家庭用ビデオへの参入とVHS陣営への後発合流
オーディオに次ぐ第2の柱を、なぜ規格を持たないビデオに求めたのか
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- 概要
- 1975年、輸出比率9割の音響機器メーカーだった赤井電機が、オーディオに次ぐ第2の柱として家庭用ビデオテープレコーダーに参入し、規格競争では後発でVHS方式を採用した経営判断。テープ駆動技術の延長線上で新市場を選んだが、規格を握る中核企業ではなかったため収益に結びつきにくい柱となった。
- 背景
- 縦型テープレコーダーと現地代理店網で築いた輸出特化モデルは、1973年の実質創業者・赤井三郎氏の急逝と競合各社の追随で優位が薄れつつあった。テープ駆動を核とするビデオはオーディオと技術的な親和性が高く、次の成長市場と見込まれた。
- 内容
- 1975年11月に家庭用ビデオへ参入。VHS対ベータマックスの規格競争には出遅れ、後発でVHS方式に合流した。1969年に独自の「アカイフォーマット」を開発した蓄積はあったが、家庭用の規格争いでは中核企業の側に立てなかった。
- 含意
- 後発でVHSを採るとライセンス収入は得られず、量産販売だけでは利益率が伸びなかった。1988年にはビデオ関連が売上の過半を占めたが薄利で、オーディオ時代の輸出高収益モデルとは異なる収益構造を抱え込んだ。国内製造・海外販売という構造の脆弱性が、のちの円高で表面化していく。
型を替えられなかった代償
この判断の核心は、テープ駆動という技術の連続性を頼りに、オーディオの成功の型をそのままビデオへ持ち込もうとした点にある。優れた機器を数多く作って世界の販売網に載せるという赤井電機の強みは、規格そのものを握る企業が利益の源泉を押さえる家庭用ビデオでは、そのまま通用しなかった。後発でVHSに合流した以上、量を売るほど陣営の中核を利する立場は初めから定まっていたとみることができる。技術の親和性の高さが、事業として稼げるかどうかを覆い隠していた面がうかがえる。
もっとも、ビデオが薄利であっても、赤井電機はここで別の柱を育てる猶予をなお持っていた。実際に売上の過半を占めるまで成長した事業を、収益性の低さゆえに畳むのは容易ではない。売上規模の拡大と採算の悪化が同時に進むなかで、輸出偏重の構造は円高でいっそう重くなり、のちの三菱グループ支援下の再建へとつながっていく。自社の強みが通じる市場を選ぶのか、強みの通じない市場で型を作り替えるのか——赤井電機のビデオ参入は、成功した輸出企業が次の柱を選ぶ難しさを、早い時期に映した一例といえる。
Yutaka Sugiura, 2026年7月
背景
輸出特化モデルの成熟と第2の柱の必要
赤井電機は、縦型テープレコーダーと世界各地の代理店網を組み合わせた輸出特化のモデルで、独立系の中堅ながら「猛烈高収益会社」と呼ばれる地位を築いていた。1968年の東京証券取引所第二部への上場時には売上高純利益率が12.8%に達し、売上に占める輸出の比率は9割前後に及んだ。テープデッキで世界を席巻したこの成功は、商社を通さず現地の代理店・販売子会社と直接取引する高採算の仕組みに支えられていた[1][2]。
しかし、1973年12月に実質創業者の赤井三郎氏が急逝すると、後継をめぐる社内の争いで意思決定が滞り、創業者個人の統率に依存してきた組織のもろさが表に出た。競合するソニーやパイオニアなどが相次いでオーディオ機器の輸出を本格化させたことで、赤井電機が先んじて開いた輸出モデルの独自性も薄れつつあった。オーディオの成功に続く第2の事業の柱をどこに求めるかが、経営の課題として重くのしかかっていた[3]。
テープ駆動技術とビデオ市場の勃興
赤井電機は、オーディオメーカーのなかでも磁気記録の技術に長く取り組んできた会社だった。1969年には独自の「アカイフォーマット」を開発し、それ以前にも固定ヘッド方式のビデオを手がけていた。オープンリールからカセット、そしてビデオへと、テープを介した磁気記録の系譜に厚みを持っていた。家庭用ビデオはテープ駆動機構を核とする製品であり、テープレコーダーで蓄えた技術との親和性は高いと見込まれた[4]。
1970年代半ばの家庭用ビデオは、各社が方式の主導権を争う黎明期にあった。日本ビクターのVHSとソニーのベータマックスが陣営を組み、規格の中核に立つ企業は採用各社からライセンス収入を得られる立場にあった。テープ駆動の技術を持つ赤井電機にとって、この新市場はオーディオに次ぐ成長の場と映った。もっとも、規格を主導する側に回るのか、既存陣営に合流するのかで、得られる利益の構造は大きく変わった[5]。
決断
1975年、後発でのVHS合流
1975年11月、赤井電機は家庭用ビデオへの参入に踏み切った。オーディオに次ぐ新たな事業の柱をビデオに定め、テープ駆動機構の技術的な蓄積を新市場へ持ち込む選択だった。ただし規格の主導権を争う段階では出遅れており、参入にあたっては後発としてVHS方式に合流する道を採った。独自方式で陣営を張るのではなく、普及の見込める規格に相乗りして量産で稼ぐという構えであった[6]。
この選択には、オーディオ時代の成功体験がにじんでいた。優れた製品を作り、世界の販売網に載せて量で稼ぐという赤井電機の型は、テープレコーダーでは高い採算を生んだ。ビデオでも同じ型を再現できるとみて、規格そのものを握る労より、良質な機器を数多く売る道を選んだといえる。だが規格の中核に立たない後発参入は、量を売るほど陣営の中核企業を利する構造をあらかじめ抱えていた[7]。
結果
主力化した薄利のビデオ
ビデオはやがて赤井電機の売上を大きく押し上げた。1988年にはビデオ関連事業が売上高の半分以上を占め、1989年11月期にはビデオ部門が売上の59%に達した。しかし規格の中核企業ではなかったためライセンス収入は得られず、量産販売だけでは利益率が伸びなかった。売上は膨らんでも利益が伴わないという構造が、オーディオ時代の高採算とは対照的な姿として定着していった[8][9]。
さらに、売上の大半を輸出に頼り生産を国内に集中させる構造は、為替の変動に弱かった。オーディオ時代に成功を支えた輸出高収益モデルは、円高が進むと一転して採算の重荷になる。1982年には欧州の販売子会社が相次いで債務超過に陥り、親会社は32億円の特別損失を計上した。本社が現地の在庫や売掛金を把握できない放任経営のもろさも露呈し、量で拡大したビデオ事業は、規格競争の敗北と為替の脆弱性という二重の弱みを抱え込んでいった[10][11]。
- 日経ビジネス 1990年4月9日号「岡田眞氏(赤井電機社長)『賽の河原』で苦闘の4年間」
- 日経ビジネス 1983年8月8日号「海外でほころび目立つ“国際派”企業」
- 赤井電機 02-history(ビデオ参入と規格競争での出遅れ)
- 大阪経済評論(1968年12月・NDLデジタルコレクション)