三菱化学 の歴史

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創業 1934年
母体 三菱鉱業+旭硝子の折半出資
創業地 東京都
創業
1934年8月1日、三菱鉱業と旭硝子が折半出資して日本タール工業を設立し、翌1935年10月に黒崎工場でコークス炉の副産物の処理を始めた。1936年10月に日本化成工業、1944年4月に旭硝子を合併して三菱化成工業と商号を改め、戦時統制のもとで三菱系の化学各社が1社へ集約された。1950年6月、企業再建整備計画により繊維部門は新光レイヨン、硝子部門は旭硝子として分離され、化学工業部門を継ぐ日本化成工業が売上高37億3,000万円で再発足して東京証券取引所へ上場した。1952年7月に三菱化成工業へ復名している。
決断
新しい原料が現れるたびに、本体の外へ別会社を建てて試してきた。1956年4月の三菱油化はシェルとの共同出資で本体の外に置き、自社では1953年に東邦化学工業を合併して四日市のカーバイド化学へ、1964年7月に水島の石油化学へ入っている。1971年6月に三菱化成生命科学研究所を設立したのも同じ形で、営利から切り離した基礎研究所を別法人として持ち、最初の自社医薬品が出たのは13年後の1984年だった。1990年には光磁気ディスクの量産設備を新設して米バーベイタムを買収したが、記録メディアの世代交代は速く、投資を回収できなかった。
現況
上場を失ってから法人が消えるまでに、11年半の開きがあった。2005年10月、三菱ウェルファーマとの株式移転による三菱ケミカルホールディングスの設立によって完全子会社となり、55年続いた上場が終わった。最後の本決算となる2015年3月期の連結売上高は1兆9,430億円で、1967年度に売上高1,218億円で同業最大となってから半世紀の到達点である。2017年4月1日、三菱樹脂・三菱レイヨンとの合併で三菱ケミカルが発足し、三菱化学の名は事業とともにその内側へ移った。
競合
同じ総合化学でも、規模を足す相手を系列に求めるか外に求めるかで分かれた。三菱化学は1994年に系列の三菱油化と合併して三菱化学が発足し、世界9位の規模を得たが、合併後も利益は上がらなかった。三井化学と住友化学は2000年に統合を発表したものの、統合比率で折り合えず2003年に破談となった。三菱化学が選んだのは汎用樹脂を自社の外へ出す道で、2001年6月に昭和電工など4社とポリオレフィン事業を統合した。系列内で足せる規模を先に足し終えていたことが、次の規模を他社との共同出資でしか作れない位置へ追い込んだ。

設立ストーリー 日本タール工業から三菱化成工業へ ── 財閥の化学部門として (1934年〜)

日本タール工業から三菱化成工業へ ── 財閥の化学部門として

コークス炉の副産物から始めた折半出資会社

三菱化学の淵源は、1934年8月1日に三菱鉱業と旭硝子が折半出資して設立した日本タール工業株式会社にある[1]。出資者の顔ぶれがそのまま事業の中身を説明している。三菱鉱業は石炭を掘り、コークス炉からタールを出す。旭硝子はソーダ工業を持ち、化学品の使い手でもある。両社が半分ずつ金を出して作ったのは、そのタールを原料に染料や医薬中間体を作る石炭化学の会社だった。翌1935年10月に黒崎工場が操業を始め、1936[2]年10月には日本化成工業株式会社に商号を変えている。黒崎の石炭化学が、その後の20年にわたって収益の柱であり続けた[3]

  • 三菱化学 有価証券報告書 第21期(2015年6月24日提出)【沿革】
    • [1]1934年8月に三菱鉱業と旭硝子の折半出資により日本タール工業株式会社が設立された
    • [2]1935年10月に黒崎工場が操業を開始し、1936年10月に日本化成工業株式会社へ商号変更した
  • 『企業の歴史 明治百年』(1968年)「三菱化成工業」
    • [3]黒崎工場の石炭化学を主軸に発展した

日本タール工業が発足した1934年は、日本の経済が戦時体制へ移る時期と重なった。化学工業の戦後史が硫安の復興から始まったように[4]、戦前戦中の化学工業もまた肥料と軍需に強く引かれる産業だった。日本化成工業も例外ではなく、黒崎工場でアンモニアを合成し、肥料と染料の両方を扱っている。ただし、出発点がコークス副産物だったことは後まで効いた。石炭化学と肥料という二つの既存事業が[5]、1960年代の石油化学投資を支える資金源になったからである。石炭を掘る会社と硝子を作る会社が半分ずつ出した資本から始めた事業が、20年後には石油を原料とする装置産業へ資金を送り出す側に回った。

  • 日本産業史 第2巻(日本経済新聞社、1994年)「化学-肩で風切る肥料」
    • [4]戦後日本の化学工業の再出発は化学肥料工業、なかでも硫安工業の復興から始まった
  • 証券アナリストジャーナル 1976年12月号(常務取締役 藤井芳郎)
    • [5]石炭化学および肥料の二つの事業がその後の石油化学の発展を支える基礎になった
  • 三菱化学 有価証券報告書 第21期(2015年6月24日提出)【沿革】
    • [1]1934年8月に三菱鉱業と旭硝子の折半出資により日本タール工業株式会社が設立された
    • [2]1935年10月に黒崎工場が操業を開始し、1936年10月に日本化成工業株式会社へ商号変更した
  • 『企業の歴史 明治百年』(1968年)「三菱化成工業」
    • [3]黒崎工場の石炭化学を主軸に発展した
  • 日本産業史 第2巻(日本経済新聞社、1994年)「化学-肩で風切る肥料」
    • [4]戦後日本の化学工業の再出発は化学肥料工業、なかでも硫安工業の復興から始まった
  • 証券アナリストジャーナル 1976年12月号(常務取締役 藤井芳郎)
    • [5]石炭化学および肥料の二つの事業がその後の石油化学の発展を支える基礎になった

戦時に一つになり、1950年に三つに割れた

戦時統制のもとで、三菱系の化学関連会社は日本化成工業に集約された。1942年に新興人絹を合併し[6]、1944年4月には旭硝子を合併して三菱化成工業株式会社[7]と商号を改めている。この時点で一つの法人の中に、化学、繊維、硝子の三つの事業が同居していた。1946年2月には全額出資で長浜ゴム工業を設立し[8]、樹脂加工の部門も抱えている。三菱系の化学関連事業が一つの法人に束ねられていた期間は、敗戦をまたぐこの6年しかない。統合の理由は経営判断というより戦時統制にあり、原料も労働力も配分される側の会社にとって、法人を一つにまとめるのは要請に従うことでもあった。束ね方が事業の論理から出ていないため、統制が解けたときに束ねたままでいる理由も残らなかった。

  • 証券アナリストジャーナル 1976年12月号(常務取締役 藤井芳郎)
    • [6]1942年に新興人絹(現三菱レイヨン)を合併した
  • 三菱化学 有価証券報告書 第21期(2015年6月24日提出)【沿革】
    • [7]1944年4月に旭硝子株式会社を合併し三菱化成工業株式会社と商号変更した
    • [8]1946年2月に全額出資の長浜ゴム工業株式会社(現三菱樹脂株式会社)を設立した

束ねたものは、6年後に解かれた。1950年6月、企業再建整備計画にもとづいて繊維部門は新光レイヨン[9]株式会社として、硝子部門は旭硝子株式会社として分離され、化学工業部門を継承した会社が日本化成工業株式会社の名で発足した。有価証券報告書の【沿革】はこの三分割を法人の連続の中に置いており、1934年の日本タール工業から数えて途切れのない一本の系譜として記している。同じ月に東京証券取引所へ株式を上場した[10]。分離された二社が三菱レイヨンと旭硝子であり[11]、1946年に設立した長浜ゴム工業が三菱樹脂になる。1950年に散らばった三菱の化学関連会社のうち、三菱レイヨンと三菱樹脂は67年後に三菱化学と再び一つになる。

  • 三菱化学 有価証券報告書 第21期(2015年6月24日提出)【沿革】
    • [9]1950年6月、企業再建整備計画により繊維部門は新光レイヨン、硝子部門は旭硝子として分離し、化学工業部門を継承して日本化成工業株式会社が発足した
    • [10]1950年6月に東京証券取引所へ株式を上場した
  • 証券アナリストジャーナル 1976年12月号(常務取締役 藤井芳郎)
    • [11]1950年の分割はレイヨン・ガラス・化学の3部門に分けるものだった
  • 証券アナリストジャーナル 1976年12月号(常務取締役 藤井芳郎)
    • [6]1942年に新興人絹(現三菱レイヨン)を合併した
    • [11]1950年の分割はレイヨン・ガラス・化学の3部門に分けるものだった
  • 三菱化学 有価証券報告書 第21期(2015年6月24日提出)【沿革】
    • [7]1944年4月に旭硝子株式会社を合併し三菱化成工業株式会社と商号変更した
    • [8]1946年2月に全額出資の長浜ゴム工業株式会社(現三菱樹脂株式会社)を設立した
    • [9]1950年6月、企業再建整備計画により繊維部門は新光レイヨン、硝子部門は旭硝子として分離し、化学工業部門を継承して日本化成工業株式会社が発足した
    • [10]1950年6月に東京証券取引所へ株式を上場した

石炭化学から石油化学へ ── 総合化学首位の形成

石油化学は別会社に置いた ── 1950年代の設計

1950年に再発足した日本化成工業は、売上高37億3,000万円、資本金2億5,000万円、総資産77億円、従業員5,700名余[12]で始まっている。ここから26年で売上高は83倍、総資産は98倍になるが、従業員は1.7倍にしか増えていない。1952年1月に塩化ビニル部門を分離して米国モンサント社と三菱モンサント化成を設立し、同年7[13]月に三菱化成工業株式会社へ商号を戻した。1953年7月には東邦化学工業を合併して四日市工場とし[14]、カーバイドを起こしてアセチレン化学へ進んでいる。石炭から出発した会社が、まずカーバイドで有機合成の裾野を広げた。

  • 証券アナリストジャーナル 1976年12月号(常務取締役 藤井芳郎)
    • [12]1950年の発足当初は売上高37億3,000万円、資本金2億5,000万円、総資産77億円、従業員5,700名余だった
    • [13]1952年1月に塩ビ部門を分離し米国モンサント社との共同出資で三菱モンサント化成を設立、同年7月に三菱化成工業へ商号変更した
  • 三菱化学 有価証券報告書 第21期(2015年6月24日提出)【沿革】
    • [14]1953年7月に東邦化学工業を合併し四日市工場としてカーバイド化学へ進出した

1956年4月、三菱グループとシェル社グループの共同出資により三菱油化株式会社が設立[15]された。石油化学を自社の一部門として抱えるのではなく、別法人として立ち上げた点が、この時期の三菱化成工業の設計を最もよく表している。三菱化成工業は塩化ビニルをモンサントとの合弁に、石油化学を三菱グループとシェル社グループの共同出資会社に置き、自社には石炭化学、肥料、そしてのちのアルミニウムを残した。合弁を通じて外国技術を導入しつつ本体の財務を守る組み立てである。ただし、この設計は自社の石油化学が二本立てになるという結果も生んだ。1964年に三菱化成工業自身が水島で石油化学[16]に乗り出したことで、三菱系のエチレンセンターは三菱油化と三菱化成工業の双方に置かれた。

  • 三菱化学 有価証券報告書 第21期(2015年6月24日提出)【沿革】
    • [15]1956年4月に三菱グループとシェル社グループの共同出資により三菱油化株式会社が設立された
  • 『企業の歴史 明治百年』(1968年)「三菱化成工業」
    • [16]三菱化成工業は三菱油化と密接な連携をとりながら石油化学の二次製品分野に進出し、1964年に水島に石油化学センターを建設した
  • 証券アナリストジャーナル 1976年12月号(常務取締役 藤井芳郎)
    • [12]1950年の発足当初は売上高37億3,000万円、資本金2億5,000万円、総資産77億円、従業員5,700名余だった
    • [13]1952年1月に塩ビ部門を分離し米国モンサント社との共同出資で三菱モンサント化成を設立、同年7月に三菱化成工業へ商号変更した
  • 三菱化学 有価証券報告書 第21期(2015年6月24日提出)【沿革】
    • [14]1953年7月に東邦化学工業を合併し四日市工場としてカーバイド化学へ進出した
    • [15]1956年4月に三菱グループとシェル社グループの共同出資により三菱油化株式会社が設立された
  • 『企業の歴史 明治百年』(1968年)「三菱化成工業」
    • [16]三菱化成工業は三菱油化と密接な連携をとりながら石油化学の二次製品分野に進出し、1964年に水島に石油化学センターを建設した

水島・直江津・坂出 ── 三つのコンビナートと業界首位

1960年代の投資は三つの拠点に集中している。1963年5月に操業を始めた直江津工場[17]はアルミニウム製錬の専門工場で、東京五輪前後の建設需要をつかんだ。1964年7月に操業した水島工場は石油化学で、エチレン年産4万トンから始めて6万トン、16万トンと増設[18]を重ねた。1969年11月に操業した坂出工場は、コークス炉からコークスガスを四国電力へ送り、その電力でアルミを製錬し[19]、隣接するアジア石油がナフサと芳香族を水島へ供給するという、素材から燃料まで一体で組んだ配置として構想された。1960年には自社技術で塩化ビニル可塑剤原料の2[20]-エチルヘキサノールを企業化しており、この技術はのちに各国へ輸出されている。

  • 三菱化学 有価証券報告書 第21期(2015年6月24日提出)【沿革】
    • [17]1963年5月に直江津工場、1964年7月に水島工場、1969年11月に坂出工場が操業を開始した
  • 『企業の歴史 明治百年』(1968年)「三菱化成工業」
    • [18]水島はエチレン年産4万トンで出発し6万トンへ拡大、第二期で10万トンを増設して現有能力16万トンとなった
  • 証券アナリストジャーナル 1970年6月号(専務取締役 鈴木永二)
    • [19]坂出はコークス、コークスガスによる四国電力への送電、アルミ製錬、アジア石油による化学原料供給を組み合わせたコンビナートだった
  • 証券アナリストジャーナル 1976年12月号(常務取締役 藤井芳郎)
    • [20]1960年に自社技術で塩ビ可塑剤原料の2-エチルヘキサノールの企業化に成功し、その技術は各国へ輸出された

規模の面では、この時期に国内首位が定まっている。1967年度の売上高は1,218億円、税引利益36億円で[21]、同業のなかでいずれも最大だった。1969年度の売上高は1,702億円に伸び[22]、持株比率51%以上の子会社を含めるとフォーチュン誌の世界化学会社ランキングで第33位に位置した。専務取締役の鈴木永二は1970年5月の講演で、1974年度に10億ドル企業となり1975年には4,000億円に達する見通しを示し、その内訳を炭素製品1,000億円、有機合成1,600億円[23]、農業資材600億円、軽金属800億円と置いている。総合化学のどの分野にも同時に張るという方針が、四つの内訳にそのまま表れている。

  • 『企業の歴史 明治百年』(1968年)「三菱化成工業」
    • [21]1967年度の年間売上高は1,218億円、税引利益は36億円で同業中最大だった
  • 証券アナリストジャーナル 1970年6月号(専務取締役 鈴木永二)
    • [22]1969年度の売上高は1,702億円で、子会社を含めるとフォーチュン誌の世界化学会社中第33位だった
    • [23]鈴木永二は1974年度に10億ドル企業、1975年に4,000億円という目標を掲げ、炭素製品1,000億円・有機合成1,600億円・農業資材600億円・軽金属800億円と内訳を示した

大型化は業界全体の動きでもあった。通商産業省は石油化学協調懇談会の方式でエチレンプラントの最小規模を年10万トンと定め、1967年にはこれを30[24]万トンへ引き上げている。三菱化成工業は旭化成側と折半出資の別会社を通じて水島に年産30万トンのエチレンプラントを建設し、1970年7月に完成させた[25]。日本産業史はこの時期の先発6センターの一つとして『水島エチレン(親会社は三菱化成、旭化成)』[引用元]を挙げている。30万トン計画の多くを共同出資や輪番投資で進めたのは、ナフサの手配と資金調達の負担を分け合うためで、金融系列や資本グループの枠を越えた提携がこの時期に常態化した。

  • 日本産業史 第3巻(日本経済新聞社、1994年)「化学-プラントの大型化を経て成熟化」
    • [24]通産省は協調懇方式でエチレンプラントの最小規模を年10万トンと定め、1967年に30万トンへ引き上げた
  • 証券アナリストジャーナル 1970年6月号(専務取締役 鈴木永二)
    • [25]旭化成などと共同の30万トンエチレンプラントは1970年7月に完成した
  • 三菱化学 有価証券報告書 第21期(2015年6月24日提出)【沿革】
    • [17]1963年5月に直江津工場、1964年7月に水島工場、1969年11月に坂出工場が操業を開始した
  • 『企業の歴史 明治百年』(1968年)「三菱化成工業」
    • [18]水島はエチレン年産4万トンで出発し6万トンへ拡大、第二期で10万トンを増設して現有能力16万トンとなった
    • [21]1967年度の年間売上高は1,218億円、税引利益は36億円で同業中最大だった
  • 証券アナリストジャーナル 1970年6月号(専務取締役 鈴木永二)
    • [19]坂出はコークス、コークスガスによる四国電力への送電、アルミ製錬、アジア石油による化学原料供給を組み合わせたコンビナートだった
    • [22]1969年度の売上高は1,702億円で、子会社を含めるとフォーチュン誌の世界化学会社中第33位だった
    • [23]鈴木永二は1974年度に10億ドル企業、1975年に4,000億円という目標を掲げ、炭素製品1,000億円・有機合成1,600億円・農業資材600億円・軽金属800億円と内訳を示した
    • [25]旭化成などと共同の30万トンエチレンプラントは1970年7月に完成した
  • 証券アナリストジャーナル 1976年12月号(常務取締役 藤井芳郎)
    • [20]1960年に自社技術で塩ビ可塑剤原料の2-エチルヘキサノールの企業化に成功し、その技術は各国へ輸出された
  • 日本産業史 第3巻(日本経済新聞社、1994年)「化学-プラントの大型化を経て成熟化」
    • [24]通産省は協調懇方式でエチレンプラントの最小規模を年10万トンと定め、1967年に30万トンへ引き上げた

石油危機の受難期とアルミニウム事業の切り離し

1971年6月、三菱化成発足20周年[26]の記念事業として三菱化成生命科学研究所が設立された。故篠島秀雄前社長が化学の向かうべき新分野として練っていた構想で、初代所長には生化学者の江上不二夫が就き、宮城音弥や朝永振一郎が顧問に名を連ねた。日本産業史も、1971年6月の三菱化成生命科学研究所設立を[27]、化学各社がライフサイエンスへ広く取り組み始めた時期の先頭に置いている。石油化学の量的拡大がまだ続いていた最中に、量では稼がない事業を先に用意した判断だった。三菱化成工業はこの研究所を医薬品開発の部隊としてではなく、生化学と化学工業の技術を接続する基礎研究の場として置いている。ここから最初の自社医薬品が出るまでには13年かかった。

  • 証券アナリストジャーナル 1976年12月号(常務取締役 藤井芳郎)
    • [26]1971年6月に三菱化成生命科学研究所が三菱化成発足20周年記念事業として設立され、江上不二夫が所長に就いた
  • 日本産業史 第3巻(日本経済新聞社、1994年)「化学-プラントの大型化を経て成熟化」
    • [27]1971年6月に三菱化成が生命科学研究所を設立して総合的な研究を開始した

1973年の石油危機以後、石油化学の受難期が続いた。1976年11月の講演で常務取締役の藤井芳郎は、4期から5期前の石油危機直後に利益がピークを打って以来ピーク時の利益を回復していないと述べている。同年7月末の借入金は広い意味で合計4,900億円に達していた[28]。1975年からは職域拡充運動を全社で進め、社内では『ディスカバー三菱化成』と呼んだ。人員を切って減らすのではなく新しい事業分野を作って吸収するという方針で、受け皿は約1,500人分[29]を先に用意している。藤井は同じ講演で、経験値という過去の幻影を追わず、大量生産・大量販売[30]から知識集約・高付加価値経営へ転換したいと語った。

  • 証券アナリストジャーナル 1976年12月号(常務取締役 藤井芳郎)
    • [28]1976年7月末の広義の借入金は合計4,900億円だった
    • [29]藤井芳郎は職域拡充運動を「ディスカバー三菱化成」と呼び、人員削減ではなく新事業で吸収する方針と約1,500人分の受け皿を説明した
    • [30]藤井芳郎は経験値という過去の幻影を追わず、大量生産・大量販売から知識集約・高付加価値経営へ転換したいと述べた

1976年4月には三菱グループ各社の出資[31]を得て三菱軽金属工業を設立し、アルミニウム事業を分離した。株主には三菱金属、三菱商事、三菱重工業[32]、三菱電機、三菱銀行、三菱地所のほか、明治生命、東京海上、三菱信託、さらに需要家である三菱アルミ、吉田工業、東洋サッシ、不二サッシ、神戸製鋼、新日鉄が並んでいる。製錬と圧延を一貫させ、需要家を株主に迎えることで採算を立て直す狙いだった。分離時点での製品在庫の売上が年間400億円から500[33]億円あり、切り離しは一度では終わらない。アルミの後始末は次の10年に持ち越された。

  • 証券アナリストジャーナル 1976年12月号(常務取締役 藤井芳郎)
    • [31]1976年4月に三菱グループ各社の出資を得て三菱軽金属工業株式会社を設立しアルミ事業を分離した(営業開始は6月1日)
    • [32]三菱軽金属工業の株主には三菱グループ主要会社に加えサッシメーカーや鉄鋼メーカーが名を連ねた
    • [33]アルミ分離時点の製品在庫による売上が年間400億円から500億円あった
  • 証券アナリストジャーナル 1976年12月号(常務取締役 藤井芳郎)
    • [26]1971年6月に三菱化成生命科学研究所が三菱化成発足20周年記念事業として設立され、江上不二夫が所長に就いた
    • [28]1976年7月末の広義の借入金は合計4,900億円だった
    • [29]藤井芳郎は職域拡充運動を「ディスカバー三菱化成」と呼び、人員削減ではなく新事業で吸収する方針と約1,500人分の受け皿を説明した
    • [30]藤井芳郎は経験値という過去の幻影を追わず、大量生産・大量販売から知識集約・高付加価値経営へ転換したいと述べた
    • [31]1976年4月に三菱グループ各社の出資を得て三菱軽金属工業株式会社を設立しアルミ事業を分離した(営業開始は6月1日)
    • [32]三菱軽金属工業の株主には三菱グループ主要会社に加えサッシメーカーや鉄鋼メーカーが名を連ねた
    • [33]アルミ分離時点の製品在庫による売上が年間400億円から500億円あった
  • 日本産業史 第3巻(日本経済新聞社、1994年)「化学-プラントの大型化を経て成熟化」
    • [27]1971年6月に三菱化成が生命科学研究所を設立して総合的な研究を開始した

ライフサイエンスと情報電子 ── 多角化の頂点

「アルミは詰んだ」 ── 3年無配で損失を出し切る

1980年代前半の三菱化成工業を規定したのは、アルミニウムの後始末だった。製錬に要する電力単価が1キロワット当たり2円40銭ほどから15円前後へ急騰し、30万トン[34]を超えていた生産能力は坂出の4万トンまで縮んだ。3年間で約570億円の損失を計上し、うち約400[35]億円を株式や投資の売却で埋め、残る150億円から160億円を経常利益から回している。この間は無配とし、税金も納めていない。常務取締役財務部長の宮部義一は1985年5月の講演で、3年で立ち直れた理由を三つ挙げている。石油危機の際にすぐ『アルミは詰んだ』と判断して無配に踏み切ったこと、1983年半ばから市況の追い風が続いたこと、利は薄いが量の多いコークス事業が支えとなったことである。[36]負けた事業をいつ手放すかという判断を、将棋の詰みという言葉で説明している。

  • 証券アナリストジャーナル 1985年6月号(常務取締役財務部長 宮部義一)
    • [34]アルミの生産能力は30万トン超から4万トンへ縮小し、電力単価は1kw当たり2円40銭程度から15円前後へ急騰した
    • [35]アルミ事業で3年間に約570億円の損失を計上し、約400億円を株式・投資で埋め、150億〜160億円を経常利益から充当した
    • [36]宮部義一は石油危機の際にすぐアルミは詰んだと判断し無配に踏み切ったことが3年での立ち直りにつながったと述べた

処理の跡は数字に残っている。1983年1月期の売上高は7,408億円で経常損失22[37]億円、当期純損失86億円。1984年1月期は売上高7,468億円に対し経常利益200億円、当期純利益は1億4,300万円にとどまる。1985年1月期は売上高8,003億円、経常利益315億円、当期純利益17億円。売上高がほとんど動かないまま、経常利益だけが3年で赤字から300億円台へ振れた。3期合計で約493億円の経常利益のうち、150億円から160億円がアルミの損失処理に回っている。ピーク時に5,150億円あった借入金は500億円超を返済[38]し、支払利息と受取利息を合わせて約50億円の金融収支改善が出た。それでも借入金残高は4,600億円あった。

  • 証券アナリストジャーナル 1985年6月号(常務取締役財務部長 宮部義一)
    • [37]1983年1月期の売上高7,408億円・経常損失22億円・当期純損失86億円、1984年1月期は売上高7,468億円・経常利益200億円・当期純利益1億4,300万円、1985年1月期は売上高8,003億円・経常利益315億円・当期純利益17億円だった
    • [38]借入金はピーク時5,150億円から500億円超を返済し、金融収支が約50億円改善したが残高は4,600億円だった
  • 証券アナリストジャーナル 1985年6月号(常務取締役財務部長 宮部義一)
    • [34]アルミの生産能力は30万トン超から4万トンへ縮小し、電力単価は1kw当たり2円40銭程度から15円前後へ急騰した
    • [35]アルミ事業で3年間に約570億円の損失を計上し、約400億円を株式・投資で埋め、150億〜160億円を経常利益から充当した
    • [36]宮部義一は石油危機の際にすぐアルミは詰んだと判断し無配に踏み切ったことが3年での立ち直りにつながったと述べた
    • [37]1983年1月期の売上高7,408億円・経常損失22億円・当期純損失86億円、1984年1月期は売上高7,468億円・経常利益200億円・当期純利益1億4,300万円、1985年1月期は売上高8,003億円・経常利益315億円・当期純利益17億円だった
    • [38]借入金はピーク時5,150億円から500億円超を返済し、金融収支が約50億円改善したが残高は4,600億円だった

機能製品への組み替えと2万6,000点の製品

1985年時点の年商8,000億円のうち約8割は石油化学[39]、コークス、肥料という既存事業が占めていた。宮部義一は、この構成を1990年までに機能製品35%へ変えると説明している。内訳は高機能材料および加工分野17%、バイオインダストリー10%、情報電子8%。同じ講演で挙げられた機能製品の一覧には、ニードルコークスと炭素繊維、機能性カーボンブラック、酸化イットリウムなどの希土、断熱材、印刷版材、有機光半導体、フロッピーディスク、抗喘息薬と診断薬が並ぶ。1985年5月時点の年間試験研究費は約270億円で、設備投資約300億円[40]、経常利益約300億円とほぼ肩を並べていた。研究開発費が経常利益を上回りかねない構成をどう保つかが、当時の経営の課題として語られている。

  • 証券アナリストジャーナル 1985年6月号(常務取締役財務部長 宮部義一)
    • [39]1985年時点の年商8,000億円の約8割は石油化学・コークス・肥料など既存事業によるもので、機能製品構成比を1990年までに35%へ高める方針だった
    • [40]1985年度の試験研究費は約270億円、設備投資は約300億円、経常利益は約300億円だった

広げた先が広すぎることは、当事者も認めていた。宮部は同じ講演で、豆乳からコークス、電子材料に至るまで製品が2万6,000点に達しており、それをどう扱うかというマネジメントの技術が十分でないと述べている[41]。加えてマーケティングが下手だという自己評価も添えた。需要家にまとめて納める取引が多かったため、汎用の末端に近い製品の販売を不得手としてきたという診断である。1988年6月には商号から『工業』を外して三菱化成株式会社としたが[42]、抱えた品目の広さは変わらなかった。この広さは1990年代に入って収益の重石になる。

  • 証券アナリストジャーナル 1985年6月号(常務取締役財務部長 宮部義一)
    • [41]製品点数が2万6,000点に達し、そのマネジメント技術が十分でないことを課題として挙げていた
  • 三菱化学 有価証券報告書 第21期(2015年6月24日提出)【沿革】
    • [42]1988年6月に三菱化成株式会社へ商号変更した
  • 証券アナリストジャーナル 1985年6月号(常務取締役財務部長 宮部義一)
    • [39]1985年時点の年商8,000億円の約8割は石油化学・コークス・肥料など既存事業によるもので、機能製品構成比を1990年までに35%へ高める方針だった
    • [40]1985年度の試験研究費は約270億円、設備投資は約300億円、経常利益は約300億円だった
    • [41]製品点数が2万6,000点に達し、そのマネジメント技術が十分でないことを課題として挙げていた
  • 三菱化学 有価証券報告書 第21期(2015年6月24日提出)【沿革】
    • [42]1988年6月に三菱化成株式会社へ商号変更した

医薬への再参入と記録メディアへの投資

医薬は、戻ってきた事業である。ところが主力の抗生物質が競争激化で採算を落としたため、勃興期の石油化学に資源を集中すべく医薬から撤退している。1971年の生命科学研究所設立は、その事業を研究から作り直す試みだった。ただし販売は外部の製薬企業に委託し続けた。医療用医薬品の価格には医薬情報担当者が医療機関を回るコストが含まれるため、モノを作るだけでは採算が立たない。1981年2月に東京田辺製薬の第三者割当増資[43]を引き受けて業務提携したのは、その販売先を確保するためだった。

  • 三菱化学 有価証券報告書 第21期(2015年6月24日提出)【沿革】
    • [43]1981年2月に東京田辺製薬の第三者割当増資を引き受けて業務提携を開始した

情報電子には、すでに売れている製品があった。有機光半導体は電子複写機の心臓部として国内首位のシェアを占め、酸化イットリウムはカラーテレビのブラウン管向けに国内市場[44]の過半を供給し、アルミ板に感光液を塗った印刷版材は朝日新聞が全面採用していた。記録メディアではフロッピーディスクを手掛け、直江津工場でリジッドディスクの生産も始めている。同年6月には水島工場に光磁気ディスクの量産設備を完成させ[45]、商業生産に入っている。素材で培った塗る技術と膜を作る技術を、記録メディアという最終製品に持ち込む構えだった。

  • 証券アナリストジャーナル 1985年6月号(常務取締役財務部長 宮部義一)
    • [44]有機光半導体は国内トップシェア、酸化イットリウムは国内市場の過半、印刷版材は朝日新聞が全面採用していた
  • 日経ビジネス 1991年3月18日号
    • [45]1990年6月に水島工場で光磁気ディスクの量産設備を完成させ、商業生産に入った
  • 三菱化学 有価証券報告書 第21期(2015年6月24日提出)【沿革】
    • [43]1981年2月に東京田辺製薬の第三者割当増資を引き受けて業務提携を開始した
  • 証券アナリストジャーナル 1985年6月号(常務取締役財務部長 宮部義一)
    • [44]有機光半導体は国内トップシェア、酸化イットリウムは国内市場の過半、印刷版材は朝日新聞が全面採用していた
  • 日経ビジネス 1991年3月18日号
    • [45]1990年6月に水島工場で光磁気ディスクの量産設備を完成させ、商業生産に入った

三菱油化との合併から「脱・総合」、そして事業会社へ

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三菱化学の沿革1934〜2017年における主な出来事を抜粋

時代年月社長・CEO出来事重要度
1934〜1950年日本タール工業から三菱化成工業へ ── 財閥の化学部門として三菱鉱業と旭硝子の折半出資により日本タール工業として発足
黒崎工場が操業を開始
日本化成工業に商号変更
新興人絹を合併
旭硝子を合併★★
三菱化成工業に商号変更
全額出資の長浜ゴム工業を設立
化学工業部門を継承し日本化成工業が発足★★
東京証券取引所に株式を上場
1950〜1979年石炭化学から石油化学へ ── 総合化学首位の形成モンサントとの合弁で三菱モンサント化成を設立
三菱化成工業に商号変更
三菱グループとシェル社グループの共同出資により三菱油化を設立★★
自社開発技術により塩化ビニル可塑剤原料の2-エチルヘキサノールを企業化
アルミニウム製錬の直江津工場(後の直江津事業所)が操業を開始
石油化学の水島工場が操業を開始
三菱油化中央研究所(後の筑波研究所)を設置
坂出工場が操業を開始
三菱油化鹿島工場が操業を開始
三菱化成生命科学研究所の設立と、ライフサイエンス分野への再参入

1971年6月、三菱化成工業が三菱化成発足20周年の記念事業として三菱化成生命科学研究所(東京都町田市)を設立し、ライフサイエンス分野に本格的に取り組み始めた経営判断。資本金2億5,000万円の別会社とし、初代所長に東京大学を退官した生化学者の江上不二夫氏を迎えた。

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★★★
総合研究所(後の横浜総合研究所)を設置
アルミニウム事業を分離
鹿島工場が操業を開始
1980〜1993年ライフサイエンスと情報電子 ── 多角化の頂点東京田辺製薬の第三者割当増資を引き受け、同社と業務提携を開始
医薬事業再開後初の自社開発品となる抗喘息薬を発売
機能製品の売上構成比を1990年までに35%へ引き上げる方針を公表
三菱化成に商号変更
松山化成を合併
光磁気ディスク量産設備の新設と米バーベイタムの買収

三菱化成が1990年5月に米フロッピーディスク大手バーベイタムを約400億円(推定)で買収し、翌6月には水島工場に60億円を投じた年産120万枚の光磁気ディスク量産設備を完成させた投資判断。記録メディアを情報電子事業の柱に育てる計画のもとで、製造設備と販売網を一体で押さえにいった。

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★★★
1994〜2017年三菱油化との合併から「脱・総合」、そして事業会社へ三菱化成と三菱油化の合併・三菱化学の発足(1994年成立)

1994年10月1日、三菱化成と三菱油化が合併し、総合化学最大手・三菱化学が発足した案件。合併後最初の通期の連結売上高は1兆円を超え、当時の世界で第9位の規模となった。石炭化学・機能材料の三菱化成と石油化学の三菱油化を一体化したこの新会社は、現在の三菱ケミカルグループ(証券コード4188)の直接の母体である。

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★★★
三菱化学に商号変更
赤字事業の撲滅と四日市エチレン停止による「脱・総合」への転換

1994年10月に旧三菱化成と旧三菱油化の合併で発足した総合化学最大手・三菱化学が、合併後の低収益と株価低迷を受け、1997年末の戦略会議で利益最重視へ転換し、1998〜2002年に赤字事業の撲滅・四日市エチレン停止・汎用石化の他社統合を進めて脱『総合』へ向かった経営判断。三浦昭社長のもとで始まり、正野寛治社長へ引き継がれた。

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★★★
両社の医薬事業を三菱東京製薬として分離
四日市事業所のエチレン製造設備を停止
合成樹脂5社によるポリエチレン・ポリプロピレン事業の統合

2001年6月7日、三菱化学、昭和電工、チッソ、東燃化学、日本石油化学の5社が、ポリエチレンとポリプロピレンの両事業を統合すると発表した経営判断。両事業の統括会社は生産能力で三井・住友連合を抜き、国内首位に立つ見込みとなった。

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★★★
三菱ウェルファーマが発足
三菱化学と三菱ウェルファーマの共同株式移転・三菱ケミカルホールディングス設立(2005年成立)

2005年10月3日、三菱化学と三菱ウェルファーマが共同株式移転で三菱ケミカルホールディングス(証券コード4188)を設立し、東証・大証に上場した。化学と医薬という性格の異なる2事業を持株会社の下に束ねる、国内首位の総合化学グループが発足した。

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★★★
鹿島事業所の第2エチレンプラントで火災事故が発生★★
名古屋事業所を廃止
直江津事業所、小田原事業所・松山工場を閉鎖
三菱化学・三菱樹脂・三菱レイヨンの統合・三菱ケミカル発足(2017年成立)

2017年4月1日、三菱ケミカルホールディングス傘下の化学系3社(三菱化学・三菱樹脂・三菱レイヨン)が合併し、事業会社『三菱ケミカル』が発足した。売上高3兆円近くの、単一企業として国内断トツの総合化学メーカーが誕生した。

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★★★
三菱化学は法人として消滅
出典・参考
  • 三菱化学 有価証券報告書 第21期(2015年6月24日提出)【沿革】
  • 『企業の歴史 明治百年』(1968年)「三菱化成工業」
  • 日本産業史 第2巻(日本経済新聞社、1994年)「化学-肩で風切る肥料」
  • 日本産業史 第3巻(日本経済新聞社、1994年)「化学-プラントの大型化を経て成熟化」
  • 証券アナリストジャーナル 1970年6月号(専務取締役 鈴木永二)
  • 証券アナリストジャーナル 1976年12月号(常務取締役 藤井芳郎)
  • 証券アナリストジャーナル 1985年6月号(常務取締役財務部長 宮部義一)
  • 日経ビジネス 1991年3月18日号

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