産業の目ざましい復旧に伴って需要が急激に高まった。松尾鉱業は硫化鉱需要の安定を機会として、しだいに硫黄の増産へ重点を切り替え、1951年3月の価格統制解除を契機に全面的な硫黄増産対策を確立した。硫黄の主な需要先は化繊・合繊・人絹スフ用のパルプ業界で、松尾鉱山で採った硫黄鉱は自家製錬所を経て精製硫黄となった。1949年度に起工した第一鉱床の総合開発計画も完成し、硫黄製錬設備20基が出そろったことなどによって採鉱は著しく活発化した。増産と並行して周辺事業も広げ、1951年7月には乗合バスによる一般旅客輸送を始めた。
- 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「松尾鉱業」の項
- [19]硫黄は化繊・パルプ等の関連産業の目ざましい復旧に伴い需要が急激に高まった
- [20]硫化鉱需要の安定を機会に漸次硫黄の増産に重点を切り替え、1951年3月の価格統制解除を契機に全面的な硫黄増産対策を確立した
- ダイヤモンド会社産業総覧 1964年版「松尾鉱業」
- [21]硫黄の主需要先は化繊・合繊・人絹スフ用パルプ業界で、硫黄鉱は自家製錬所で製錬し精製硫黄とする
- [23]1951年7月、乗合バスによる一般旅客輸送を開始した
- 新日本経済 1951年
- [22]1949年度に起工した第一鉱床の綜合開発計画が完成し、硫黄製錬設備20基の完成等によって採鉱は著しく活発化した
戦後の復旧資金に充てるため、松尾鉱業は終戦時の資本金1000万円から3回の増資を重ねた。1949年7月に3000万円、1950年4月に8000万円と増やし、1951年6月に1億8000万円とした。同年10月には再評価積立金の資本組入による倍額増資を行い、3億6000万円へ引き上げた。増資と設備の拡充は生産量に表れ、1951年9月期には硫化鉱27万7012トン、硫黄1万7286トンに達した。主体である硫化鉱は同期に27万トンとなって前期比20%増、売上金額は4億1000万円余で前期比26%増に伸びた。硫黄も同期の生産が前期比18%増であるのに対し、金額では前期比28%の増加となった。
- 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「松尾鉱業」の項
- [24]戦後の復旧資金に充当するため終戦時の資本金1000万円より3回の増資を経た
- [27]3回の増資を経て1951年6月に資本金1億8000万円となった
- [28]1951年10月に再評価積立金の資本組入による倍額増資を行い3億6000万円となった
- 株式会社年鑑 1950年版「松尾鑛業」沿革
- [25]昭和24年7月に資本金3000万円へ増資
- 株式会社年鑑 1952年版「松尾鉱業」沿革
- [26]昭和25年4月に資本金8000万円へ増資
- 新日本経済 1951年
- [29]1951年9月期には硫化鉱27万7012トン、硫黄1万7286トンに達した
- [30]主体である硫化鉱は9月期27万トンに達して前期比20%増、金額で4億1000万円余と前期比26%増となった
- [31]硫黄の9月期生産は前期比18%増であるのに対し、金額では前期より28%増大した
金額の増勢が数量の増勢を上回った理由は、買取価格の引き上げにある。硫化鉱の買取価格は1951年3月にトン当たり59円上がって1422円となり、9月1日にさらに22円上がって1455円、12月には55円高の1509円へ改定された。硫黄は1951年11月にトン1万4700円へ引き上げられ、ようやくトン当たり1300〜1400円の黒字に転じて、低物価政策の犠牲となっていた硫黄部門の採算が好転した。価格と生産の両面から収益が増えた結果、1951年9月期の純益金は資産再評価償却金8540万円余を控除しても8290万円に上り、利益率は20割を超えた。松尾鉱業は前期並みの特配1割を加えた3割配当を行った。
- 新日本経済 1951年
- [32]金額の増勢が数量のそれを上回るのは買取価格引上げによる増収である
- [33]硫化鉱買取価格は1951年3月にトン当たり59円値上げで1422円、9月1日より22円引き上げ1455円、12月より55円高の1509円となった
- [34]硫黄は1951年11月よりトン1万4700円となり、ようやくトン当たり1300〜1400円の黒字に転じ、低物価政策の犠牲となっていた硫黄部門の採算が好転した
- [35]1951年9月期の純益金は資産再評価償却金8540万円余を控除しても8290万円、利益率20割超
- [36]前期並の特配1割を加えた3割配当を行った
参考文献[19]-[36]
- 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「松尾鉱業」の項
- [19]硫黄は化繊・パルプ等の関連産業の目ざましい復旧に伴い需要が急激に高まった
- [20]硫化鉱需要の安定を機会に漸次硫黄の増産に重点を切り替え、1951年3月の価格統制解除を契機に全面的な硫黄増産対策を確立した
- [24]戦後の復旧資金に充当するため終戦時の資本金1000万円より3回の増資を経た
- [27]3回の増資を経て1951年6月に資本金1億8000万円となった
- [28]1951年10月に再評価積立金の資本組入による倍額増資を行い3億6000万円となった
- ダイヤモンド会社産業総覧 1964年版「松尾鉱業」
- [21]硫黄の主需要先は化繊・合繊・人絹スフ用パルプ業界で、硫黄鉱は自家製錬所で製錬し精製硫黄とする
- [23]1951年7月、乗合バスによる一般旅客輸送を開始した
- 新日本経済 1951年
- [22]1949年度に起工した第一鉱床の綜合開発計画が完成し、硫黄製錬設備20基の完成等によって採鉱は著しく活発化した
- [29]1951年9月期には硫化鉱27万7012トン、硫黄1万7286トンに達した
- [30]主体である硫化鉱は9月期27万トンに達して前期比20%増、金額で4億1000万円余と前期比26%増となった
- [31]硫黄の9月期生産は前期比18%増であるのに対し、金額では前期より28%増大した
- [32]金額の増勢が数量のそれを上回るのは買取価格引上げによる増収である
- [33]硫化鉱買取価格は1951年3月にトン当たり59円値上げで1422円、9月1日より22円引き上げ1455円、12月より55円高の1509円となった
- [34]硫黄は1951年11月よりトン1万4700円となり、ようやくトン当たり1300〜1400円の黒字に転じ、低物価政策の犠牲となっていた硫黄部門の採算が好転した
- [35]1951年9月期の純益金は資産再評価償却金8540万円余を控除しても8290万円、利益率20割超
- [36]前期並の特配1割を加えた3割配当を行った
- 株式会社年鑑 1950年版「松尾鑛業」沿革
- [25]昭和24年7月に資本金3000万円へ増資
- 株式会社年鑑 1952年版「松尾鉱業」沿革
- [26]昭和25年4月に資本金8000万円へ増資
1952年〜1万2400トンの割当輸出とIMC統制解除後の市価低落
硫化鉱の重点生産で戦前の水準を取り戻し、価格統制の解除を境に硫黄へ重点を移した松尾鉱業の生産は、1951年に硫化鉱65万トン、1952年に硫黄6万2000トン余へ達し、いずれも全国鉱山中で首位を占めた。硫黄は世界的な重要不足物資として、IMC(国際原料割当会議)による国際的な需給統制の対象となり、松尾鉱業もその要請に基づいて1952年中に1万2400トンの割当輸出を行った。同じ年の10月には女牛鉱山で金・重石・石灰石の採掘準備を開始し、創業以来続けてきた一山一社経営の枠を越えて硫黄と硫化鉱以外の鉱種へ手を伸ばした。
- 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「松尾鉱業」の項
- [37]生産面において1951年に硫化鉱65万トン、1952年に硫黄6万2000トン余に達し、いずれも全国鉱山中首位を占めた
- [38]硫黄は世界的な重要不足物資としてIMC(国際原料割当会議)による国際的な需給統制が行われ、その要請に基づいて1952年中に1万2400トンの割当輸出を行った
- ダイヤモンド会社産業総覧 1964年版「松尾鉱業」
- [39]1952年10月、女牛鉱山において金・重石および石灰石の採掘準備を開始した
しかし1953年、世界生産の9割を占める米国が低コスト硫黄を大幅に増産し、世界需要も漸減したため、IMCによる国際統制は解除された。国際価格は米国硫黄に鞘寄せして急落し、割当に支えられていた輸出は停滞して、山元には出荷先の決まらない硫黄が滞貨として積み上がった。輸出に回らなくなった分は国内市場を圧迫し、硫黄の市価も低落へ向かった。この市況不振を打開するため、1953年10月と翌1954年1月に求償貿易形式の輸出が行われ、松尾鉱業は全輸出量1万8300トンのうち7700トンを輸出した。
- 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「松尾鉱業」の項
- [40]世界生産の9割を占める米国の低コスト硫黄の大幅増産と世界需要の漸減によって、1953年にIMCによる国際統制は解除された
- [41]国際価格も米国硫黄に鞘寄せして急落し、輸出は停滞して山元滞貨を生ずるに至った
- [42]国内市場も圧迫されて市価は低落した
- [43]市況不振打開のため1953年10月と1954年1月に行われた求償貿易形式による輸出には、全輸出量1万8300トンのうち7700トンを松尾鉱業より輸出した
輸出の停滞と市価の低落は、増資と設備投資を重ねてきた収支に跳ね返った。1953年3月期の当期純利益は3億5729万円で、前期の4億9471万円から1億3700万円あまり減った。同じ期の売上高は19億3356万円と前期の17億8125万円を上回っており、減益は販売量ではなく採算の悪化から来ていた。それでも配当は年率3割を保ち、利益準備金1800万円と税金1億6800万円を差し引いたうえで5400万円を株主へ配った。増資も止めず、1953年6月には1株につき1株を割り当てる倍額増資を行い、資本金を3億6000万円から7億2000万円へ引き上げた。1952年中に380円をつけた株価は、1953年8月には94円まで下げた。硫黄と硫化鉱で全国首位に立った直後に、松尾鉱業は市況と採算の両方を失った。
- 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「松尾鉱業」の項
- [44]1953年にIMCの国際統制が解除され輸出は停滞して山元滞貨を生じ、国内市場も圧迫されて市価は低落した
- 株式会社年鑑 1954年版「松尾鉱業」
- [45]昭和28年3月期の当期純利益は357,295千円で、27年9月期の494,713千円から減少した
- [46]昭和28年3月期の売上高は1,933,564千円で、27年9月期の1,781,258千円を上回った
- [47]昭和28年3月期の剰余金処分は利益準備金18,000千円・税金168,000千円・配当金54,000千円で、配当は年率30%
- [49]東京市場の株価は昭和27年中の最高380円に対し、28年8月の最低は94円
- ダイヤモンド会社産業総覧 1964年版「松尾鉱業」資本異動
- [48]昭和28年6月10日払込で割当比率1対1の増資により資本金は7億2000万円となった
参考文献[37]-[49]
- 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「松尾鉱業」の項
- [37]生産面において1951年に硫化鉱65万トン、1952年に硫黄6万2000トン余に達し、いずれも全国鉱山中首位を占めた
- [38]硫黄は世界的な重要不足物資としてIMC(国際原料割当会議)による国際的な需給統制が行われ、その要請に基づいて1952年中に1万2400トンの割当輸出を行った
- [40]世界生産の9割を占める米国の低コスト硫黄の大幅増産と世界需要の漸減によって、1953年にIMCによる国際統制は解除された
- [41]国際価格も米国硫黄に鞘寄せして急落し、輸出は停滞して山元滞貨を生ずるに至った
- [42]国内市場も圧迫されて市価は低落した
- [43]市況不振打開のため1953年10月と1954年1月に行われた求償貿易形式による輸出には、全輸出量1万8300トンのうち7700トンを松尾鉱業より輸出した
- [44]1953年にIMCの国際統制が解除され輸出は停滞して山元滞貨を生じ、国内市場も圧迫されて市価は低落した
- ダイヤモンド会社産業総覧 1964年版「松尾鉱業」
- [39]1952年10月、女牛鉱山において金・重石および石灰石の採掘準備を開始した
- 株式会社年鑑 1954年版「松尾鉱業」
- [45]昭和28年3月期の当期純利益は357,295千円で、27年9月期の494,713千円から減少した
- [46]昭和28年3月期の売上高は1,933,564千円で、27年9月期の1,781,258千円を上回った
- [47]昭和28年3月期の剰余金処分は利益準備金18,000千円・税金168,000千円・配当金54,000千円で、配当は年率30%
- [49]東京市場の株価は昭和27年中の最高380円に対し、28年8月の最低は94円
- ダイヤモンド会社産業総覧 1964年版「松尾鉱業」資本異動
- [48]昭和28年6月10日払込で割当比率1対1の増資により資本金は7億2000万円となった
出典・参考
8件
- 株式会社年鑑 1950年版「松尾鑛業」沿革
- 株式会社年鑑 1952年版「松尾鉱業」沿革
- 株式会社年鑑 1954年版「松尾鉱業」
- 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「松尾鉱業」の項
- ダイヤモンド会社産業総覧 1964年版「松尾鉱業」
- ダイヤモンド会社産業総覧 1964年版「松尾鉱業」資本異動
- 新日本経済 1951年
- 実業往来 1969年