日本軽金属ホールディングス横串チームの設置と、事業部の縦割りからグループ横断の開発体制への転換
技術を買うか、仕組みを借りるか——5期連続赤字の日本軽金属がスイスの同業から持ち帰ったもの
- 概要
- 2001年4月、副社長から社長に就いた佐藤薫郷氏が、縦割りの事業部を横断する「横串チーム」を設け、自動車、トラック・鉄道、電機・電子、建築構造材の4つの市場ごとにグループ各社を束ねるマトリクス型組織へ日本軽金属を組み替えた経営判断。5期連続の連結赤字からの再建策の中核に置かれた。
- 背景
- 1995年から2000年ごろまで新規の開発案件はほぼ止まり、社内では「空白の90年代」と呼ばれていた。2001年3月期の連結最終損益は200億円を上回る赤字で、赤字はこの期で5期連続となる。2001年12月には株価が一時59円まで売られた。連結売上高は単独の約2倍に達しながら、グループを横断して商品を作る体制がなかった。
- 内容
- 4つの横串チームを束ねる部署として商品化事業化戦略プロジェクト室を置き、佐藤社長が初代室長を兼ねた。チームの多くは30代の社員がリーダーを務めた。研究部門には四半期に1度の技術商談会を課し、売り込む相手を取引先ではなくグループ各社とした。2003年からは事業化実践チーム研修を始めている。
- 含意
- 手本は1998年に訪ねたスイスのアルグループで、佐藤氏が持ち帰ったのは目当ての技術や商品ではなく、グループを横断する開発体制という仕組みであった。ただし佐藤社長自身が2004年、業績回復の50%はリストラ効果によると述べている。
顧客の情報が集まる場所を替えた
1998年にスイスから持ち帰ったのは、アルミの合金でも加工の技術でもなかった。佐藤社長が写したのは、精錬から加工品までを同じ市場に向かせるアルスイスの組織の作りである。横串チームと技術商談会が替えたのは組織図よりも、顧客の情報がどこに集まるかであった。事業部の内側で止まっていた市場の声は、市場ごとの4つのチームと、研究者が営業担当者と向き合う商談会へ集め直された。技術ではなく仕組みを他社から輸入した点に、この判断の性格がうかがえる。
回復の半分はリストラ効果であったと、佐藤社長自身が2004年に述べている。メモリーディスクの撤退で消えた費用と、横串チームが生んだ利益は、経常利益の数字の上で切り分けられない。新商品・新規事業が営業利益の25%を占めるという目標に届いたかどうかも、公表された数字からは追えない。しかも4つの横串チームの一つが受け持った建築構造材では、中核の新日軽が2010年に売却された。仕組みを借りたところまでは見えるが、それが何を生んだかの検証は手前で止まっているとみられる。
Yutaka Sugiura, 2026年8月
背景
空白の90年代と、5期連続となった赤字
日本軽金属では1995年から2000年ごろまで、新規の開発案件がほぼ止まった。社内ではこの期間を「空白の90年代」と呼んでいた。事業の輪郭そのものは広がっている。1999年10月にアルミ箔の東洋アルミニウムを吸収合併し、2000年8月には建材の新日軽を株式交換で完全子会社とした。製錬から退いた後の同社は加工と建材で稼ぐ会社になっていたが、広げた事業からは新しい商品が出てこなかった[1][2]。
行き詰まりは数字に出た。2001年3月期の連結最終損益は200億円を上回る赤字となり、赤字はこの期で5期連続となる。第2次石油ショック後を上回る水準であった。ビル建材を手がける子会社の新日軽の不振と、事業拡大に失敗したメモリーディスク事業からの撤退費用が重くのしかかっていた。2001年12月には株価が一時59円まで売られ、500億円近い社債の償還を控えて、金融機関からの借り入れで資金繰りをつないだ[3][4]。
資本を引く親会社と、連結されていない連結
外からの支えも細っていた。1998年10月16日、日本軽金属は子会社の東洋アルミニウムとの合併を発表する。同時に、資本参加していたカナダのアルキャン・アルミニウムは日軽金株のうち約1億3,000万株を約180億円で東洋アルミへ売却し、東洋アルミが約25%を持つ筆頭株主となった。アルキャンはボーキサイトや精錬など上流へ経営資源を移す戦略転換を進めており、日本では資本を引いて地金などの供給市場と見る方向へ転じていた[5][6]。
日軽金は度重なるリストラにもかかわらず、1998年3月期に連結で130億円の最終赤字を出していた。アルキャンはその状態に見切りをつけた。一方で連結売上高は単独の約2倍に達している。子会社群を数多く抱えながら、佐藤氏は「財務的には連結されているが、連結経営は行われていない」(日経ビジネス 2004/6/28)という思いを抱き続けていた。「アルミのデパートでは勝負できない」(日経ビジネス 2004/6/28)とも語った[7][8]。
決断
スイスで見たのは技術ではなく、仕組みであった
手がかりは3年前にあった。1998年、当時副社長だった佐藤氏は技術や商品の調査でスイスのアルグループ(アルスイス)を訪ねている。世界のアルミメジャーの一角を占め、1990年代に業績を伸ばしていた同社を、研究部門の専門家と1週間ほど調べた。目に留まったのは、当初の目的だった技術や商品ではなく、事業の仕組みそのものであった。アルミ精錬から加工品の部門に至るまで、グループを横断する開発体制が敷かれていた[9][10]。
2001年4月、佐藤氏は副社長から社長に就いた。就任時の社内を「士気はどん底まで落ち込み、グループ崩壊の危機感を持っていた」(日経ビジネス 2004/6/28)とふり返っている。就任と同時に持ち込んだのが、アルスイスで見た体制を写した「横串チーム」である。自動車、トラック・鉄道、電機・電子、建築構造材の4チームを置き、束ねる商品化事業化戦略プロジェクト室を設け、佐藤社長が初代室長を兼ねた。リーダーの多くは30代の社員であった[11][12][13]。
山の上の研究所を、市場の側へ引き下ろす
研究部門にも同じ考えを当てた。静岡県の技術センターは小高い山の上にあることから「山の上の研究所」と呼ばれ、市場から遠いことを揶揄する含みもあった。佐藤社長は「山の上から下りてこい。マーケットの風に当たれ」(日経ビジネス 2004/6/28)と叱咤し、四半期に1度の技術商談会を始める。売り込む相手は取引先ではなくグループ各社で、買い手がつけば製品化され、つかなければ「技術ストック」としてお蔵入りとなった。2002年以降、8回開かれている[14][15]。
2003年には「事業化実践チーム研修」を始めた。研究や製造、営業の一線に立つ人材が月に1度、半年にわたって議論し、新規事業を掘り起こす。人事部長の杉田俊一氏は「最終的な意思決定の寸前のところまで研修で到達してもらう」(日経ビジネス 2004/6/28)と述べている。第1期生で31歳の河本知広氏は役員への最終報告を経て事業化案を通し、会社は数千万円を投じて半導体製造装置の部品を作る機械を購入した[16][17]。
結果
中期経営計画の数字と、回復の内訳
2001年11月、日本軽金属は中期経営計画を取りまとめた。最終年度の2007年3月期に、新商品・新規事業が生み出す営業利益を全体の25%にあたる80億円とし、経常利益は230億円を掲げている。2004年3月期の経常利益は160億円だったから、3年で43%伸ばす計算になる。組織の作り替えを、新しい商品からいくら利益が出るかという数字に結び付けた計画であった[18]。
数字の上では目標を超えた。連結経常利益は2003年3月期の123億円から増え続け、最終年度の2007年3月期は252億円、売上高は6,182億円となった。もっとも佐藤社長は2004年に「これまでの業績回復はリストラ効果が50%、経営の強化が30%、新製品開発が20%の貢献をしてきた」(日経ビジネス 2004/6/28)と述べ、そのリストラは一段落したと見ていた。前期2.5円の配当を5円へ引き上げて、ようやく「普通の会社」になれるとも語った[19][20]。
建材を手放し、持株会社へ
事業の入れ替えも続いた。2002年10月、日本軽金属は事業の一部を日軽金アクトと日軽パネルシステムへ営業譲渡し、会社分割によって東洋アルミニウムへ承継させている。2010年4月には新日軽の全株式を住生活グループへ譲渡した。1984年に建材部門を集約して設立し、2000年に完全子会社としたビル建材の会社を、赤字の主因の一つに数えてから10年で手放したことになる[21][22]。
2012年10月、日本軽金属は株式移転により日本軽金属ホールディングスを設立し、持株会社体制へ移った。日本軽金属の株式は同年9月に上場を廃止し、持株会社の株式が東京証券取引所と大阪証券取引所の市場第一部へ上場している。事業部を横断する仕組みは、この体制の下でも残った。同社は2024年11月の説明会で、横串活動が20年以上にわたって続いてきたと説明している[23][24]。
- 日経ビジネス 2004年6月28日号「眠れる資産、市場を深耕 日本軽金属」
- 週刊東洋経済 1998年10月31日号「[フラッシュ]日軽金 アルキャン離縁で再編加速」
- 日本軽金属ホールディングス 有価証券報告書【沿革】
- 日本軽金属 有価証券報告書(連結)
- 日本軽金属ホールディングス 2025年3月期 中間期決算説明会 質疑応答