日本軽金属ホールディングス の歴史

創業

1939年

創業者

※古河電気工業+東京電燈

創業地

東京市芝区田村町

直近売上高(2026/3)

5,855億円

長期業績と転換点(1997/3〜2026/3)
売上高(億円純利益率(%)
Q なぜ1939年に電線会社と電力会社が組んでアルミニウム製錬を始めたのか
A 日本軽金属は1939年3月、古河電気工業と東京電燈の共同出資により設立された。古河電工は電線材料としてのアルミニウムを求め、東京電燈は電力の大口消費者を探していた。両者の利害は、日華事変の長期化で枯渇する国内非鉄金属資源に代わる低廉なアルミニウムを供給するという国家の要請と重なった。1938年11月に下付された設立認可書は、政府が準国策会社として援助と特典を与える一方で相当な義務を負わせると規定していた
Q なぜ需要が伸び続けたのに1980年代にアルミニウム製錬から退いたのか
A アルミニウム1トンの生産には、アルミナ工程を含めて1万6,000キロワット時の電力を要する。第一次石油危機で電気代は1キロワット時あたり4円から8円へ跳ね上がり、これだけで1トンあたり6万4,000円のコスト増となった。日本の製錬技術は海外のアルミメジャーへ輸出されるほど先端にあったが、エネルギーコストの急騰は技術では埋められなかった。需要が増えたにもかかわらず採算を失い、1985年4月の苫小牧での生産全面停止により、自家水力発電を持つ蒲原工場だけが国内に残った
Q なぜ2001年に事業部の縦割りを横串で貫く組織へ変えたのか
A 2001年3月期の連結最終損益は200億円を上回る赤字で、赤字はこの期で5期連続となった。連結売上高は単独の約2倍に達していたが、財務上の連結と経営の連結は別だという認識を佐藤薫郷氏は抱き続けていた。1998年に技術の調査で訪ねたスイスのアルグループでは、製錬から加工品までグループを横断する開発体制が敷かれていた。佐藤氏は社長就任と同時に、縦割りの事業部を貫く横串チームを導入した

API for AI Agents — 認証不要、URLをGETするだけで機械可読なJSONをトークン消費を抑えつつ取得できます。

1939年〜 電線材料を求めた古河電工と、大口需要家を探した東京電燈が興した準国策会社(1939〜1945)

  1. 1939年 古河電気工業と東京電燈の共同出資により日本軽金属を設立
  2. 1940年 蒲原工場でアルミニウム地金の生産開始
  3. 1941年 清水工場でアルミナの生産開始

軍需が呼び込んだアルミニウム製錬の国産化

日本にアルミニウム製錬業が成立したのは昭和に入ってからである[1]。アルミニウム製品そのものは明治中期から使われ、食器などの加工業は大正期に都市の中小企業として育っていた[2]が、地金は輸入に頼っていた。航空機の発達にともない軍部が国産化を強く求め、1934年に日本電気工業がアルミニウムの国産化に成功した[3]。翌1935年には三井・三菱・住友・古河の財閥共同出資による日本アルミニウム[4]が発足し、輸入ボーキサイトを用いるバイヤー法[5]で製錬に着手する。1936年までに日本曹達・日満アルミニウム・住友アルミニウム製錬を加えた5社[6]が相次いで操業を始めた。国産の明礬石などから生産を試みた企業もあったが、企業として成功したのは日本アルミで品質も優れていたため、各社ともボーキサイト原料へ転換し、国産原料の開発は放棄された[7]

    • [1]アルミニウム製錬業は昭和初年まで日本にまったく成立しなかった
    • [2]アルミニウム加工業は大正期に都市の中小企業として発達した
    • [4]1935年 三井・三菱・住友・古河の財閥共同出資により日本アルミニウムが設立
    • [5]輸入ボーキサイトを原料とするバイヤー法によるアルミナ製造
    • [7]国産原料(明礬石等)による生産は放棄され、各社がボーキサイト原料へ転換した
    • [3]1934年に日本電気工業(後の昭和電工)がアルミニウムの国産化に成功した
    • [6]1934年から1936年にかけて5社が相次いでアルミニウム製錬の操業を開始した

日華事変が始まると航空機資材としてのアルミニウムの必要はさらに高まり、政府は1938年に第一次アルミニウム増産計画[8]を実施した。この時期、古河電気工業は電線材料としてのアルミニウムを求めており[9]、東京電燈は電力の大口消費者を探していた[10]。両者の利害は、軍需物資としてアルミニウムを確保するという国家の要請と重なった[11]。日本軽金属の創立計画は1938年4月以来この2社の提携[12]によって進められ、同年11月に下付された設立認可書[13]は、政府が準国策会社として援助と特典を与える一方、相当な義務を負わせることを規定していた。目的は、長期化する日華事変で年々枯渇する国内非鉄金属資源に代えて、大量生産方式による低廉なアルミニウムを豊富に供給する[14]ことにあった。

もっとも、認可時に約束された特典はそのまま残らなかった[15]。同業既設会社の反対や内閣の更迭といった情勢の変化を経て、1939年3月に軽金属製造事業法案が議会へ提出された[16]ため、特典的な性格は崩れ、大量生産を担う国策的な会社という位置づけだけが残って他社との差はなくなった。同法により軽金属事業は自由企業としては存在しえなくなり[17]、政府が妥当と認めれば重点的な取扱いを受けられる仕組みへ変わった。既定計画はそのまま進められ、1939年3月30日の創立総会[18]をもって、資本金1億円の日本軽金属が発足した[19]。発行株式200万株のうち、東京電燈系の東電証券が50万2,890株[20]、古河電気工業が50万株を引き受けた。一般公募は10万株にとどまり[21]、残りは賛成人・縁故者と財閥系の会社や加工業者が持った。発起人総代を務めた東京電燈社長の小林一三氏[22]が、初代社長に就いた。

    • [15]同業既設会社の反対や内閣更迭等の情勢変化により特典的性格が崩れた
    • [17]同法により軽金属事業は自由企業として存在しえなくなった
    • [22]初代社長に東京電燈社長の小林一三氏が就任
    • [16]軽金属製造事業法案は1939年3月に第74議会へ提出され、5月に公布・9月に施行された
    • [20]東電証券が50万2,890株、古河電気工業が50万株を引き受け、一般公募は10万株にとどまった
    • [21]一般公募は10万株のみで、残りは賛成人48万4,000株・縁故者60万株・財閥会社や加工業者29万株が引き受けた
  • 日本軽金属五十年史(1991年)
    • [18]1939年3月30日の創立総会をもって日本軽金属が発足した
    • [19]創立総会時の資本金は1億円だった
    • [1]アルミニウム製錬業は昭和初年まで日本にまったく成立しなかった
    • [2]アルミニウム加工業は大正期に都市の中小企業として発達した
    • [4]1935年 三井・三菱・住友・古河の財閥共同出資により日本アルミニウムが設立
    • [5]輸入ボーキサイトを原料とするバイヤー法によるアルミナ製造
    • [7]国産原料(明礬石等)による生産は放棄され、各社がボーキサイト原料へ転換した
    • [8]1938年 政府が第一次アルミニウム増産計画を実施
    • [3]1934年に日本電気工業(後の昭和電工)がアルミニウムの国産化に成功した
    • [6]1934年から1936年にかけて5社が相次いでアルミニウム製錬の操業を開始した
    • [19]創立総会時の資本金は1億円だった
    • [9]古河電気工業は電線材料としてアルミニウムを求めていた
    • [10]東京電燈は電力の大口消費者を探していた
    • [11]軍需物資としてアルミニウムを確保するという国家的要請と合致した
    • [12]創立計画は1938年4月以来、東京電燈と古河電工の提携により進められた
    • [13]1938年11月下付の設立認可書は、準国策会社として援助と特典を与える一方で相当な義務を負わせると規定
    • [14]設立の目的は枯渇する国内非鉄金属資源に代わる低廉なアルミニウムの大量供給
    • [15]同業既設会社の反対や内閣更迭等の情勢変化により特典的性格が崩れた
    • [17]同法により軽金属事業は自由企業として存在しえなくなった
    • [22]初代社長に東京電燈社長の小林一三氏が就任
    • [16]軽金属製造事業法案は1939年3月に第74議会へ提出され、5月に公布・9月に施行された
    • [20]東電証券が50万2,890株、古河電気工業が50万株を引き受け、一般公募は10万株にとどまった
    • [21]一般公募は10万株のみで、残りは賛成人48万4,000株・縁故者60万株・財閥会社や加工業者29万株が引き受けた
  • 日本軽金属五十年史(1991年)
    • [18]1939年3月30日の創立総会をもって日本軽金属が発足した

電力を自前で抱え、海外の技術で設備を組む

資本金1億円・年産能力5万トン[23]という規模は、当時としては超大型の企業であった。アルミニウム製錬は膨大な電力を消費するため[24]、同社は発足直後から電源の確保に動く。1939年7月、東京電燈の傍系であった富士川電力を合併して波木井発電所を取得[25]し、その後に富士川第一・第二および佐野川の各発電所を建設[26]して、出力11万キロワットの自家用発電設備[27]を確保した。本店は東京市芝区田村町の東京電燈のビルに置かれ[28]、そこから工場の建設が始まった。発電所の建設と製錬工場の建設は並行して進み、電力と製錬が同じ会社のなかで同時に立ち上がった。

工場は海外の技術を導入して世界最高水準のものにする方針で設計された[29]。アルミナ工場の設計はドイツ人技師のチーデマン氏[30]に依頼した。電解ではノルウェーのケミスク社とゼーダーバーグ式の実施権分譲契約[31]を結び、3万2,000アンペアの大型電解炉[32]は上部構造をケミスク社、下部構造をセーリー氏が受け持つ形で設計された。1939年5月6日に蒲原、6月17日に新潟、7月22日に清水[33]と、各工場が相次いで地鎮祭を迎えた。蒲原工場は1940年10月に一部操業を開始し、1943年9月に付属工場を含む年産3万6,000トンの全設備を完成[34]させた。新潟工場は1941年1月に一部操業を始め、1942年5月に年産1万8,000トンの設備[35]を仕上げた。

    • [29]工場は海外の技術を導入して世界最高水準のものとする方針で設計された
    • [31]電解工場はノルウェーのケミスク社とゼーダーバーグ式の実施権分譲契約を締結
    • [32]セェリー氏に3万2,000アンペアの大型電解炉の設計を依頼
    • [35]新潟工場は1941年1月に一部操業、1942年5月に年産1万8,000トンの設備を完成
    • [30]アルミナ工場の設計をドイツ人技師チーデマン氏に依頼した(のちに副社長)
    • [33]蒲原1939年5月6日・新潟6月17日・清水7月22日に地鎮祭を挙行した
    • [34]蒲原工場は電解4棟の最後が1943年3月に操業し、付属工場を含む全設備は同年9月に完成した

設備能力を上回った最盛期と、原料の途絶による終戦

清水工場は1941年6月に第1系列を完成させて操業に入り、1943年3月にアルミナ製造能力年産10万トンの設備を完了[36]した。これでアルミナからアルミニウムまでを自社で通す三工場一貫の態勢[37]が整う。1943年7月以降の1年間[38]、最盛期には設備能力をはるかに上回る生産実績をあげた。生産は1940年度の2,361トンから年を追って増え、1941年度1万6,874トン、1942年度3万1,726トンと伸びた[39]。同社の生産は1943年度の5万3,896トンで頂点に達し[40]、同年度の内地生産11万4,057トンのおよそ47パーセントを占めた。太平洋戦争期のアルミニウム工業は、五大重点産業の一つに指定[41]された。

頂点は長く続かなかった[42]。戦局の激化にともない原料ボーキサイトの移入が杜絶[43]したため、1944年7月以降の生産は急激に減退[44]し、やがて原料のストックも底をついた。そこで国産の明礬石からアルミニウムを生産する計画[45]を立て、同年10月に2億円へ増資[46]してアルミナ設備の増設と改良を行ったが、未完成のまま終戦を迎えた[47]。海上輸送に依存する原料調達という弱点は、会社の設計そのものに初めから組み込まれていたものである。世界最高水準の設備と自前の電力を揃えても、ボーキサイトが着かなければ電解炉は動かなかった。

1945年〜 塩と肥料で食いつなぎ、カナダのアルミニウム・リミテッドを迎えて首位に戻る(1945〜1973)

  1. 1949年 東京証券取引所などに株式上場
  2. 1952年 カナダのアルミニウム・リミテッドとの資本および技術の援助契約の締結と、同社による増資新株の引き受け 資金か、技術と原料か——ボーキサイトを持たない国で製錬を続けるために資本の半分を渡した提携
  3. 1963年 いすゞ自動車との折半出資で日本フルハーフを設立
  4. 1968年 北海道苫小牧にアルミニウム製錬工場を着工

生産禁止令と賠償指定のもとで塩と肥料を作る

終戦による打撃は、アルミニウム製錬業でとりわけ大きかった[48]。生産設備が全面的な賠償指定を受けたため[49]、本格的な製錬の再開までに2年8か月[50]を要した。工場の戦災被害が軽微だった[51]ことは救いで、1945年11月には廃機体などを溶かしてアルミニウムの生産を再開[52]した。並行して設備の一部を改良利用し、塩・肥料・人造黒鉛・カーバイドの製造[53]にあたって苦境を脱した。1944年10月の増資で進めていたアルミナ設備の増設は、未完成のまま残された[54]。賠償指定が解けるまで、その設備が誰のものになるかも定まらなかった。

1948年4月、待望のボーキサイト輸入が実現[55]し、戦後初めての本格的なアルミニウム生産が始まった。もう一つの課題は用途の側にあった[56]。航空機を主とした軍需材か家庭用品に限られていた需要[57]を、どの分野へ振り向けるかである。翌1949年2月、企業再建整備計画に基づいて資本金をいったん7,500万円へ減額[58]し、同月中に3億円、同年12月に6億2,000万円と積み増した。株式は1949年5月に東京証券取引所などへ上場[59]を果たした。1950年4月には横浜護謨・古河電工と提携して日本ゼオンを設立[60]した。

    • [48]終戦による打撃はアルミニウム製錬業の場合とくに影響が大きかった
    • [50]製錬の再開までに2年8か月を要した
    • [55]1948年4月 ボーキサイト輸入が実現し本格的なアルミニウム生産を再開
    • [56]需要をどの分野へ転換し新用途を開発するかが課題であった
    • [57]軍需材と家庭用品に限られた需要を他分野へ転換し新用途を開発することが課題だった
    • [49]生産設備が全面的な賠償指定を受けた(アルミニウムは指令第3号の禁止品目には含まれなかった)
    • [51]工場の戦災被害が軽微だった
    • [52]1945年11月 廃機体等によりアルミニウムの生産を再開
    • [53]設備の一部を改良利用して塩・肥料・人造黒鉛・カーバイドを製造した
    • [54]1944年10月の増資によるアルミナ設備の増設改良は未完成のまま終戦を迎えた
    • [58]1949年2月 企業再建整備計画により資本金を7,500万円へ減額、3月に3億円へ増額
    • [60]1950年4月 横浜護謨・古河電工と提携し日本ゼオンを設立
  • 有価証券報告書
    • [59]1949年5月 東京証券取引所などに株式を上場

アルミニウム・リミテッドの資本参加

アルミニウム生産の稼働率は年を追って上がり、1950年度には年産1万6,000トンを突破した[61]。朝鮮動乱を契機に需要はさらに増え、1951年度2万1,000トン、1952年度2万4,000トン[62]と伸びて、国内生産量の約60パーセント[63]を占めた。一方でアルミニウムは国際商品であり[64]、技術・原料の両面で外に頼らざるをえない事情も抱えていた。カナダのアルミニウム・リミテッド(のちのアルキャン)との資本および技術の援助契約は1952年3月に調印され、同年10月1日に外資法上の認可[65]を得た。翌1953年4月にアルミニウム・リミテッドから新株式の払込を受けて資本金は12億4,000万円[66]となり、同年6月には技術調査団が来日[67]して清水・蒲原の両工場と発電設備を調査した。

    • [61]1950年度のアルミニウム生産は年産1万6千屯を突破した
    • [62]1950年度に年産1万6,000トンを突破、1951年度2万1,000トン、1952年度2万4,000トン
    • [63]国内生産量の約60%を占めた
    • [64]アルミニウムの国際性に鑑み技術・原料面の向上を図った
    • [66]1953年5月 新株式の払込により資本金12億4,000万円となった
    • [67]1953年6月 アルミニウム・リミテッドの技術調査団が来日し清水・蒲原両工場と発電設備を調査
    • [65]契約は1952年1月29日にリミテッド、3月19日に日本軽金属が署名し、10月1日に外資法上の認可を得た

提携の狙いは資金ではなかった。のちに副社長の松永義正氏は、17年前にアルキャンと提携した主目的は技術向上と原料の確保[68]にあったと述べ、原料確保に関する問題はまったくないと説明した。実際、マレーシアとオーストラリアに両社共同の鉱区[69]を持ち、アルキャンがフィジー島に所有していた鉱区は日本軽金属・昭和電工・住友化学の3社で共同開発[70]する運びとなった。調査団の助言に基づく設備改良を経て業績は向上し、1953年度には生産高2万5,000トンを記録[71]して売上高・純利益とも戦後最高となった。1955年3月期の売上高は39億円[72]だった。

    • [61]1950年度のアルミニウム生産は年産1万6千屯を突破した
    • [62]1950年度に年産1万6,000トンを突破、1951年度2万1,000トン、1952年度2万4,000トン
    • [63]国内生産量の約60%を占めた
    • [64]アルミニウムの国際性に鑑み技術・原料面の向上を図った
    • [66]1953年5月 新株式の払込により資本金12億4,000万円となった
    • [67]1953年6月 アルミニウム・リミテッドの技術調査団が来日し清水・蒲原両工場と発電設備を調査
    • [71]1953年度に生産高2万5,000トン、売上高・純利益とも戦後最高
    • [72]1955年3月期の売上高は39億円
    • [65]契約は1952年1月29日にリミテッド、3月19日に日本軽金属が署名し、10月1日に外資法上の認可を得た
    • [68]松永義正副社長がアルキャン提携の主目的を技術向上と原料確保にあったと説明
    • [69]マレーシアとオーストラリアに日本軽金属とアルキャンの共同鉱区を保有
    • [70]アルキャンがフィジー島に所有していた鉱区を日本軽金属・昭和電工・住友化学の3社で共同開発

台所から住宅と自動車へ広がった需要

高度成長期のアルミニウムは、需要の中身そのものが入れ替わった[73]。1958年ごろの時点では、アルミニウム需要のうち鍋・釜などの日用品が24パーセント以上[74]を占めていた。この構成のままなら所得が増えても需要の伸びは頭打ちになったはずだが、技術開発による新規用途の開拓が構成を変えた[75]。1968年度の実績では、サッシ中心の土木建築部門が20.3パーセント、乗用車中心の陸運部門が21.2パーセント[76]、これに家庭電化製品などの電機・通信機部門を加えた三部門で50パーセントを超えた。日用品の比率は6パーセントへ下がった[77]。アルミニウム需要全体は10年で7倍となり、1968年度の製品総使用量は89万トン[78]に達した。

    • [73]技術開発による新規需要の開拓で需要構成が変化した
    • [74]10年前の時点で日用品がアルミニウム需要の24%以上を占めた
    • [75]技術開発による新規需要の開拓が需要構成を変えた
    • [76]1968年度は土木建築20.3%・陸運21.2%、電機通信を加えた三部門で50%超
    • [77]日用品の比率は6%へ低下した
    • [78]アルミニウム需要は10年で7倍、1968年度の製品総使用量は89万トン

供給側の設備も膨らんだ[79]。1967年度の生産量は約14万5,000トンで国内生産量の40パーセント[80]を占め、首位を保った。1968年3月に新潟工場の増設1万9,500トンが完成[81]し、生産能力は蒲原工場の11万トンと合わせておよそ17万トンとなった。電力は富士川水系の6水力発電所と清水・新潟両工場構内の火力発電所で総合最大出力約19万1,000キロワット[82]を持ち、1960年11月には中部電力との共同出資で清水共同発電を設立[83]して15万キロワットのうち5割の供給を受けた。1963年10月にはいすゞ自動車との折半出資で日本フルハーフを設立[84]し、輸送機器の分野へ進出した。

    • [79]1968年3月の新潟増設で生産能力は約17万トンへ拡大した
    • [80]1967年度の生産量は約14万5,000トンで国内の40%を占めた
    • [81]1968年3月 新潟工場の増設1万9,500トンが完成し能力は約17万トンとなった
    • [82]自家発電の総合最大出力は約19万1,000キロワット
    • [83]1960年11月 中部電力との共同出資により清水共同発電を設立、15万kWの5割を供給
  • 有価証券報告書
    • [84]1963年10月 いすゞ自動車との折半出資で日本フルハーフを設立

1969年8月、松永副社長はアナリスト向けの講演[85]で強気の見通しを語った。1975年度の総需要は200万トンに達し[86]、業界全体の生産能力を当時の約4倍へ増強する必要があるという読みである。同社は200万トンのうち3分の1のシェアを確保する方針を掲げ、1975年度の生産能力を60万〜70万トンとする計画[87]を示した。当時の蒲原・新潟両工場を合わせた17万トンの4倍である[88]。すでに工費330億円で年産13万トンの苫小牧工場[89]を建設中で、1975年度までの設備資金は約1,500億円[90]に達する見込みだった。「50パーセント以上を自己資金によりまかなう方針[91]」(証券アナリストジャーナル 1969年7巻9号)として、資金コストの低さを競争力の要と位置づけていた。

    • [85]証券アナリストジャーナル誌上に載った松永義正副社長の講演要旨
    • [86]1975年度の総需要を200万トンと予想し、業界の生産能力を約4倍に増強する必要があるとした
    • [87]200万トンのうち3分の1のシェア確保を掲げ、生産能力60万〜70万トンを計画
    • [88]蒲原・新潟両工場を合わせた能力17万トンの4倍の生産能力が必要とされた
    • [89]工費330億円で年産13万トンの苫小牧工場を建設中だった
    • [90]1975年度までの設備資金は約1,500億円に達する見込みだった
    • [91]松永義正副社長が設備資金の50%以上を自己資金でまかなう方針を表明
    • [73]技術開発による新規需要の開拓で需要構成が変化した
    • [74]10年前の時点で日用品がアルミニウム需要の24%以上を占めた
    • [75]技術開発による新規需要の開拓が需要構成を変えた
    • [76]1968年度は土木建築20.3%・陸運21.2%、電機通信を加えた三部門で50%超
    • [77]日用品の比率は6%へ低下した
    • [78]アルミニウム需要は10年で7倍、1968年度の製品総使用量は89万トン
    • [85]証券アナリストジャーナル誌上に載った松永義正副社長の講演要旨
    • [86]1975年度の総需要を200万トンと予想し、業界の生産能力を約4倍に増強する必要があるとした
    • [87]200万トンのうち3分の1のシェア確保を掲げ、生産能力60万〜70万トンを計画
    • [88]蒲原・新潟両工場を合わせた能力17万トンの4倍の生産能力が必要とされた
    • [89]工費330億円で年産13万トンの苫小牧工場を建設中だった
    • [90]1975年度までの設備資金は約1,500億円に達する見込みだった
    • [91]松永義正副社長が設備資金の50%以上を自己資金でまかなう方針を表明
    • [79]1968年3月の新潟増設で生産能力は約17万トンへ拡大した
    • [80]1967年度の生産量は約14万5,000トンで国内の40%を占めた
    • [81]1968年3月 新潟工場の増設1万9,500トンが完成し能力は約17万トンとなった
    • [82]自家発電の総合最大出力は約19万1,000キロワット
    • [83]1960年11月 中部電力との共同出資により清水共同発電を設立、15万kWの5割を供給
  • 有価証券報告書
    • [84]1963年10月 いすゞ自動車との折半出資で日本フルハーフを設立

1974年〜 電気の缶詰と呼ばれた製錬が電力費の高騰で採算を失い、加工へ転じるまで(1974〜1990)

  1. 1974年 日軽アルミを吸収合併
  2. 1975年 アルミ製錬の拡張計画の撤回と、減量経営・垂直統合への転換 需要は伸びたのに、なぜ製錬から退いたのか——1キロワット時4円という前提の崩壊
  3. 1978年 日軽圧延を吸収合併
  4. 1980年 新潟工場で40年間続いたアルミニウム製錬を終了
  5. 1983年 銀座の本社ビルをリクルートへ売却
  6. 1984年 建材部門を集約し新日軽を設立
  7. 1985年 苫小牧工場のアルミニウム生産を全面停止

製錬から加工までの一貫会社へ統合するが、前提が狂う

1974年10月1日、日本軽金属は子会社の日軽アルミを吸収合併[92]し、日軽圧延とニッカル押出の営業権を譲り受けて、製錬から最終加工までの一貫会社として発足し直した。公正取引委員会の審査期限が切れたことによる自動承認[93]であった。当時の川手一郎副社長は合併の目的を「資本の効率的再配分を行い、総資本利益率の向上を図る[94]」(日経ビジネス 1974/9/16)と説明した。数字が事情を語っている。1973年下期の総資本利益率は0.38パーセント[95]まで落ち、同期の新日本製鉄の2.12パーセントに遠く及ばない。日経NEEDSの企業総合評価では441社中430位[96]だった。同じ紙面で中山一郎社長は、今後は海外精錬に重点を置くと述べた[97]

  • 日経ビジネス 1974年9月16日号「統合の蜜を享受できるか日軽金」
    • [92]1974年10月1日 日軽アルミを吸収合併し日軽圧延・ニッカル押出の営業権を譲受
    • [93]公正取引委員会の審査期限切れにより自動承認された
    • [94]川手一郎副社長が合併目的を資本の効率的な再配分と総資本利益率の向上と説明
    • [95]1973年下期の総資本利益率は0.38%、同期の新日本製鉄は2.12%
    • [96]日経NEEDSの企業総合評価で441社中430位
    • [97]中山一郎社長は海外精錬に重点を置く方針を示した

苫小牧の計画は当初の姿から大きく縮んでいた[98]。1968年3月に着工した製錬工場[99]は、当初のレイアウトで地金年産60万トン・アルミナ120万トンを見込んでいた[100]が、実績は地金13万トン・アルミナ36万トンにとどまった。採算の前提も入れ替わった[101]。石油危機の前は、地金1トンの生産にアルミナ工場10万円・製錬工場30万円・発電所15万円の計55万円[102]の投資を要し、地金価格は1トン20万円で資金回転率は0.4[103]だった。石油危機後には投資コストがほぼ倍増し、地金単価が約32万円へ上がってもなお回転率は0.3[104]へ下がった。設備を大きくするほど資本が寝る産業に変わった。

  • 日経ビジネス 1974年9月16日号「統合の蜜を享受できるか日軽金」
    • [98]苫小牧の当初計画は地金40万トンに対し実績は13万トンにとどまった
    • [101]石油危機後に投資コストがほぼ倍増し採算の前提が変わった
    • [102]石油危機前は地金1トンあたり計55万円の投資(アルミナ10万円・製錬30万円・発電所15万円)
    • [103]石油危機前の地金価格は1トン20万円、資金回転率は0.4
    • [104]石油危機後は投資コストがほぼ倍増し、地金単価32万円でも回転率は0.3へ低下
  • 日本軽金属五十年史(1991年)
    • [99]苫小牧の製錬工場は1968年3月に着工した(アルミナ工場の着工は1969年4月)
    • [100]苫小牧の当初レイアウトは地金年産60万トン・アルミナ120万トンを想定していた

原因は電力費にあった[105]。アルミニウムは「電気の缶詰」と呼ばれ、1トンの生産にアルミナ製造工程を含めて1万6,000キロワット時[106]の電気を消費する。第一次石油危機で電気代は1キロワット時あたり4円から8円へ跳ね上がり[107]、これだけで1トンあたり6万4,000円のコスト増[108]となった。もともと日本は電力費が高かったため業界は製錬技術の改良に努め、生産性では国際的に最先端を走って海外のアルミメジャーへ技術を輸出するほどだった[109]が、エネルギーコストの急騰は技術では埋められなかった。地金は国際商品であり、円高が競争力をさらに削いだ[110]

    • [105]石油ショックによる電力料金の値上げでアルミ製錬は競争力を完全に失った
    • [106]アルミニウム1トンの生産にアルミナ工程を含め1万6,000キロワット時の電力を消費
    • [107]第一次石油危機で電気代が1kWhあたり4円から8円へ上昇
    • [108]電気代の上昇だけで1トンあたり6万4,000円のコスト増となった
    • [109]日本の製錬技術は国際的に最先端で、海外のアルミメジャーへ技術輸出していた
    • [110]地金は国際商品であるため円高が競争力をさらに低下させた
  • 日経ビジネス 1974年9月16日号「統合の蜜を享受できるか日軽金」
    • [92]1974年10月1日 日軽アルミを吸収合併し日軽圧延・ニッカル押出の営業権を譲受
    • [93]公正取引委員会の審査期限切れにより自動承認された
    • [94]川手一郎副社長が合併目的を資本の効率的な再配分と総資本利益率の向上と説明
    • [95]1973年下期の総資本利益率は0.38%、同期の新日本製鉄は2.12%
    • [96]日経NEEDSの企業総合評価で441社中430位
    • [97]中山一郎社長は海外精錬に重点を置く方針を示した
    • [98]苫小牧の当初計画は地金40万トンに対し実績は13万トンにとどまった
    • [101]石油危機後に投資コストがほぼ倍増し採算の前提が変わった
    • [102]石油危機前は地金1トンあたり計55万円の投資(アルミナ10万円・製錬30万円・発電所15万円)
    • [103]石油危機前の地金価格は1トン20万円、資金回転率は0.4
    • [104]石油危機後は投資コストがほぼ倍増し、地金単価32万円でも回転率は0.3へ低下
  • 日本軽金属五十年史(1991年)
    • [99]苫小牧の製錬工場は1968年3月に着工した(アルミナ工場の着工は1969年4月)
    • [100]苫小牧の当初レイアウトは地金年産60万トン・アルミナ120万トンを想定していた
    • [105]石油ショックによる電力料金の値上げでアルミ製錬は競争力を完全に失った
    • [106]アルミニウム1トンの生産にアルミナ工程を含め1万6,000キロワット時の電力を消費
    • [107]第一次石油危機で電気代が1kWhあたり4円から8円へ上昇
    • [108]電気代の上昇だけで1トンあたり6万4,000円のコスト増となった
    • [109]日本の製錬技術は国際的に最先端で、海外のアルミメジャーへ技術輸出していた
    • [110]地金は国際商品であるため円高が競争力をさらに低下させた

5期続いた赤字と、社長による3年間の給与返上

1975年3月期、日本軽金属は売上高1,165億6,200万円に対して54億2,800万円の経常赤字[111]を計上し、無配へ転落した。同社は新入社員の半年間の自宅待機、希望退職の募集、役員報酬のカット[112]を実施し、1976年からは社長が報酬を全額返上した。赤字は1期では終わらない[113]。経常赤字は1976年3月期に206億円へ拡大し、1977年3月期121億円[114]、円高が急進した1978年3月期も48億円[115]が続いた。4期を合わせた経常赤字は、430億円に近い[116]規模となった。アルミニウム製錬は、需要が増えたにもかかわらず撤退へ追い込まれた特異な産業[117]であった。

    • [111]1975年3月期に売上高1,165億6,200万円に対し経常赤字54億2,800万円を計上し無配転落
    • [112]新入社員の半年間自宅待機・希望退職募集・役員報酬カットを実施し、1976年から社長が報酬を全額返上
    • [117]アルミニウム製錬は需要が増えたにもかかわらず撤退に追い込まれた特異なケース
  • 日経ビジネス 1979年8月13日号「松永義正・日本軽金属社長 再建に生かした『苦境下の遊び心』」
    • [113]経常赤字は1975年3月期以降も複数期にわたって続いた
    • [114]経常赤字は1976年3月期206億円、1977年3月期121億円、1978年3月期48億円と続いた
    • [115]円高が急進した1978年3月期の経常赤字は48億円
    • [116]1975年3月期から1978年3月期までの経常赤字の合計は約430億円

1975年5月、松永義正氏が社長に就いた[118]。1937年に早稲田大学商学部を出て富士川電力へ入り[119]、1939年の合併で日本軽金属の社員となった最古参である[120]。松永社長は1976年1月から1978年末までの3年間、自らの給与を返上[121]した。理由を「社員に苦労を強いているのに自分が楽はできない[122]」(日経ビジネス 1979/8/13)と述べた。人員削減が続く時期には人事部へ脅しめいた電話がかかることもあったが、合理化に伴うストライキは起きなかった[123]。社長自ら組合と繰り返し交渉し、希望退職者の再就職先も斡旋した[124]。当時をふり返り、自分が日軽金の葬式を出すのではないかと思った[125]、とも語った。

  • 日経ビジネス 1979年8月13日号「松永義正・日本軽金属社長 再建に生かした『苦境下の遊び心』」
    • [118]1975年に松永義正氏が社長へ就任した
    • [119]1975年に松永義正氏が社長就任。1937年富士川電力入社、1939年の合併で日本軽金属へ
    • [120]松永義正氏は日本軽金属の最古参社員だった
    • [121]1976年1月から1978年末までの3年間、松永社長は給与を返上した
    • [122]給与返上の理由を「社員に苦労を強いているのに自分が楽はできない」と説明
    • [123]合理化に伴うストは起きず、社長自ら組合と交渉し希望退職者の再就職先も斡旋した
    • [124]社長自ら組合と繰り返し交渉し希望退職者の再就職先も斡旋した
    • [125]松永社長が当時をふり返り、自分が会社の葬式を出すのではないかと思ったと語った

再建の中身は縮小と統合の組み合わせ[126]だった。国内の高コスト製錬工場を休廃止し、1974年に31万8,000トンだったアルミ地金生産を1979年には年間21万4,000トン[127]まで減らす。減った分は海外製錬で補い、地金の生産を絞って圧延と加工の裾野を広げる「富士山型」の垂直統合[128]を進めた。人も減った。1974年10月の合併時に日軽金・日軽圧延・日軽アルミの3社で1万500人だった従業員は、1979年に7,500人[130]となる。役員12人を退任させ、管理職以上の給与カット[131]も実施した。1979年3月期は経常段階で2億3,600万円の赤字ながら税引き利益3,000万円[132]を確保して5年ぶりに黒字化し、1980年3月期は経常利益65億円[133]で過去最高益の見通しとなった。 [129]

  • 日経ビジネス 1979年8月13日号「松永義正・日本軽金属社長 再建に生かした『苦境下の遊び心』」
    • [126]国内の高コスト製錬工場の休廃止と垂直統合を並行して進めた
    • [127]アルミ地金生産を1974年31万8,000トンから1979年21万4,000トンへ縮小
    • [128]海外製錬を拡大し圧延・加工を強化する「富士山型」の垂直統合を進めた
    • [129]従業員は1万500人から7,500人へ3,000人減少した
    • [130]3社合計1万500人だった従業員が1979年に7,500人へ減少、役員12人が退任
    • [131]役員12人を退任させ管理職以上の給与カットを実施した
    • [132]1979年3月期は経常赤字2億3,600万円ながら税引き利益3,000万円で5年ぶりの黒字
    • [133]1980年3月期は経常利益65億円で過去最高益の見通しとなった
    • [111]1975年3月期に売上高1,165億6,200万円に対し経常赤字54億2,800万円を計上し無配転落
    • [112]新入社員の半年間自宅待機・希望退職募集・役員報酬カットを実施し、1976年から社長が報酬を全額返上
    • [117]アルミニウム製錬は需要が増えたにもかかわらず撤退に追い込まれた特異なケース
  • 日経ビジネス 1979年8月13日号「松永義正・日本軽金属社長 再建に生かした『苦境下の遊び心』」
    • [113]経常赤字は1975年3月期以降も複数期にわたって続いた
    • [114]経常赤字は1976年3月期206億円、1977年3月期121億円、1978年3月期48億円と続いた
    • [115]円高が急進した1978年3月期の経常赤字は48億円
    • [116]1975年3月期から1978年3月期までの経常赤字の合計は約430億円
    • [118]1975年に松永義正氏が社長へ就任した
    • [119]1975年に松永義正氏が社長就任。1937年富士川電力入社、1939年の合併で日本軽金属へ
    • [120]松永義正氏は日本軽金属の最古参社員だった
    • [121]1976年1月から1978年末までの3年間、松永社長は給与を返上した
    • [122]給与返上の理由を「社員に苦労を強いているのに自分が楽はできない」と説明
    • [123]合理化に伴うストは起きず、社長自ら組合と交渉し希望退職者の再就職先も斡旋した
    • [124]社長自ら組合と繰り返し交渉し希望退職者の再就職先も斡旋した
    • [125]松永社長が当時をふり返り、自分が会社の葬式を出すのではないかと思ったと語った
    • [126]国内の高コスト製錬工場の休廃止と垂直統合を並行して進めた
    • [127]アルミ地金生産を1974年31万8,000トンから1979年21万4,000トンへ縮小
    • [128]海外製錬を拡大し圧延・加工を強化する「富士山型」の垂直統合を進めた
    • [129]従業員は1万500人から7,500人へ3,000人減少した
    • [130]3社合計1万500人だった従業員が1979年に7,500人へ減少、役員12人が退任
    • [131]役員12人を退任させ管理職以上の給与カットを実施した
    • [132]1979年3月期は経常赤字2億3,600万円ながら税引き利益3,000万円で5年ぶりの黒字
    • [133]1980年3月期は経常利益65億円で過去最高益の見通しとなった

半世紀で幕を閉じたアルミニウム製錬という事業

業界全体では設備の廃棄が進んだ[134]。産業構造審議会アルミ部会が示した適正規模は1977年の年産125万トンから1978年10月に110万トン、1981年に70万トン[135]、1984年12月には35万トンへと下がり続けた。第二次石油危機で電力料金は1キロワット時あたり11円から17円へ上がった[136]。1980年12月、日本軽金属は新潟工場で40年間続いた製錬を終えた[137]。1983年3月期決算でアルミ製錬5社の累積損失は約1,300億円[138]に達し、同年12月、日本軽金属は債務超過を避けるために銀座の本社ビルをリクルートへ売却[139]した。1985年のプラザ合意による円高に加え、同年末には地金関税を9パーセントから1パーセントへ[140]、1988年1月から段階的に引き下げることが決まった。

    • [134]産業構造審議会アルミ部会の答申により設備の廃棄・凍結が進んだ
    • [135]産構審アルミ部会の適正規模は125万トン→110万トン→70万トン→35万トンと縮小した
    • [136]第二次石油危機で電力料金は1kWhあたり11円から17円へ上昇
    • [138]1983年3月期決算でアルミ製錬5社の累積損失は約1,300億円に達した
    • [139]1983年12月 債務超過を避けるため銀座の本社ビルをリクルートへ売却
    • [140]1985年末に地金関税を9%から1%へ引き下げることが決まった
    • [137]1980年12月27日 新潟工場の電解炉全休止により40年間の製錬を終了した

各社の撤退は連鎖した[141]。1979年に住友アルミが名古屋工場を閉鎖し、1981年に三菱の直江津[142]、1982年に昭和軽金属の喜多方・大町と住友アルミの磯浦が続く。住軽アルミは解散し、最新鋭の酒田工場はわずか5年で操業を止めた[143]。1986年に昭和軽金属が千葉を閉じて全面撤退[144]し、翌年には住友アルミも菱化軽金属も撤退した。1981年度にはアルミ地金の輸入が国内生産を上回った[145]。日本軽金属自身も1985年4月に苫小牧でのアルミニウム生産を全面停止[146]しており、国内に残ったのは自家水力発電を持つ蒲原工場だけとなった。1939年に始まった日本のアルミニウム製錬業は、半世紀で姿を消した[147]

    • [141]住友アルミ・三菱・昭和軽金属などの工場閉鎖が相次いだ
    • [142]1979年 住友アルミが名古屋工場を閉鎖、1981年に三菱の直江津が続いた
    • [143]住軽アルミは解散し最新鋭の酒田工場はわずか5年で操業を停止した
    • [144]1986年に昭和軽金属が千葉を閉鎖して全面撤退、翌年に住友アルミと菱化軽金属も撤退
    • [145]1981年度にアルミ地金の輸入が国内生産を上回った
    • [147]アルミ製錬業は生まれてわずか半世紀で幕を閉じた
    • [146]1985年4月5日 苫小牧工場のアルミニウム生産を全面停止した

撤退の判断そのものは、当時の条件のもとで合理的だった。誤算は前提の側にある。1969年の計画は電力費が安いまま推移することを織り込んでおり、自家発電を厚く持つ同社ですら、購入電力に頼る部分では価格上昇を吸収できなかった。松永氏はのちに相談役として、社長就任後を激動の連続とふり返り[148]、アルミ製錬不況の長期化で一時は債務超過の一歩手前まで追い込まれた[149]と明かした。苫小牧での地金生産停止と銀座本社ビルの売却[150]を挙げたうえで、本社ビルの売却については、経営の立て直しに不可欠だと判断し[151]、あとは担当者に任せて口を挟まなかった[152]と述べた。

  • 日経ビジネス 1988年2月29日号「有訓無訓 部下に任せ切れるかが分かれ目」
    • [148]松永氏は相談役として社長就任後を激動の連続とふり返った
    • [149]アルミ製錬不況の長期化で一時は債務超過の一歩手前まで追い込まれた
    • [150]合理化として苫小牧工場での地金生産停止と銀座本社ビルの売却を挙げた
    • [151]本社ビル売却は経営の立て直しに不可欠だと判断したと述べた
    • [152]本社ビル売却の判断後は担当者に任せ口を挟まなかった
    • [134]産業構造審議会アルミ部会の答申により設備の廃棄・凍結が進んだ
    • [135]産構審アルミ部会の適正規模は125万トン→110万トン→70万トン→35万トンと縮小した
    • [136]第二次石油危機で電力料金は1kWhあたり11円から17円へ上昇
    • [138]1983年3月期決算でアルミ製錬5社の累積損失は約1,300億円に達した
    • [139]1983年12月 債務超過を避けるため銀座の本社ビルをリクルートへ売却
    • [140]1985年末に地金関税を9%から1%へ引き下げることが決まった
    • [141]住友アルミ・三菱・昭和軽金属などの工場閉鎖が相次いだ
    • [142]1979年 住友アルミが名古屋工場を閉鎖、1981年に三菱の直江津が続いた
    • [143]住軽アルミは解散し最新鋭の酒田工場はわずか5年で操業を停止した
    • [144]1986年に昭和軽金属が千葉を閉鎖して全面撤退、翌年に住友アルミと菱化軽金属も撤退
    • [145]1981年度にアルミ地金の輸入が国内生産を上回った
    • [147]アルミ製錬業は生まれてわずか半世紀で幕を閉じた
    • [137]1980年12月27日 新潟工場の電解炉全休止により40年間の製錬を終了した
    • [146]1985年4月5日 苫小牧工場のアルミニウム生産を全面停止した
  • 日経ビジネス 1988年2月29日号「有訓無訓 部下に任せ切れるかが分かれ目」
    • [148]松永氏は相談役として社長就任後を激動の連続とふり返った
    • [149]アルミ製錬不況の長期化で一時は債務超過の一歩手前まで追い込まれた
    • [150]合理化として苫小牧工場での地金生産停止と銀座本社ビルの売却を挙げた
    • [151]本社ビル売却は経営の立て直しに不可欠だと判断したと述べた
    • [152]本社ビル売却の判断後は担当者に任せ口を挟まなかった

1991年〜 5期連続赤字から横串の組織へ転じ、素材の会社から部品の会社へ変わるまで(1991〜2026)

日本軽金属ホールディングスの業績推移:連結

売上高(億円)純利益率(%)
  1. 1996年 東洋アルミニウム株式を追加取得し関連会社化
  2. 1999年 東洋アルミニウムを吸収合併
  3. 2000年 新日軽を株式交換により完全子会社化
  4. 2001年 横串チームの設置と、事業部の縦割りからグループ横断の開発体制への転換 技術を買うか、仕組みを借りるか——5期連続赤字の日本軽金属がスイスの同業から持ち帰ったもの
  5. 2002年 事業の一部を日軽金アクトなど3社へ営業譲渡・承継
  6. 2010年 新日軽の全株式を住生活グループへ譲渡
  7. 2012年 株式移転により日本軽金属ホールディングスを設立し上場

空白の90年代と、5期連続となった連結赤字

製錬から退く過程で、日本軽金属は加工と建材で稼ぐ会社へ姿を変えていた[153]。1984年2月に建材部門を集約して新日軽を設立[154]し、1990年12月には新日軽を東京証券取引所市場第二部へ上場[155]させた。1996年8月には東洋アルミニウムの発行済株式の48.85パーセントを追加取得[156]して関連会社とし、1999年10月に吸収合併[157]した。しかし本体の収益力は戻らなかった。1995年から2000年ごろまで新規の開発案件はほぼ止まり[158]、のちに社内で「空白の90年代」と呼ばれる期間が続く。事業を広げた一方で、市場の求めるものを作る仕組みが育っていなかった。

  • 有価証券報告書
    • [153]建材部門を集約した新日軽の設立と東洋アルミニウムの合併で加工・建材の比重が高まった
    • [154]1984年2月 建材部門を集約して新日軽を設立
    • [155]1990年12月 新日軽が東京証券取引所市場第二部に上場
    • [156]1996年8月 東洋アルミニウムの発行済株式48.85%を追加取得し関連会社化
    • [157]1999年10月 東洋アルミニウムを吸収合併
  • 日経ビジネス 2004年6月28日号「眠れる資産、市場を深耕 日本軽金属」
    • [158]1995年から2000年頃まで新規の開発案件がほぼ止まり「空白の90年代」と呼ばれた

2001年3月期の連結最終損益は200億円を上回る赤字[159]で、赤字はこの期で5期連続となった。第二次石油危機のあとを上回る水準[160]である。ビル建材を手がける子会社の新日軽の不振と、事業拡大に失敗したメモリーディスク事業からの撤退費用[161]が重くのしかかっていた。2001年12月には株価が一時59円まで売られた[162]。500億円近い社債の償還を控え[163]、金融機関からの借り入れで資金繰りをかろうじてつなぐ状態だった。赤字の要因は本体の製錬ではなく、製錬から退いたあとに広げた事業の側にあった。1970年代の危機が電力費という外部条件によるものだったのに対し、今度の行き詰まりは自ら選んだ多角化の帰結である。

  • 日経ビジネス 2004年6月28日号「眠れる資産、市場を深耕 日本軽金属」
    • [159]2001年3月期の連結最終損益は200億円超の赤字で、5期連続の赤字となった
    • [160]赤字水準は第二次石油危機の後を上回った
    • [161]新日軽の不振とメモリーディスク事業の撤退費用が損益を圧迫した
    • [162]2001年12月に株価が一時59円まで下落した
    • [163]500億円近い社債の償還を控え、借入で資金繰りをつないだ
  • 有価証券報告書
    • [153]建材部門を集約した新日軽の設立と東洋アルミニウムの合併で加工・建材の比重が高まった
    • [154]1984年2月 建材部門を集約して新日軽を設立
    • [155]1990年12月 新日軽が東京証券取引所市場第二部に上場
    • [156]1996年8月 東洋アルミニウムの発行済株式48.85%を追加取得し関連会社化
    • [157]1999年10月 東洋アルミニウムを吸収合併
  • 日経ビジネス 2004年6月28日号「眠れる資産、市場を深耕 日本軽金属」
    • [158]1995年から2000年頃まで新規の開発案件がほぼ止まり「空白の90年代」と呼ばれた
    • [159]2001年3月期の連結最終損益は200億円超の赤字で、5期連続の赤字となった
    • [160]赤字水準は第二次石油危機の後を上回った
    • [161]新日軽の不振とメモリーディスク事業の撤退費用が損益を圧迫した
    • [162]2001年12月に株価が一時59円まで下落した
    • [163]500億円近い社債の償還を控え、借入で資金繰りをつないだ

スイスのアルグループで見つけた横断の仕組み

2001年4月、副社長だった佐藤薫郷氏が社長に就いた[164]。就任時の社内について「士気はどん底まで落ち込み、グループ崩壊の危機感を持っていた[165]」(日経ビジネス 2004/6/28)とふり返った。糸口は3年前にあった[166]。1998年、佐藤氏は技術や商品の調査のためスイスのアルグループを訪ねた[167]。世界のアルミメジャーの一角を占め、1990年代に業績を伸ばしていた[168]同社を研究部門の専門家と1週間ほど調べるうち、目当ての技術や商品ではなく、採用されていた事業の仕組みそのものに目が留まった。製錬から加工品まで、グループを横断する開発体制が敷かれていた[169]

  • 日経ビジネス 2004年6月28日号「眠れる資産、市場を深耕 日本軽金属」
    • [164]2001年4月 副社長だった佐藤薫郷氏が社長に就任
    • [165]就任時を「士気はどん底まで落ち込み、グループ崩壊の危機感を持っていた」と述べた
    • [166]1998年のアルグループ訪問が再建の手がかりとなった
    • [167]1998年 佐藤氏が技術・商品の調査のためスイスのアルグループを訪問
    • [168]アルグループは世界のアルミメジャーの一角を占め1990年代に業績を伸ばしていた
    • [169]同社では製錬から加工品までグループを横断する開発体制が敷かれていた

日本軽金属の連結売上高は単独のおよそ2倍[170]に達していたが、佐藤社長は「財務的には連結されているが、連結経営は行われていない[171]」(日経ビジネス 2004/6/28)という思いを抱き続けていた。「アルミのデパートでは勝負できない[172]」(日経ビジネス 2004/6/28)とも語った。就任と同時に導入したのが「横串チーム」[173]で、川上から川下の各段階に置かれて自らの守備範囲しか見ていなかった事業部を横断し、成長が見込まれる市場へグループとして向かう組織である。自動車、トラック・鉄道、電機・電子、建築構造材の4チーム[174]が置かれ、束ねる部署として商品化事業化戦略プロジェクト室を設けて佐藤社長が初代室長を兼ねた[175]

  • 日経ビジネス 2004年6月28日号「眠れる資産、市場を深耕 日本軽金属」
    • [170]連結売上高が単独の約2倍に達していた
    • [171]佐藤社長が「財務的には連結されているが、連結経営は行われていない」と述べた
    • [172]「アルミのデパートでは勝負できない」と語った
    • [173]縦割りの事業部を横串で貫くマトリクス型組織へ転換した
    • [174]自動車・トラック鉄道・電機電子・建築構造材の4つの横串チームを設置
    • [175]商品化事業化戦略プロジェクト室を設け佐藤社長が初代室長を兼務した

研究部門にも手を入れた。静岡県にある技術センターは施設が小高い山の上にあることから「山の上の研究所[177]」と呼ばれ、顧客や市場から遠い存在であることを揶揄する含みも込められていた。佐藤社長は「山の上から下りてこい。マーケットの風に当たれ」(日経ビジネス 2004/6/28)と叱咤し、四半期に1度の技術商談会[179]を始めた。売り込む相手は取引先ではなくグループ各社で、研究者が営業担当者と1対1で向き合い、買い手がつけば製品化され、つかなければ技術ストックとして棚に戻る仕組み[180]である。2002年以降8回開かれ[181]、技術・開発グループ長の河村繁専務執行役員[182]は研究の中身が濃くなったと手応えを語った。 [176][178]

  • 日経ビジネス 2004年6月28日号「眠れる資産、市場を深耕 日本軽金属」
    • [176]研究部門の潜在力の底上げに取り組んだ
    • [177]静岡県の技術センターは「山の上の研究所」と呼ばれ市場から遠いことを揶揄されていた
    • [178]佐藤社長が「山の上から下りてこい。マーケットの風に当たれ」と叱咤した
    • [179]技術商談会は四半期に1度、グループ各社を相手に開かれた
    • [180]商談会で買い手がつかなければ技術ストックとしてお蔵入りとなる
    • [181]技術商談会は2002年以降8回開催された
    • [182]技術・開発グループ長の河村繁専務執行役員が研究の中身が濃くなったと述べた
  • 日経ビジネス 2004年6月28日号「眠れる資産、市場を深耕 日本軽金属」
    • [164]2001年4月 副社長だった佐藤薫郷氏が社長に就任
    • [165]就任時を「士気はどん底まで落ち込み、グループ崩壊の危機感を持っていた」と述べた
    • [166]1998年のアルグループ訪問が再建の手がかりとなった
    • [167]1998年 佐藤氏が技術・商品の調査のためスイスのアルグループを訪問
    • [168]アルグループは世界のアルミメジャーの一角を占め1990年代に業績を伸ばしていた
    • [169]同社では製錬から加工品までグループを横断する開発体制が敷かれていた
    • [170]連結売上高が単独の約2倍に達していた
    • [171]佐藤社長が「財務的には連結されているが、連結経営は行われていない」と述べた
    • [172]「アルミのデパートでは勝負できない」と語った
    • [173]縦割りの事業部を横串で貫くマトリクス型組織へ転換した
    • [174]自動車・トラック鉄道・電機電子・建築構造材の4つの横串チームを設置
    • [175]商品化事業化戦略プロジェクト室を設け佐藤社長が初代室長を兼務した
    • [176]研究部門の潜在力の底上げに取り組んだ
    • [177]静岡県の技術センターは「山の上の研究所」と呼ばれ市場から遠いことを揶揄されていた
    • [178]佐藤社長が「山の上から下りてこい。マーケットの風に当たれ」と叱咤した
    • [179]技術商談会は四半期に1度、グループ各社を相手に開かれた
    • [180]商談会で買い手がつかなければ技術ストックとしてお蔵入りとなる
    • [181]技術商談会は2002年以降8回開催された
    • [182]技術・開発グループ長の河村繁専務執行役員が研究の中身が濃くなったと述べた

持株会社のもとで、素材から部品へ

事業の入れ替えは2000年代を通して続いた[183]。2000年8月に新日軽を株式交換で完全子会社[184]としたのち、2010年4月にその全株式を住生活グループへ譲渡[185]した。1984年に集約した建材事業を、四半世紀を経て手放した[186]。2002年10月には事業の一部を日軽金アクト・日軽パネルシステムへ営業譲渡[187]し、会社分割により東洋アルミニウムへ承継させた。2012年10月、日本軽金属は株式移転により日本軽金属ホールディングスを設立[188]し、持株会社体制へ移行した。日本軽金属の株式は同年9月に上場を廃止し[189]、持株会社の株式が東京証券取引所と大阪証券取引所の市場第一部へ上場した。

  • 有価証券報告書
    • [183]2002年の営業譲渡・会社分割と2010年の新日軽譲渡が続いた
    • [184]2000年8月 新日軽を株式交換により完全子会社化
    • [185]2010年4月 新日軽の全株式を住生活グループへ譲渡
    • [186]1984年設立の新日軽を2010年に住生活グループへ譲渡した
    • [187]2002年10月 事業の一部を日軽金アクト・日軽パネルシステムへ営業譲渡し東洋アルミニウムへ承継
    • [188]2012年10月 株式移転により日本軽金属ホールディングスを設立
    • [189]日本軽金属株式は2012年9月に上場廃止となり、持株会社株式が東証・大証第一部へ上場

持株会社のもとで比重は素材から部品へ傾いた[190]。2023年度から2025年度の中期経営計画では、自動車部品を担う日軽金ALMOへ熱交換器・押出・鍛造の各事業を統合[191]した。統合前は事業部門ごとの工法で作った商品を納めていたため、扱える範囲が部門の内側に限られていた[192]。顧客の情報とニーズを一つに集めることで、複合化した商品を出せるようになるという読みである[193]。海外は「地産地消[194]」と「小さく産んで大きく育てる」の2つを基本とし、日系自動車メーカーから受注するには日本・中国・米国での供給体制が欠かせない[195]として、米国での設備投資に重点を置いた[196]

  • 日本軽金属ホールディングス IR説明会 質疑応答要旨 2023年5月29日
    • [190]自動車部品事業を日軽金ALMOへ統合した
    • [191]23中計で自動車部品を担う日軽金ALMOへ熱交換器・押出・鍛造の各事業を統合
    • [192]統合前は事業部門ごとの工法の商品に扱える範囲が限られていた
    • [193]顧客の情報・ニーズが一元化され複合化商品の提供が可能になる
    • [194]海外事業の基本は「地産地消」と「小さく産んで大きく育てる」の2つ
    • [195]日系自動車メーカーからの受注には日本・中国・米国での供給体制が必要とされた
    • [196]米国での設備投資に重点を置いた

2026年5月、朝来野修一社長のもとで長期ビジョン[197]「2035ビジョン」と2026年度からの中期経営計画を公表した。財務目標にROIC8パーセント以上を掲げ、2035年には10パーセント以上[198]を置く。中核に据えたのは循環型サプライチェーンの構築[199]で、顧客からリサイクル率を高めたアルミニウムを求める声が強まっている状況を収益へつなげる考えである。23中計までは雨畑ダムの堆砂対策や品質不適切行為への再発防止[200]といった守りに資源を振り向けていたが、26中計では先送りしてきた維持更新にも投資する。設備投資約1,000億円のうち750億円[201]を省力化・安全と維持更新に充てる計画とした。

  • 日本軽金属ホールディングス IR説明会 質疑応答要旨 2026年5月28日
    • [197]2026年5月 朝来野修一社長のもとで2035ビジョンと26中計を公表
    • [198]財務目標はROIC8%以上、2035ビジョンでは10%以上
    • [199]循環型サプライチェーンの構築を中核戦略に位置づけた
    • [200]23中計までは雨畑ダムの堆砂対策や品質不適切行為の再発防止に資源を振り向けていた
    • [201]設備投資約1,000億円のうち750億円を省力化・安全と維持更新に充当
  • 有価証券報告書
    • [183]2002年の営業譲渡・会社分割と2010年の新日軽譲渡が続いた
    • [184]2000年8月 新日軽を株式交換により完全子会社化
    • [185]2010年4月 新日軽の全株式を住生活グループへ譲渡
    • [186]1984年設立の新日軽を2010年に住生活グループへ譲渡した
    • [187]2002年10月 事業の一部を日軽金アクト・日軽パネルシステムへ営業譲渡し東洋アルミニウムへ承継
    • [188]2012年10月 株式移転により日本軽金属ホールディングスを設立
    • [189]日本軽金属株式は2012年9月に上場廃止となり、持株会社株式が東証・大証第一部へ上場
  • 日本軽金属ホールディングス IR説明会 質疑応答要旨 2023年5月29日
    • [190]自動車部品事業を日軽金ALMOへ統合した
    • [191]23中計で自動車部品を担う日軽金ALMOへ熱交換器・押出・鍛造の各事業を統合
    • [192]統合前は事業部門ごとの工法の商品に扱える範囲が限られていた
    • [193]顧客の情報・ニーズが一元化され複合化商品の提供が可能になる
    • [194]海外事業の基本は「地産地消」と「小さく産んで大きく育てる」の2つ
    • [195]日系自動車メーカーからの受注には日本・中国・米国での供給体制が必要とされた
    • [196]米国での設備投資に重点を置いた
  • 日本軽金属ホールディングス IR説明会 質疑応答要旨 2026年5月28日
    • [197]2026年5月 朝来野修一社長のもとで2035ビジョンと26中計を公表
    • [198]財務目標はROIC8%以上、2035ビジョンでは10%以上
    • [199]循環型サプライチェーンの構築を中核戦略に位置づけた
    • [200]23中計までは雨畑ダムの堆砂対策や品質不適切行為の再発防止に資源を振り向けていた
    • [201]設備投資約1,000億円のうち750億円を省力化・安全と維持更新に充当

日本軽金属ホールディングスの沿革1939〜2026年における主な出来事を抜粋

年月社長・CEO出来事重要度
古河電気工業と東京電燈の共同出資により日本軽金属を設立★★★
蒲原工場でアルミニウム地金の生産開始★★
清水工場でアルミナの生産開始★★
東京証券取引所などに株式上場
カナダのアルミニウム・リミテッドとの資本および技術の援助契約の締結と、同社による増資新株の引き受け資金か、技術と原料か——ボーキサイトを持たない国で製錬を続けるために資本の半分を渡した提携 詳細を読む★★★
いすゞ自動車との折半出資で日本フルハーフを設立★★
北海道苫小牧にアルミニウム製錬工場を着工★★
日軽アルミを吸収合併★★
アルミ製錬の拡張計画の撤回と、減量経営・垂直統合への転換需要は伸びたのに、なぜ製錬から退いたのか——1キロワット時4円という前提の崩壊 詳細を読む★★★
日軽圧延を吸収合併★★
新潟工場で40年間続いたアルミニウム製錬を終了★★
銀座の本社ビルをリクルートへ売却★★
建材部門を集約し新日軽を設立★★
ニッカル押出から押出材の生産部門を譲受
苫小牧工場のアルミニウム生産を全面停止★★★
日軽化工と日軽苫小牧を吸収合併
苫小牧の製錬工場をすべて休止★★
新日軽が東京証券取引所市場第二部に上場
大信軽金属を吸収合併
東洋アルミニウム株式を追加取得し関連会社化★★
東洋アルミニウムを吸収合併★★
新日軽を株式交換により完全子会社化★★
横串チームの設置と、事業部の縦割りからグループ横断の開発体制への転換技術を買うか、仕組みを借りるか——5期連続赤字の日本軽金属がスイスの同業から持ち帰ったもの 詳細を読む★★★
事業の一部を日軽金アクトなど3社へ営業譲渡・承継★★
東海アルミ箔を子会社化
事業の一部を承継した日軽エムシーアルミを子会社化
名古屋・福岡・札幌の各証券取引所の上場を廃止
新日軽の全株式を住生活グループへ譲渡★★★
石山喬株式移転により日本軽金属ホールディングスを設立し上場★★
岡本一郎東京証券取引所プライム市場へ移行
岡本一郎東洋アルミニウム株式の譲渡と箔事業統合の基本契約を締結★★
岡本一郎品質不適切行為に関する特別調査委員会の報告書を公表★★
岡本一郎自動車部品事業を統合し日軽金ALMOが発足★★
岡本一郎箔事業の経営統合を中止し統合基本契約を解約★★
朝来野修一氏が社長に就任
出典・参考

免責事項およびポリシー