1939年〜 電線材料を求めた古河電工と、大口需要家を探した東京電燈が興した準国策会社(1939〜1945)
- 1939年 古河電気工業と東京電燈の共同出資により日本軽金属を設立
- 1940年 蒲原工場でアルミニウム地金の生産開始
- 1941年 清水工場でアルミナの生産開始
軍需が呼び込んだアルミニウム製錬の国産化
日本にアルミニウム製錬業が成立したのは昭和に入ってからである[1]。アルミニウム製品そのものは明治中期から使われ、食器などの加工業は大正期に都市の中小企業として育っていた[2]が、地金は輸入に頼っていた。航空機の発達にともない軍部が国産化を強く求め、1934年に日本電気工業がアルミニウムの国産化に成功した[3]。翌1935年には三井・三菱・住友・古河の財閥共同出資による日本アルミニウム[4]が発足し、輸入ボーキサイトを用いるバイヤー法[5]で製錬に着手する。1936年までに日本曹達・日満アルミニウム・住友アルミニウム製錬を加えた5社[6]が相次いで操業を始めた。国産の明礬石などから生産を試みた企業もあったが、企業として成功したのは日本アルミで品質も優れていたため、各社ともボーキサイト原料へ転換し、国産原料の開発は放棄された[7]。
- [1]アルミニウム製錬業は昭和初年まで日本にまったく成立しなかった
- [2]アルミニウム加工業は大正期に都市の中小企業として発達した
- [4]1935年 三井・三菱・住友・古河の財閥共同出資により日本アルミニウムが設立
- [5]輸入ボーキサイトを原料とするバイヤー法によるアルミナ製造
- [7]国産原料(明礬石等)による生産は放棄され、各社がボーキサイト原料へ転換した
- [3]1934年に日本電気工業(後の昭和電工)がアルミニウムの国産化に成功した
- [6]1934年から1936年にかけて5社が相次いでアルミニウム製錬の操業を開始した
日華事変が始まると航空機資材としてのアルミニウムの必要はさらに高まり、政府は1938年に第一次アルミニウム増産計画[8]を実施した。この時期、古河電気工業は電線材料としてのアルミニウムを求めており[9]、東京電燈は電力の大口消費者を探していた[10]。両者の利害は、軍需物資としてアルミニウムを確保するという国家の要請と重なった[11]。日本軽金属の創立計画は1938年4月以来この2社の提携[12]によって進められ、同年11月に下付された設立認可書[13]は、政府が準国策会社として援助と特典を与える一方、相当な義務を負わせることを規定していた。目的は、長期化する日華事変で年々枯渇する国内非鉄金属資源に代えて、大量生産方式による低廉なアルミニウムを豊富に供給する[14]ことにあった。
- [8]1938年 政府が第一次アルミニウム増産計画を実施
- [9]古河電気工業は電線材料としてアルミニウムを求めていた
- [10]東京電燈は電力の大口消費者を探していた
- [11]軍需物資としてアルミニウムを確保するという国家的要請と合致した
- [12]創立計画は1938年4月以来、東京電燈と古河電工の提携により進められた
- [13]1938年11月下付の設立認可書は、準国策会社として援助と特典を与える一方で相当な義務を負わせると規定
- [14]設立の目的は枯渇する国内非鉄金属資源に代わる低廉なアルミニウムの大量供給
もっとも、認可時に約束された特典はそのまま残らなかった[15]。同業既設会社の反対や内閣の更迭といった情勢の変化を経て、1939年3月に軽金属製造事業法案が議会へ提出された[16]ため、特典的な性格は崩れ、大量生産を担う国策的な会社という位置づけだけが残って他社との差はなくなった。同法により軽金属事業は自由企業としては存在しえなくなり[17]、政府が妥当と認めれば重点的な取扱いを受けられる仕組みへ変わった。既定計画はそのまま進められ、1939年3月30日の創立総会[18]をもって、資本金1億円の日本軽金属が発足した[19]。発行株式200万株のうち、東京電燈系の東電証券が50万2,890株[20]、古河電気工業が50万株を引き受けた。一般公募は10万株にとどまり[21]、残りは賛成人・縁故者と財閥系の会社や加工業者が持った。発起人総代を務めた東京電燈社長の小林一三氏[22]が、初代社長に就いた。
- [15]同業既設会社の反対や内閣更迭等の情勢変化により特典的性格が崩れた
- [17]同法により軽金属事業は自由企業として存在しえなくなった
- [22]初代社長に東京電燈社長の小林一三氏が就任
- [16]軽金属製造事業法案は1939年3月に第74議会へ提出され、5月に公布・9月に施行された
- [20]東電証券が50万2,890株、古河電気工業が50万株を引き受け、一般公募は10万株にとどまった
- [21]一般公募は10万株のみで、残りは賛成人48万4,000株・縁故者60万株・財閥会社や加工業者29万株が引き受けた
- 日本軽金属五十年史(1991年)
- [18]1939年3月30日の創立総会をもって日本軽金属が発足した
- [19]創立総会時の資本金は1億円だった
- [1]アルミニウム製錬業は昭和初年まで日本にまったく成立しなかった
- [2]アルミニウム加工業は大正期に都市の中小企業として発達した
- [4]1935年 三井・三菱・住友・古河の財閥共同出資により日本アルミニウムが設立
- [5]輸入ボーキサイトを原料とするバイヤー法によるアルミナ製造
- [7]国産原料(明礬石等)による生産は放棄され、各社がボーキサイト原料へ転換した
- [8]1938年 政府が第一次アルミニウム増産計画を実施
- [3]1934年に日本電気工業(後の昭和電工)がアルミニウムの国産化に成功した
- [6]1934年から1936年にかけて5社が相次いでアルミニウム製錬の操業を開始した
- [19]創立総会時の資本金は1億円だった
- [9]古河電気工業は電線材料としてアルミニウムを求めていた
- [10]東京電燈は電力の大口消費者を探していた
- [11]軍需物資としてアルミニウムを確保するという国家的要請と合致した
- [12]創立計画は1938年4月以来、東京電燈と古河電工の提携により進められた
- [13]1938年11月下付の設立認可書は、準国策会社として援助と特典を与える一方で相当な義務を負わせると規定
- [14]設立の目的は枯渇する国内非鉄金属資源に代わる低廉なアルミニウムの大量供給
- [15]同業既設会社の反対や内閣更迭等の情勢変化により特典的性格が崩れた
- [17]同法により軽金属事業は自由企業として存在しえなくなった
- [22]初代社長に東京電燈社長の小林一三氏が就任
- [16]軽金属製造事業法案は1939年3月に第74議会へ提出され、5月に公布・9月に施行された
- [20]東電証券が50万2,890株、古河電気工業が50万株を引き受け、一般公募は10万株にとどまった
- [21]一般公募は10万株のみで、残りは賛成人48万4,000株・縁故者60万株・財閥会社や加工業者29万株が引き受けた
- 日本軽金属五十年史(1991年)
- [18]1939年3月30日の創立総会をもって日本軽金属が発足した
電力を自前で抱え、海外の技術で設備を組む
資本金1億円・年産能力5万トン[23]という規模は、当時としては超大型の企業であった。アルミニウム製錬は膨大な電力を消費するため[24]、同社は発足直後から電源の確保に動く。1939年7月、東京電燈の傍系であった富士川電力を合併して波木井発電所を取得[25]し、その後に富士川第一・第二および佐野川の各発電所を建設[26]して、出力11万キロワットの自家用発電設備[27]を確保した。本店は東京市芝区田村町の東京電燈のビルに置かれ[28]、そこから工場の建設が始まった。発電所の建設と製錬工場の建設は並行して進み、電力と製錬が同じ会社のなかで同時に立ち上がった。
- [23]資本金1億円・年産能力5万トンの超大型企業として発足
- [28]本店を芝田村町の東京電燈のビルに置いて工場建設にとりかかった
- [24]アルミニウム製錬は膨大な電力を消費する
- [25]1939年7月 東京電燈の傍系である富士川電力を合併し波木井発電所を取得
- [26]富士川第一・第二および佐野川の各発電所を建設
- [27]出力11万キロワットの自家用発電設備を確保
工場は海外の技術を導入して世界最高水準のものにする方針で設計された[29]。アルミナ工場の設計はドイツ人技師のチーデマン氏[30]に依頼した。電解ではノルウェーのケミスク社とゼーダーバーグ式の実施権分譲契約[31]を結び、3万2,000アンペアの大型電解炉[32]は上部構造をケミスク社、下部構造をセーリー氏が受け持つ形で設計された。1939年5月6日に蒲原、6月17日に新潟、7月22日に清水[33]と、各工場が相次いで地鎮祭を迎えた。蒲原工場は1940年10月に一部操業を開始し、1943年9月に付属工場を含む年産3万6,000トンの全設備を完成[34]させた。新潟工場は1941年1月に一部操業を始め、1942年5月に年産1万8,000トンの設備[35]を仕上げた。
- [29]工場は海外の技術を導入して世界最高水準のものとする方針で設計された
- [31]電解工場はノルウェーのケミスク社とゼーダーバーグ式の実施権分譲契約を締結
- [32]セェリー氏に3万2,000アンペアの大型電解炉の設計を依頼
- [35]新潟工場は1941年1月に一部操業、1942年5月に年産1万8,000トンの設備を完成
- [30]アルミナ工場の設計をドイツ人技師チーデマン氏に依頼した(のちに副社長)
- [33]蒲原1939年5月6日・新潟6月17日・清水7月22日に地鎮祭を挙行した
- [34]蒲原工場は電解4棟の最後が1943年3月に操業し、付属工場を含む全設備は同年9月に完成した
- [23]資本金1億円・年産能力5万トンの超大型企業として発足
- [28]本店を芝田村町の東京電燈のビルに置いて工場建設にとりかかった
- [24]アルミニウム製錬は膨大な電力を消費する
- [25]1939年7月 東京電燈の傍系である富士川電力を合併し波木井発電所を取得
- [26]富士川第一・第二および佐野川の各発電所を建設
- [27]出力11万キロワットの自家用発電設備を確保
- [29]工場は海外の技術を導入して世界最高水準のものとする方針で設計された
- [31]電解工場はノルウェーのケミスク社とゼーダーバーグ式の実施権分譲契約を締結
- [32]セェリー氏に3万2,000アンペアの大型電解炉の設計を依頼
- [35]新潟工場は1941年1月に一部操業、1942年5月に年産1万8,000トンの設備を完成
- [30]アルミナ工場の設計をドイツ人技師チーデマン氏に依頼した(のちに副社長)
- [33]蒲原1939年5月6日・新潟6月17日・清水7月22日に地鎮祭を挙行した
- [34]蒲原工場は電解4棟の最後が1943年3月に操業し、付属工場を含む全設備は同年9月に完成した
設備能力を上回った最盛期と、原料の途絶による終戦
清水工場は1941年6月に第1系列を完成させて操業に入り、1943年3月にアルミナ製造能力年産10万トンの設備を完了[36]した。これでアルミナからアルミニウムまでを自社で通す三工場一貫の態勢[37]が整う。1943年7月以降の1年間[38]、最盛期には設備能力をはるかに上回る生産実績をあげた。生産は1940年度の2,361トンから年を追って増え、1941年度1万6,874トン、1942年度3万1,726トンと伸びた[39]。同社の生産は1943年度の5万3,896トンで頂点に達し[40]、同年度の内地生産11万4,057トンのおよそ47パーセントを占めた。太平洋戦争期のアルミニウム工業は、五大重点産業の一つに指定[41]された。
- [36]清水工場は1941年9月に一部操業、1943年3月にアルミナ年産10万トンの設備を完了
- [37]アルミナからアルミニウムまでの三工場一貫作業態勢を確立
- [38]1943年7月以降の1年間の最盛期に設備能力を上回る生産実績をあげた
- [39]同社の生産は1940年度2,361トン・1941年度16,874トン・1942年度31,726トンと推移した
- [40]同社の生産は1943年度に5万3,896トンで頂点に達し、内地生産11万4,057トンの約47%を占めた
- [41]太平洋戦争期にアルミニウム工業は五大重点産業の一つに指定された
頂点は長く続かなかった[42]。戦局の激化にともない原料ボーキサイトの移入が杜絶[43]したため、1944年7月以降の生産は急激に減退[44]し、やがて原料のストックも底をついた。そこで国産の明礬石からアルミニウムを生産する計画[45]を立て、同年10月に2億円へ増資[46]してアルミナ設備の増設と改良を行ったが、未完成のまま終戦を迎えた[47]。海上輸送に依存する原料調達という弱点は、会社の設計そのものに初めから組み込まれていたものである。世界最高水準の設備と自前の電力を揃えても、ボーキサイトが着かなければ電解炉は動かなかった。
- [42]1944年7月以降、生産は急激に減退した
- [44]1944年7月以降、原料ボーキサイトの移入杜絶により生産が急減
- [45]原料のストックも底をつき、国産明礬石からの生産計画を立てた
- [46]1944年10月に2億円へ増資しアルミナ設備の増設改良を実施
- [47]増設改良は未完成のまま終戦を迎えた
- [43]戦局の激化による原料移入の杜絶が生産減退の要因
- [36]清水工場は1941年9月に一部操業、1943年3月にアルミナ年産10万トンの設備を完了
- [37]アルミナからアルミニウムまでの三工場一貫作業態勢を確立
- [38]1943年7月以降の1年間の最盛期に設備能力を上回る生産実績をあげた
- [42]1944年7月以降、生産は急激に減退した
- [44]1944年7月以降、原料ボーキサイトの移入杜絶により生産が急減
- [45]原料のストックも底をつき、国産明礬石からの生産計画を立てた
- [46]1944年10月に2億円へ増資しアルミナ設備の増設改良を実施
- [47]増設改良は未完成のまま終戦を迎えた
- [39]同社の生産は1940年度2,361トン・1941年度16,874トン・1942年度31,726トンと推移した
- [40]同社の生産は1943年度に5万3,896トンで頂点に達し、内地生産11万4,057トンの約47%を占めた
- [41]太平洋戦争期にアルミニウム工業は五大重点産業の一つに指定された
- [43]戦局の激化による原料移入の杜絶が生産減退の要因