日本軽金属ホールディングスカナダのアルミニウム・リミテッドとの資本および技術の援助契約の締結と、同社による増資新株の引き受け

資金か、技術と原料か——ボーキサイトを持たない国で製錬を続けるために資本の半分を渡した提携

時期 1952年10月
意思決定者(推定) 日本軽金属 取締役会
論点 外資提携による技術と原料の確保
概要
1952年、日本軽金属がカナダのアルミニウム・リミテッド(後のアルキャン)と資本および技術の援助契約を結んだ経営判断。契約書は1月29日に相手方、3月19日に日本軽金属が署名して成立し、外資法上の正式認可は10月1日に大蔵・通産両省から発表された。翌1953年4月30日に増資新株の払込を受けて資本金は12億4,000万円となり、同年6月には技術調査団が来日して清水・蒲原の両工場と発電設備を調査した。
背景
終戦後は連合軍による生産禁止令と生産設備の全面的な賠償指定を受け、アルミニウム製錬の再開までに2年8か月を要した。1948年4月のボーキサイト輸入で本格生産へ戻り、朝鮮動乱を受けて生産は1950年度1万6千トンから1952年度2万4千トンへ伸び、国内生産量の約60パーセントを占めていた。外資提携の相手はまず米レイノルズ社で、1948年2月から交渉が続いたが、米国の市況悪化により1949年12月に資本参加を拒絶されて破談している。
内容
契約は資本と技術の両面にわたる。増資新株1,240万株は1株60円(額面50円)で全部がアルミニウム・リミテッドに割り当てられ、払込総額7億4,400万円のうち6億2,000万円が資本金に組み入れられた。年利5分5厘・8年償還で6億4,500万円を借り入れる枠も同時に認可されたが、この借入は実行されないまま期限を過ぎている。技術面では調査団の助言に基づいて設備を改良し、原料面ではマレーシアとオーストラリアに両社共同の鉱区を持つに至った。
含意
松永義正副社長は1969年の講演で、17年前にアルキャンと提携した主目的は技術向上と原料の確保にあったと述べ、原料確保に関する問題はまったくないと説明した。原料を国内に持てないまま戦時に生産を止められた製錬会社が、その弱点を資本で埋めた形になる。
筆者の見解

資本で埋めた弱点

リミテッドが払い込んだのは7億4,400万円である。1株60円・額面50円の新株1,240万株ぶんで、資本金へ組み入れられたのは6億2,000万円、差額の1億2,400万円はプレミアムにあたる。持株はちょうど半分になった。それだけの持分を渡して受け取ったのが資金ではなく技術と原料であったところに、この提携の性格が表れている。アルミニウム製錬は、国産の明礬石では採算が合わず南方のボーキサイトへ切り替え、その移入が絶えた1944年に生産を止めた産業であった。原料を国内に持てないという弱点は、合理化をいくら重ねても埋まらない。鉱区を持つ側と資本でつながる道が、当時の日本軽金属には最も確実に見えたのだとみられる。

資金が目的でなかったことは、借りなかった金が示している。同時に認可された6億4,500万円の借入枠は、年利5分5厘・8年償還という条件でありながら一度も引かれず、1954年6月末の期限を過ぎた。第二次資産再評価と朝鮮動乱後の社内留保で資金事情が好転し、為替改定の危険もあったためである。設備資金2億8,600万円をまかない借入金8億9,500万円を返したのは、リミテッドの払込金7億4,400万円と自己調達資金4億3,700万円であった。資本の半分を渡して何を取りにいったのかは、使わずに流した枠の側からのほうがはっきり読める。

ただ、渡した半分は戻らない。アルキャンは大株主として残り、1989年になっても日本軽金属は同社との関係を成長戦略の中心に置いていた。原料と技術を外から入れる仕組みを選んだ以上、相手の意向から離れた経営はそのぶん狭くなる。1953年度に売上高と純利益がともに戦後最高となった数字は、その代価を払ったうえで得たものであった。提携の巧拙は、直後の決算だけでは測りにくいといえる。

Yutaka Sugiura, 2026年8月

背景

賠償指定と、2年8か月の空白

終戦の打撃は、アルミニウム製錬業でとりわけ重かった。連合軍による生産禁止令が出たうえ、生産設備が全面的に賠償に指定され、製錬の再開までに2年8か月を要している。日本軽金属は工場の戦災被害が軽微であったため、1945年11月に廃機体等を使ってアルミニウムの生産を再開したが、それは本来の操業と呼べるものではない。設備の一部を改良して塩、肥料、人造黒鉛、カーバイドを製造し、当座をしのいだ[1][2]

製錬が本来の姿へ戻ったのは1948年4月で、ボーキサイトの輸入が許されたことによる。ここで戦後初めての本格的なアルミニウム生産が始まった。財務の立て直しはその後を追いかけた。1949年2月に企業再建整備計画に基づいて資本金を7,500万円へ減額し、翌3月には3億円、同年12月20日には6億2,000万円へと積み増している。この日付は、社史の資本金推移表が有償増資に払込期日を採ることによる。減資と増資を1年のうちに重ねた動きに、再建途上の姿がうかがえる[3][4]

朝鮮動乱の需要と、原料を国内に持てない産業

稼働率は年を追って上がった。1950年度の生産は1万6千トンを突破し、朝鮮動乱を契機に需要はさらに増えて1951年度2万1千トン、1952年度2万4千トンへ伸び、国内生産量の約60パーセントを占めるに至る。国内首位の製錬会社として、売り先の側に不足はない。業績が戻るなかで残った課題は、需要ではなく、原料と技術という供給の側にあった[5]

アルミニウム製錬は、原料を国内に持てない産業である。戦前、国産の明礬石や礬土頁岩を原料に企業化した各社は、アルミニウムの含有度が低いために採算が合わず、結局そろって南方のボーキサイトへ切り替えた。日本軽金属も例外ではない。戦局の悪化でボーキサイトの移入が絶えると1944年7月以降に生産は急減し、やがて原料の在庫も底をついた。需要が戻っても、この構造そのものは戦後に持ち越されている[6][7]

米レイノルズ社との交渉と、その破談

提携相手として先にいたのは米国の会社である。1947年8月の座談会で、草野義一社長は賠償撤去の見通しを語ったあと、「アメリカなりどこなりと合作で、こっちばかりの会社でないということになっても、私は日本にそういう工場を残しておいた方がいい」(日本軽金属二十年史 1959年)と述べた。賠償撤去対策として出た構想である。総司令部に勤務するG.L.アレン氏の仲介で、アルコアの独占を破った新興勢力の米レイノルズ社と接触し、1948年2月に副社長のルイ・レイノルド氏らが来日して交渉が始まった。直接の動機は1948年度の生産割当が蒲原工場8,250トン・新潟工場ゼロという低操業度にあり、打開は輸出に求めるほかなく、そのために技術と海外販路が要った[8][9][10][11][12]

交渉は3つの壁に当たった。総司令部と日本政府は地金でなく加工品を輸出せよと反対し、インフレ下で地金価格の条項がまとまらず、投資基準も為替レートも未定で株式の取得ができない。ドッジ・ラインでボーキサイトの輸入補給金が廃止されると、方式は地金引渡しから委託加工へ変わった。1949年5月以降、米国のアルミニウム市況がデフレ化し空軍の発注取消が重なると、レイノルズ社は熱意を失い、同年12月の第2回増資での資本参加要望を拒絶する。並行してアルキャン側は1948年9月のブルース・ミッションで全国を視察し、1949年初めに「レイノルズ社との関係を打ち切るならば、いつでも提携交渉に応じよう」(日本軽金属二十年史 1959年)と伝えてきていた。1950年12月に渡米した草野社長はレイノルズ本社に交渉打切りを正式に回答し、同じ旅程でリミテッドの上席副社長ジュレイ氏に提携を懇請して大筋の了解を得た[13][14][15][16][17][18]

決断

1952年3月の契約成立と、10月1日の認可

草野社長の帰国後、話は具体化した。1951年7月にリミテッドから2名が派遣されて提携に必要な契約の骨子が討議され、まとまった同意書草案をふえんした契約書に、貸付金の覚書・派遣技術使節の書簡・継続的技術援助契約を付属書類として付し、1952年1月にカナダから送られてきた。提携契約書は、リミテッドが1952年1月29日付で上席副社長のジュレイ氏の署名を、日本軽金属が3月19日付で草野義一社長の署名を済ませて成立している。外資法に基づく許可申請書は4月8日付で外資委員会に提出された。申請は株式取得・貸付金債権取得・技術援助の3件に分かれるが、3つが相まって一つの投資計画をなすため、一部だけを進めることはできないと付記されている[19][20][21]

認可は自動的には下りなかった。この申請は対日平和条約の発効後で最初の外資提携であり、基幹産業としても最初、しかも株式取得・貸付金・技術援助のすべてを含むモデルケースとして注目を集めたが、外資委員会では大蔵省側の委員が反対した。アルミニウム製錬のような基礎産業に50パーセントの持株を許せば外国投資家に経営を支配される恐れがある、というのがその理由である。日本軽金属は、それを超えて株式を取得しない旨のリミテッドの確約、現社長の留任を協定の一条件とすること、外国人役員は1〜2名にとどめることを挙げて説明にあたった。審議は約半年停頓し、1952年9月に草野社長が自ら渡米して提携効果に関するリミテッドの確認を取り付けたことで決着している[22][23][24][25]

正式認可は1952年10月1日に大蔵・通産両省から同時に発表された。契約書の署名から6か月余りである。これを受けて1953年2月26日の臨時株主総会で定款を改正し、4月30日にリミテッドが増資新株1,240万株の払込を完了して、資本金は6億2,000万円から12億4,000万円となった。新株の発行価格は1株60円、額面は50円で、払込総額は7億4,400万円である。5月26日の定時株主総会ではリミテッドの推薦する取締役7名と監査役1名が選任され、同日の取締役会で草野義一社長が留任した。新定款による委員会は日本軽金属側3名・リミテッド側3名で毎週1回開かれたが、意思決定の機関ではなく協議の場であった。同年6月には技術調査団が来日し、清水・蒲原の両工場と発電設備を約2か月かけて調査している[26][27][28][29][30][31]

狙いは資金ではなく、技術と原料

何を取りにいった提携であったかは、後年に当事者が語っている。松永義正副社長は1969年8月の講演で、原料ボーキサイトの確保を問われ、「17年前カナダのアルキャンと提携した主目的が技術向上と原料の確保にあつたので、原料確保に関する問題はまつたくない」(証券アナリストジャーナル 1969年7巻9号)と答えた。挙げられたのは増資で得た資金の使途ではなく、技術と原料の2点であった[32]

原料の確保という言葉は、抽象論ではなかった。同じ質疑で松永氏は、マレーシアとオーストラリアに日本軽金属とアルキャンの共同の鉱区を持ち、アルキャンがフィジー島に所有していた鉱区を譲り受けて日本軽金属・昭和電工・住友化学の3社で共同開発することになっていると説明している。ボーキサイト資源そのものは無尽蔵といわれるほどあるが、国際的な企業が資源を独占する傾向に問題があるとも述べた。資源を握る側と資本でつながることが、提携の実質であったとみられる[33][34]

資金の側から確かめても同じ結論になる。認可された借入枠は6億4,500万円、年利5分5厘・8年償還で、申請時の説明では長期負債の返済に充てる予定であった。ところが、この借入は一度も実行されないまま、1954年6月末の借入期限を過ぎている。リミテッドが拒んだのではなく、日本軽金属の都合による。契約の起案から払込までの2年余りのあいだに、1951年9月の第二次資産再評価で23億円以上の再評価積立金を計上し、朝鮮動乱以後の販売増で社内留保も積み上がって、資金事情が好転したためである。元利をドル払いとする契約であったから、実勢と離れた対米レート360円が改定されれば負担が重くなる、という懸念も重なった。実際には、リミテッドから受けた払込金7億4,400万円と自己調達資金4億3,700万円で、設備資金2億8,600万円をまかない、借入金8億9,500万円を返済している[35][36][37][38][39]

結果

当局が付けた2つの数値目標

認可の発表には条件が付いていた。大蔵・通産両省は1952年10月1日、この提携の結果としてボーキサイトを現状に比べ約1割5分安く入手できること、技術水準の向上により最小限度約1割5分の原単位の切下げが可能となることの2点を挙げた。前者は認可を得るまでの約半年のうちに、早くも実現している。リミテッドとの提携が発表されると、ビンタン鉱の独占的販売権を持つオランダのニベム社が代表者を日本に派遣して値引交渉を始め、1952年4月の申請時にトンあたりc.i.f.20.50ドルだった価格は、同年6月に13.75ドルへ下がった。認可の1年後、1954年11月にはf.o.b.6.20ドル、c.i.f.換算で約11.25ドルとなる。提携そのものではなく、提携が発表されたという事実が値を動かした[40][41]

後者には時間がかかった。1953年6月からの技術調査団が提出した報告と勧告のうち、比較的小資金で可能なものは直ちに実施へ移し、資金を多く要するものは研究を続けて順次実施した。技術者をリミテッド傘下の各社へ数次にわたって派遣し、最新技術を習得させてもいる。目標とした15パーセントの原単位切下げは1956年中に達成した。認可に付された2つの数字は、いずれも数年のうちに満たされたことになる[42]

販売の面にも効果が出た。1954年末に製錬3社が合計1万2,000トンの在庫を抱えて困っていたとき、リミテッドの世界各国にわたる販売網の援助で3,500トンをロンドン向けに輸出し、苦境を脱している。1955年5月から1957年1月にかけては、アルキャンのキチマット工場向けにアルミナ4万8,000トンを輸出した。量産によってアルミナの原価が下がり、アルミニウムの原価も大きく改善している。技術・原料・販売のどれをとっても、提携の効き方は資金以外の経路をたどった[43][44]

調査団の助言と、戦後最高の決算

調査団の調査は、有益な助言となって返ってきた。日本軽金属はそれに基づいて設備の改良を行い、業績は目に見えて上向いた。1953年度の生産高は2万5千トンを示し、売上高、純利益とも戦後最高の成績を収めている。1955年3月期の売上高は39億円であった。1952年度の2万4千トンから生産量の伸びは1千トンにとどまるので、この決算を押し上げたのは量よりも操業の中身の改善であったとみることができる[45]

資本金も続けて増えた。1954年5月、再評価積立金約73億3千万円のうち6億2千万円を資本に組み入れ、1株につき0.5株の無償交付を行って18億6千万円とする。同年11月にも積立金の一部を組み入れて0.1株の無償交付を行い、1955年5月には1割の無償交付により22億5,060万円とした。提携直前の6億2千万円から3年足らずで3.6倍に膨らんだ計算になる。資本の増加は、外資の払込に続いて自前の再評価差額からも進んだ[46]

業界のなかでの評価と、続いた関係

評価は社内の記録だけにとどまらない。戦後のアルミニウム製錬はドッジライン不況と朝鮮動乱ブームの紆余曲折を経て、各社とも年産5万トンを越えるところまで戻っていた。そのなかで、カナダのアルミニウム・リミテッドと提携した日本軽金属の発展はことに順調である、と同時代の業界概説は記している。提携から3年を経ずして、外から見ても差が付いたと読める書き方になっている[47]

技術と設備の改善は、その後の増強へつながった。日本軽金属は清水・蒲原両工場の設備能力を増強し、1958年には新潟工場を再開して、生産力を戦前の水準へ戻している。相手方との関係はここで終わらない。アルキャンは大株主として残り、1989年の時点でも日本軽金属は同社との提携関係を成長戦略の中心に置いていた。1952年に始めた資本の受け入れは、一度きりの技術導入ではなかった[48][49]

出典・参考

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