三井化学と住友化学の経営統合
2003年破談国内最大の総合化学会社を生むはずだった「世紀の大統合」は、なぜ統合比率と経営方針で白紙撤回されたのか?
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- 概要
- 2000年に発表された三井化学と住友化学の全面的事業統合。実現すれば三菱化学を抜き国内最大級の総合化学会社が生まれるはずだったが、2003年3月に統合比率で折り合えず白紙撤回された。
- 背景
- 石化の国内縮小・輸入関税引き下げ・アジア勢の台頭という逆風下、規模拡大による競争力強化を狙った再編。三井・住友は金融に続く「強者連合」と期待された。
- 内容
- 03年10月に共同株式移転で持株会社「三井住友化学」を設立し、04年3月末に三社を吸収合併する計画。だが「対等の精神」と資本の論理が衝突し、最重要条件の統合比率で見解の隔たりが埋まらなかった。
- 含意
- 独禁法はクリアできても、統合比率という条件面と、対等か主導かをめぐる経営方針・企業風土の差が決め手となった。摩擦の先送りが破談を招いた、対等合併の難しさを示す事例である。
条件面より、合意形成の土台
この破談で前面に出たのは、独占禁止法のような外部のハードルではなかった。公正取引委員会の審査は対応策を前提にクリアの見通しが立っており、統合を止めたのは統合比率という条件面と、その背後にある「対等か主導か」をめぐる経営方針・企業風土の差であった。事業ポートフォリオが噛み合わない両社が、相手にしかない事業をどう評価するかで折り合えなかった点は、商品が似通う金融や保険の統合とは異なる、総合化学ならではの難しさを映しているとみられる。
もう一つの教訓は、摩擦の先送りである。「対等の精神」という理念は、時価総額に倍近い差がある両社にとって、当初から同床異夢の種を抱えていた。トップ人事や制度設計で妥協を重ねながら、最も難しい統合比率の交渉を後回しにした結果、交渉が長引くうちに株価が動き、力関係そのものが変わってしまった。破談それ自体を失敗と断じる材料は乏しく、当事者が一緒にやっていけないと判断したのなら白紙撤回は次善の選択だったとの見方もある。条件が整う前に合意形成の土台を欠いたまま走り出した大型統合の難しさを、この事例は今に伝えているのだろう。
統合の背景
マクロ環境——縮む国内石化と迫る再編
2000年前後の国内化学産業は、構造的な転機を迎えていた。国内市場が人口・需要の頭打ちで縮小に向かうなか、石油化学製品の輸入関税は段階的に引き下げられ、低価格の中東品やアジア品の流入拡大が見込まれた。コスト競争力を高めた韓国・中国・中東勢との競合が激しさを増し、汎用樹脂のような装置産業では規模が収益力を左右する[1]。エチレンやポリエチレンの分野では、4千億円規模の市場に多数のメーカーがひしめき[2]、過当競争と供給過剰が常態化していた。1994年の三菱化学誕生に象徴される大型再編の流れのなかで、各社は規模拡大による競争力強化を迫られていたとされる。
ミクロ環境——重なる石化と、重ならない事業
三井化学と住友化学は、いずれも石油化学を主力とする総合化学メーカーだが、その事業構成には差があった。三井化学は1997年に三井石油化学工業と三井東圧化学が合併して発足した会社で、石油化学・基礎化学・機能材料を柱とする。これに対し住友化学は、石化に加えて医薬・農薬といったライフサイエンス事業を持ち、収益源が分散していた。主力の石油化学では事業が重複する一方、医薬・農薬のように一方しか手がけない領域も少なくない[3]。この「重なる事業」と「重ならない事業」の併存が、のちに統合比率を算定する際の評価の難しさにつながったとみられる。
統合の発端
公表経緯——金融に続く「世紀の大統合」
構想の起点は1990年代末にさかのぼる。報じられたところでは、三井化学の幸田重教会長(当時)が住友化学に統合を申し入れ[5]、両社は協議に入った。そして2000年11月17日、両社は「事業統合に関する基本合意書」を締結し[4]、「21世紀の化学産業におけるグローバルリーダー」を目指して、2003年10月を目処に両社の事業を全面的に統合することで基本合意したと発表する。前年に旧住友銀行と旧さくら銀行の統合(三井住友銀行)が動き出していたこともあり、三井・住友グループの「強者連合」、日本では数少ない対等合併として注目を集めた。
統合を託された二人のトップ
統合交渉を担ったのは、対照的な経歴を持つ二人の経営者だった。三井化学の中西宏幸社長は、1997年10月の三井石油化学工業と三井東圧化学の合併を実務で牽引し[6]、発足後はリストラの旗を振ってきた合理派である。三井石化時代には予算管理課で製造設備の維持経費を140億円から70億円へと半減させた[7]実績を持ち、「予算削減や作業期間の短縮で10%や20%変えても効果は薄い。半減させるとなると、やり方を根本から見直さなければならない。そこに活路がある」[8]と語っていた。三井化学の1999年3月期の連結売上高は8559億円で、1兆円を超える三菱化学や旭化成工業に比べると規模で見劣りし[9]、規模のメリットを追って合併したものの、次は収益性を重視した「選択と集中」に取り組む必要があると自覚していた。この規模志向と合理化の手腕こそが、住友化学との経営統合構想へ向かう素地となっていた。
迎える住友化学の米倉弘昌社長は、2000年に就任したばかりの「エース」だった。経営企画畑を中心に歩み、米国留学とニューヨーク駐在を経て、インドネシアやシンガポールでの合弁事業の立ち上げや不採算子会社の再建に携わってきた[11]事業再構築の実力者である。前任の香西昭夫会長は米倉を指名して「いよいよ剛速球のエースが登板する」[10]と持ち上げた。欧米で化学業界の大再編が進み、アジア勢も急成長するなか、米倉は「世界的に見れば規模は小さいが、エチレンなど基礎汎用品から農薬や半導体材料、ライフサイエンスまで手掛ける総合化学の道は捨てない」[12]と、総合化学メーカーとしての路線を鮮明にしていた。合併で規模を追った合理派の中西と、総合路線に自負を持つ再構築のエース米倉——この二人が、翌年からの統合交渉で「対等」と事業評価をめぐって向き合うことになる。
発表直後の論調——「相乗効果」か「力分散」か
統合発表の熱気の一方で、専門誌はその戦略に冷静な問いを投げかけていた。両社は記者発表資料で「世紀のグローバルリーダーを目指す」と大見得を切ったが、住友化学の米倉弘昌社長は後日、「あれは少し言い過ぎ。リーダーたちの仲間入りをする、ということです」[13]とトーンを落としている。両社のキャッシュフローを単純合計すれば業界で世界の上位に躍り出るものの、首位の欧米大手との差はなお大きく、得意技を磨かずに規模だけを追えば「横綱相撲を取ろうとして勝てない大関」[14]になりかねない、との懸念も示された。
記事が突いたのは、統合後の事業戦略そのものだった。三井化学の中西宏幸社長は統合の狙いを「石油化学事業で安定的にキャッシュフローを稼ぎ、高収益が見込める医薬、農薬など特殊化学分野に投入する」[15]と説明したが、基礎石化・農薬・医薬という三つの分野を同時に追えば、潤沢とは言い切れないキャッシュフローが分散し、それぞれが中途半端になりかねない——というのが記事の見立てである。統合すればエチレンやポリプロピレンの国内シェアは三菱化学などを抜いて首位に立つ[16]一方、世界では両社合計でポリプロピレン165万トンにとどまり[17]、上位の欧米合弁には及ばない。住友化学が主導権を握る医薬・農薬でも競争は激烈で、米倉社長は「医薬と農薬は研究開発で共通する技術が多く、どちらかを手放す気はない」[18]と総合路線を崩さなかった。相乗効果を狙う統合が、かえって力の分散を招きかねない——タイトルに掲げられたこの問いは、のちの破談を待たずに当時から投げかけられていた。
描かれた青写真——新会社「三井住友化学」
統合の青写真は具体的だった。2001年4月19日、両社は全面統合の方式を発表する。新会社の名称は「三井住友化学株式会社」、本店は東京都港区(汐留シティセンターを予定)とし、2003年10月1日に共同株式移転により持株会社を設立したうえで、2004年3月末に持株会社が三井化学・住友化学・三井住友ポリオレフィンを吸収合併し、単一会社となる[19]二段階方式が示された[21]。新会社には石油化学・基礎化学・機能樹脂・機能化学・情報電子化学・農業化学・医薬の7つの社内カンパニーを置く構想で、統合会社の2006年度目標として売上高3兆円・経常利益2,500億円が掲げられた[20]。実現すれば三菱化学を抜き、国内最大級の総合化学会社が生まれるはずであった。
先行統合——三井住友ポリオレフィン
全体統合に先立ち、ポリオレフィン事業の統合が先行した。両社は2002年4月、汎用樹脂(ポリエチレン・ポリプロピレン)の販売・研究を担う合弁会社「三井住友ポリオレフィン株式会社」を発足させる。資本金は70億円、出資比率は三井化学・住友化学が50対50[22]で、生産は両親会社に委託する形をとった。統合シナジーを早期に発揮するための布石であり、発足時点で国内シェア3割の最大手となったとされる[23]。全面統合の試金石として、まず一事業で「対等」の合弁を走らせたかたちであった。
統合の経過
独禁法のハードル——むしろ越えられた壁
統合にあたり、競争当局の審査は当然のハードルとなった。公正取引委員会は、両社の合算シェアが高くなるアニリン、レゾルシン、TDI、MDI、EPDM、変性PPE樹脂など9品目を重点的に審査する。アニリン等の一部品目では「有効な牽制力を有する競争事業者が存在せず、輸入圧力が十分に働いているとはいえない」と問題を指摘したが、両社がコストベースでの引取権の設定や貯蔵タンクの提供といった対応策[25]を申し出たことで、当局は「申し出た対応策等が履行されれば、各取引分野における競争を実質的に制限することとはならない」と判断した[24]。独占禁止法上の壁は、条件付きながら越えられる見通しが立っていたのである。
統合比率——埋まらなかった事業評価の溝
最後まで決着しなかったのが、最重要の統合条件である統合比率であった。両社は株価、資産の時価評価額、将来の収益力をみる割引現金収支(DCF)の3つを指標に協議を続けたが[26]、見解の相違を埋めることができなかった。とりわけ難航したのは、相手にしかない事業の評価である。三井化学の子安龍太郎専務は「自社が手がけない事業についての互いの評価の食い違いが大きかった。同じような商品を扱う銀行、保険業界などとは事情が違う」[27]と振り返ったと報じられている。住友化学は医薬・農薬の将来性や資産価値の高さを主張し、三井化学はアジアで展開する合成繊維原料事業などの競争力を織り込むべきだと反論した。事業ポートフォリオが噛み合わないがゆえに、共通のものさしを見いだせなかった。
「対等」をめぐる主導権争い
統合比率の対立の底には、「対等の精神」と「資本の論理」の衝突があったとみられる。2000年の合意文には「対等の精神で」という文言が盛り込まれたが、時価総額では住友化学が三井化学の倍近かった[28]。三井化学は文字通りの対等にこだわり、対等の証しとして共同最高経営責任者(CEO)制を提案したが、住友化学はこれを拒否した[29]と報じられている。統合会社の社長には住友化学の米倉弘昌社長、会長には三井化学の中西宏幸社長が就く方向となったが、三井側は会長と社長の決裁権限を同等にすることを再提案して認めさせた。一方で住友化学は、年功序列色の強かった三井の人事・賃金制度を成果主義に改めるよう求めて合意を取り付ける。三井社内では「飲み込まれる」という不安が高まっていったとされる。
交渉が長引くうちに、両社の力関係そのものが変わっていく。三井化学は石油化学に加えアジア事業の拡大で収益を伸ばし、株価は2002年以降、住友化学より1割ほど高い水準で推移した。発表当初は住友主導で進んだ交渉だが、株価でみれば概ね三井1対住友0.9と、序列が逆転しかねない状況が生じる[30]。住友側は当初1対1を求めたものの、最終的には株価平均の水準まで譲歩したとされる。だが、その間に住友化学の米倉社長の「住友は単独でも十分にやっていける」といった発言が相次いで報じられ[31]、三井の経営陣の間で「そこまで言う相手と統合する必要があるのか」との反発が強まっていた。住友側の譲歩は時すでに遅く、吸収への不安を募らせた三井はもはや歩み寄らなかったと報じられている。
白紙撤回——2003年3月31日
2003年3月31日、両社はそろって「事業統合の見送りについて」を発表する。リリースは、2000年11月の基本合意以来、事業統合検討委員会のもとで精力的に準備・検討を重ねてきたとしたうえで、「最も重要な統合条件である統合比率に関しては、本年6月の定時株主総会付議を目指し、双方誠意を尽くして協議を継続してきましたものの、両社の見解の隔たりが埋まらず、ここに至り、双方の株主の皆様にご納得いただける最終的な合意を得ることはできないとの結論に達しました」[32]と記した。6月の株主総会に付議するには3月末がタイムリミットであり、そこまで調整を続けた末の断念であった。同日緊急会見した両社長は、見送りの理由を「統合比率をめぐって意見の一致ができなかったこと」と説明している[33]。
世界市場で存在感のある三井化学グループをつくることが当面の責任だ
統合の帰結
その後——合弁解消と単独路線
全体統合の中止は、先行していた合弁にも及んだ。2003年8月19日、三井化学は住友化学とのポリオレフィン合弁会社・三井住友ポリオレフィンを、同年10月1日をもって解消することで合意したと発表する。リリースは「本年3月の全体統合見送り決定以降、同社の今後の運営について、両社で協議を重ねてまいりましたが、今般、両社がそれぞれ独自の事業戦略に基づき、ポリオレフィン事業を推進することで合意し、円満裏に合弁を解消することとなりました」[34]と説明した。両社は販売・研究機能を各親会社に戻し、それぞれ単独で事業を運営する道を選ぶ。三井化学は「強い三井化学グループ」を、住友化学は単独での競争力強化を、それぞれ掲げ直した。
破談は業界にも波紋を広げた。連結売上高2兆円規模で欧米大手に対抗できる化学メーカーの誕生が幻に終わり、石油化学再編の「核」が失われたことで、新たな業界再編の可能性も語られた。基本合意から破談まで2年4カ月[35]。役員からは「せめて1年前に断念すれば良かった」とのため息が漏れたと報じられている。両トップが「最後は折り合えるはず」と過信し、本音のぶつけ合いを先送りした結果[36]、トップ人事などで重ねた妥協が双方に不満を蓄積させ、最後の統合比率交渉で爆発したというのが実情に近いとされた。同じころ帝人と杏林製薬の医薬事業統合も白紙撤回となり、日本企業の「対等合併」のつまずきが目立つ局面でもあった。
- 三井化学株式会社・住友化学工業株式会社 ニュースリリース(2003年3月31日)「事業統合の見送りについて」
- 三井化学株式会社・住友化学工業株式会社 ニュースリリース(2001年4月19日)「三井化学および住友化学の全面的統合について」
- 三井化学株式会社 ニュースリリース(2003年8月19日)「住友化学とのポリオレフィン合弁事業の解消について」
- 公正取引委員会(平成14年度:事例6)「三井化学(株)及び住友化学工業(株)の統合について」
- 日本経済新聞 2003年4月1日「三井・住友化学 統合白紙に 株式比率溝埋まらず」
- 日本経済新聞 2003年4月6日「『三井・住友化学』破談の教訓 本音の交渉」
- 日本経済新聞 2003年4月30日「検証 化学統合破談 三井・住友 思惑すれ違い」
- ダイヤモンド・オンライン 2021年12月「住友化学と三井化学『世紀の大統合』破談の全内幕、白紙撤回の原因となった“序列逆転”とは?」
- 「日経ビジネス」2001年1月1日号 No.1072「化学世界戦に挑む住友・三井化学 相乗効果狙うが、3兎追うと力分散も」(日経BP)
- 「日経ビジネス」1999年8月16日号 No.1003「中西宏幸氏[三井化学]登場 合併手がけた合理派、攻めの助走急ぐ」(日経BP)
- 「日経ビジネス」2000年10月2日号 No.1060「米倉弘昌氏[住友化学工業]新社長 エース登板、大再編時代に挑む」(日経BP)