住友化学の起点は化学工業ではなく、別子銅山の公害処理にある。住友の事業は愛媛県の別子銅山の開発とともに始まり[1]、製錬所から出る亜硫酸ガスが周辺農地を傷め、住友本店は対応を迫られた。[2]ガスを回収して硫酸にすれば、原料として肥料が作れる。1913年9月、住友総本店は新居浜に肥料製造所を設け[3]、翌1914年から設備の試運転に入った。1915年10月から過燐酸石灰の出荷を始め[4]、1925年6月には資本金300万円の[5]株式会社住友肥料製造所として独立する[6]。公害解決と新事業を一体で立ち上げる発想は、当時の他社の合成化学とは出自が違っていた。化学工業が輸入特許や輸入原料から始まる業界構造のなかで、住友化学だけは自社銅山の副産物を出発点に据えた点が特徴である。
事業化の判断は速くなかった。硫酸と過燐酸石灰を自社でつくれば煙害を防ぎながら農家へ安い肥料を供給できる。梶浦鎌次郎が総本店へその意見書を出したのは1908年春で、総理事の鈴木馬左也を動かして「農鉱併進」の旗が立つまではよかったが、総本店が着手を決めるまでに3年を要している[7]。1913年9月22日、梶浦を支配人として肥料製造所が発足し[8]、1915年8月に硫酸工場の鉛室1基が動き、過燐酸石灰工場、配合肥料と続いて、初出荷は10月4日と決まった[9]。煙害という損失を新事業の原料に読み替える構想が、実際に動き出すまでには5年の距離があった。
住友化学にとって肥料は、原料である硫酸が先にあって生まれた事業だった。後の総合化学への多角化も、別子銅山という資源を起点に副産物を高付加価値化する住友本流の思想を引き継いでいる。硫酸から肥料、肥料からアンモニア、アンモニアから化成品へと、原料系列を一段ずつ下流へ広げる形で事業が積み上がった。戦後の石油化学進出にしても、原料を石炭から石油に差し替える発想で捉えれば同じ流れにある。110年後のラービグ・アサハン・シンガポールの海外石化もまた、原料立地を海外に求めたうえでの下流展開であり、出発点の思想そのものは形を変えて残り続けた。
肥料単独の事業はやがて頭打ちになる。硫酸と過燐酸石灰だけでは市場拡大が限られ、次の柱として国内自給率が低かったアンモニアに着目した。1928年10月、米ナイトロジェン・エンジニアリング社と合成法の技術契約を結び[10]、1930年12月にアンモニア工場が総合試運転に入って硫安の製造を始めた[11]。これでアンモニアを軸に硫安・硝酸・化成品全般へ広がる足場ができ、1934年2月に商号を住友化学工業へ変更した[12]。独立時に300万円だった資本金は、この社名変更の頃には2000[13]万円まで増えている。社名から『肥料』の文字が消え、化学工業会社のかたちが整った。原料一本足の肥料会社から、アンモニア誘導品を持つ総合化学会社へ、看板と実態の両方を書き換えた転換点だった。ここから住友化学は、原料系列を下流へ広げる多角化のパターンを身につけた。
アンモニアの合成に成功したのは国内で5番目にあたるが、コークスを原料に水性ガス変成法を用いた合成工場としては日本で最初だった[14]。住友の成功でコークス法の有利さが証明され、不況で石炭の滞貨に苦しんでいた事情も重なって、後に続いた合成事業の多くがこの方式を採る[15]。不況下に大事業を起こせば資金が要る。1930年3月、資本金は300万円から一挙に1,000万円へ増やされ[16]、配当は同年上期の5分を最後に、1932年上期まで4期続けて無配に落ちた[17]。煙害処理の副産物から出発した会社が、業界の技術標準を左右する側へ回った時期である。同時代の産業史も、住友の化学工業への進出が銅製錬の廃ガス処理から始まり、化学工業としての体系が整ったのは1936年のコークス炉建設からだと位置づけている[18]。
1944年7月には日本染料製造を合併し、染料・医薬品分野[19]へ踏み込んだ。同じ年の6月、住友本店は住友アルミニウム製錬の経営委託を受け[20]、アルミナからアルミニウムまでの一貫生産も傘下に入れた。翌1945年には尾崎染料化学工業所も合併し、染料事業[21]の裾野をさらに広げた。戦時統制経済のなかで財閥系各社の事業再編が進んだ時期でもあり、住友化学は肥料・有機化学・軽金属を抱える総合化学会社の輪郭を得た。肥料1本からスタートした会社が、硫酸・アンモニア・染料・医薬・軽金属までを含む5本足へ、わずか十数年で事業の幅を広げた格好である。戦時中という条件の下で拡張したため、設備の完成度や収益性はまちまちだったが、後年の石油化学参入に向けた化学技術者と生産現場の厚みは蓄積された。総合化学会社という自己定義もこの頃に固まった。
戦後は財閥解体の波に晒された。1946年2月、社名を日新化学工業へ住友色を薄め[22]、持株会社解体の対象からの離脱をはかった。1949年5月に東証・大証へ上場し[23]、12月には旧住友アルミニウム製錬から全設備を譲り受け[24]、アルミナからアルミニウムまでを社内で完結させる体制を築いた。1952年8月、サンフランシスコ講和条約発効[25]を受けて住友化学工業の社名に復帰した。社名変更から復帰までの6年は、財閥色の払拭と事業一貫性の維持を同時に迫られた時期で、住友本流の原料系列型の事業編成はほぼそのまま保たれた。戦後の混乱期に事業そのものを縮小しなかったことが、1958年のポリエチレン工業化への余力を残した。
社名を捨てる判断は住友本社の側から降りてきた。1945年11月、本社は解散にあたって、住友系各社は「住友」の名称を避けることを含む要綱を外部へ発表している[26]。住友化学が選んだ日新化学工業という名は、日々あらたまることを説いた『大学』の一節に典拠を求めたもので、敗戦の余燼から再起する意気を託していた[27]。1947年4月には公職追放で小林晴十郎社長らが退き、土井正治が社長に就く[28]。さらに過度経済力集中排除法のもとで分割を迫られたが、1949年4月15日、三井化学工業・三菱化成工業・東洋高圧工業・昭和電工とともに指定を取り消され、会社は割られずに済んだ[29]。
戦後復興期の住友化学は、肥料・染料・医薬・アルミという4本の足を持つ多角企業として立て直された。新居浜製造所(現在の愛媛工場)では1945年10月にアンモニア・硫酸アンモニウム設備を復旧して生産を再開し[30]、1948年にアルミニウム、1951年に苛性ソーダの生産も戻して塩化ビニール樹脂へ広げ、1955年には大型尿素設備の増設を終えた[31]。大阪製造所は染料・医薬品の生産を再開し、1950年に抗結核薬パスや抗ヒスタミン剤配合かぜ薬を上市[32]、西島工場ではピレスロイド系の家庭用殺虫剤ピナミン[33]を手がけた。農薬でも1953年にパラチオン、1954年にマラソンの技術を米サイアナミッド社から導入し[34]、後の農薬・殺虫剤の柱の土台を据えた。後の石油化学進出の前提となる生産・技術基盤も、こうして整えられた。
1958年5月、愛媛工場でエチレンと低密度ポリエチレンの生産[35]が始まった。英ICI社の高圧法を導入した日本最初の設備で[36]、住友化学は他社に先んじて石油化学に参入した。1962年11月にはイタリアのモンテカチーニ社からポリプロピレン技術を入れ[37]、1965年11月には千葉県市原市に住友千葉化学工業を設立する(1975年合併[38]、現在の千葉工場)。愛媛と千葉の2拠点にエチレン設備を構え、ポリエチレンとポリプロピレンという汎用樹脂の基本商品を揃えた形である。戦後の石油化学立ち上げ期において、原料調達から製品化までを海外ライセンスで一気通貫に組んだのは国内でも早い部類だった。
関東へ出たいという願いは長く叶わなかった。事業地が西日本に偏る「関西の住友化学」を「日本の住友化学」にするため、静岡・静浦で東京電力・アラビア石油と組む石油化学コンビナートが構想される[39]。ところが四日市の公害が社会問題化した余波で地元に反対運動が起こり、政治問題にまで発展した[40]。決定打は世論ではなく期限だった。新計画は1966年末までに操業へ入らねばならないという通産省の条件があり、これ以上の遅れは許されず、1964年12月に静浦を断念する[41]。代わりに住友金属工業が押さえていた姉崎の用地を譲り受け、1965年11月1日、資本金10億円の住友千葉化学工業が発足した[42]。
1970年1月に千葉でエチレン年産30万トンと誘導品コンビナートが完成し、住友化学は本格的な石油化学メーカーになった。同じ時期に農薬の低毒性有機リン剤スミチオン(1969年大分工場で生産)と[43]、家庭用殺虫剤のピレスロイド系ピナミン・ネオピナミンも世界市場へ広がった。エチレン生産と農薬・殺虫剤を並立させる、重い化学と軽い化学が併存する住友化学らしい事業構造の原型がここで作られた。汎用樹脂で原料バランスを取り、特殊化学品で利益を稼ぐ構造は、以後の総合化学会社のモデルにもなった。農薬・殺虫剤は1930年代のアンモニア合成で得た有機化学の技術蓄積を製品側へ応用した結果であり、原料系列型多角化のもう一つの成果だった。石油化学と特殊化学品の2軸を同時に育てた点は、国内化学メーカーのなかでも先行例である。
発端は原料価格の暴騰だった。1973年11月、石油精製各社は石油化学各社にナフサの供給削減と5割の値上げを通告し、1キロリットル6,000円だった価格は1万2,000円を超える[44]。在庫は積み上がり、エチレン業界は1975年1月から3月まで50%という前例のない減産に入った[45]。社史はこの不況を、それまでの数度の不況とは様相を異にする構造的なものと呼び、恒常的に利益を上げていたのは農薬と医薬品の2部門だけだったと記す[46]。1977年4月28日、長谷川周重の後を継いで土方武が社長に就く[47]。規模を追う経営から収益力重視への転換は、この交代とともに始まった[48]。
二度の石油危機で電力多消費のアルミ製錬が立ち行かなくなり、1976年7月に住友化学はアルミ事業を住友アルミニウム製錬として分離した[49]。1981年10月には同事業から撤退し[50]、1986年12月に同社を解散した[51]。同じ時期の1982年2月には、日本・インドネシアの経済協力事業として年産22.5万トン[52]のアサハン・アルミニウムが操業を開始した。国内では撤退、海外ではナショナルプロジェクトとして残すという相反する判断を、同じ時期に同時に下した形である。石油危機後の電力コスト上昇は国内製錬を事実上不可能にしたが、政府間協定を背負った海外案件からは抜けられなかった。戦後の重化学工業化を引き受けた会社が、経済合理性と国の要請の間で板挟みになる構図が、ここで表面化した。この矛盾は後のラービグ案件まで形を変えて持ち越された。
石化でも同じ構図が現れた。1983年1月に愛媛のエチレンを止めて千葉[53]に集約するのと並行して、1984年3月には日本・シンガポール経済協力事業として年産30万トンのシンガポール石油化学コンビナートを稼働[54]させた。住友化学は国の経済外交の受け皿として海外石化を引き受け続け、この姿勢が後にサウジ・ラービグへ繋がる。国内では能力縮減、海外では新設という非対称な意思決定は、収益判断というより政府案件の履行義務に近いものだった。1970年代から1980年代にかけての住友化学は、民間会社でありながら国家戦略の受け皿という二重の役回りを抱えていた。40年後に表面化する構造的赤字の原点は、すでにこの時期から仕組みとして埋め込まれていた。土方武は1981年、1985年末に完成するサウジアラビアの石化プラントによる供給過剰を警戒していた[55]。
1984年2月、稲畑産業との合弁で住友製薬を設立し、同年10月に医薬品事業を譲渡した[56]。研究開発費の規模が桁違いの医薬を総合化学の一部門として抱えるには無理があり、専業体制で世界と戦える形に組み替える判断だった。翌1985年3月、森英雄が社長に就く[57]。人事部長から関連事業部長、有機薬品部長を経た労務畑で、社内では「人事の森」と呼ばれた人である[58]。石油化学工業協会のポリプロピレン委員長として、各社の利害が正面からぶつかる構造改善事業をまとめる大役も引き受けていた[59]。設備処理を業界ぐるみで進める時代に、調整役の人材が社長に据えられた形である。
同じ頃、後に情報電子化学と呼ばれる領域の種も芽を出していた。住友化学が接着剤や塗料の材料でしかなかったエポキシ樹脂の研究に入ったのは1960年代後半で、当時これを手掛ける国産メーカーは他になかった[60]。狙いは半導体を包むパッケージ材だったが、最初の10年余りは事業として芽が出ず、それでも研究を止めなかった[61]。1980年代前半に半導体産業が急成長すると、量産性とコストの利点からセラミックス製パッケージを置き換えていく[62]。決め手は樹脂に残る不純物をどこまで減らせるかという製造技術の勝負で、この競争で先発の外国メーカーが次々に脱落した[63]。肥料から石油化学へ伸ばした原料系列とは別に、20年かけて育てた技術がここで表に出た。
1988年4月には米シェブロン・ケミカルとの合弁でベーラントU.S.A.コーポレーションを設立し、農薬の開発と販売の拠点を米国に置いた[64]。1992年には新規事業に選別基準を設け、40億〜50億円の売上高が見込める事業は続け、10億円以下の事業はやめると決める[65]。1994年4月には基礎化学・石油化学・精密化学・農業化学の4事業部門ごとに生産・販売・研究を一元化した[66]。この組み替えが効いたのは農薬だった。1997年3月期、石油化学が構造不況を抱えるなかで農業用化学品部門は単独の経常利益285億円の半分以上を稼ぎ、連結売上の1割余りで利益の3〜4割を占めていた[67]。もっとも農薬で国内最大手といっても世界では11位で、首位企業の売上高は住友化学の5倍以上あった[68]。
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|---|---|---|---|---|
| 1913〜1957年別子銅山の煙害対策から総合化学への拡大 | 新居浜に住友総本店肥料製造所を開設 | ★ | ||
| 過燐酸石灰の出荷を開始し営業開始 | ★ | |||
| 住友肥料製造所として独立新発足 | ★ | |||
| ナイトロジェン・エンジニアリング社からアンモニア合成法特許を導入 | ★ | |||
| 商号を住友化学工業に商号変更 | ★ | |||
| 日本染料製造を合併 | ★ | |||
| 日新化学工業に商号変更 | ★ | |||
| 東京・大阪両証券取引所に株式上場 | ★ | |||
| 旧住友アルミニウム製錬から全設備を譲り受けアルミ一貫生産開始 | ★ | |||
| 住友化学工業に商号復帰 | ★ | |||
| 1958〜1996年石油化学とナショナルプロジェクトの時代 | 愛媛工場でエチレン・誘導品の生産を開始 | ★★ | ||
| モンテカチーニ社からポリプロピレン技術を導入 | ★ | |||
| 中央研究所(高槻)を設置 | ★ | |||
| 住友千葉化学工業を設立 | ★ | |||
| 低毒性有機リン剤スミチオンを大分工場で大型生産開始 | ★ | |||
| 宝塚総合研究所を新設 | ★ | |||
| 住友アルミニウム製錬を設立 | ★ | |||
| 土方武が代表取締役社長に就任 | ★ | |||
| 三沢工場の操業開始 | ★ | |||
| インドネシア・アサハン・アルミニウム操業開始 | ★ | |||
| 愛媛工場のエチレンプラント等を休止し千葉工場へ生産集中 | ★★ | |||
| 住友製薬を稲畑産業との間で設立 | ★★ | |||
| シンガポール石油化学コンビナート操業開始 | ★★ | |||
| 森英雄が代表取締役社長に就任 | ★ | |||
| シェブロン・ケミカル社とベーラントU.S.A.コーポレーションを設立 | ★ | |||
| 基礎化学・石油化学・精密化学・農業化学の4事業部門制に再編 | ★ | |||
| 1997〜2010年「内なる国際化」と三井との破談、ラービグへの賭け | 三井東圧化学とポリスチレン事業を統合し日本ポリスチレンを設立 | ★ | ||
| アクリル酸・MMAプロジェクト操業開始 | ★ | |||
| 米倉弘昌 | 米倉弘昌が代表取締役社長に就任 | ★ | ||
| 米倉弘昌 | 三井化学とのポリオレフィン統合会社 三井住友ポリオレフィンが営業開始 | ★ | ||
| 米倉弘昌 | 三井化学と住友化学の経営統合(2003年破談) 2000年に発表された三井化学と住友化学の全面的事業統合。実現すれば三菱化学を抜き国内最大級の総合化学会社が生まれるはずだったが、2003年3月に統合比率で折り合えず白紙撤回された。 詳細を読む | ★★★ | ||
| 米倉弘昌 | サウジ・アラムコとの折半合弁による石油精製・石油化学統合コンプレックス「ラービグ」への進出 2004年5月、住友化学の米倉弘昌社長は、世界最大の産油国サウジアラビアの国営石油会社サウジ・アラムコと折半出資で合弁を設け、紅海岸ラービグに石油精製・石油化学の一貫コンプレックスを建設する覚書に調印した。総投資額43億ドル(約4,700億円)規模の海外石化進出で、三井化学との統合が破談した直後の単独路線を象徴する判断であった。 詳細を読む | ★★★ | ||
| 米倉弘昌 | 商号を住友化学に変更、本店を移転 | ★ | ||
| 米倉弘昌 | 住友製薬と大日本製薬が合併し大日本住友製薬発足 | ★★ | ||
| 米倉弘昌 | 初の連結純損失を計上 | ★★ | ||
| 廣瀨博 | 廣瀨博が代表取締役社長に就任 | ★ | ||
| 2011〜2026年高付加価値3軸の同時失速と創業以来最悪の赤字 | 十倉雅和 | 精密化学部門を廃止・再編、農業化学部門を健康・農業関連事業部門に商号変更 | ★ | |
| 十倉雅和 | 十倉雅和が代表取締役社長に就任 | ★ | ||
| 十倉雅和 | 連結純損失を計上 | ★ | ||
| 十倉雅和 | 基礎化学・石油化学部門を再編 | ★ | ||
| 岩田圭一 | 岩田圭一が代表取締役社長に就任 | ★ | ||
| 岩田圭一 | 大日本住友製薬が欧州ロイバント社と戦略的提携 | ★ | ||
| 岩田圭一 | 短期集中業績改善策と聖域なき抜本的構造改革を発表 | ★★ | ||
| 岩田圭一 | 巨額の最終赤字を計上 | ★ | ||
| 岩田圭一 | 過去最大の赤字を受けた抜本的構造改革と資産圧縮による再建 石油化学と医薬品の同時不振を受け、資産売却・在庫削減・投資厳選による短期集中の業績改善策と、汎用品依存を断つ抜本的な構造改革に踏み切った再建判断であった。 詳細を読む | ★★★ | ||
| 水戸信彰 | 水戸信彰が代表取締役社長に就任 | ★ |
免責事項およびポリシー
事実根拠:出所(住友化学)