西本貫一が売ったのは写真の機械ではなく、待ち時間の短縮である。報国写真館で戦死者の遺影を一時間で返したときも、米兵のポートレートを二日で焼き上げたときも、十倍の料金が付いたのは仕上がりの出来ではなく速さだった。停電で止まる水洗工程を水の重さで動かした自動水洗機は、その速さを人の段取りから機械の側へ移した最初の製品にあたる。大型現像所向けの自動現像機で国内の8割を占めたあとに、四十五分で仕上げるQSSへ向かったのも同じ線上にある。写真店の店主として、客が何に金を払っているかを取り違えなかった。
ただし待ち時間を売る商売は、自分の得意先とぶつかる。四十五分で仕上がる機械が店頭に置かれれば、フィルムを集めて一括処理する大型現像所は存在の理由を失う。1976年のQSS-1型が国内で売れなかったのは性能の問題ではなく、売れば既存の取引を壊すという構造の問題だった。西本が自ら米国へ渡ったのは、その構造を持たない市場がそこにしかなかったからである。広い国土と車社会は、待ち時間の価値が最も高い場所でもあった。1985年に年商250億円の8割が輸出だったのは、外を選んだ結果というより、内で売れなかった帰結である。
1943年4月、西本貫一氏は和歌山市で報国写真館を開業した。中国戦線で左手に貫通銃創を負って傷痍軍人として帰国し、右手だけでも続けられる仕事として写真技師の道を選んでいる。開業してまもなく軍の撮影を引き受けるようになったが、出征前の召集兵は一度に数百人を撮らねばならない。西本氏はカメラの位置を固定したうえで全身・七分身・半身の構図ごとにあらかじめピントを合わせておき、兵が立った位置でそのまま切る段取りに改めた。出納と撮影番号の記録には助手を雇い、撮影から切り離している。戦死者の遺影の引き伸ばしも、十日かかると答える同業が並ぶなかで一時間で返した。速さは設備ではなく段取りから出ていた。
1945年4月、和歌山市で第一回の強制疎開が行われ、元寺町の報国写真館も対象となって立ち退いた。西本氏は空襲の被害を抑えるため、あらかじめ写真材料を知人宅や複数の倉庫へ分散させており、市街が焼けたあとも材料を手元に残していた。終戦後は焼け残った空き家を見つけて営業を再開し、和歌山に駐留した米軍の兵士を相手にポートレートを撮っている。いつ移動するか分からない兵士は数日も待てない。西本氏は一般の十倍の料金を取るかわりに二日で焼き上げ、一日平均五十枚を撮って1945年8月からの約半年を不眠不休で働いた。同じく米兵相手に店を開いた他の写真店は、ほどなく材料不足に陥っている。差は疎開させるという判断ひとつで付いた。
水洗の工程はモーターでドラムを回す方式だったが、電気の供給が安定せずたびたび停電し、途中で止まると印画紙が変色した。撮り直しのできない写真が変わり果てるこの不具合は、全国の写真館に共通していた。西本氏が考えたのは、電気に頼らず水そのものの重さで動き、必要な時間だけ水洗を続ける機械である。その写真印画紙自動水洗機を作って売り出したのが1951年3月で、一台5万円で約1万台が売れ、売上は5億円に及んだ。特許の取得を足場に、1956年6月には和歌山市関戸で資本金100万円の有限会社ノーリツ光機製作所を興した。自身の作業場で感じた不便を製品に仕立て、写真館の主人は機械メーカーへ転じたのである。
1961年11月、ノーリツ光機製作所は株式会社へ組織を変更してノーリツ鋼機となり、西本氏が代表取締役に就いた。同月、基幹現像所向けの白黒フィルム自動現像機RF-20Eを売り出している。写真処理機の市場は規模が小さく大企業の参入が起こりにくいため、国内の主要メーカーは戦前からの先発企業を含めて三社にとどまっていた。そのなかで訴求点に選んだのは耐久性である。現像液や定着液に触れる部分に他社が塩化ビニルを使っていたのに対し、モリブデンを含むステンレスとチタンを採り、表面研磨や製造方法から研究し直した。処理時間や薬品の処方は感光材料メーカーが指定するため、機械の側で差を付けられるのは腐食への強さだけだという読みである。
1964年7月のカラーフィルム自動現像機RF-C1と、翌年のカラーペーパー自動現像機CS-300で、ノーリツ鋼機はカラー化に機械を合わせた。販路は富士写真フイルムのチェーンラボを通す形を取り、売上高は1967年に約2億8千万円、1968年に4億5千万円、1969年に6億5千万円と伸びている。やがてサクラ・三菱・コダック系の現像所へも納め、国内の大型ラボ市場で8割を超える占有率を得た。もっとも8割といっても実体は感光材料メーカーへの供給に近く、このままでは下請けに甘んじるという危機感が西本氏にはあった。機械は他社の販売網に乗って売れており、買い手と直に向き合う関係にはなっていなかった。
機械の販売を支えたのは、売ったあとの体制だった。1964年3月の東京を皮切りに、1966年に福岡、1967年に名古屋と札幌、1970年に広島、1971年に仙台、1973年に大阪へサービスセンターを置いている。カラーの自動現像機は止まれば現像所の作業そのものが止まるため、故障への即応が購入の条件になった。一方、和歌山市には機械工業の関連産業が乏しく外注先に恵まれなかったことから、旋盤・プレス・溶接・塗装まで自前で抱える一貫生産の体制になっている。工業所有権は1975年までに特許50件・実用新案30件を数え、開発には24人の専従組織を置いた。1975年の売上高は約30億円、従業員は267名である。
1973年の石油ショックで受注が落ち込み、大型ラボに偏った顧客構成の限界が表れた。消費者がDPE店へ預けたフィルムは仕上がりまで二、三日を要していたが、現像と焼き付けにかかる時間そのものは二時間ほどで、残りは現像所へ運ぶ時間と処理量がまとまるまでの待ち時間だった。米国やカナダのように国土の広い国では、写真店から現像所へ航空便で送るため三日から七日を要している。この流通経路を外して店頭で処理すれば待ち時間は消える。西本氏は客が待てる限界を一時間と見積もり、1976年6月に四十五分で仕上げるQSS-1型を完成させた。ところが印画紙を送るローラー・トランスポート方式で紙詰まりと傷が生じ、四、50台で製造を打ち切っている。
1979年3月、ノーリツ鋼機はQSS-2型を発表した。印画紙を屋根の樋のように湾曲させて腰を持たせ、わずかな力で自走させるセルフ・サポート・ドライブ方式を独自に編み出して、紙詰まりを解いている。同時にコンピュータを載せ、薬液の温度調節と補充を自動で制御した。ただし国内では、店頭処理機が従来の得意先である大型現像所と正面から競合する。西本氏は国内で思うように売れないと見て、生き残りを賭けて自ら米国へ渡った。車社会を前提にすれば、大型スーパーで買い物をしている間に仕上げれば客は次の週まで待たずに済む。前年の1978年12月には、カリフォルニア州に販売子会社NACを設けている。
米国市場を開いたのは一台の機械だった。カナダ総代理店ジャパン・カメラがナイアガラの滝の近くで営むDPE店にQSSを置いたところ、撮ったばかりの写真がその場で見られると評判になり、ニューヨーク・タイムズが報じて注文が殺到した。1980年1月に英国、1982年1月に西ドイツ、1984年7月に香港へ販売子会社を置き、商社を介さず自社の網で売っている。1982年度の経常利益は69億3,200万円と前年度の3.6倍に達し、紀陽銀行を抜いて和歌山県の法人所得で首位に立った。西本氏は利益が出過ぎることを嫌い、翌1983年に設計開発のノーリツ研究センターと輸出入の西本貿易を分離している。1985年には年商250億円の8割が輸出で、QSSは85カ国へ出ていた。
1986年のノーリツ鋼機は、ミニラボ世界市場の8割を握りながら資本金4,800万円の非上場会社だった。西本貫一にとって株式の公開とは、写真を知らない者に投資の判断を渡すことでしかない。その構えを十年で覆させたのは、市場が広がったことではなく、規格を決めるのが自分たちではないという条件だろう。処理の処方は感光材料メーカーが指定し、フィルムの規格が変われば機械は作り直しになる。1996年の新写真システムがまさにそれで、対応機は規格の発表前から用意しなければ間に合わない。先行投資を続ける体力は、一人の資本では支えきれない。
市場占有率という数字は、需要そのものが続くことを前提にしたときだけ意味を持つ。1999年のノーリツ鋼機は国内50.5%、米国57.2%を握り、世界では14万台を超えるミニラボが動いていた。デジタルカメラが普及しても撮影枚数は増えるため紙への出力は減らない、という同社の読みは、出力が銀塩に残るかぎり正しい。誤っていたのは、その出力を誰が請け負うかという部分である。街の写真店とDPE店が受け皿として存在し続けることを、同社も業界も疑わなかった。機械を置く場所が消えるとき、占有率は何も守らない。
1983年度のカラー写真処理機の国内占有率は9割を超え、ミニラボは世界市場の8割に達した。売上高は1980年度の70億円から1985年度の260億円へ、輸出比率は40%から80%へ動いている。それでいて従業員は910人、資本金は4,800万円にとどまった。西本氏は株式の公開にも増資にも踏み切らず、写真業界を知らない株主が重要な投資に口を挟めばワンマン経営ができなくなる、上場に意味は見いだせないと述べている。1985年8月には和歌山市梅原に本社工場を竣工させ、67万平方メートルの敷地へ工場と事務所棟、研修棟を並べている。売上規模に比して資本金が極端に小さいのは、意思決定を一人に集めておくための構えであった。
1993年の時点でも、同社は世界のミニラボ市場の約六割を押さえていた。自ら一社で切り開いた市場だったが、規模が広がると後を追う会社が現れ、1980年代後半には同じ種類の製品を出すメーカーが複数に及んでいた。そのなかでシェアを保てたのは、新製品で先を行くことと保守の仕組みの二つによる。前者の例がQSS-12型で、1988年に開発されたこの機種は、印画紙を露光するレンズにズームレンズを業界で最初に採用した。後者では、納めた機械の一台ごとに納入の時期と故障の履歴を記したカルテを作っており、1970年代後半にはそれをデータベースに移している。外からは見えにくいこの蓄積が、競合の参入を阻む壁になった。
西本氏は販売を商社に任せることを避けた。間に業者が入れば最初こそ大量の注文が来るが、止まったときに客の反応が分からないという理由で、国内でも海外でも自社の販売網を持つべきだと語っている。営業担当者には機械を売り込むのではなく、その店が発展する方法を考えて情報を提供せよと指示した。1993年3月期の売上高は約450億円で、内訳はミニラボが8割、大型ラボが1割、部品が1割である。1990年には写真業界最高の栄誉とされるPMA HALL OF FAMEに選ばれ、翌1991年には日本人として初めて米ロチェスター大学の法学博士号を受けた。
1996年2月14日、ノーリツ鋼機は大阪証券取引所市場第二部へ株式を上場した。十年前に上場の利点を認めなかった会社が、創業から数えて53年目に公開市場へ出たことになる。上場時点のミニラボ市場占有率は国内47.5%、日本を除く海外50.2%で、販売子会社16社・駐在員事務所6か所・支店1か所の販売網を自前で持っていた。同社は研究開発から製造・販売・保守までを自社で抱える一貫体制を強みとし、顧客の要望を新製品へ短期間で反映できることを差別化の根拠に置いている。機械は富士写真フイルム・コニカ・三菱製紙・コダックのいずれの感光材料にも対応させ、顧客が機器と感材を別々に選べる状態を保った。参入障壁は機械の性能ではなく、機械を売ったあとに続く関係の側にあった。
1996年2月1日、感光材料・フィルム・カメラの各メーカーが新写真システムを発表し、四月から市場へ出た。フィルムの規格が三十五ミリから変わるため対応する処理機が要る。ノーリツ鋼機は発表に先んじて1996年1月から対応機器の販売を始め、大型現像所から小規模なミニラボ店まで四つの階層すべてに機種を用意した。1995年10月のロンドンと1996年2月のラスベガスの展示会に出展し、規格が動く前にインフラを置きにいっている。感光材料メーカーが規格を決める産業で、処理機メーカーが採れる手は、決まった規格へ最も早く機械を合わせることだけであった。
1997年9月に大阪証券取引所市場第一部へ指定替えとなり、同年11月7日には東京証券取引所市場第一部へ上場した。同年7月、西本氏らが保有株の売出しを実施して同社は非同族会社となり、留保金課税が外れている。七月14日の百株への括り直しと月末の230万株の売出しによって株主数は大きく増え、翌年3月末の株主に対して優待制度を設けた。1997年9月中間期の売上高は312億87百万円で前年同期比1.1%増、株主資本比率は78.4%に達している。1998年3月期は売上高585億円、経常利益110億円を見込み、二期続けての最高益を計画した。創業者が一人で握っていた資本は、二年のうちに市場へ開かれた。
上場と前後して、収益を支える地域が入れ替わった。1997年9月中間期の地域別売上は国内40.4%、南北アメリカ18.6%、欧州18.4%、アジア・オセアニア17.7%であったが、1999年9月中間期には国内が30.8%へ落ち、南北アメリカが38.1%へ上がっている。1997年のアジア通貨危機ではタイ・マレーシア・インドネシアの通貨切り下げで販売が苦しくなり、日本と北米の強化でこれを補った。米国での占有率は1998年12月時点で57.2%に達し、現地にミニラボメーカーが存在しなかったことがその背景にある。従来は手を出さなかったドラッグストアなどのチェーン店へ営業方針を転じたことも効いた。
1997年10月のロンドンの展示会では、テーマにデジタルが掲げられた。デジタルカメラで撮った画像も、安く効率よく出すなら従来の銀塩印画紙へ出力するほうがよいという方向が示され、デジタル処理に対応したQSS-23型の需要が伸びている。翌1998年10月には新機種QSS-2611を投入した。研究開発費は1996年度の31億7,400万円から1999年度の52億9,400万円へ膨らみ、普通の写真からハイブリッド、さらにフルデジタルへと同時に開発を求められる状態になった。規格が動くたびに機械を作り直す産業では、開発費は売上より速く増える。
同社はデジタルカメラの普及を脅威とは見ていなかった。フィルムが要らなければ消費者は撮影枚数を増やすので、紙に出す総量はむしろ増える。一般の消費者は手間をかけられないから、どこかに頼んで出力するようになるというのが1999年時点の読みである。世界で稼働するミニラボは1998年12月時点で14万3,886台、国内占有率は1999年8月で50.5%に達していた。2000年3月期は売上高539億円を計画している。読みのうち出力先が銀塩に残るという部分は当たったが、出力を請け負う街の写真店そのものが消えるという筋書きは、この時点の見立てに入っていなかった。
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|---|---|---|---|---|
| 1943〜1985年報国写真館から写真印画自動水洗機へ、QSS-2型ミニラボで米国市場を開く | 西本貫一 | ノーリツ鋼機を設立 | ★ | |
| 西本貫一 | 基幹現像所用白黒フィルム自動現像機RF-20E販売開始 | ★ | ||
| 西本貫一 | 基幹現像所用カラーフィルム自動現像機RF-C1販売開始 | ★ | ||
| 西本貫一 | QSS-1型ミニラボを開発 | ★★ | ||
| 西本貫一 | NAC Corporationを販売会社として設立 | ★ | ||
| 西本貫一 | コンピュータ搭載のQSS-2型完成 | ★ | ||
| 西本貫一 | NORITSU (UK) LIMITEDを販売会社として設立 | ★ | ||
| 西本貫一 | NORITSU (FAR EAST) LIMITEDを香港に設立 | ★ | ||
| 西本貫一 | NORITSU SINGAPORE PTE LTDを設立 | ★ | ||
| 西本貫一 | 本社工場が竣工 | ★ | ||
| 1986〜1999年ミニラボ世界シェア首位の確立と、大証二部・東証一部への上場 | 西本貫一 | NORITSU KOKI AUSTRALIA PTY. LIMITEDを設立 | ★ | |
| 西本貫一 | 大阪証券取引所市場第二部に上場 | ★ | ||
| 西本貫一 | 大阪証券取引所市場第一部に指定 | ★ | ||
| 西本貫一 | 東京証券取引所市場第一部に上場 | ★ | ||
| 2000〜2012年ミニラボ市場の縮小と医療・農業への新規事業設立、創業家による経営陣の刷新 | 茶山幸彦 | 創業家2代目の動議による経営陣刷新 2008年、創業者の孫にあたる西本博嗣氏が株主提案の動議で経営陣の刷新を主導し、写真現像機メーカーから事業ポートフォリオを組み替える投資会社型へ会社の性格を移した判断。2010年4月に西本博嗣氏自身が社長へ就任した。 詳細を読む | ★★★ | |
| 茶山幸彦 | NKリレーションズを設立 | ★ | ||
| 茶山幸彦 | NKアグリを設立 | ★ | ||
| 西本博嗣 | ドクターネットを買収 | ★★ | ||
| 西本博嗣 | 新設分割によりNKワークスを設立し持株会社体制に移行 | ★★ | ||
| 2013〜2026年日本医療データセンター買収を軸とする事業入れ替えとNKワークス・ハルメクの譲渡 | 西本博嗣 | 医療・シニア・農業の連続買収による事業ポートフォリオの組み立て 2009年から2013年にかけて、ノーリツ鋼機が医療・シニア向け通販・農業の会社を相次いで買い集め、写真処理機器に代わる収益源を組み立てた判断。2013年3月29日の取締役会でオリンパスビジネスクリエイツからの4社取得を決議し、5月2日に株式を取得した。この1件で買収の頻度と規模がいちばん高まった。 詳細を読む | ★★★ | |
| 西本博嗣 | テイボーを買収 | ★★ | ||
| 西本博嗣 | NKワークスを譲渡 | ★★ | ||
| 岩切隆吉 | AlphaThetaを買収 | ★★ | ||
| 岩切隆吉 | 買い集めた医療・シニア・農業事業の連続譲渡と、製造事業への集約 2018年から2020年にかけて、ノーリツ鋼機が2010年代前半に買い集めた医療・シニア・農業・保険の事業を相次いで手放し、コア事業を"ものづくり"に絞り込んだ判断。売却と並行してDJ機器のAlphaThetaを取得した。 詳細を読む | ★★★ | ||
| 岩切隆吉 | JMDCの一部株式をグループ外へ譲渡 | ★ | ||
| 岩切隆吉 | センクシアを買収 | ★ |
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事実根拠:出所(ノーリツ鋼機)