赤字事業の撲滅と四日市エチレン停止による「脱・総合」への転換

総合化学最大手の看板を守るか、利益を取るか——三浦昭社長はなぜ四日市のエチレンを止めたか

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時期 1999年2月
意思決定者 三浦昭 社長
論点 総合路線の見直しと利益重視経営への転換
概要
1994年10月に旧三菱化成工業と旧三菱油化の合併で発足した総合化学最大手・三菱化学が、合併後の低収益と株価低迷を受け、1997年末の戦略会議で利益最重視へ転換し、1998〜2002年に赤字事業の撲滅・四日市エチレン停止・汎用石化の他社統合を進めて脱「総合」へ向かった経営判断。三浦昭社長のもとで始まり、正野寛治社長へ引き継がれた。
背景
バブル崩壊後の石化不況のさなかに合併した三菱化学は「成長と利益」の両取りを掲げたが、水島・鹿島・四日市の三エチレンセンターを抱える非効率と機能商品の利益貢献の遅れで合併効果が表れず、株価は住友化学・三井化学を下回る序列に沈んでいた。
内容
1997年末の戦略会議で1999年度経常利益550億円・ROA4%を掲げて利益最重視へ軌道修正し、社内カンパニーのプレジデントに赤字事業を一つずつ黒字化するまで報告させた。1999年2月には持株会社制への移行・2000年末までの四日市エチレン停止・2年で2000人の要員削減を発表した。
含意
総合化学最大手の看板と自前主義への執着が再編を遅らせたが、稼げる事業を選び取る「脱・総合」への転換は、医薬を化学から切り離す2005年の持株会社化へと引き継がれた。追い込まれての選択という色は残るものの、選択と集中へ向かう長い作業の入口となった判断であった。
筆者の見解

「総合」を降りるという判断

この一連の決断の芯にあったのは、総合化学最大手という自負と、そこに合う事業の広がりを保ちたいという引力であった。合併で世界有数の規模を得た三菱化学は、あらゆる石化製品を並べる「百貨店」であることを強みと考え、不採算でも品揃えを崩さない道を長く選んできた。利益重視への転換と赤字事業の撲滅は、その自負をいったん脇に置き、稼げる事業と稼げない事業を選り分ける作業であったとみることができる。四日市のエチレンを止め、自前主義を降りるまでに合併から七年を要した事実に、看板の重さがにじんでいる。

総合の看板を自ら外す作業は、ここで完結したわけではなかった。汎用石化の整理と選択と集中の流れは、やがて2005年の持株会社化——医薬を化学から切り離して束ねる器づくり——へ引き継がれ、三菱化学単体の脱「総合」は、グループ全体の事業構成を組み替える長い作業の入口にとどまった。稼げるものを残し、稼げないものを手放すという判断は、いま脱炭素と中国勢の台頭に揺れる石化業界が、ふたたび各社に突きつけている課題でもある。三菱化学が四半世紀前に先送りの末たどり着いた選択を、化学各社はいまどう引き受けるのか。

Yutaka Sugiura, 2026年7月

背景

合併で生まれた総合化学最大手

三菱化学は、バブル崩壊後の石化不況のさなかの1994年10月、旧三菱化成工業と旧三菱油化の合併によって発足した。売上高は1兆円を超え、規模では世界でも第9位に並ぶ総合化学最大手であった。合併は業界再編の先駆けとして期待を集め、当初は報道でも好意的に扱われた。だが「成長と利益」の両取りを掲げて滑り出したこの巨大企業は、水島・鹿島・四日市という一社で三つのエチレンセンターを抱える構えのまま、統合の実効を上げられずにいた[1]

合併後の業績は、期待に応えなかった。1995年3月期には29億円の連結最終赤字、1998年3月期にも119億円の赤字を計上し、利益は低い水準で推移した。株式市場の評価も冷たく、株価は1998年1月に136円まで下げて、住友化学・三井化学を下回る序列が定着した。三菱の看板を負う社員のあいだにも、「こんなに低いはずはない」という声が漏れていた。合併の果実が数字に表れないまま、世間の視線は年々厳しさを増していた[2][3]

三つのエチレンと「総合」の重さ

「総合」という看板は、三菱化学が受け継いだ来歴そのものであった。前身の三菱化成は、コークスや染料、農薬、医薬品、肥料、合成繊維・樹脂原料、さらにアルミ精錬まで、間口の広い事業群を抱えて成長した企業であった。既存事業で稼いだ収益を成長分野へ注ぎ込む多角化の伝統は、戦後の高度成長を通じて同社の体質に染み込んでいた。三菱油化との合併は、そこに石油化学の全系列を重ね、あらゆる石化製品を手がける「百貨店」の色をいっそう濃くした[4]

その総合ゆえの非効率が、最も際立って現れたのがエチレンであった。三菱化学は水島・鹿島・四日市の三カ所にエチレンセンターを構えていたが、1997年の国内エチレン生産量は740万トンに達する一方、内需は600万トン強にとどまり、能力過剰は覆いようがなかった。なかでも四日市は、旧三菱油化の主力工場という来歴を負っていた。三つの拠点のうち規模の小さい四日市の扱いが、合併当初から石化部門の最大の懸案として残されていた[5][6]

決断

赤字事業の撲滅と利益重視への転換

転機は、1997年末に開かれた恒例の戦略会議であった。三菱化学はここで、従来の「成長と収益」を追う方針を退け、当面は利益を最優先する経営へ軌道修正した。掲げた旗は「1999年度に経常利益550億円、ROA(総資産利益率)4%」という具体的な数値目標である。低迷する株価がこの決断を後押ししたことは、経営企画を担う小堀暉男常務も認めていた。株価が低いのは利益水準が低いからであり、高めたければ利益を上げるほかない、という単純な理屈が社内を貫いた[7]

利益重視を具体の行動に落とす手立てが、赤字事業の撲滅であった。1998・1999年度の二年間で赤字事業を洗い直し、各事業を束ねる社内カンパニーのプレジデントには、担当する赤字事業を一つずつ黒字化するまで定期的な報告が課された。黒字転換の見込みが立たない事業は、撤退か他社との統合が選択肢に上がる。本体が抱える赤字は、ポリスチレンや塩化ビニル樹脂、炭素繊維、肥料などを足し合わせて二百数十億円に上っていた。1997年11月には、旧三菱化成発祥の黒崎のコークス事業からも撤退している[8][9]

四日市エチレン停止と持株会社への移行

赤字撲滅の掛け声のもとで、避け続けてきたエチレンの整理にもついに手がついた。合併から四年半を経た1999年2月初旬、三菱化学は今後の経営体制と事業構造の再構築策を公表した。骨子は、連結納税を前提とする持株会社制への移行、2000年末までの四日市事業所でのエチレン生産の停止、そして二年間で2000人の要員削減であった。三つのエチレンセンターの一角を自ら畳むこの決定は、能力過剰を指摘され続けながら動けずにいた同社にとって、最も象徴的な一手であった[10]

決断がここまで遅れた背景には、日本の石油化学に固有の事情があった。コンビナートでは川上のエチレンから川下の誘導品まで生産が有機的につながり、エチレンメーカーは誘導品メーカーへの原料供給責任を負うため、自社の採算だけで生産を止めるわけにはいかなかった。四日市が旧三菱油化の主力工場であったことも、決断を鈍らせた一因であったとみられる。そのうえ1998年度下期の業績の落ち込みは激しく、株式評価損と重なって通期の単独・連結ともに最終赤字が見込まれ、追い込まれての撤退であった[11]

結果

自前主義を降りて「脱・総合」へ

発表から二年後の2001年1月、三菱化学は四日市事業所の小規模で老朽化したエチレン設備を実際に停止し、生産を鹿島・水島へ集めて稼働率を高めた。だが過剰設備の重さは一社の努力では解けず、同年10月に打ち出した「今後の経営対策」で、同社はエチレンやプロピレンなど石化基礎原料について、分社化も選択肢に同業他社との提携を柔軟に進めると言明した。共同出資で過半数にこだわらないとも述べ、生産能力で国内首位のエチレンさえ主導権を手放しうる構えを見せた。長く固執してきた自前主義からの転換であった[12]

利益重視への転換を掲げてなお、数字は容易に好転しなかった。1999年度(2000年3月期)の連結最終損益は275億円の赤字、翌年度も241億円の赤字と、合併後最大級の落ち込みが続き、2002年3月期には1994年の合併以来はじめての無配にも陥った。市場は同社を「三菱製薬」と呼び、化学会社としての価値を低く見積もった。2003年には三井化学と住友化学工業の統合で三井住友化学が生まれ、「総合化学国内最大手」の冠さえ三菱化学から外れた。名門の看板は、もはや守るべき資産ではなくなっていた[13][14]

出典・参考
  • 週刊東洋経済 1998年5月23日号「三菱化学 赤字事業を全面撲滅せよ」
  • 週刊東洋経済 1999年3月6日号「奔流 M&A時代 三菱化学 遅れた利益重視経営への転換 やっと四日市でエチレン停止へ」
  • 週刊東洋経済 2002年2月2日号「三菱化学 脱『総合』、事業再編へ 追い込まれた業界最大手」
  • 日経ビジネス 1998年7月6日号「株価回復へ情報開示に賭ける 三菱化学 異例の事業ごとの収益公表、リストラの成果アピール」
  • 日経ビジネス 1999年11月8日号「素顔の 正野寛治氏[三菱化学]新社長 明るさで周囲引きつけ、収益力強化」
  • 三菱化学 有価証券報告書(連結)
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編、1968)三菱化成の項