日本にアルミニウム製錬業が成立したのは昭和に入ってからである。アルミニウム製品そのものは明治中期から使われ、食器などの加工業は大正期に都市の中小企業として育っていたが、地金は輸入に頼っていた。航空機の発達にともない軍部が国産化を強く求め、1934年に日本電気工業がアルミニウムの国産化に成功した。翌1935年には三井・三菱・住友・古河の財閥共同出資による日本アルミニウムが発足し、輸入ボーキサイトを用いるバイヤー法で製錬に着手する。1936年までに日本曹達・日満アルミニウム・住友アルミニウム製錬を加えた5社が相次いで操業を開始した。国産の明礬石などから生産を試みた企業もあったが、企業として成功したのは日本アルミで品質も優れていたため、各社ともボーキサイト原料へ転換し、国産原料の開発は放棄された。
日華事変が始まると航空機資材としてのアルミニウムの必要はさらに高まり、政府は1938年に第一次アルミニウム増産計画を実施した。この時期、古河電気工業は電線材料としてのアルミニウムを求めており、東京電燈は電力の大口消費者を探していた。両者の利害は、軍需物資としてアルミニウムを確保するという国家の要請と重なった。日本軽金属の創立計画は1938年4月以来この2社の提携によって進められ、同年11月に下付された設立認可書は、政府が準国策会社として援助と特典を与える一方、相当な義務を負わせることを規定していた。目的は、長期化する日華事変で年々枯渇する国内非鉄金属資源に代えて、大量生産方式による低廉なアルミニウムを豊富に供給することにあった。
もっとも、認可時に約束された特典はそのまま残らなかった。同業既設会社の反対や内閣の更迭といった情勢の変化を経て、1939年3月に軽金属製造事業法案が議会へ提出されたため、特典的な性格は崩れ、大量生産を担う国策的な会社という位置づけだけが残って他社との差はなくなった。同法により軽金属事業は自由企業としては存在しえなくなり、政府が妥当と認めれば重点的な取扱いを受けられる仕組みへ変わった。既定計画はそのまま進められ、1939年3月30日の創立総会をもって、資本金1億円の日本軽金属が発足した。発行株式200万株のうち、東京電燈系の東電証券が50万2,890株、古河電気工業が50万株を引き受けた。一般公募は10万株にとどまり、残りは賛成人・縁故者と財閥系の会社や加工業者が持った。発起人総代を務めた東京電燈社長の小林一三氏が、初代社長に就任した。
資本金1億円・年産能力5万トンという規模は、当時としては超大型の企業であった。アルミニウム製錬は膨大な電力を消費するため、同社は発足直後から電源の確保に動く。1939年7月、東京電燈の傍系であった富士川電力を合併して波木井発電所を取得し、その後に富士川第一・第二および佐野川の各発電所を建設して、出力11万キロワットの自家用発電設備を確保した。本店は東京市芝区田村町の東京電燈のビルに置かれ、そこから工場の建設が始まった。発電所の建設と製錬工場の建設は並行して進み、電力と製錬が同じ会社のなかで同時に立ち上がった。
工場は海外の技術を導入して世界最高水準のものにする方針で設計された。アルミナ工場の設計はドイツ人技師のチーデマン氏に依頼した。電解ではノルウェーのケミスク社とゼーダーバーグ式の実施権分譲契約を結び、3万2,000アンペアの大型電解炉は上部構造をケミスク社、下部構造をセーリー氏が受け持つ形で設計された。1939年5月6日に蒲原、6月17日に新潟、7月22日に清水と、各工場が相次いで地鎮祭を迎えた。蒲原工場は1940年10月に一部操業を開始し、1943年9月に付属工場を含む年産3万6,000トンの全設備を完成させた。新潟工場は1941年1月に一部操業を開始し、1942年5月に年産1万8,000トンの設備を仕上げた。
清水工場は1941年6月に第1系列を完成させて操業に入り、1943年3月にアルミナ製造能力年産10万トンの設備を完了した。これでアルミナからアルミニウムまでを自社で通す三工場一貫の態勢が整う。1943年7月以降の1年間、最盛期には設備能力をはるかに上回る生産実績をあげた。生産は1940年度の2,361トンから年を追って増え、1941年度1万6,874トン、1942年度3万1,726トンと伸びた。同社の生産は1943年度の5万3,896トンで頂点に達し、同年度の内地生産11万4,057トンのおよそ47パーセントを占めた。太平洋戦争期のアルミニウム工業は、五大重点産業の一つに指定された。
頂点は長く続かなかった。戦局の激化にともない原料ボーキサイトの移入が杜絶したため、1944年7月以降の生産は急激に減退し、やがて原料のストックも底をついた。そこで国産の明礬石からアルミニウムを生産する計画を立て、同年10月に2億円へ増資してアルミナ設備の増設と改良を行ったが、未完成のまま終戦を迎えた。海上輸送に依存する原料調達という弱点は、会社の設計そのものに初めから組み込まれていたものである。世界最高水準の設備と自前の電力を揃えても、ボーキサイトが着かなければ電解炉は動かなかった。
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|---|---|---|---|---|
| 1939〜1945年電線材料を求めた古河電工と、大口需要家を探した東京電燈が興した準国策会社(1939〜1945) | 古河電気工業と東京電燈の共同出資により日本軽金属を設立 | ★★★ | ||
| 蒲原工場でアルミニウム地金の生産開始 | ★★ | |||
| 清水工場でアルミナの生産開始 | ★★ | |||
| 1946〜1974年アルミニウム・リミテッドとの資本提携と日本フルハーフ、苫小牧製錬工場 | 東京証券取引所などに株式上場 | ★ | ||
| カナダ大手との技術援助契約の締結と、増資新株の引き受けによる資本の受け入れ 1952年、日本軽金属がカナダのアルミニウム・リミテッド(後のアルキャン)と資本および技術の援助契約を締結した経営判断。契約書は1月29日に相手方、3月19日に日本軽金属が署名して成立し、外資法上の正式認可は10月1日に大蔵・通産両省から発表された。翌1953年4月30日に増資新株の払込を受けて資本金は12億4,000万円となり、同年6月には技術調査団が来日して清水・蒲原の両工場と発電設備を調査した。 詳細を読む | ★★★ | |||
| いすゞ自動車との折半出資で日本フルハーフを設立 | ★★ | |||
| 北海道苫小牧にアルミニウム製錬工場を着工 | ★★ | |||
| 日軽アルミを吸収合併 | ★★ | |||
| 1975〜2000年石油危機後の赤字と国内アルミ製錬からの撤退、新日軽の設立と東洋アルミの合併 | アルミ製錬の拡張計画の撤回と、減量経営・垂直統合への転換 1975年3月期に売上高1,165億6,200万円に対して経常赤字54億2,800万円を計上して無配へ転落した日本軽金属が、1969年に描いた年産60万〜70万トンのアルミ製錬拡張計画を撤回し、国内製錬の休廃止による減量と、圧延・加工を厚くする垂直統合へ転じた経営判断。1974年10月の日軽アルミ吸収合併に始まり、1975年6月に社長へ就任した松永義正氏が全社へ広げた。 詳細を読む | ★★★ | ||
| 日軽圧延を吸収合併 | ★★ | |||
| 新潟工場で40年間続いたアルミニウム製錬を終了 | ★★ | |||
| 銀座の本社ビルをリクルートへ売却 | ★★ | |||
| 建材部門を集約し新日軽を設立 | ★★ | |||
| ニッカル押出から押出材の生産部門を譲受 | ★ | |||
| 苫小牧工場のアルミニウム生産を全面停止 | ★★★ | |||
| 日軽化工と日軽苫小牧を吸収合併 | ★ | |||
| 苫小牧の製錬工場をすべて休止 | ★★ | |||
| 新日軽が東京証券取引所市場第二部に上場 | ★ | |||
| 大信軽金属を吸収合併 | ★ | |||
| 東洋アルミニウム株式を追加取得し関連会社化 | ★★ | |||
| 東洋アルミニウムを吸収合併 | ★★ | |||
| 新日軽を株式交換により完全子会社化 | ★★ | |||
| 2001〜2026年佐藤薫郷社長の横串経営と新日軽の譲渡、持株会社化と品質不適切行為 | 横串チームの設置と、事業部の縦割りからグループ横断の開発体制への転換 2001年4月、副社長から社長に就任した佐藤薫郷氏が、縦割りの事業部を横断する"横串チーム"を設け、自動車、トラック・鉄道、電機・電子、建築構造材の4つの市場ごとにグループ各社を統括するマトリクス型組織へ日本軽金属を組み替えた経営判断。5期連続の連結赤字からの再建策の中核に置かれた。 詳細を読む | ★★★ | ||
| 事業の一部を日軽金アクトなど3社へ営業譲渡・承継 | ★★ | |||
| 東海アルミ箔を子会社化 | ★ | |||
| 事業の一部を承継した日軽エムシーアルミを子会社化 | ★ | |||
| 名古屋・福岡・札幌の各証券取引所の上場を廃止 | ★ | |||
| 新日軽の全株式を住生活グループへ譲渡 | ★★★ | |||
| 石山喬 | 株式移転により日本軽金属ホールディングスを設立し上場 | ★★ | ||
| 岡本一郎 | 東京証券取引所プライム市場へ移行 | ★ | ||
| 岡本一郎 | 東洋アルミニウム株式の譲渡と箔事業統合の基本契約を締結 | ★★ | ||
| 岡本一郎 | 品質不適切行為に関する特別調査委員会の報告書を公表 | ★★ | ||
| 岡本一郎 | 自動車部品事業を統合し日軽金ALMOが発足 | ★★ | ||
| 岡本一郎 | 箔事業の経営統合を中止し統合基本契約を解約 | ★★ | ||
| 朝来野修一 | 朝来野修一氏が社長に就任 | ★ |
免責事項およびポリシー
事実根拠:出所(日本軽金属ホールディングス)