三菱化学三菱化成生命科学研究所の設立と、ライフサイエンス分野への再参入

石油化学の拡大が続くさなかに、営利を目的としない基礎研究所をなぜ抱えたか

時期 1971年6月
意思決定者(推定) 篠島秀雄 社長
論点 基礎研究への資源配分と多角化の方向
概要
1971年6月、三菱化成工業が三菱化成発足20周年の記念事業として三菱化成生命科学研究所(東京都町田市)を設立し、ライフサイエンス分野に本格的に取り組み始めた経営判断。資本金2億5,000万円の別会社とし、初代所長に東京大学を退官した生化学者の江上不二夫氏を迎えた。
背景
石油化学の量的拡大は1970年前後に伸びが鈍り、1971年5月には産業構造審議会が知識集約型の産業構造への移行を提言していた。三菱化成工業は戦前から医薬を手掛けながら、石油化学へ資源を集中するため1957年に撤退しており、医薬分野へもう一度入る意向を残していた。
内容
研究所は三菱化成工業とは別会社として発足し、第一期工事に40数億円を投じた。江上不二夫所長は目的を人類の福祉に寄与することと定め、全く営利目的でないと謳っている。重点は微生物・脳神経・発生生物学の3分野で、医薬品開発の部隊ではなく基礎研究の場に置かれた。
含意
論文数は1972年の22件から1983年に191件へ増え、好熱細菌の研究は制限酵素の商品化に結びついた。一方、医薬事業の再開後初の自社開発品となる抗喘息薬の発売は1984年で、設立から13年を要した。費用対効果をめぐっては「研究者の楽園」という評価もついて回った。
筆者の見解

測れない投資を、測れないまま持ち続けたこと

売上高2,000億円台の会社が、営利を目的としないと明記した研究所を20周年の記念事業として別会社で抱えた。医薬から一度撤退した会社が戻る道に選んだのは、製品開発の部隊ではなく基礎研究の場である。研究の自由も発表の自由も所長の求めるまま認め、年間経費は10数億円に据えた。すぐ金にはならないと所長自身が言う組織へ、その額を10年以上出し続ける決定だった。

営利から切り離した設計は、成果を測る基準も社内から取り上げた。抗喘息薬が出るまでに13年、生命研は全研究開発費の1割を使い続け、山谷渉常務が楽園だと甘えてもらっては困ると釘を刺す関係になった。研究員の平均年齢は10年で10歳上がり、増員しない設計が新陳代謝を止めている。それでも、制限酵素の事業化も、1990年までにバイオで10%という1985年の目標も、13年分の蓄積がなければ書けない数字であった。この多角化で三菱化成工業が実際に払ったのは、すぐには測れないものへ13年間金を出し続けるという負担だった。

Yutaka Sugiura, 2026年7月

背景

量の拡大が鈍り始めた石油化学

1960年代の石油化学は、エチレンプラントの大型化競争として拡大した。通商産業省はエチレンプラントの最小規模を年産10万トンと定め、1967年には30万トンへ引き上げている。ところが1970年を境に国内需要の伸びは鈍り、1971年には汎用プラスチックが不況に入って、塩化ビニール樹脂が不況カルテルの結成を公正取引委員会に申請した。同じ1971年5月、産業構造審議会は重化学工業優先から知識集約型の産業構造へ移るべきだと提言している[1]

提言を受け、石油化学各社はファインケミカル、エンジニアリングプラスチック、情報関連、ライフサイエンスへ向かった。まず目立ったのが医薬品部門への進出で、1971年8月に三井東圧化学が三井製薬工業を設立し、三菱油化も三菱油化薬品を設立している。三菱化成工業の生命科学研究所設立は、この動きの先頭に数えられた。ただし三菱化成工業にとって、それは白紙からの参入ではなかった[2]

一度手放していた医薬

三菱化成は戦前から医薬を手掛け、戦後はペニシリンやサルファ剤を発売した。武田薬品工業との合弁で、のちの吉富製薬の前身にあたる会社も作っている。ところが主力の抗生物質は競争の激化で採算が急速に落ちた。折しも勃興期にあった石油化学へ経営資源を集中するため、同社は医薬から戦略的に撤退する。1957年のペニシリン撤退が、その区切りであった[3]

撤退したあとも、医薬品分野へもう一度入りたいという意向は社内に残った。1960年代後半には環境問題と資源問題が注目され始め、化学会社として従来の製品だけでは足りないという認識も強まっていた。そこへ、米国に駐在していた社員が、米国ではライフサイエンスの研究が猛烈な勢いで進んでおり日本でも研究すべきではないか、という意見を篠島秀雄社長に伝える。1968年、ライフサイエンス構想を立ち上げるプロジェクトが企画室に置かれた[4]

決断

20周年記念事業として置かれた研究所

1971年6月、三菱化成生命科学研究所が発足した。三菱化成発足20周年の記念事業として行われたもので、篠島秀雄社長がかねてから化学の向かうべき新しい分野として練っていた構想の一つだった。初代所長には、同年に東京大学理学部教授を退官した生化学者の江上不二夫氏が就いた。顧問には心理学者の宮城音弥氏、物理学者の朝永振一郎氏らが名を連ねている[5]

江上不二夫所長には、日本にライフサイエンスの総合的な基礎研究所を作りたいという願いがあり、それが三菱化成工業側の構想と結びついた。研究所は資本金2億5,000万円の別会社として発足し、第一期工事に40数億円を要している。江上所長は研究所の目的を、生命科学の発展に寄与し、それを医学医療・環境保全・産業技術へ正しく導いて人類の福祉に寄与することと定め、全く営利目的でないと謳った[6]

営利から距離を置くという設計

江上不二夫所長が招きに応じた条件は、研究の自由と発表の自由、そして優秀な研究者を集めるだけの待遇と設備であった。本人が後に語ったところでは、その要求はすべて受け入れられている。研究所の年間経費は10数億円で、江上所長はこれを、どんな不況がきても三菱化成が維持できる規模だと説明した。研究員は補助員を含めて120人前後にとどめ、専門の違う者が互いに顔見知りでいられる大きさを保っている[7]

重点は微生物、脳神経、発生生物学の3分野に置かれ、医薬分野に重きを置きたい三菱化成工業の意向とは、いくらかずれた構成になった。篠島秀雄社長にも江上不二夫所長にも、ノーベル賞が出るようなアカデミックな研究所であってほしいという考えがあったためである。江上所長自身は、ここでの研究がすぐ金になるのではなく、生命科学の基礎を研究する研究所を持っていること自体が世界的な信用につながると述べ、企業化できそうな種があれば化成の中央研究所へ持ち込める態勢も敷かれていると説明した[8][9]

結果

研究の蓄積と、13年後の医薬品

研究の量は増えた。生命研の研究員が出した論文は1972年の22件から1983年には191件になり、研究員と特別研究員の合計も41人から94人へ増えている。設立以来の特許出願は130件余りにのぼった。高温でも生育する好熱細菌の研究は、遺伝子地図の作製や遺伝子組み換えに要る制限酵素の商品化に結びつき、三菱化成工業が生産し宝酒造が販売する事業になっている[10]

事業になるまでの距離は、しかし遠かった。1980年の時点で、副社長の丹羽丹氏は遺伝子組み換えの基礎技術がほぼ完成したとみながら、工業になるには米国でもあと5年はかかると述べている。医薬事業の再開後初の自社開発品となる抗喘息薬チオドールの発売は1984年で、研究所の設立から13年が経っていた。血栓溶解剤や人血清アルブミン、モノクローナル抗体といったバイオ由来の医薬は、まだ開発中だった[11][12][13]

「研究者の楽園」と営利のジレンマ

1985年、三菱化成工業は機能製品の売上構成比を1990年までに35%へ高める方針を掲げ、その内訳にバイオインダストリー10%を置いた。三菱商事との折半出資による植物工学研究所も動いていた。同じ時期、年間の試験研究費は約270億円に達し、経常利益の約300億円と並ぶ規模になっている。生命研はそのうち20億円余り、三菱化成工業の全研究開発費の1割を使っていた[14][15]

金額に見合う成果が出ているかについては、評価が割れた。ライフサイエンス室長を兼ねる山谷渉常務取締役は、まだまだ生命研の成果には満足できない、楽園だと甘えてもらっては困る、と手厳しく、大学関係者からも、あれだけの設備で10年以上研究したにしては今一つ、という見方が出ていた。研究員の平均年齢は設立当初の30数歳から40歳を超え、150人規模にとどめる設計が、そのまま新陳代謝の乏しさになっていた[16]

研究所の側にも言い分はあった。生物地球化学研究室長の和田英太郎氏は、自分の研究は9割方は三菱化成の役に立っていないと平然と語りつつ、環境問題に直結する研究であり長期的には利点があるはずだと強調している。基礎研究を経営がどう評価するかという問題は、設立から13年を経ても片づいていない。生命研が果てしない先行投資に終わるのか、新時代への底力にまで育つのか、当時は結論を出しにくいとみられていた[17]

出典・参考
  • 証券アナリストジャーナル 1976年12月号「三菱化成工業 ライフ・インダストリーのさきがけとして」(藤井芳郎 常務取締役・講演要旨)
  • 証券アナリストジャーナル 1985年6月号「三菱化成工業 先端分野へ積極進出」(宮部義一 常務取締役財務部長・講演要旨)
  • 日経ビジネス 1978年12月4日号「技術対談 脳機能を情報処理などへ 生物現象の応用法探る」(江上不二夫 三菱化成生命科学研究所所長)
  • 日経ビジネス 1980年8月11日号「技術対談 基礎ほぼ完成,物質特許が成長に拍車」(丹羽丹 三菱化成工業副社長)
  • 日経ビジネス 1984年11月26日号「三菱化成の生命科学研究所 “研究者の楽園”も営利と理想のジレンマに悩む」
  • 週刊東洋経済 1999年2月27日号「三菱化学を呑んだ生命科学(ライフサイエンス)の怒濤」
  • 日本産業史 第3巻(日本経済新聞社、1994年)「化学-プラントの大型化を経て成熟化」
  • 三菱化成工業 会社年鑑1976年版(単体業績・上下期合算)

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