三菱化学合成樹脂5社によるポリエチレン・ポリプロピレン事業の統合
首位を守るか、過剰設備を減らすか——「総合化学国内最大手」の看板と主導権をめぐる選択
- 概要
- 2001年6月7日、三菱化学、昭和電工、チッソ、東燃化学、日本石油化学の5社が、ポリエチレンとポリプロピレンの両事業を統合すると発表した経営判断。両事業の統括会社は生産能力で三井・住友連合を抜き、国内首位に立つ見込みとなった。
- 背景
- 国内のエチレン生産能力は2000年末で年約770万トン、国内需要は600万トン強にとどまり、50万トン級の設備を4基分ほど統廃合しなければ需給が合わない計算であった。2004年までの段階的な輸入関税引き下げと、シンガポール・中国での大型プラント稼働が期限として迫っていた。
- 内容
- ポリエチレンは、三菱化学65%・東燃化学35%出資の日本ポリケムと、昭和電工65%・日本石油化学35%出資の日本ポリオレフィンを2002年4月めどに新会社へ統合する。ポリプロピレンは日本ポリケムとチッソが2002年7月めどに共同設立する新会社へ統合し、いずれも日本ポリケムが過半を出資する予定であった。
- 含意
- 日経ビジネスは同社の手法を「下位メーカーの抱き込み」と評し、株主4社の意思統一と世界大手との規模差に疑問を投げた。三菱化学は同年10月の「今後の経営対策」で、石化基礎原料の提携は共同出資でも過半にこだわらないと表明し、自前主義から離れた。
過半という条件を外せたこと
2001年6月の発表で、三菱化学は二つの新会社のどちらにも日本ポリケムを通じて過半を出資すると決めていた。その4か月後には、石化基礎原料について共同出資でも過半数にこだわらないと表明する。生産能力で国内首位のエチレンについて、主導権を握り続ける前提を4か月で降ろした。三井・住友連合を抜いて首位に戻ることより、50万トン級4基分といわれた過剰設備を誰かと一緒に減らすほうが先に来ていた。
日経ビジネスが挙げた弱点はそのまま残った。統合会社の株主は4社に分かれ、昭和電工の大橋光夫社長が言うとおり、統合しただけでは設備集約も要員削減も進まない。ポリエチレンの年産能力130万トンと、ダウ・ケミカルとユニオン・カーバイドの800万トンとは桁が違う。1998年11月まで全業務の移管を先送りし、旭化成や東ソーの撤退を見送った数年分の遅れを、三菱化学は発足以来はじめての無配で払った。統合で首位に戻っても、その遅れは取り返せていない。
Yutaka Sugiura, 2026年7月
背景
三十年来の過剰設備
石油化学の過剰設備は、1970年代から繰り返し表面に出ていた問題であった。エチレン年産30万トン設備は1969年から1972年にかけて9基が完成し、業界の能力は500万トンに達する見通しとなる。ところが需要は停滞し、1972年3月18日、エチレンメーカー12社は公正取引委員会へ不況カルテルの結成を申請、同年4月15日に認可された。設備を大型化して伸びる需要を取り込むというやり方は、このとき終わっていた[1]。
三十年近く経った2000年末でも、国内のエチレン生産能力は年約770万トン、国内需要は600万トン強にとどまった。過剰分は輸出で吸収してきたが、シンガポールや中国でエチレンの大型プラントが動き出す。2004年までには輸入関税が段階的に引き下げられ、ポリエチレンなど川下の汎用樹脂にも輸入品が入ってくる。需給の差を埋めるには、50万トン級の設備を4基分ほど統廃合する必要があった[2]。
三井・住友の統合と、遅れた再編
2000年、住友化学工業と三井化学が2003年10月の全面統合を正式に表明した。三菱化学のエチレン生産能力は1999年12月末で155万トンと国内首位、連結子会社の日本ポリケムもポリエチレンとポリプロピレンで首位にあったが、統合が実現すれば順位は入れ替わる。三井・住友に収益力で劣る三菱化学にとって、看板を失う打撃は小さくなかった[3]。
一方、三菱化学の事業統合は同業に遅れていた。ポリオレフィンでは1996年に東燃化学と日本ポリケムを設立したものの、当初移したのは販売部門だけで、全業務の移管は1998年11月にずれ込む。そのときには旭化成や東ソーがポリプロピレンから撤退していた。再編が遅れたのは、「三菱」と「総合化学国内最大手」の看板への執着から不採算事業を整理できなかったからだともいわれた[4]。
決断
5社「同盟」の中身
2001年6月7日、三菱化学、昭和電工、チッソ、東燃化学、日本石油化学の5社は、ポリエチレンとポリプロピレンの両事業を統合すると発表した。ポリエチレンでは、三菱化学65%・東燃化学35%出資の日本ポリケムと、昭和電工65%・日本石油化学35%出資の日本ポリオレフィンを、2002年4月をめどに設立する新会社へ移す。ポリプロピレンでは、日本ポリケムとチッソが2002年7月をめどに共同設立する新会社へ移す[5]。
どちらの新会社も、日本ポリケムが過半を出資する予定であった。両事業の統括会社は生産能力で三井・住友連合を抜き、国内首位に立つ見込みとなる。三井化学と住友化学工業は2001年10月に汎用樹脂事業を統合し、2004年には全面統合へ進む計画で、5社の「同盟」は、これに正面から対抗した。デュポンやBASFなど欧米大手が大型合併で規模を広げ、東南アジアへの進出を強めていた事情も重なっていた[6]。
「下位抱き込み」への疑問
同時代の評価は好意的ではなかった。日経ビジネスは2001年1月29日号で、三菱化学の汎用2大樹脂の戦略を「下位メーカーの抱き込み」と呼び、自社より小さい相手を選んで主導権を確保しながら規模を広げる従来型の吸収戦略が激しい世界競争に通用するかを疑った。統合会社のポリエチレン年産能力は約130万トンで、合併を表明していた米ダウ・ケミカルとユニオン・カーバイドの計800万トンには遠く及ばない[7]。
統合の相手からも留保がついた。昭和電工の大橋光夫社長は「統合するだけでは強くなれない」と述べ、コスト競争力は統合後の設備集約と要員削減にかかると指摘した。新会社は株主が4社に及び、三菱化学主導といっても意思統一に手間取る恐れがある。水島でコンビナートが隣接し統合効果が最も見込まれた旭化成の山本一元社長も、「日本の小さな設備で作る汎用樹脂はいずれ負けてしまう」と語って統合を否定した[8]。
結果
過半を捨てる表明へ
統合の発表から4か月後、三菱化学は主導権そのものを手放した。2001年10月の「今後の経営対策」で、エチレン、プロピレン、ベンゼンなど石化基礎原料については自助努力だけでは限界があるとし、分社化も選択肢に他社との提携を柔軟かつ積極的に進めると言明する。共同出資する際も過半数にはこだわらないとした。生産能力で国内首位のエチレンでさえ、主導権を条件から外した[9]。
正野寛治社長は他社に向けて、「すべてのことが自分でできる時代は終わり、お互いに少し我慢して過剰設備の整理ができないか」と呼びかけた。前年1月には小規模で老朽化した四日市事業所のエチレン設備を止めて鹿島・水島へ生産を集めていたが、一社では解けない規模の問題になっていた。統合の相手としては、ポリオレフィンで縁のできた東燃化学、日本石油化学、昭和電工の名が挙がった[10]。
2社体制への改組と、届かなかった収益
統合そのものは形になった。三菱化学は2003年6月に日本ポリケムを完全子会社化し、同年10月、ポリオレフィン事業の再編にあわせて日本ポリケムをポリプロピレンの日本ポリプロへ改組する。あわせて、日本ポリプロと日本ポリエチレンの株式保有を目的とする同名の日本ポリケムを新たに発足させた。2001年に描いた5社の統合は、樹脂2社を中間持株会社が束ねる体制へ落ち着いた[11]。
一方、本体の収益は戻らなかった。2002年3月期の連結売上高は1兆7,803億円、経常利益は71億円にとどまり、当期純損益は453億円の赤字となる。1994年に三菱化成と三菱油化が合併して発足して以来、はじめての無配に落ちた。売上高の3割強を占める石化部門は営業利益率が1%に届かず、市場は三菱化学を「三菱『製薬』」と呼んだ。樹脂の統合は、そこまでは届いていなかった[12][13]。
- 週刊東洋経済 2001年6月23日号「石油化学 三井‐住友連合に対抗 三菱化学が盟主奪還へ合成樹脂5社“同盟”結成」
- 週刊東洋経済 2000年12月9日号「正念場 三井―住友―東レ統合?! ライバル三菱化学が迫られる対抗策の手の内」
- 日経ビジネス 2001年1月29日号「三菱化学の下位抱き込み戦略に疑問符 4社連合で住友・三井に対抗も、国際競争力に不安」
- 週刊東洋経済 2002年2月2日号「三菱化学 脱「総合」、事業再編へ追い込まれた業界最大手」
- 有沢広巳監修『日本産業史 3』(日経文庫, 日本経済新聞社, 1994)「化学-プラントの大型化を経て成熟化」
- 三菱化学 有価証券報告書【沿革】
- 三菱化学 有価証券報告書(2002年3月期・連結)