{"spec_version":"3","endpoint":"history","stock_code":"5703","company_name":"日本軽金属ホールディングス","content_lang":"ja","meta_lang":"en","canonical_url":"https://the-shashi.com/tse/5703/","api_url":"/api/5703/history.json","updated":"2026-08-05","license":"© 2026 Yutaka Sugiura. All rights reserved.","attribution":"The社史 (the-shashi.com) — https://the-shashi.com/tse/5703/","title":"日本軽金属ホールディングスの歴史概略","sections":[{"start_year":1939,"end_year":1945,"main_title":"電線材料を求めた古河電工と、大口需要家を探した東京電燈が興した準国策会社（1939〜1945）","subsections":[{"title":"軍需が呼び込んだアルミニウム製錬の国産化","text":"日本にアルミニウム製錬業が成立したのは昭和に入ってからである。アルミニウム製品そのものは明治中期から使われ、食器などの加工業は大正期に都市の中小企業として育っていたが、地金は輸入に頼っていた。航空機の発達にともない軍部が国産化を強く求め、1934年に日本電気工業がアルミニウムの国産化に成功した。翌1935年には三井・三菱・住友・古河の財閥共同出資による日本アルミニウムが発足し、輸入ボーキサイトを用いるバイヤー法で製錬に着手する。1936年までに日本曹達・日満アルミニウム・住友アルミニウム製錬を加えた5社が相次いで操業を始めた。国産の明礬石などから生産を試みた企業もあったが、企業として成功したのは日本アルミで品質も優れていたため、各社ともボーキサイト原料へ転換し、国産原料の開発は放棄された。\n\n日華事変が始まると航空機資材としてのアルミニウムの必要はさらに高まり、政府は1938年に第一次アルミニウム増産計画を実施した。この時期、古河電気工業は電線材料としてのアルミニウムを求めており、東京電燈は電力の大口消費者を探していた。両者の利害は、軍需物資としてアルミニウムを確保するという国家の要請と重なった。日本軽金属の創立計画は1938年4月以来この2社の提携によって進められ、同年11月に下付された設立認可書は、政府が準国策会社として援助と特典を与える一方、相当な義務を負わせることを規定していた。目的は、長期化する日華事変で年々枯渇する国内非鉄金属資源に代えて、大量生産方式による低廉なアルミニウムを豊富に供給することにあった。\n\nもっとも、認可時に約束された特典はそのまま残らなかった。同業既設会社の反対や内閣の更迭といった情勢の変化を経て、1939年3月に軽金属製造事業法案が議会へ提出されたため、特典的な性格は崩れ、大量生産を担う国策的な会社という位置づけだけが残って他社との差はなくなった。同法により軽金属事業は自由企業としては存在しえなくなり、政府が妥当と認めれば重点的な取扱いを受けられる仕組みへ変わった。既定計画はそのまま進められ、1939年3月30日の創立総会をもって、資本金1億円の日本軽金属が発足した。発行株式200万株のうち、東京電燈系の東電証券が50万2,890株、古河電気工業が50万株を引き受けた。一般公募は10万株にとどまり、残りは賛成人・縁故者と財閥系の会社や加工業者が持った。発起人総代を務めた東京電燈社長の小林一三氏が、初代社長に就いた。","references":[{"title":"日本軽金属二十年史（1959年）","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"日本軽金属五十年史（1991年）","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"企業の歴史：明治百年（1968年）3編 企業の歴史「日本軽金属」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"企業の歴史：明治百年（1968年）3編 企業の歴史「業界概説」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"会社銀行八十年史（1955年）2篇 日本会社史 35_金属「日本軽金属」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"有価証券報告書","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]}]},{"title":"電力を自前で抱え、海外の技術で設備を組む","text":"資本金1億円・年産能力5万トンという規模は、当時としては超大型の企業であった。アルミニウム製錬は膨大な電力を消費するため、同社は発足直後から電源の確保に動く。1939年7月、東京電燈の傍系であった富士川電力を合併して波木井発電所を取得し、その後に富士川第一・第二および佐野川の各発電所を建設して、出力11万キロワットの自家用発電設備を確保した。本店は東京市芝区田村町の東京電燈のビルに置かれ、そこから工場の建設が始まった。発電所の建設と製錬工場の建設は並行して進み、電力と製錬が同じ会社のなかで同時に立ち上がった。\n\n工場は海外の技術を導入して世界最高水準のものにする方針で設計された。アルミナ工場の設計はドイツ人技師のチーデマン氏に依頼した。電解ではノルウェーのケミスク社とゼーダーバーグ式の実施権分譲契約を結び、3万2,000アンペアの大型電解炉は上部構造をケミスク社、下部構造をセーリー氏が受け持つ形で設計された。1939年5月6日に蒲原、6月17日に新潟、7月22日に清水と、各工場が相次いで地鎮祭を迎えた。蒲原工場は1940年10月に一部操業を開始し、1943年9月に付属工場を含む年産3万6,000トンの全設備を完成させた。新潟工場は1941年1月に一部操業を始め、1942年5月に年産1万8,000トンの設備を仕上げた。","references":[{"title":"日本軽金属二十年史（1959年）","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"日本軽金属五十年史（1991年）","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"企業の歴史：明治百年（1968年）3編 企業の歴史「日本軽金属」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"企業の歴史：明治百年（1968年）3編 企業の歴史「業界概説」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"会社銀行八十年史（1955年）2篇 日本会社史 35_金属「日本軽金属」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"有価証券報告書","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]}]},{"title":"設備能力を上回った最盛期と、原料の途絶による終戦","text":"清水工場は1941年6月に第1系列を完成させて操業に入り、1943年3月にアルミナ製造能力年産10万トンの設備を完了した。これでアルミナからアルミニウムまでを自社で通す三工場一貫の態勢が整う。1943年7月以降の1年間、最盛期には設備能力をはるかに上回る生産実績をあげた。生産は1940年度の2,361トンから年を追って増え、1941年度1万6,874トン、1942年度3万1,726トンと伸びた。同社の生産は1943年度の5万3,896トンで頂点に達し、同年度の内地生産11万4,057トンのおよそ47パーセントを占めた。太平洋戦争期のアルミニウム工業は、五大重点産業の一つに指定された。\n\n頂点は長く続かなかった。戦局の激化にともない原料ボーキサイトの移入が杜絶したため、1944年7月以降の生産は急激に減退し、やがて原料のストックも底をついた。そこで国産の明礬石からアルミニウムを生産する計画を立て、同年10月に2億円へ増資してアルミナ設備の増設と改良を行ったが、未完成のまま終戦を迎えた。海上輸送に依存する原料調達という弱点は、会社の設計そのものに初めから組み込まれていたものである。世界最高水準の設備と自前の電力を揃えても、ボーキサイトが着かなければ電解炉は動かなかった。","references":[{"title":"日本軽金属二十年史（1959年）","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"日本軽金属五十年史（1991年）","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"企業の歴史：明治百年（1968年）3編 企業の歴史「日本軽金属」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"企業の歴史：明治百年（1968年）3編 企業の歴史「業界概説」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"会社銀行八十年史（1955年）2篇 日本会社史 35_金属「日本軽金属」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"有価証券報告書","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]}]}]},{"start_year":1945,"end_year":1973,"main_title":"塩と肥料で食いつなぎ、カナダのアルミニウム・リミテッドを迎えて首位に戻る（1945〜1973）","subsections":[{"title":"生産禁止令と賠償指定のもとで塩と肥料を作る","text":"終戦による打撃は、アルミニウム製錬業でとりわけ大きかった。生産設備が全面的な賠償指定を受けたため、本格的な製錬の再開までに2年8か月を要した。工場の戦災被害が軽微だったことは救いで、1945年11月には廃機体などを溶かしてアルミニウムの生産を再開した。並行して設備の一部を改良利用し、塩・肥料・人造黒鉛・カーバイドの製造にあたって苦境を脱した。1944年10月の増資で進めていたアルミナ設備の増設は、未完成のまま残された。賠償指定が解けるまで、その設備が誰のものになるかも定まらなかった。\n\n1948年4月、待望のボーキサイト輸入が実現し、戦後初めての本格的なアルミニウム生産が始まった。もう一つの課題は用途の側にあった。航空機を主とした軍需材か家庭用品に限られていた需要を、どの分野へ振り向けるかである。翌1949年2月、企業再建整備計画に基づいて資本金をいったん7,500万円へ減額し、同月中に3億円、同年12月に6億2,000万円と積み増した。株式は1949年5月に東京証券取引所などへ上場を果たした。1950年4月には横浜護謨・古河電工と提携して日本ゼオンを設立した。","references":[{"title":"日本軽金属二十年史（1959年）","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"日本軽金属五十年史（1991年）","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"会社銀行八十年史（1955年）2篇 日本会社史 35_金属「日本軽金属」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"企業の歴史：明治百年（1968年）3編 企業の歴史「日本軽金属」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"証券アナリストジャーナル 1969年7巻9号「日本軽金属の現状と将来」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"有価証券報告書","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]}]},{"title":"アルミニウム・リミテッドの資本参加","text":"アルミニウム生産の稼働率は年を追って上がり、1950年度には年産1万6,000トンを突破した。朝鮮動乱を契機に需要はさらに増え、1951年度2万1,000トン、1952年度2万4,000トンと伸びて、国内生産量の約60パーセントを占めた。一方でアルミニウムは国際商品であり、技術・原料の両面で外に頼らざるをえない事情も抱えていた。カナダのアルミニウム・リミテッド（のちのアルキャン）との資本および技術の援助契約は1952年3月に調印され、同年10月1日に外資法上の認可を得た。翌1953年4月にアルミニウム・リミテッドから新株式の払込を受けて資本金は12億4,000万円となり、同年6月には技術調査団が来日して清水・蒲原の両工場と発電設備を調査した。\n\n提携の狙いは資金ではなかった。のちに副社長の松永義正氏は、17年前にアルキャンと提携した主目的は技術向上と原料の確保にあったと述べ、原料確保に関する問題はまったくないと説明した。実際、マレーシアとオーストラリアに両社共同の鉱区を持ち、アルキャンがフィジー島に所有していた鉱区は日本軽金属・昭和電工・住友化学の3社で共同開発する運びとなった。調査団の助言に基づく設備改良を経て業績は向上し、1953年度には生産高2万5,000トンを記録して売上高・純利益とも戦後最高となった。1955年3月期の売上高は39億円だった。","references":[{"title":"日本軽金属二十年史（1959年）","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"日本軽金属五十年史（1991年）","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"会社銀行八十年史（1955年）2篇 日本会社史 35_金属「日本軽金属」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"企業の歴史：明治百年（1968年）3編 企業の歴史「日本軽金属」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"証券アナリストジャーナル 1969年7巻9号「日本軽金属の現状と将来」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"有価証券報告書","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]}]},{"title":"台所から住宅と自動車へ広がった需要","text":"高度成長期のアルミニウムは、需要の中身そのものが入れ替わった。1958年ごろの時点では、アルミニウム需要のうち鍋・釜などの日用品が24パーセント以上を占めていた。この構成のままなら所得が増えても需要の伸びは頭打ちになったはずだが、技術開発による新規用途の開拓が構成を変えた。1968年度の実績では、サッシ中心の土木建築部門が20.3パーセント、乗用車中心の陸運部門が21.2パーセント、これに家庭電化製品などの電機・通信機部門を加えた三部門で50パーセントを超えた。日用品の比率は6パーセントへ下がった。アルミニウム需要全体は10年で7倍となり、1968年度の製品総使用量は89万トンに達した。\n\n供給側の設備も膨らんだ。1967年度の生産量は約14万5,000トンで国内生産量の40パーセントを占め、首位を保った。1968年3月に新潟工場の増設1万9,500トンが完成し、生産能力は蒲原工場の11万トンと合わせておよそ17万トンとなった。電力は富士川水系の6水力発電所と清水・新潟両工場構内の火力発電所で総合最大出力約19万1,000キロワットを持ち、1960年11月には中部電力との共同出資で清水共同発電を設立して15万キロワットのうち5割の供給を受けた。1963年10月にはいすゞ自動車との折半出資で日本フルハーフを設立し、輸送機器の分野へ進出した。\n\n1969年8月、松永副社長はアナリスト向けの講演で強気の見通しを語った。1975年度の総需要は200万トンに達し、業界全体の生産能力を当時の約4倍へ増強する必要があるという読みである。同社は200万トンのうち3分の1のシェアを確保する方針を掲げ、1975年度の生産能力を60万〜70万トンとする計画を示した。当時の蒲原・新潟両工場を合わせた17万トンの4倍である。すでに工費330億円で年産13万トンの苫小牧工場を建設中で、1975年度までの設備資金は約1,500億円に達する見込みだった。「50パーセント以上を自己資金によりまかなう方針」（証券アナリストジャーナル 1969年7巻9号）として、資金コストの低さを競争力の要と位置づけていた。","references":[{"title":"日本軽金属二十年史（1959年）","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"日本軽金属五十年史（1991年）","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"会社銀行八十年史（1955年）2篇 日本会社史 35_金属「日本軽金属」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"企業の歴史：明治百年（1968年）3編 企業の歴史「日本軽金属」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"証券アナリストジャーナル 1969年7巻9号「日本軽金属の現状と将来」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"有価証券報告書","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]}]}]},{"start_year":1974,"end_year":1990,"main_title":"電気の缶詰と呼ばれた製錬が電力費の高騰で採算を失い、加工へ転じるまで（1974〜1990）","subsections":[{"title":"製錬から加工までの一貫会社へ統合するが、前提が狂う","text":"1974年10月1日、日本軽金属は子会社の日軽アルミを吸収合併し、日軽圧延とニッカル押出の営業権を譲り受けて、製錬から最終加工までの一貫会社として発足し直した。公正取引委員会の審査期限が切れたことによる自動承認であった。当時の川手一郎副社長は合併の目的を「資本の効率的再配分を行い、総資本利益率の向上を図る」（日経ビジネス 1974/9/16）と説明した。数字が事情を語っている。1973年下期の総資本利益率は0.38パーセントまで落ち、同期の新日本製鉄の2.12パーセントに遠く及ばない。日経NEEDSの企業総合評価では441社中430位だった。同じ紙面で中山一郎社長は、今後は海外精錬に重点を置くと述べた。\n\n苫小牧の計画は当初の姿から大きく縮んでいた。1968年3月に着工した製錬工場は、当初のレイアウトで地金年産60万トン・アルミナ120万トンを見込んでいたが、実績は地金13万トン・アルミナ36万トンにとどまった。採算の前提も入れ替わった。石油危機の前は、地金1トンの生産にアルミナ工場10万円・製錬工場30万円・発電所15万円の計55万円の投資を要し、地金価格は1トン20万円で資金回転率は0.4だった。石油危機後には投資コストがほぼ倍増し、地金単価が約32万円へ上がってもなお回転率は0.3へ下がった。設備を大きくするほど資本が寝る産業に変わった。\n\n原因は電力費にあった。アルミニウムは「電気の缶詰」と呼ばれ、1トンの生産にアルミナ製造工程を含めて1万6,000キロワット時の電気を消費する。第一次石油危機で電気代は1キロワット時あたり4円から8円へ跳ね上がり、これだけで1トンあたり6万4,000円のコスト増となった。もともと日本は電力費が高かったため業界は製錬技術の改良に努め、生産性では国際的に最先端を走って海外のアルミメジャーへ技術を輸出するほどだったが、エネルギーコストの急騰は技術では埋められなかった。地金は国際商品であり、円高が競争力をさらに削いだ。","references":[{"title":"日本軽金属五十年史（1991年）","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"日本産業史 第3巻 鉄鋼・金属「非鉄金属鉱業－存亡をかけた加工業への転換」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"日経ビジネス 1974年9月16日号「統合の蜜を享受できるか日軽金」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"日経ビジネス 1979年8月13日号「松永義正・日本軽金属社長 再建に生かした『苦境下の遊び心』」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"日経ビジネス 1988年2月29日号「有訓無訓 部下に任せ切れるかが分かれ目」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"有価証券報告書","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]}]},{"title":"5期続いた赤字と、社長による3年間の給与返上","text":"1975年3月期、日本軽金属は売上高1,165億6,200万円に対して54億2,800万円の経常赤字を計上し、無配へ転落した。同社は新入社員の半年間の自宅待機、希望退職の募集、役員報酬のカットを実施し、1976年からは社長が報酬を全額返上した。赤字は1期では終わらない。経常赤字は1976年3月期に206億円へ拡大し、1977年3月期121億円、円高が急進した1978年3月期も48億円が続いた。4期を合わせた経常赤字は、430億円に近い規模となった。アルミニウム製錬は、需要が増えたにもかかわらず撤退へ追い込まれた特異な産業であった。\n\n1975年5月、松永義正氏が社長に就いた。1937年に早稲田大学商学部を出て富士川電力へ入り、1939年の合併で日本軽金属の社員となった最古参である。松永社長は1976年1月から1978年末までの3年間、自らの給与を返上した。理由を「社員に苦労を強いているのに自分が楽はできない」（日経ビジネス 1979/8/13）と述べた。人員削減が続く時期には人事部へ脅しめいた電話がかかることもあったが、合理化に伴うストライキは起きなかった。社長自ら組合と繰り返し交渉し、希望退職者の再就職先も斡旋した。当時をふり返り、自分が日軽金の葬式を出すのではないかと思った、とも語った。\n\n再建の中身は縮小と統合の組み合わせだった。国内の高コスト製錬工場を休廃止し、1974年に31万8,000トンだったアルミ地金生産を1979年には年間21万4,000トンまで減らす。減った分は海外製錬で補い、地金の生産を絞って圧延と加工の裾野を広げる「富士山型」の垂直統合を進めた。人も減った。1974年10月の合併時に日軽金・日軽圧延・日軽アルミの3社で1万500人だった従業員は、1979年に7,500人となる。役員12人を退任させ、管理職以上の給与カットも実施した。1979年3月期は経常段階で2億3,600万円の赤字ながら税引き利益3,000万円を確保して5年ぶりに黒字化し、1980年3月期は経常利益65億円で過去最高益の見通しとなった。","references":[{"title":"日本軽金属五十年史（1991年）","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"日本産業史 第3巻 鉄鋼・金属「非鉄金属鉱業－存亡をかけた加工業への転換」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"日経ビジネス 1974年9月16日号「統合の蜜を享受できるか日軽金」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"日経ビジネス 1979年8月13日号「松永義正・日本軽金属社長 再建に生かした『苦境下の遊び心』」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"日経ビジネス 1988年2月29日号「有訓無訓 部下に任せ切れるかが分かれ目」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"有価証券報告書","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]}]},{"title":"半世紀で幕を閉じたアルミニウム製錬という事業","text":"業界全体では設備の廃棄が進んだ。産業構造審議会アルミ部会が示した適正規模は1977年の年産125万トンから1978年10月に110万トン、1981年に70万トン、1984年12月には35万トンへと下がり続けた。第二次石油危機で電力料金は1キロワット時あたり11円から17円へ上がった。1980年12月、日本軽金属は新潟工場で40年間続いた製錬を終えた。1983年3月期決算でアルミ製錬5社の累積損失は約1,300億円に達し、同年12月、日本軽金属は債務超過を避けるために銀座の本社ビルをリクルートへ売却した。1985年のプラザ合意による円高に加え、同年末には地金関税を9パーセントから1パーセントへ、1988年1月から段階的に引き下げることが決まった。\n\n各社の撤退は連鎖した。1979年に住友アルミが名古屋工場を閉鎖し、1981年に三菱の直江津、1982年に昭和軽金属の喜多方・大町と住友アルミの磯浦が続く。住軽アルミは解散し、最新鋭の酒田工場はわずか5年で操業を止めた。1986年に昭和軽金属が千葉を閉じて全面撤退し、翌年には住友アルミも菱化軽金属も撤退した。1981年度にはアルミ地金の輸入が国内生産を上回った。日本軽金属自身も1985年4月に苫小牧でのアルミニウム生産を全面停止しており、国内に残ったのは自家水力発電を持つ蒲原工場だけとなった。1939年に始まった日本のアルミニウム製錬業は、半世紀で姿を消した。\n\n撤退の判断そのものは、当時の条件のもとで合理的だった。誤算は前提の側にある。1969年の計画は電力費が安いまま推移することを織り込んでおり、自家発電を厚く持つ同社ですら、購入電力に頼る部分では価格上昇を吸収できなかった。松永氏はのちに相談役として、社長就任後を激動の連続とふり返り、アルミ製錬不況の長期化で一時は債務超過の一歩手前まで追い込まれたと明かした。苫小牧での地金生産停止と銀座本社ビルの売却を挙げたうえで、本社ビルの売却については、経営の立て直しに不可欠だと判断し、あとは担当者に任せて口を挟まなかったと述べた。","references":[{"title":"日本軽金属五十年史（1991年）","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"日本産業史 第3巻 鉄鋼・金属「非鉄金属鉱業－存亡をかけた加工業への転換」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"日経ビジネス 1974年9月16日号「統合の蜜を享受できるか日軽金」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"日経ビジネス 1979年8月13日号「松永義正・日本軽金属社長 再建に生かした『苦境下の遊び心』」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"日経ビジネス 1988年2月29日号「有訓無訓 部下に任せ切れるかが分かれ目」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"有価証券報告書","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]}]}]},{"start_year":1991,"end_year":2026,"main_title":"5期連続赤字から横串の組織へ転じ、素材の会社から部品の会社へ変わるまで（1991〜2026）","subsections":[{"title":"空白の90年代と、5期連続となった連結赤字","text":"製錬から退く過程で、日本軽金属は加工と建材で稼ぐ会社へ姿を変えていた。1984年2月に建材部門を集約して新日軽を設立し、1990年12月には新日軽を東京証券取引所市場第二部へ上場させた。1996年8月には東洋アルミニウムの発行済株式の48.85パーセントを追加取得して関連会社とし、1999年10月に吸収合併した。しかし本体の収益力は戻らなかった。1995年から2000年ごろまで新規の開発案件はほぼ止まり、のちに社内で「空白の90年代」と呼ばれる期間が続く。事業を広げた一方で、市場の求めるものを作る仕組みが育っていなかった。\n\n2001年3月期の連結最終損益は200億円を上回る赤字で、赤字はこの期で5期連続となった。第二次石油危機のあとを上回る水準である。ビル建材を手がける子会社の新日軽の不振と、事業拡大に失敗したメモリーディスク事業からの撤退費用が重くのしかかっていた。2001年12月には株価が一時59円まで売られた。500億円近い社債の償還を控え、金融機関からの借り入れで資金繰りをかろうじてつなぐ状態だった。赤字の要因は本体の製錬ではなく、製錬から退いたあとに広げた事業の側にあった。1970年代の危機が電力費という外部条件によるものだったのに対し、今度の行き詰まりは自ら選んだ多角化の帰結である。","references":[{"title":"日経ビジネス 2004年6月28日号「眠れる資産、市場を深耕 日本軽金属」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"日本軽金属ホールディングス IR説明会 質疑応答要旨","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"有価証券報告書","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]}]},{"title":"スイスのアルグループで見つけた横断の仕組み","text":"2001年4月、副社長だった佐藤薫郷氏が社長に就いた。就任時の社内について「士気はどん底まで落ち込み、グループ崩壊の危機感を持っていた」（日経ビジネス 2004/6/28）とふり返った。糸口は3年前にあった。1998年、佐藤氏は技術や商品の調査のためスイスのアルグループを訪ねた。世界のアルミメジャーの一角を占め、1990年代に業績を伸ばしていた同社を研究部門の専門家と1週間ほど調べるうち、目当ての技術や商品ではなく、採用されていた事業の仕組みそのものに目が留まった。製錬から加工品まで、グループを横断する開発体制が敷かれていた。\n\n日本軽金属の連結売上高は単独のおよそ2倍に達していたが、佐藤社長は「財務的には連結されているが、連結経営は行われていない」（日経ビジネス 2004/6/28）という思いを抱き続けていた。「アルミのデパートでは勝負できない」（日経ビジネス 2004/6/28）とも語った。就任と同時に導入したのが「横串チーム」で、川上から川下の各段階に置かれて自らの守備範囲しか見ていなかった事業部を横断し、成長が見込まれる市場へグループとして向かう組織である。自動車、トラック・鉄道、電機・電子、建築構造材の4チームが置かれ、束ねる部署として商品化事業化戦略プロジェクト室を設けて佐藤社長が初代室長を兼ねた。\n\n研究部門にも手を入れた。静岡県にある技術センターは施設が小高い山の上にあることから「山の上の研究所」と呼ばれ、顧客や市場から遠い存在であることを揶揄する含みも込められていた。佐藤社長は「山の上から下りてこい。マーケットの風に当たれ」（日経ビジネス 2004/6/28）と叱咤し、四半期に1度の技術商談会を始めた。売り込む相手は取引先ではなくグループ各社で、研究者が営業担当者と1対1で向き合い、買い手がつけば製品化され、つかなければ技術ストックとして棚に戻る仕組みである。2002年以降8回開かれ、技術・開発グループ長の河村繁専務執行役員は研究の中身が濃くなったと手応えを語った。","references":[{"title":"日経ビジネス 2004年6月28日号「眠れる資産、市場を深耕 日本軽金属」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"日本軽金属ホールディングス IR説明会 質疑応答要旨","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"有価証券報告書","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]}]},{"title":"持株会社のもとで、素材から部品へ","text":"事業の入れ替えは2000年代を通して続いた。2000年8月に新日軽を株式交換で完全子会社としたのち、2010年4月にその全株式を住生活グループへ譲渡した。1984年に集約した建材事業を、四半世紀を経て手放した。2002年10月には事業の一部を日軽金アクト・日軽パネルシステムへ営業譲渡し、会社分割により東洋アルミニウムへ承継させた。2012年10月、日本軽金属は株式移転により日本軽金属ホールディングスを設立し、持株会社体制へ移行した。日本軽金属の株式は同年9月に上場を廃止し、持株会社の株式が東京証券取引所と大阪証券取引所の市場第一部へ上場した。\n\n持株会社のもとで比重は素材から部品へ傾いた。2023年度から2025年度の中期経営計画では、自動車部品を担う日軽金ALMOへ熱交換器・押出・鍛造の各事業を統合した。統合前は事業部門ごとの工法で作った商品を納めていたため、扱える範囲が部門の内側に限られていた。顧客の情報とニーズを一つに集めることで、複合化した商品を出せるようになるという読みである。海外は「地産地消」と「小さく産んで大きく育てる」の2つを基本とし、日系自動車メーカーから受注するには日本・中国・米国での供給体制が欠かせないとして、米国での設備投資に重点を置いた。\n\n2026年5月、朝来野修一社長のもとで長期ビジョン「2035ビジョン」と2026年度からの中期経営計画を公表した。財務目標にROIC8パーセント以上を掲げ、2035年には10パーセント以上を置く。中核に据えたのは循環型サプライチェーンの構築で、顧客からリサイクル率を高めたアルミニウムを求める声が強まっている状況を収益へつなげる考えである。23中計までは雨畑ダムの堆砂対策や品質不適切行為への再発防止といった守りに資源を振り向けていたが、26中計では先送りしてきた維持更新にも投資する。設備投資約1,000億円のうち750億円を省力化・安全と維持更新に充てる計画とした。","references":[{"title":"日経ビジネス 2004年6月28日号「眠れる資産、市場を深耕 日本軽金属」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"日本軽金属ホールディングス IR説明会 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