三菱石油米アソシエイテッド石油との折半出資による三菱石油の設立と、川崎製油所の建設

製品輸入にとどまるか、原油と技術ごと入れるか——出資も経営支配も五分五分と定めた基本契約

時期 1931年2月
意思決定者(推定) 三菱本社・三菱鉱業・三菱商事の3社
論点 外資との折半提携と、輸入販売から国内精製への進出
概要
昭和6年(1931年)2月11日、三菱本社・三菱鉱業・三菱商事の3社と米アソシエイテッド石油会社(のちのタイドウォーター・アソシエイテッド石油会社)が、出資と経営支配における完全な平等を根本原則として、資本金500万円で三菱石油を設立した経営判断。外資の原油と精製技術に、三菱の資本と販売網を折半で組み合わせた。
背景
三菱商事は大正13年からアソシエイテッド石油会社製品の一手販売権を得て輸入販売にあたっていたが、原油を輸入して国内で精製するほうが石油を国内産業として育てるうえで有利とみた。当時の国内は精製技術が幼稚で、原油だけでなく設備と技術をあわせて導入する必要があった。
内容
昭和4年に基本契約を締結し、6年2月に会社を設立。5年11月に着工した川崎製油所は6年末に完成し、戦前の原油処理量は日産9,500バーレルに達した。製品の販売は創立以来、三菱商事が一手販売店として引き受けた。
含意
戦後、財閥解体で設立時の株主だった三菱3社の持株は持株会社整理委員会が公開処分した一方、アソシエイテッド側は5度の増資すべてで新株の50%を引き受け、昭和26年9月には5名の取締役を送って戦前の提携を復活させた。平等原則は残り、日本側の当事者だけが入れ替わった。
筆者の見解

折半の設計と、その後の非対称

原油も精製技術も持たない側が、持っている側と対等の議決権を確保する。昭和4年の基本契約が定めたのは、そういう取り決めであった。三菱商事は大正13年から一手販売権を握り、輸入品の売り先を押さえていた。精製設備を用意できる外資と、販路を持つ商社が向かい合えば、どちらも相手なしには石油を国内産業にできない。折半という比率は、譲り合いではなく、持ち分が釣り合っていることの確認である。

釣り合いは長くは保たれなかった。財閥解体で三菱本社・三菱鉱業・三菱商事は持株会社の指定を受け、保有していた三菱石油株は公開処分に付されている。契約を結んだ日本側の当事者は、こうして株主の座から消えた。残ったアソシエイテッド側は5度の増資すべてで新株の半分を引き受け、昭和26年9月には5名の取締役を送り込んでいる。平等の原則だけが、それを結んだ日本側の当事者を欠いたまま残った。

Yutaka Sugiura, 2026年7月

背景

一手販売権から始まった石油事業

三菱商事の燃料部は、大正13年(1924年)に米国アソシエイテッド石油会社の製品について日本での一手販売権を得た。三菱石油の事業は、この輸入販売から始まっている。当時の国内市場には、明治期に進出した米スタンダード石油や英蘭シェル系のライジングサン石油が輸入と販売の攻勢をかけており、外国資本の石油会社は珍しい存在ではなかった。三菱の参入も、まずは外国製品を運んで売る商社の仕事であった[1][2]

三菱商事は、製品を輸入して売るだけの形にとどまらなかった。原油を輸入して国内で精製するほうが、石油を国内産業として育てるうえで有利であり、国民経済にも寄与するとみたためである。障害は技術にあった。当時の国内では精製技術が幼稚で、原油を運び込んでも処理する設備がない。原油だけでなく、設備と技術をあわせて外から導入しなければ、精製業は成り立たなかった[3]

灯油から重油へ、国防物資へ

大正から昭和初期にかけて、石油の用途は入れ替わっていた。電灯とガスの普及で灯油の比重が下がり、重工業と陸海運の発達につれてガソリン・重油・潤滑油の需要が伸びた。国産原油の産出は大正4年に戦後の水準を上回る量に達したものの、需要増をまかなえず、供給は早くから輸入に依存した。欧州大戦以後は石油の国防上の重要性が強調され、どこで精製するかは一商社の商売にとどまる問題ではなくなった[4]

精製と販売の担い手はといえば、大正10年10月に日本石油と宝田石油が合併して以降、日石の独占的な発展が続いていた。外国資本の会社も、明治33年に米スタンダード石油が設立したインターナショナル石油以来あったが、日石は明治40年に同社の新潟の全事業を買収している。外国資本は単独で市場に入り、国内業者はこれと競い、あるいはその事業を買い取った[5]

決断

「完全な平等」を根本原則に置いた基本契約

昭和4年(1929年)、三菱本社・三菱鉱業・三菱商事の3社は、アソシエイテッド石油会社との間で新会社設立の基本契約を結んだ。契約が根本原則に据えたのは、「出資並びに経営支配関係における完全な平等」であった。出資比率を折半にするだけでなく、経営の支配関係まで対等と定めた点に、この契約の特徴がある。これに基づき、昭和6年2月11日、資本金500万円で三菱石油が設立された[6][7]

折半という取り決めは、双方が持ち寄るものの違いを前提にしていた。米国側が出したのは原油と精製の設備・技術であり、三菱側が出したのは資本と、商社として築いた販路である。製品の販売は創立以来、三菱商事が一手販売店として引き受けた。精製は外資の技術で行い、売り先は三菱の販売網に載せる。役割は分けたうえで、支配だけは分けなかった[8]

消費地に置かれた川崎製油所

契約の成立とともに、製油所の建設が始まった。昭和5年11月、京浜運河の埋立地帯で川崎製油所が着工し、翌6年末に完成している。会社の設立が昭和6年2月であるから、建設の着手は会社そのものより3か月早い。その後の数次の増資で設備を広げた結果、戦前の原油処理量は日産9,500バーレルに達し、川崎製油所は当時もっとも完備した製油所と称された[9]

製油所は、油田ではなく消費地の側に置かれた。原油を産地から船で運び、消費地の近くで処理して売る。国内には日本海側の油田地帯に隣接して建てられた製油所がいくつもあり、川崎の立地はそれとは逆を向いていた。昭和6年の時点では、制度の裏づけも原油の安定した供給先もない。それでもこの置き方は、戦後に世界の石油産業が共通の方針として掲げ、日本も昭和25年から倣った消費地精製主義と重なっている[10][11]

結果

石油業法・戦時統合・製油所の喪失

昭和9年、石油業法が制定された。販売割当と価格公定で外国業者の輸入・販売攻勢が抑えられ、関税障壁で国内業者が保護される政策である。外資の圧迫から国内石油業を守る枠組みのもとでも、三菱石油は米国資本が入ったまま残った。戦争の拡大につれて精製部門の統合が進み、業界は8社に集約されるが、その一つは「米国外資の入っていた三菱」と記録されている[12][13]

太平洋戦争の激化とともに操業率は下がった。昭和20年7月、川崎製油所は徹底的な戦災を受けたまま終戦を迎えた。南方原油を処理するため宮崎県富島町に着手していた敷地約60万坪の製油所も、建設の途上で計画を放棄している。翌21年9月には連合軍が「太平洋沿岸製油所操業禁止」を指令し、10月に川崎製油所の諸施設は進駐軍に接収された。石油精製はまったく不可能になった[14]

靴ズミの副業から、提携の復活へ

精製を絶たれた数年間、会社は川崎製油所その他で進駐軍用石油の受払作業と貯油施設の復旧工事を受託し、この受託事業で経営を維持した。製油所は構内で何をすることも禁じられたため、各社はわずかな残存石油を使い、構外でポマードや靴ズミを作って仕事をつないだ。三菱石油も日本石油・丸善石油と並んでその副業に加わっている。東亜燃料工業は製塩と製氷、出光興産はラジオ修理に回った[15][16]

賠償問題に終止符を打ったドレーパー調査団のノーエル報告は、日本の製油施設を「小規模ではあるが、技術水準はまずまず」と評価し、所有者のうちすでにアメリカ業者と提携しているものがある点を挙げていた。昭和24年3月、三菱とタイドウォーターが外資提携契約を結ぶ。同年7月に総司令部が太平洋岸製油所の操業禁止を解き、三菱石油は川崎製油所の復旧に着手して、25年8月に精製を再開した[17][18]

平等原則は残り、日本側だけが入れ替わった

基本契約の原則は、戦時中を除いて忠実に守られた。戦後、日本側の情勢が変わってもアソシエイテッド側は平等原則による経営方針を崩さず、三菱石油が行った5度の増資すべてで新株の50%を引き受けている。昭和26年9月には日本側と同数の5名の取締役を送り出し、うち1名が副社長に就いた。資本構成も役員構成も日米折半に復し、戦前の提携がそのまま復活した[19]

一方、日本側の株主は入れ替わっていた。基本契約の当事者だった三菱本社・三菱鉱業・三菱商事の3社は財閥解体で持株会社の指定を受け、保有していた三菱石油株は持株会社整理委員会によって公開処分された。日本側の株主構成は著しく変わっている。解散した三菱商事の石油販売施設一切は三菱石油が引き継ぎ、昭和24年4月に元売業者の指定を受けて、旧三菱商事の石油部門の人員とともに自ら販売に立った[20][21]

出典・参考
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「三菱石油」
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「石油」
  • 日本産業史 第2巻 エネルギー・資源(日本経済新聞社、1994年)「石油-めざましい再建」

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