松尾鉱業:中村房次郎の鉱業権取得と松尾鉱業の設立
1914年〜大露頭発見と貿易商増田屋の同族資本
岩手県松尾村の山中で硫黄の大露頭が見つかったのは1882年ごろで、発見したのは地元の村民だった。松尾鉱山の地質は複輝石安山岩質の溶岩と凝灰岩からなり、その中に硫黄が巨大な塊状鉱床をつくって存在する。主要鉱物は遊離硫黄と硫化鉄であり、上部鉱床は硫化鉄を、下部鉱床は遊離硫黄を多く含む。1882年の露頭発見当時に採掘の対象となったのが第1鉱体で、遊離硫黄と黒色硫化鉄が混在し、広がりは1,000メートル×1,200メートル、厚さは30〜40メートルに達する。露頭が見つかったあと、松尾鉱山の鉱業権は幾人かの手を経て移った。
- ダイヤモンド会社産業総覧 1964年版「松尾鉱業」
- [1]明治15年ころ地元村民が山中に硫黄露頭を発見したのが端緒
- [5]幾人かの手を経て鉱業権が移った
- 硫酸 1965年「工場見学 松尾鉱業株式会社松尾鉱業所見学記」
- [2]鉱山の地質は複輝石安山岩質の溶岩や凝灰岩で構成され、その中にイオウが巨大な塊状鉱床となって存在する
- [3]主要鉱物は遊離イオウおよび硫化鉄で、上部鉱床は硫化鉄、下部鉱床は遊離イオウを多く含む
- [4]第1鉱体は明治15年露頭発見当時のもので、遊離イオウと黒色硫化鉄が混在し、鉱床の大きさは1,000×1,200×厚さ30〜40m
横浜の貿易商である中村房次郎氏が松尾鉱山の鉱業権を取得したのは、1913年6月である。中村房次郎氏は硫黄鉱床として有望だった松尾鉱山の本格的な開発を目的に、1914年8月1日、資本金30万円で松尾鉱業を設立した。初代社長には中村房次郎氏が就任。本社は横浜市中区本町4の39に置いた。資本を出したのは、横浜貿易業者の草分けだった中村房次郎氏の貿易商社である増田屋を中心とする同族だった。設立の形は、増田屋貿易が個人経営だった鉱山を買い取るというものだった。資本金30万円は公称資本金と同額で、設立の日に全額が払い込まれた。鉱業所は岩手県岩手郡松尾村大字寄木字赤川山に置いた。岩手県の山中にある鉱山の開発を、横浜に本社を置く会社が担った。松尾鉱業の設立は、大露頭の発見から32年後にあたる。
- 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「松尾鉱業」の項
- [6]中村房次郎は横浜の貿易商で、大正2年6月に松尾鉱山の鉱業権を取得していた
- [7]硫黄鉱床として有望な松尾鉱山の本格的開発を目的に、大正3年8月1日、資本金30万円で設立
- [8]初代社長に中村房次郎が就任
- [9]本社は横浜市中区本町4の39
- 実業の世界 1969年10月号
- [10]横浜貿易業者の草分けだった中村房次郎が、貿易商社増田屋を中心に同族の資本金30万円で株式会社を創立
- 株式会社年鑑 1950年版「松尾鑛業」沿革
- [11]大正3年8月に増田屋貿易株式会社が個人経営の鉱山を買収し、資本金30万円の松尾鉱業を設立した
- ダイヤモンド会社産業総覧 1964年版「松尾鉱業」
- [12]資本異動表では大正3年8月1日の設立時の資本金30万円に対し公称資本金も30万円
- [14]岩手県の松尾鉱山を対象とし、本社は横浜市中区本町4の39
- 株式会社年鑑 1950年版「松尾鑛業」
- [13]松尾鑛業所の所在地は岩手県岩手郡松尾村大字寄木字赤川山
松尾鉱山で硫黄の本格的な製錬が始まったのは、1914年の設立と同時である。貿易業者の中村房次郎氏がこの硫黄開発に手を出したのは、当時の硫黄がおもに海外へ売る品だったためである。最初は精製硫黄を造って売る事業だけで、遊離硫黄の多い鉱石を硫黄鉱と呼び、自社の製錬所で精製してから販売した。国内ではまだ用途が育っておらず、製品の大半は輸出に回った。設立して間もなく欧州大戦が始まると硫黄の市価が急騰し、松尾鉱業は一時的に潤った。だが1920年、大戦後の不況のあおりで休山しかねない状況に陥った。
- 硫酸 1965年「工場見学 松尾鉱業株式会社松尾鉱業所見学記」
- [15]大正3年に資本金30万円で松尾鉱業が設立され本格的なイオウ製錬が開始された
- 実業の世界 1969年10月号
- [16]貿易業者が硫黄開発事業に手を出したのは、当時硫黄が主として輸出物資だったため
- ダイヤモンド会社産業総覧 1964年版「松尾鉱業」
- [17]当初は精製硫黄のみ
- [18]遊離硫黄の多いものを硫黄鉱とし、自家製錬所で製錬して精製硫黄として販売
- 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「松尾鉱業」の項
- [19]当時はまだ国内用途が開けぬためその大部分が海外に輸出されていた
- [20]欧州大戦が勃発し一時は硫黄市価の暴騰によって活況を呈した
- [21]大正9年には戦後の経済不況の余波を受けて休山の危機に逢着
参考文献[1]-[21]
- ダイヤモンド会社産業総覧 1964年版「松尾鉱業」
- [1]明治15年ころ地元村民が山中に硫黄露頭を発見したのが端緒
- [5]幾人かの手を経て鉱業権が移った
- [12]資本異動表では大正3年8月1日の設立時の資本金30万円に対し公称資本金も30万円
- [14]岩手県の松尾鉱山を対象とし、本社は横浜市中区本町4の39
- [17]当初は精製硫黄のみ
- [18]遊離硫黄の多いものを硫黄鉱とし、自家製錬所で製錬して精製硫黄として販売
- 硫酸 1965年「工場見学 松尾鉱業株式会社松尾鉱業所見学記」
- [2]鉱山の地質は複輝石安山岩質の溶岩や凝灰岩で構成され、その中にイオウが巨大な塊状鉱床となって存在する
- [3]主要鉱物は遊離イオウおよび硫化鉄で、上部鉱床は硫化鉄、下部鉱床は遊離イオウを多く含む
- [4]第1鉱体は明治15年露頭発見当時のもので、遊離イオウと黒色硫化鉄が混在し、鉱床の大きさは1,000×1,200×厚さ30〜40m
- [15]大正3年に資本金30万円で松尾鉱業が設立され本格的なイオウ製錬が開始された
- 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「松尾鉱業」の項
- [6]中村房次郎は横浜の貿易商で、大正2年6月に松尾鉱山の鉱業権を取得していた
- [7]硫黄鉱床として有望な松尾鉱山の本格的開発を目的に、大正3年8月1日、資本金30万円で設立
- [8]初代社長に中村房次郎が就任
- [9]本社は横浜市中区本町4の39
- [19]当時はまだ国内用途が開けぬためその大部分が海外に輸出されていた
- [20]欧州大戦が勃発し一時は硫黄市価の暴騰によって活況を呈した
- [21]大正9年には戦後の経済不況の余波を受けて休山の危機に逢着
- 実業の世界 1969年10月号
- [10]横浜貿易業者の草分けだった中村房次郎が、貿易商社増田屋を中心に同族の資本金30万円で株式会社を創立
- [16]貿易業者が硫黄開発事業に手を出したのは、当時硫黄が主として輸出物資だったため
- 株式会社年鑑 1950年版「松尾鑛業」沿革
- [11]大正3年8月に増田屋貿易株式会社が個人経営の鉱山を買収し、資本金30万円の松尾鉱業を設立した
- 株式会社年鑑 1950年版「松尾鑛業」
- [13]松尾鑛業所の所在地は岩手県岩手郡松尾村大字寄木字赤川山
1921年〜精製硫黄だけの品目から硫化鉱兼営への転換
1920年の休山の危機を抜けるため、松尾鉱業は1921年ごろから硫黄製錬の設備を石炭竈に改めた。あわせて硫化鉱の生産販売も兼営に加え、扱う品目は精製硫黄だけから硫黄と硫化鉱の2つになった。松尾鉱山では遊離硫黄の多い鉱石を硫黄鉱、硫化鉄の比較的多い鉱石を硫化鉱と呼び分けた。硫化鉱を売り始めた背景には硫酸工業の発展があり、1921年から鉱石をそのままの形で出荷した。石炭竈への改造と硫化鉱の兼営によって経営は上向いた。以後の松尾鉱業は、硫黄と硫化鉱の需要増大に合わせて生産設備を増やし、産出量を拡充した。
- 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「松尾鉱業」の項
- [22]大正10年ごろより硫黄製錬を石炭竈に改善
- [23]硫化鉱の生産販売も合わせ行った
- [26]石炭竈への改善と硫化鉱兼営により徐々に好転の機運に向かった
- ダイヤモンド会社産業総覧 1964年版「松尾鉱業」
- [24]遊離硫黄の多いものを硫黄鉱、硫化鉄の比較的多いのを硫化鉱とする
- 硫酸 1965年「工場見学 松尾鉱業株式会社松尾鉱業所見学記」
- [25]大正10年に硫酸工業の発展に伴いその原料として鉱石のままの販売を始めた
- 実業の世界 1969年10月号
- [27]大正10年から硫化売鉱を兼営し、以後硫黄硫化鉱の需要増大とともに生産を拡充
1920年代の半ばから後半にかけて製紙と人絹が勃興し、松尾鉱業の硫化鉱に対する内需が急増した。硫黄はスフやパルプの業界へ、硫化鉱は硫酸や硫安の原料として流れた。さらに化学肥料工業が急速に発達したため、硫化鉱の販路も伸びた。その後も関連化学工業の勃興に伴って、松尾鉱業は鉱山の規模を段階的に拡大した。生産量は1930年に硫黄1万6000トン、硫化鉱3万7000トン程度だった。それが1938年には硫黄6万4000トン、硫化鉱60万トン超に達し、松尾鉱業は記録的な最盛期を迎えた。硫黄の生産量は8年で4倍、硫化鉱は16倍を上回る規模になった。
- 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「松尾鉱業」の項
- [28]大正末期より昭和初頭にかけて勃興した製紙、人絹等による内需が急増
- [30]化学肥料工業の急速な発達によって硫化鉱の販路も大いに伸びた
- [32]昭和5年に硫黄1万6000屯、硫化鉱3万7000屯程度
- [33]昭和13年に硫黄6万4000屯、硫化鉱60万屯を越え、記録的な最盛期を出現
- ダイヤモンド会社産業総覧 1964年版「松尾鉱業」
- [29]硫黄の主需要先は化繊、合繊、人絹スフ用パルプ業界、硫化鉱は硫酸、硫安、農薬などに使われる
- [31]昭和初期よりパルプ、肥料等の関連化学工業の勃興に伴い漸次その規模を拡大
硫酸工業向けの原料として鉱石の需要は伸び続け、馬車に頼る輸送ではその量を処理しきれなくなっていた。開業以来、鉱石は馬車で山を下りて花輪線の大更駅に着き、そこで貨車へ移されてきたが、この8年で生産量は数倍に膨らみ、運び出す手段だけが変わらずにいた。対策として松尾鉱業が計画した松尾鉱山鉄道は1934年に完成し、屋敷台と大更の間を結ぶこの路線と並んで、同じころ八戸港の船積施設も拡充された。専用鉄道である松尾鉱山鉄道は、大部分を松尾鉱業の製品輸送にあてた。鉄道の完成で輸送量は増え、松尾鉱業は硫酸工業の原料需要に応える輸送力を得た。この専用鉄道は、のちに東八幡平と国鉄大更線を結ぶ12.3キロの路線となった。
- 硫酸 1965年「工場見学 松尾鉱業株式会社松尾鉱業所見学記」
- [34]漸次需要が増加してきたのでこれに応じるため松尾鉱山鉄道を計画した
- [35]鉱石を馬車で花輪線の大更駅まで運搬して貨車積みをしていた
- [36]初期には鉱石を馬車で大更駅まで運搬して貨車積みをしていた
- [37]需要増加に応じるため松尾鉱山鉄道を計画し昭和9年に完成
- [40]鉄道により輸送量の増大と合理化を行ない硫酸工業の原料需要の増加にこたえた
- ダイヤモンド会社産業総覧 1964年版「松尾鉱業」
- [38]昭和9年に屋敷台〜大更間に専用鉄道を敷設し、八戸港の船積施設を拡充
- [39]松尾鉱山鉄道は大部分が松尾鉱業製品の輸送にあたる
- [41]松尾鉱山鉄道は東八幡平から国鉄大更線までの12.3キロ
参考文献[22]-[41]
- 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「松尾鉱業」の項
- [22]大正10年ごろより硫黄製錬を石炭竈に改善
- [23]硫化鉱の生産販売も合わせ行った
- [26]石炭竈への改善と硫化鉱兼営により徐々に好転の機運に向かった
- [28]大正末期より昭和初頭にかけて勃興した製紙、人絹等による内需が急増
- [30]化学肥料工業の急速な発達によって硫化鉱の販路も大いに伸びた
- [32]昭和5年に硫黄1万6000屯、硫化鉱3万7000屯程度
- [33]昭和13年に硫黄6万4000屯、硫化鉱60万屯を越え、記録的な最盛期を出現
- ダイヤモンド会社産業総覧 1964年版「松尾鉱業」
- [24]遊離硫黄の多いものを硫黄鉱、硫化鉄の比較的多いのを硫化鉱とする
- [29]硫黄の主需要先は化繊、合繊、人絹スフ用パルプ業界、硫化鉱は硫酸、硫安、農薬などに使われる
- [31]昭和初期よりパルプ、肥料等の関連化学工業の勃興に伴い漸次その規模を拡大
- [38]昭和9年に屋敷台〜大更間に専用鉄道を敷設し、八戸港の船積施設を拡充
- [39]松尾鉱山鉄道は大部分が松尾鉱業製品の輸送にあたる
- [41]松尾鉱山鉄道は東八幡平から国鉄大更線までの12.3キロ
- 硫酸 1965年「工場見学 松尾鉱業株式会社松尾鉱業所見学記」
- [25]大正10年に硫酸工業の発展に伴いその原料として鉱石のままの販売を始めた
- [34]漸次需要が増加してきたのでこれに応じるため松尾鉱山鉄道を計画した
- [35]鉱石を馬車で花輪線の大更駅まで運搬して貨車積みをしていた
- [36]初期には鉱石を馬車で大更駅まで運搬して貨車積みをしていた
- [37]需要増加に応じるため松尾鉱山鉄道を計画し昭和9年に完成
- [40]鉄道により輸送量の増大と合理化を行ない硫酸工業の原料需要の増加にこたえた
- 実業の世界 1969年10月号
- [27]大正10年から硫化売鉱を兼営し、以後硫黄硫化鉱の需要増大とともに生産を拡充
1939年〜資本金800万円への増資と坑内落盤の変災
設備の増設と拡充を賄うため、松尾鉱業は設立時の30万円から資本金を数度にわたって増額した。1919年10月に100万円、1934年8月に200万円、1936年8月に300万円、1937年9月に500万円と刻み、1939年には800万円に達した。1942年5月にはさらに1000万円へ増やした。増資で得た資金を生産設備の増設と拡充に充て、松尾鉱業は堅実な基礎を確立した。鉱床の探査も並行して進み、1937年には第2鉱体が見つかった。第2鉱体は第1鉱体と同じ成分で、広がりは1,200メートル×600メートル、厚さは60〜90メートルに及ぶ。鉱床は北西から南東へ10度ほど傾斜している。第2鉱体の発見によって、松尾鉱業の採掘対象は第1鉱体だけではなくなった。
- 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「松尾鉱業」の項
- [42]資本金は数度の増額を経た
- [47]昭和14年4月に資本金800万円
- [49]設備の増設拡充を図って堅実な基礎を確立
- 株式会社年鑑 1950年版「松尾鑛業」沿革
- [43]大正8年10月に資本金100万円へ増資
- [44]昭和9年8月に資本金200万円へ増資
- [45]昭和11年8月に資本金300万円へ増資
- [46]昭和12年9月に資本金500万円へ増資
- [48]昭和17年5月に資本金1000万円へ増資
- 硫酸 1965年「工場見学 松尾鉱業株式会社松尾鉱業所見学記」
- [50]第2鉱体は昭和12年発見
- [51]第2鉱体は第1鉱体と同じ成分で、鉱床の大きさは1,200×600×厚さ60〜90m
- [52]鉱床は北西から南東に向かって10度ぐらい傾斜している
- [53]昭和12年に第2鉱体を発見
1939年11月、松尾鉱業は松尾鉱山で坑内落盤の変災に遭った。この事故で多数の犠牲者が出て、松尾鉱業は甚大な損害を受けた。変災は、硫黄6万4000トンと硫化鉱60万トン超を産した最盛期の翌年に起きた。そのころから戦時体制が強化され、松尾鉱業の硫黄と硫化鉱の事業は平和産業として抑制の対象に置かれた。統制が進むにつれて経営の困難はしだいに増し、松尾鉱業に残された道は、鉱床周辺の褐鉄鉱を採掘して販売することだけになった。褐鉄鉱の販売で経営を保ったまま、松尾鉱業は1945年の終戦を迎えた。
- 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「松尾鉱業」の項
- [54]昭和14年11月坑内落盤の変災に遭遇
- [55]多数の犠牲者と甚大な損害を被った
- [56]そのころより戦時体制が強化され、事業は平和産業として漸次抑制を強化された
- [57]鉱床周辺の褐鉄鉱の採掘販売を合わせ行うことにより経営を維持しうる状態であった
- ダイヤモンド会社産業総覧 1964年版「松尾鉱業」
- [58]戦時統制の強化とともに鉱床周辺の褐鉄鉱を生産して経営を維持し終戦を迎えた
1940年から1941年にかけて、松尾鉱業の松尾鉱山は日本最大の硫黄鉱山になった。硫黄と硫化鉱の需要増大に合わせて生産を拡充してきた結果である。国内最大の硫黄鉱山を抱えた時期に、社長は中村房次郎氏から息子の中村正雄氏へ代わった。中村正雄氏は安部磯雄氏の女婿にあたる。1943年ごろには一時的に住友の資本が入り、専務ほかの役員にも住友からの参加があった。終戦後、松尾鉱業は住友の資本を返還し、同族経営へ復帰した。終戦時の資本金は1000万円で、1942年5月の増資以来そのままだった。設立時の30万円から数えて、資本金は31年で33倍に増えた。
- 実業の世界 1969年10月号
- [59]昭和15〜16年から我が国最大の硫黄鉱山となった
- [60]硫黄硫化鉱の需要増大とともに生産を拡充した
- [61]社長は中村房次郎から息子の正雄に継がれた
- [62]中村正雄は安部磯雄の女婿
- [63]昭和18年ごろから一時住友の資本が入り、専務その他の役員参加もあった
- [64]終戦後、住友の資本を返還し同族経営に戻った
- 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「松尾鉱業」の項
- [65]終戦時の資本金は1000万円
参考文献[42]-[65]
- 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「松尾鉱業」の項
- [42]資本金は数度の増額を経た
- [47]昭和14年4月に資本金800万円
- [49]設備の増設拡充を図って堅実な基礎を確立
- [54]昭和14年11月坑内落盤の変災に遭遇
- [55]多数の犠牲者と甚大な損害を被った
- [56]そのころより戦時体制が強化され、事業は平和産業として漸次抑制を強化された
- [57]鉱床周辺の褐鉄鉱の採掘販売を合わせ行うことにより経営を維持しうる状態であった
- [65]終戦時の資本金は1000万円
- 株式会社年鑑 1950年版「松尾鑛業」沿革
- [43]大正8年10月に資本金100万円へ増資
- [44]昭和9年8月に資本金200万円へ増資
- [45]昭和11年8月に資本金300万円へ増資
- [46]昭和12年9月に資本金500万円へ増資
- [48]昭和17年5月に資本金1000万円へ増資
- 硫酸 1965年「工場見学 松尾鉱業株式会社松尾鉱業所見学記」
- [50]第2鉱体は昭和12年発見
- [51]第2鉱体は第1鉱体と同じ成分で、鉱床の大きさは1,200×600×厚さ60〜90m
- [52]鉱床は北西から南東に向かって10度ぐらい傾斜している
- [53]昭和12年に第2鉱体を発見
- ダイヤモンド会社産業総覧 1964年版「松尾鉱業」
- [58]戦時統制の強化とともに鉱床周辺の褐鉄鉱を生産して経営を維持し終戦を迎えた
- 実業の世界 1969年10月号
- [59]昭和15〜16年から我が国最大の硫黄鉱山となった
- [60]硫黄硫化鉱の需要増大とともに生産を拡充した
- [61]社長は中村房次郎から息子の正雄に継がれた
- [62]中村正雄は安部磯雄の女婿
- [63]昭和18年ごろから一時住友の資本が入り、専務その他の役員参加もあった
- [64]終戦後、住友の資本を返還し同族経営に戻った
出典・参考
6件
- 株式会社年鑑 1950年版「松尾鑛業」沿革
- 株式会社年鑑 1950年版「松尾鑛業」
- 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「松尾鉱業」の項
- ダイヤモンド会社産業総覧 1964年版「松尾鉱業」
- 実業の世界 1969年10月号
- 硫酸 1965年「工場見学 松尾鉱業株式会社松尾鉱業所見学記」