{"title":"三菱化学の歴史概略","sections":[{"start_year":1934,"end_year":1950,"main_title":"日本タール工業から三菱化成工業へ ── 財閥の化学部門として","subsections":[{"title":"コークス炉の副産物から始めた折半出資会社","text":"三菱化学の淵源は、1934年8月1日に三菱鉱業と旭硝子が折半出資して設立した日本タール工業株式会社にある。出資者の顔ぶれがそのまま事業の中身を説明している。三菱鉱業は石炭を掘り、コークス炉からタールを出す。旭硝子はソーダ工業を持ち、化学品の使い手でもある。両社が半分ずつ金を出して作ったのは、そのタールを原料に染料や医薬中間体を作る石炭化学の会社だった。翌1935年10月に黒崎工場が操業を始め、1936年10月には日本化成工業株式会社に商号を変えている。黒崎の石炭化学が、その後の20年にわたって収益の柱であり続けた。\n\n日本タール工業が発足した1934年は、日本の経済が戦時体制へ移る時期と重なった。化学工業の戦後史が硫安の復興から始まったように、戦前戦中の化学工業もまた肥料と軍需に強く引かれる産業だった。日本化成工業も例外ではなく、黒崎工場でアンモニアを合成し、肥料と染料の両方を扱っている。ただし、出発点がコークス副産物だったことは後まで効いた。石炭化学と肥料という二つの既存事業が、1960年代の石油化学投資を支える資金源になったからである。石炭を掘る会社と硝子を作る会社が半分ずつ出した資本から始めた事業が、20年後には石油を原料とする装置産業へ資金を送り出す側に回った。","references":[{"title":"三菱化学 有価証券報告書 第21期（2015年6月24日提出）【沿革】","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"証券アナリストジャーナル 1976年12月号「三菱化成工業 ライフ・インダストリーのさきがけとして」（常務取締役 藤井芳郎）","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"『企業の歴史 明治百年』（1968年）「三菱化成工業」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"日本産業史 第2巻（日本経済新聞社、1994年）「化学－肩で風切る肥料」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]}]},{"title":"戦時に一つになり、1950年に三つに割れた","text":"戦時統制のもとで、三菱系の化学関連会社は日本化成工業に集約された。1942年に新興人絹を合併し、1944年4月には旭硝子を合併して三菱化成工業株式会社と商号を改めている。この時点で一つの法人の中に、化学、繊維、硝子の三つの事業が同居していた。1946年2月には全額出資で長浜ゴム工業を設立し、樹脂加工の部門も抱えている。三菱系の化学関連事業が一つの法人に束ねられていた期間は、敗戦をまたぐこの6年しかない。統合の理由は経営判断というより戦時統制にあり、原料も労働力も配分される側の会社にとって、法人を一つにまとめるのは要請に従うことでもあった。束ね方が事業の論理から出ていないため、統制が解けたときに束ねたままでいる理由も残らなかった。\n\n束ねたものは、6年後に解かれた。1950年6月、企業再建整備計画にもとづいて繊維部門は新光レイヨン株式会社として、硝子部門は旭硝子株式会社として分離され、化学工業部門を継承した会社が日本化成工業株式会社の名で発足した。有価証券報告書の【沿革】はこの三分割を法人の連続の中に置いており、1934年の日本タール工業から数えて途切れのない一本の系譜として記している。同じ月に東京証券取引所へ株式を上場した。分離された二社が三菱レイヨンと旭硝子であり、1946年に設立した長浜ゴム工業が三菱樹脂になる。1950年に散らばった三菱の化学関連会社のうち、三菱レイヨンと三菱樹脂は67年後に三菱化学と再び一つになる。","references":[{"title":"三菱化学 有価証券報告書 第21期（2015年6月24日提出）【沿革】","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"証券アナリストジャーナル 1976年12月号「三菱化成工業 ライフ・インダストリーのさきがけとして」（常務取締役 藤井芳郎）","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"『企業の歴史 明治百年』（1968年）「三菱化成工業」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"日本産業史 第2巻（日本経済新聞社、1994年）「化学－肩で風切る肥料」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]}]}]},{"start_year":1950,"end_year":1979,"main_title":"石炭化学から石油化学へ ── 総合化学首位の形成","subsections":[{"title":"石油化学は別会社に置いた ── 1950年代の設計","text":"1950年に再発足した日本化成工業は、売上高37億3,000万円、資本金2億5,000万円、総資産77億円、従業員5,700名余で始まっている。ここから26年で売上高は83倍、総資産は98倍になるが、従業員は1.7倍にしか増えていない。1952年1月に塩化ビニル部門を分離して米国モンサント社と三菱モンサント化成を設立し、同年7月に三菱化成工業株式会社へ商号を戻した。1953年7月には東邦化学工業を合併して四日市工場とし、カーバイドを起こしてアセチレン化学へ進んでいる。石炭から出発した会社が、まずカーバイドで有機合成の裾野を広げた。\n\n1956年4月、三菱グループとシェル社グループの共同出資により三菱油化株式会社が設立された。石油化学を自社の一部門として抱えるのではなく、別法人として立ち上げた点が、この時期の三菱化成工業の設計を最もよく表している。三菱化成工業は塩化ビニルをモンサントとの合弁に、石油化学を三菱グループとシェル社グループの共同出資会社に置き、自社には石炭化学、肥料、そしてのちのアルミニウムを残した。合弁を通じて外国技術を導入しつつ本体の財務を守る組み立てである。ただし、この設計は自社の石油化学が二本立てになるという結果も生んだ。1964年に三菱化成工業自身が水島で石油化学に乗り出したことで、三菱系のエチレンセンターは三菱油化と三菱化成工業の双方に置かれた。","references":[{"title":"三菱化学 有価証券報告書 第21期（2015年6月24日提出）【沿革】","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"証券アナリストジャーナル 1970年6月号「三菱化成工業の現状と将来」（専務取締役 鈴木永二）","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"証券アナリストジャーナル 1976年12月号「三菱化成工業 ライフ・インダストリーのさきがけとして」（常務取締役 藤井芳郎）","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"『企業の歴史 明治百年』（1968年）「三菱化成工業」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"日本産業史 第3巻（日本経済新聞社、1994年）「化学－プラントの大型化を経て成熟化」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]}]},{"title":"水島・直江津・坂出 ── 三つのコンビナートと業界首位","text":"1960年代の投資は三つの拠点に集中している。1963年5月に操業を始めた直江津工場はアルミニウム製錬の専門工場で、東京五輪前後の建設需要をつかんだ。1964年7月に操業した水島工場は石油化学で、エチレン年産4万トンから始めて6万トン、16万トンと増設を重ねた。1969年11月に操業した坂出工場は、コークス炉からコークスガスを四国電力へ送り、その電力でアルミを製錬し、隣接するアジア石油がナフサと芳香族を水島へ供給するという、素材から燃料まで一体で組んだ配置として構想された。1960年には自社技術で塩化ビニル可塑剤原料の2-エチルヘキサノールを企業化しており、この技術はのちに各国へ輸出されている。\n\n規模の面では、この時期に国内首位が定まっている。1967年度の売上高は1,218億円、税引利益36億円で、同業のなかでいずれも最大だった。1969年度の売上高は1,702億円に伸び、持株比率51%以上の子会社を含めるとフォーチュン誌の世界化学会社ランキングで第33位に位置した。専務取締役の鈴木永二は1970年5月の講演で、1974年度に10億ドル企業となり1975年には4,000億円に達する見通しを示し、その内訳を炭素製品1,000億円、有機合成1,600億円、農業資材600億円、軽金属800億円と置いている。総合化学のどの分野にも同時に張るという方針が、四つの内訳にそのまま表れている。\n\n大型化は業界全体の動きでもあった。通商産業省は石油化学協調懇談会の方式でエチレンプラントの最小規模を年10万トンと定め、1967年にはこれを30万トンへ引き上げている。三菱化成工業は旭化成側と折半出資の別会社を通じて水島に年産30万トンのエチレンプラントを建設し、1970年7月に完成させた。日本産業史はこの時期の先発6センターの一つとして「水島エチレン（親会社は三菱化成、旭化成）」を挙げている。30万トン計画の多くを共同出資や輪番投資で進めたのは、ナフサの手配と資金調達の負担を分け合うためで、金融系列や資本グループの枠を越えた提携がこの時期に常態化した。","references":[{"title":"三菱化学 有価証券報告書 第21期（2015年6月24日提出）【沿革】","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"証券アナリストジャーナル 1970年6月号「三菱化成工業の現状と将来」（専務取締役 鈴木永二）","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"証券アナリストジャーナル 1976年12月号「三菱化成工業 ライフ・インダストリーのさきがけとして」（常務取締役 藤井芳郎）","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"『企業の歴史 明治百年』（1968年）「三菱化成工業」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"日本産業史 第3巻（日本経済新聞社、1994年）「化学－プラントの大型化を経て成熟化」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]}]},{"title":"石油危機の受難期とアルミニウム事業の切り離し","text":"1971年6月、三菱化成発足20周年の記念事業として三菱化成生命科学研究所が設立された。故篠島秀雄前社長が化学の向かうべき新分野として練っていた構想で、初代所長には生化学者の江上不二夫が就き、宮城音弥や朝永振一郎が顧問に名を連ねた。日本産業史も、1971年6月の三菱化成生命科学研究所設立を、化学各社がライフサイエンスへ広く取り組み始めた時期の先頭に置いている。石油化学の量的拡大がまだ続いていた最中に、量では稼がない事業を先に用意した判断だった。三菱化成工業はこの研究所を医薬品開発の部隊としてではなく、生化学と化学工業の技術を接続する基礎研究の場として置いている。ここから最初の自社医薬品が出るまでには13年かかった。\n\n1973年の石油危機以後、石油化学の受難期が続いた。1976年11月の講演で常務取締役の藤井芳郎は、4期から5期前の石油危機直後に利益がピークを打って以来ピーク時の利益を回復していないと述べている。同年7月末の借入金は広い意味で合計4,900億円に達していた。1975年からは職域拡充運動を全社で進め、社内では「ディスカバー三菱化成」と呼んだ。人員を切って減らすのではなく新しい事業分野を作って吸収するという方針で、受け皿は約1,500人分を先に用意している。藤井は同じ講演で、経験値という過去の幻影を追わず、大量生産・大量販売から知識集約・高付加価値経営へ転換したいと語った。\n\n1976年4月には三菱グループ各社の出資を得て三菱軽金属工業を設立し、アルミニウム事業を分離した。株主には三菱金属、三菱商事、三菱重工業、三菱電機、三菱銀行、三菱地所のほか、明治生命、東京海上、三菱信託、さらに需要家である三菱アルミ、吉田工業、東洋サッシ、不二サッシ、神戸製鋼、新日鉄が並んでいる。製錬と圧延を一貫させ、需要家を株主に迎えることで採算を立て直す狙いだった。分離時点での製品在庫の売上が年間400億円から500億円あり、切り離しは一度では終わらない。アルミの後始末は次の10年に持ち越された。","references":[{"title":"三菱化学 有価証券報告書 第21期（2015年6月24日提出）【沿革】","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"証券アナリストジャーナル 1970年6月号「三菱化成工業の現状と将来」（専務取締役 鈴木永二）","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"証券アナリストジャーナル 1976年12月号「三菱化成工業 ライフ・インダストリーのさきがけとして」（常務取締役 藤井芳郎）","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"『企業の歴史 明治百年』（1968年）「三菱化成工業」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"日本産業史 第3巻（日本経済新聞社、1994年）「化学－プラントの大型化を経て成熟化」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]}]}]},{"start_year":1980,"end_year":1993,"main_title":"ライフサイエンスと情報電子 ── 多角化の頂点","subsections":[{"title":"「アルミは詰んだ」 ── 3年無配で損失を出し切る","text":"1980年代前半の三菱化成工業を規定したのは、アルミニウムの後始末だった。製錬に要する電力単価が1キロワット当たり2円40銭ほどから15円前後へ急騰し、30万トンを超えていた生産能力は坂出の4万トンまで縮んだ。3年間で約570億円の損失を計上し、うち約400億円を株式や投資の売却で埋め、残る150億円から160億円を経常利益から回している。この間は無配とし、税金も納めていない。常務取締役財務部長の宮部義一は1985年5月の講演で、3年で立ち直れた理由を三つ挙げている。石油危機の際にすぐ「アルミは詰んだ」と判断して無配に踏み切ったこと、1983年半ばから市況の追い風が続いたこと、利は薄いが量の多いコークス事業が支えとなったことである。負けた事業をいつ手放すかという判断を、将棋の詰みという言葉で説明している。\n\n処理の跡は数字に残っている。1983年1月期の売上高は7,408億円で経常損失22億円、当期純損失86億円。1984年1月期は売上高7,468億円に対し経常利益200億円、当期純利益は1億4,300万円にとどまる。1985年1月期は売上高8,003億円、経常利益315億円、当期純利益17億円。売上高がほとんど動かないまま、経常利益だけが3年で赤字から300億円台へ振れた。3期合計で約493億円の経常利益のうち、150億円から160億円がアルミの損失処理に回っている。ピーク時に5,150億円あった借入金は500億円超を返済し、支払利息と受取利息を合わせて約50億円の金融収支改善が出た。それでも借入金残高は4,600億円あった。","references":[{"title":"三菱化学 有価証券報告書 第21期（2015年6月24日提出）【沿革】","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"証券アナリストジャーナル 1985年6月号「三菱化成工業 先端分野へ積極進出」（常務取締役財務部長 宮部義一）","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"週刊東洋経済 1999年2月27日号「三菱化学を呑んだ生命科学の怒濤 東京田辺製薬合併でも医薬生き残りにはまだ足りない」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"週刊東洋経済 2002年2月2日号「三菱化学 脱『総合』、事業再編へ追い込まれた業界最大手」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"日経ビジネス 1991年3月18日号「三菱化成 乱戦の光磁気ディスク制覇にらみ着々布石」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"三菱化学 有価証券報告書（主要な経営指標等の推移）","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]}]},{"title":"機能製品への組み替えと2万6,000点の製品","text":"1985年時点の年商8,000億円のうち約8割は石油化学、コークス、肥料という既存事業が占めていた。宮部義一は、この構成を1990年までに機能製品35%へ変えると説明している。内訳は高機能材料および加工分野17%、バイオインダストリー10%、情報電子8%。同じ講演で挙げられた機能製品の一覧には、ニードルコークスと炭素繊維、機能性カーボンブラック、酸化イットリウムなどの希土、断熱材、印刷版材、有機光半導体、フロッピーディスク、抗喘息薬と診断薬が並ぶ。1985年5月時点の年間試験研究費は約270億円で、設備投資約300億円、経常利益約300億円とほぼ肩を並べていた。研究開発費が経常利益を上回りかねない構成をどう保つかが、当時の経営の課題として語られている。\n\n広げた先が広すぎることは、当事者も認めていた。宮部は同じ講演で、豆乳からコークス、電子材料に至るまで製品が2万6,000点に達しており、それをどう扱うかというマネジメントの技術が十分でないと述べている。加えてマーケティングが下手だという自己評価も添えた。需要家にまとめて納める取引が多かったため、汎用の末端に近い製品の販売を不得手としてきたという診断である。1988年6月には商号から「工業」を外して三菱化成株式会社としたが、抱えた品目の広さは変わらなかった。この広さは1990年代に入って収益の重石になる。","references":[{"title":"三菱化学 有価証券報告書 第21期（2015年6月24日提出）【沿革】","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"証券アナリストジャーナル 1985年6月号「三菱化成工業 先端分野へ積極進出」（常務取締役財務部長 宮部義一）","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"週刊東洋経済 1999年2月27日号「三菱化学を呑んだ生命科学の怒濤 東京田辺製薬合併でも医薬生き残りにはまだ足りない」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"週刊東洋経済 2002年2月2日号「三菱化学 脱『総合』、事業再編へ追い込まれた業界最大手」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"日経ビジネス 1991年3月18日号「三菱化成 乱戦の光磁気ディスク制覇にらみ着々布石」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"三菱化学 有価証券報告書（主要な経営指標等の推移）","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]}]},{"title":"医薬への再参入と記録メディアへの投資","text":"医薬は、戻ってきた事業である。三菱化成は戦前から医薬を手掛け、戦後はペニシリンやサルファ剤を発売し、武田薬品との合弁で吉富製薬の前身も作っていた。ところが主力の抗生物質が競争激化で採算を落としたため、勃興期の石油化学に資源を集中すべく医薬から撤退している。1971年の生命科学研究所設立は、その事業を研究から作り直す試みだった。1984年に再開後初の自社開発品となる抗喘息薬を発売し、以後14年で12品目を自社開発している。ただし販売は外部の製薬企業に委託し続けた。医療用医薬品の価格には医薬情報担当者が医療機関を回るコストが含まれるため、モノを作るだけでは採算が立たない。1981年2月に東京田辺製薬の第三者割当増資を引き受けて業務提携したのは、その販売先を確保するためだった。\n\n情報電子には、すでに売れている製品があった。有機光半導体は電子複写機の心臓部として国内首位のシェアを占め、酸化イットリウムはカラーテレビのブラウン管向けに国内市場の過半を供給し、アルミ板に感光液を塗った印刷版材は朝日新聞が全面採用していた。記録メディアではフロッピーディスクを手掛け、直江津工場でリジッドディスクの生産も始めている。1990年には当時世界最大のフロッピーディスクメーカーだった米国バーベイタムを買収した。1991年には光磁気ディスクの量産に着手している。素材で培った塗る技術と膜を作る技術を、記録メディアという最終製品に持ち込む構えだった。\n\nバーベイタムの買収は、その後の三菱化学に長く尾を引いた。1995年以降にフロッピーからCD-ROMへ需要が移り、同社の業績は悪化して多額の赤字を計上している。2002年3月期に単独の当期純利益が赤字に転じた一因も、バーベイタム株式を全株保有する米国子会社の株式評価損350億円だった。参入時点の判断そのものは、素材技術を最終製品へつなぐという当時の方針に沿っている。誤算は、記録メディアという商品の寿命が素材事業の投資回収期間よりはるかに短かったことにあった。素材の設備は長い年月をかけて回し、償却する。記録メディアはフロッピーからCD-ROMへ、さらにCD-Rへと規格が入れ替わり、その周期は短くなっていた。同じ設備投資の作法で臨めば、償却の終わらないうちに製品のほうが消える。","references":[{"title":"三菱化学 有価証券報告書 第21期（2015年6月24日提出）【沿革】","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"証券アナリストジャーナル 1985年6月号「三菱化成工業 先端分野へ積極進出」（常務取締役財務部長 宮部義一）","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"週刊東洋経済 1999年2月27日号「三菱化学を呑んだ生命科学の怒濤 東京田辺製薬合併でも医薬生き残りにはまだ足りない」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"週刊東洋経済 2002年2月2日号「三菱化学 脱『総合』、事業再編へ追い込まれた業界最大手」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"日経ビジネス 1991年3月18日号「三菱化成 乱戦の光磁気ディスク制覇にらみ着々布石」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"三菱化学 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有価証券報告書 第21期（2015年6月24日提出）【沿革】","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"三菱化学 有価証券報告書（主要な経営指標等の推移・大株主の状況）","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"週刊東洋経済 1998年5月23日号「トップ企業の断面 三菱化学 赤字事業を全面撲滅せよ」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"週刊東洋経済 1999年2月27日号「三菱化学を呑んだ生命科学の怒濤 東京田辺製薬合併でも医薬生き残りにはまだ足りない」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"週刊東洋経済 1999年3月6日号「三菱化学 遅れた利益重視経営への転換 やっと四日市でエチレン停止へ」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"週刊東洋経済 2001年6月23日号「石油化学 三井―住友連合に対抗 三菱化学が盟主奪還へ合成樹脂5社「同盟」結成」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"週刊東洋経済 2002年2月2日号「三菱化学 脱『総合』、事業再編へ追い込まれた業界最大手」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"週刊東洋経済 2008年1月19日号「三菱化学の火災事故 供給先の影響は軽微か」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"三菱ケミカルグループ 有価証券報告書【沿革】","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]}]},{"title":"脱・総合 ── 自前主義を降ろす","text":"1999年2月、三菱化学は事業構造の再構築策を発表した。2000年末までに四日市事業所でエチレン生産を停止し、2年間で2,000人を削減する内容である。決断がここまで遅れた主因は、アジア向け特需でエチレン生産量が1997年に過去最高の740万トンまで増えていたことにある。四日市が旧三菱油化の主力工場だったことも決断を鈍らせた原因かもしれない、と当時報じられた。エチレンメーカーには誘導品メーカーへの原料供給責任があり、自社の収益だけを見て生産を止められない。日本の石油化学に共通する制約だった。停止が実行されたのは2001年1月で、以後は鹿島と水島の二極体制になった。同じ1999年10月、東京田辺製薬と合併し、両社の医薬事業を全額出資子会社の三菱東京製薬として切り出している。医薬は残すが、本体からは外に置く。石油化学は本体で減らす。この二つが同じ年に進んだ。\n\n2002年初めの市場の評価は厳しかった。1月22日終値での時価総額6,337億円に対し、子会社の三菱ウェルファーマの時価総額は6,464億円あり、持株比率40.5%を差し引くと医薬を除いた三菱化学の企業価値は3,719億円しか残らない。株式市場は同社を「三菱製薬」と呼んだ。前期の連結営業利益は664億円で、三井化学と住友化学工業の合算1,391億円の半分に満たない。2002年3月期は連結・単独とも最終赤字となり、1994年の会社発足以来初の無配に陥っている。同期の連結売上高1兆7,803億円に対し経常利益は71億円、当期純損失は453億円だった。\n\n2001年10月に公表した「今後の経営対策」で、三菱化学は自前主義を降ろした。エチレン、プロピレン、ベンゼンなどの石化基礎原料について、自助努力だけでは限界があるとして、分社化も選択肢に含めた他社との提携を進め、共同出資の際も過半にはこだわらないと明言している。生産能力で国内首位にあるエチレンでさえ、主導権にはこだわらないという表明だった。社長の正野寛治は「すべてのことが自分でできる時代は終わり、お互いに少し我慢して過剰設備の整理ができないか」と他社に呼びかけた。2001年6月には昭和電工、チッソ、東燃化学、日本石油化学とポリエチレンおよびポリプロピレン事業の統合を発表し、生産能力で三井・住友連合を抜いて国内首位に立つ体制を組んでいる。","references":[{"title":"三菱化学 有価証券報告書 第21期（2015年6月24日提出）【沿革】","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"三菱化学 有価証券報告書（主要な経営指標等の推移・大株主の状況）","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"週刊東洋経済 1998年5月23日号「トップ企業の断面 三菱化学 赤字事業を全面撲滅せよ」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"週刊東洋経済 1999年2月27日号「三菱化学を呑んだ生命科学の怒濤 東京田辺製薬合併でも医薬生き残りにはまだ足りない」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"週刊東洋経済 1999年3月6日号「三菱化学 遅れた利益重視経営への転換 やっと四日市でエチレン停止へ」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"週刊東洋経済 2001年6月23日号「石油化学 三井―住友連合に対抗 三菱化学が盟主奪還へ合成樹脂5社「同盟」結成」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"週刊東洋経済 2002年2月2日号「三菱化学 脱『総合』、事業再編へ追い込まれた業界最大手」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"週刊東洋経済 2008年1月19日号「三菱化学の火災事故 供給先の影響は軽微か」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"三菱ケミカルグループ 有価証券報告書【沿革】","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]}]},{"title":"上場を降り、統合で幕を引くまでの12年","text":"2005年10月、三菱化学は三菱ウェルファーマと共同で株式移転を行い、両社の完全親会社として株式会社三菱ケミカルホールディングスを設立した。これに伴い三菱化学は上場を廃止している。1950年6月の東京証券取引所上場から55年で、株式市場との関係が終わった。ただし法人が消えたわけではない。三菱化学は社債の継続開示のため、その後も有価証券報告書を提出し続けた。2015年6月24日提出の第21期まで、10期分の報告書が残っている。その大株主の状況は10期を通じて1行しかない。株式会社三菱ケミカルホールディングス、21億7,767万株、所有割合100.0%。上場企業としての三菱化学は2005年に終わり、法人としての三菱化学はそこから11年半続いた。\n\n事業会社としての12年は、資産を渡し続けた期間でもある。2007年3月に三菱樹脂株式を公開買付けで追加取得し、同年9月には保有する全株式を株式の現物配当により三菱ケミカルホールディングスへ移した。2008年4月には機能材料事業を三菱樹脂へ吸収分割で移管し、三菱化学ポリエステルフィルムなど3社の株式も持株会社へ移している。2014年4月にはエーピーアイコーポレーションと三菱化学メディエンスの株式を、エムエイチエルシー合同会社（現 生命科学インスティテュート）へ移した。1985年に35%まで高めると掲げた機能製品も、1971年に始めた生命科学の系譜も、法人からは順に離れた。その間、現場では2007年12月に鹿島事業所の第2エチレンプラントで火災が起き、協力会社の従業員4名が死亡した。運転停止が1か月延びるごとに約74億円の営業減益が見込まれたが、国内需要の縮小で川下への影響は限定的とみられた。\n\n統合前の三菱化学は、規模だけなら大きいままだった。連結売上高は2008年3月期の2兆5,442億円をピークに2015年3月期は1兆9,430億円、同期の経常利益は213億円で売上高の1%程度にとどまる。持株会社の側から見れば、三菱化学は基礎化学品とポリマーを担う最大の事業会社であり、機能材料は三菱樹脂、アクリル系素材と炭素繊維は三菱レイヨンが持つという分業になっていた。2017年4月1日、三社は統合して三菱ケミカル株式会社が発足し、法人としての三菱化学はここで消えている。上場を失ったのが2005年、法人が消えたのが2017年で、その間に11年半の開きがあった。黒崎、四日市、水島、鹿島の事業所と製品群は引き継がれ、83年続いた法人格と23年使った社名は残らなかった。1950年に三つに割られた化学・繊維・硝子のうち、化学と繊維、それに樹脂加工が一つに戻り、硝子だけが旭硝子として外に残った。","references":[{"title":"三菱化学 有価証券報告書 第21期（2015年6月24日提出）【沿革】","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"三菱化学 有価証券報告書（主要な経営指標等の推移・大株主の状況）","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"週刊東洋経済 1998年5月23日号「トップ企業の断面 三菱化学 赤字事業を全面撲滅せよ」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"週刊東洋経済 1999年2月27日号「三菱化学を呑んだ生命科学の怒濤 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