ノーリツ鋼機 の歴史

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創業 1961年
創業者 西本貫一
創業地 和歌山県和歌山市
創業 1961年11月、西本貫一氏が和歌山市で資本金300万円のノーリツ鋼機を設立し、
1961年11月、西本貫一氏が和歌山市で資本金300万円のノーリツ鋼機を設立し、基幹現像所向けの白黒フィルム自動現像機を売り出した。1964年にカラーフィルム用へ広げ、1976年6月には写真店の店頭に置けるQSS-1型ミニラボを開発している。フィルムを現像所へ送らず店内で45分に仕上げる機械で、1978年の米国を皮切りに欧州・南米・東南アジアへ販売子会社を設立し、代理店を介さず直接売った。写真処理機の世界シェアで首位に立ち、1997年11月に東京証券取引所第一部へ上場している。
決断 市場そのものが消えると見た時点で、製品ではなく事業を入れ替えた。デジタルカメラの
市場そのものが消えると見た時点で、製品ではなく事業を入れ替えた。デジタルカメラの普及で街の写真店が世界中で閉じ、一台数百万円のミニラボを買う相手はおよそ10年で消えた。2008年、創業家二代目の西本博嗣氏が株主提案の動議で経営陣を刷新し、事業投資会社型の経営へ転換した。2013年5月には日本医療データセンターやフィード、秋田ケーブルテレビなどを短期間で買い集め、医療・シニア・農業へ収益源を差し替えた。2016年2月には写真処理機を担ったNKワークスを譲渡し、創業事業から完全に撤退した。機械を改良して市場に留まるのではなく、機械ごと手放して需要の残る側へ移った。
現況 現在の売上高の9割はDJ機器とオーディオで、写真の機械は1台も作っていない。20
現在の売上高の9割はDJ機器とオーディオで、写真の機械は1台も作っていない。2020年4月にパイオニアのDJ機器事業を承継したAlphaThetaを、2021年には米オーディオブランドのJLabを取得した。並行して買い集めた医療・シニア・農業を連続して譲渡し、2022年2月には自ら育てた医療データ事業のJMDC株式の一部も譲渡している。2025年12月期の連結売上高は1,192億円、営業利益208億円で、音響機器関連が売上高1,075億円・営業利益242億円を占め、ペン先や化粧筆の部品・材料が117億円で続く。2025年からの中期経営計画FY30では、売上高の年平均成長率10%以上と営業利益率15%以上を掲げている。
競合 写真から離れた先が、かつての同業とまったく重ならなかった。銀塩写真の需要が消える
写真から離れた先が、かつての同業とまったく重ならなかった。銀塩写真の需要が消えるという同じ事態に、第二の創業として素材技術を転用した富士フイルムはフィルムの素材技術を医薬品と化粧品へ転用して応じたのに対し、ノーリツ鋼機は技術ではなく資本で事業を入れ替え、DJ機器とオーディオという無縁の領域へ移った。現在の相手は電機メーカーではなく、世界のDJ機材と民生オーディオのブランド各社である。連結売上高は写真処理機の全盛期にあたる2005年3月期の738億円を超え、2025年12月期には1,192億円へ伸びた。祖業を捨てた会社が祖業の全盛期の規模を上回るまでに、15年かかった。
長期業績の推移 1961〜2025年
ノーリツ鋼機:長期業績の推移(売上高・利益率)売上高(億円純利益率(%)
2002年3月期2025年12月期

第1章 1943年〜 報国写真館から写真印画自動水洗機へ、QSS-2型ミニラボで米国市場を開く

筆者考察y.sugiura, author

西本貫一が売ったのは写真の機械ではなく、待ち時間の短縮である。報国写真館で戦死者の遺影を一時間で返したときも、米兵のポートレートを二日で焼き上げたときも、十倍の料金が付いたのは仕上がりの出来ではなく速さだった。停電で止まる水洗工程を水の重さで動かした自動水洗機は、その速さを人の段取りから機械の側へ移した最初の製品にあたる。大型現像所向けの自動現像機で国内の8割を占めたあとに、四十五分で仕上げるQSSへ向かったのも同じ線上にある。写真店の店主として、客が何に金を払っているかを取り違えなかった。

ただし待ち時間を売る商売は、自分の得意先とぶつかる。四十五分で仕上がる機械が店頭に置かれれば、フィルムを集めて一括処理する大型現像所は存在の理由を失う。1976年のQSS-1型が国内で売れなかったのは性能の問題ではなく、売れば既存の取引を壊すという構造の問題だった。西本が自ら米国へ渡ったのは、その構造を持たない市場がそこにしかなかったからである。広い国土と車社会は、待ち時間の価値が最も高い場所でもあった。1985年に年商250億円の8割が輸出だったのは、外を選んだ結果というより、内で売れなかった帰結である。

ノーリツ鋼機の売上高 1967年から1985年まで(単体)(百万円)

280 67年 650 69年 1,240 71年 2,000 74年 25,000 85年
  • 出所は中小企業金融公庫月報 1976年1月号(1967年から1974年)と発明 1985年2月号(1985年)。

1943年〜戦時下の報国写真館と、停電のなかで動く写真印画自動水洗機

1943年4月、西本貫一氏は和歌山市で報国写真館を開業した。中国戦線で左手に貫通銃創を負って傷痍軍人として帰国し、右手だけでも続けられる仕事として写真技師の道を選んでいる。開業してまもなく軍の撮影を引き受けるようになったが、出征前の召集兵は一度に数百人を撮らねばならない。西本氏はカメラの位置を固定したうえで全身・七分身・半身の構図ごとにあらかじめピントを合わせておき、兵が立った位置でそのまま切る段取りに改めた。出納と撮影番号の記録には助手を雇い、撮影から切り離している。戦死者の遺影の引き伸ばしも、十日かかると答える同業が並ぶなかで一時間で返した。速さは設備ではなく段取りから出ていた。

  • 証券アナリストジャーナル 1996年4月号(池浦裕男・ノーリツ鋼機専務取締役)
    • [1]1943年4月、西本貫一が個人で報国写真館を和歌山市に開き、これを創業としている。
  • 近代中小企業 1985年2月号
    • [2]西本貫一は1939年に中国戦線で左手貫通骨折を負い傷痍軍人として帰国し、右手だけでできる仕事として写真技師を志した。
  • ノーリツ鋼機株式会社編『ノーリツ鋼機のあゆみ 創立四十三周年記念誌』(1993年)第一部立志
    • [3]報国写真館は軍の召集兵撮影で、カメラ位置を固定し全身・七分身・半身の構図ごとに事前にピントを合わせる方法を採った。
    • [4]金銭の出納や撮影番号の記録といった周辺業務は助手を雇うことで分担させ、撮影の速度を上げた。
    • [5]戦死者の遺影の引き伸ばしを、他店が十日を要すると答えるなかで一時間で仕上げた。

1945年4月、和歌山市で第一回の強制疎開が行われ、元寺町の報国写真館も対象となって立ち退いた。西本氏は空襲の被害を抑えるため、あらかじめ写真材料を知人宅や複数の倉庫へ分散させており、市街が焼けたあとも材料を手元に残していた。終戦後は焼け残った空き家を見つけて営業を再開し、和歌山に駐留した米軍の兵士を相手にポートレートを撮っている。いつ移動するか分からない兵士は数日も待てない。西本氏は一般の十倍の料金を取るかわりに二日で焼き上げ、一日平均五十枚を撮って1945年8月からの約半年を不眠不休で働いた。同じく米兵相手に店を開いた他の写真店は、ほどなく材料不足に陥っている。差は疎開させるという判断ひとつで付いた。

  • ノーリツ鋼機株式会社編『ノーリツ鋼機のあゆみ 創立四十三周年記念誌』(1993年)第一部立志
    • [6]1945年4月の和歌山市第一回強制疎開で、元寺町の報国写真館が対象となり立ち退いた。
    • [7]西本貫一は空襲の被害を軽減するため、写真材料を知り合いや倉庫へ分散して保管していた。
  • 近代中小企業 1985年2月号
    • [8]終戦後、焼け残った空き家で写真館を再開し、和歌山に駐留した米軍兵士の撮影を始めた。
    • [9]米兵のポートレートを一般の十倍の料金で撮って二日で仕上げ、一日平均五十枚を撮影し、1945年8月から約半年間を不眠不休で働いた。
    • [10]同様に米軍兵士相手の商売を始めた他の写真店は、まもなく材料不足に陥った。

水洗の工程はモーターでドラムを回す方式だったが、電気の供給が安定せずたびたび停電し、途中で止まると印画紙が変色した。撮り直しのできない写真が変わり果てるこの不具合は、全国の写真館に共通していた。西本氏が考えたのは、電気に頼らず水そのものの重さで動き、必要な時間だけ水洗を続ける機械である。その写真印画紙自動水洗機を作って売り出したのが1951年3月で、一台5万円で約1万台が売れ、売上は5億円に及んだ。特許の取得を足場に、1956年6月には和歌山市関戸で資本金100万円の有限会社ノーリツ光機製作所を興した。自身の作業場で感じた不便を製品に仕立て、写真館の主人は機械メーカーへ転じたのである。

  • 発明 1985年2月号「わが社の技術開発 写真処理機一筋に」(ノーリツ鋼機株式会社)
    • [11]1951年当時、写真印画紙の水洗工程はモーターでドラムを回しており、電力供給が不安定で停電がしばしば起こった。
  • 近代中小企業 1985年2月号
    • [12]停電や断水で水洗が完全にできず写真が変色する問題に対し、西本貫一は水力を応用して水車の原理で自動的に必要な時間の水洗ができる機械を開発した。
    • [14]自動水洗機は一台5万円で約1万台、5億円を売り上げた。
  • ノーリツ鋼機 有価証券報告書
    • [13]1951年3月、写真印画紙自動水洗機の製作販売により創業した。
  • 発明 1985年2月号「わが社の技術開発 写真処理機一筋に」(ノーリツ鋼機株式会社)会社の沿革
    • [15]1956年6月、和歌山市関戸に資本金100万円の有限会社ノーリツ光機製作所を設立した。
参考文献[1]-[15]
  • 証券アナリストジャーナル 1996年4月号(池浦裕男・ノーリツ鋼機専務取締役)
    • [1]1943年4月、西本貫一が個人で報国写真館を和歌山市に開き、これを創業としている。
  • 近代中小企業 1985年2月号
    • [2]西本貫一は1939年に中国戦線で左手貫通骨折を負い傷痍軍人として帰国し、右手だけでできる仕事として写真技師を志した。
    • [8]終戦後、焼け残った空き家で写真館を再開し、和歌山に駐留した米軍兵士の撮影を始めた。
    • [9]米兵のポートレートを一般の十倍の料金で撮って二日で仕上げ、一日平均五十枚を撮影し、1945年8月から約半年間を不眠不休で働いた。
    • [10]同様に米軍兵士相手の商売を始めた他の写真店は、まもなく材料不足に陥った。
    • [12]停電や断水で水洗が完全にできず写真が変色する問題に対し、西本貫一は水力を応用して水車の原理で自動的に必要な時間の水洗ができる機械を開発した。
    • [14]自動水洗機は一台5万円で約1万台、5億円を売り上げた。
  • ノーリツ鋼機株式会社編『ノーリツ鋼機のあゆみ 創立四十三周年記念誌』(1993年)第一部立志
    • [3]報国写真館は軍の召集兵撮影で、カメラ位置を固定し全身・七分身・半身の構図ごとに事前にピントを合わせる方法を採った。
    • [4]金銭の出納や撮影番号の記録といった周辺業務は助手を雇うことで分担させ、撮影の速度を上げた。
    • [5]戦死者の遺影の引き伸ばしを、他店が十日を要すると答えるなかで一時間で仕上げた。
    • [6]1945年4月の和歌山市第一回強制疎開で、元寺町の報国写真館が対象となり立ち退いた。
    • [7]西本貫一は空襲の被害を軽減するため、写真材料を知り合いや倉庫へ分散して保管していた。
  • 発明 1985年2月号「わが社の技術開発 写真処理機一筋に」(ノーリツ鋼機株式会社)
    • [11]1951年当時、写真印画紙の水洗工程はモーターでドラムを回しており、電力供給が不安定で停電がしばしば起こった。
  • ノーリツ鋼機 有価証券報告書
    • [13]1951年3月、写真印画紙自動水洗機の製作販売により創業した。
  • 発明 1985年2月号「わが社の技術開発 写真処理機一筋に」(ノーリツ鋼機株式会社)会社の沿革
    • [15]1956年6月、和歌山市関戸に資本金100万円の有限会社ノーリツ光機製作所を設立した。

1961年〜耐久性で握った大型ラボ市場と、全国に敷いたサービスセンター網

1961年11月、ノーリツ光機製作所は株式会社へ組織を変更してノーリツ鋼機となり、西本氏が代表取締役に就いた。同月、基幹現像所向けの白黒フィルム自動現像機RF-20Eを売り出している。写真処理機の市場は規模が小さく大企業の参入が起こりにくいため、国内の主要メーカーは戦前からの先発企業を含めて三社にとどまっていた。そのなかで訴求点に選んだのは耐久性である。現像液や定着液に触れる部分に他社が塩化ビニルを使っていたのに対し、モリブデンを含むステンレスとチタンを採り、表面研磨や製造方法から研究し直した。処理時間や薬品の処方は感光材料メーカーが指定するため、機械の側で差を付けられるのは腐食への強さだけだという読みである

  • 発明 1985年2月号「わが社の技術開発 写真処理機一筋に」(ノーリツ鋼機株式会社)会社の沿革
    • [16]1961年11月に株式会社組織へ変更して社名をノーリツ鋼機株式会社とし、代表取締役に西本貫一が就任した。
  • ノーリツ鋼機 有価証券報告書
    • [17]1961年11月、基幹現像所用の白黒フィルム自動現像機RF-20Eの販売を開始した。
  • 中小企業金融公庫月報 1976年1月号(山本順一・大阪府立商工経済研究所長)
    • [18]写真処理機器の市場規模は大きくないため他企業の参入がなく、1976年時点でも主要メーカーは三社にとどまっていた。
  • 発明 1985年2月号「わが社の技術開発 写真処理機一筋に」(ノーリツ鋼機株式会社)
    • [19]他メーカーの写真処理機に塩ビが多く使われていたのに対し、西本貫一はモリブデンを含んだステンレスやチタンを採用し、表面研磨や製造方法から研究開発を進めた。
  • 戦略経営者 1993年11月号「写真処理機器業界の覇者になった秘訣 ノーリツ鋼機」(間所政則・取締役営業部長の説明)
    • [20]処理時間は感光材料メーカーが指定するため、薬品による腐食への強さが差別化の切り口になると同社は位置づけた。

1964年7月のカラーフィルム自動現像機RF-C1と、翌年のカラーペーパー自動現像機CS-300で、ノーリツ鋼機はカラー化に機械を合わせた。販路は富士写真フイルムのチェーンラボを通す形を取り、売上高は1967年に約2億8千万円、1968年に4億5千万円、1969年に6億5千万円と伸びている。やがてサクラ・三菱・コダック系の現像所へも納め、国内の大型ラボ市場で8割を超える占有率を得た。もっとも8割といっても実体は感光材料メーカーへの供給に近く、このままでは下請けに甘んじるという危機感が西本氏にはあった。機械は他社の販売網に乗って売れており、買い手と直に向き合う関係にはなっていなかった。

  • ノーリツ鋼機 有価証券報告書/戦略経営者 1993年11月号「写真処理機器業界の覇者になった秘訣 ノーリツ鋼機」
    • [21]1964年7月に基幹現像所用カラーフィルム自動現像機RF-C1、1965年にカラーペーパー自動現像機CS-300を発売した。
  • 中小企業金融公庫月報 1976年1月号(山本順一・大阪府立商工経済研究所長)
    • [22]1965年に富士写真フイルムを通じそのチェーンラボへ販売する体制をつくり、売上高は1967年約2億8千万円、1968年4億5千万円、1969年6億5千万円と増加した。
  • 戦略経営者 1993年11月号「写真処理機器業界の覇者になった秘訣 ノーリツ鋼機」
    • [23]富士写真フイルムに加えサクラ・三菱・コダック系のラボへも納入し、1960年代後半には大型ラボ市場の80%以上を占めた。
  • 近代中小企業 1985年2月号
    • [24]国内シェアは8割に達していたが形としては大手感光材料メーカーのOEMであり、独自の販売網を持たなければ下請けに甘んじるという危機感を西本貫一は抱いた。

機械の販売を支えたのは、売ったあとの体制だった。1964年3月の東京を皮切りに、1966年に福岡、1967年に名古屋と札幌、1970年に広島、1971年に仙台、1973年に大阪へサービスセンターを置いている。カラーの自動現像機は止まれば現像所の作業そのものが止まるため、故障への即応が購入の条件になった。一方、和歌山市には機械工業の関連産業が乏しく外注先に恵まれなかったことから、旋盤・プレス・溶接・塗装まで自前で抱える一貫生産の体制になっている。工業所有権は1975年までに特許50件・実用新案30件を数え、開発には24人の専従組織を置いた。1975年の売上高は約30億円、従業員は267名である

  • 発明 1985年2月号「わが社の技術開発 写真処理機一筋に」(ノーリツ鋼機株式会社)会社の沿革
    • [25]1964年3月に東京、1966年9月に福岡、1967年に名古屋と札幌、1970年10月に広島、1971年2月に仙台、1973年2月に大阪へサービスセンターを開設した。
  • 中小企業金融公庫月報 1976年1月号(山本順一・大阪府立商工経済研究所長)
    • [26]カラー写真フィルムの自動処理機器は自動機械であるため故障への機敏な修理サービスが要請され、同社は全国のサービス網を確立した。
    • [27]和歌山市は機械工業が発達しておらず利用できる関連産業が乏しかったため、各種の工作機械・金属加工機・溶接機・塗装機を自ら設備して一貫生産の体制を確立した。
    • [28]工業所有権の保有件数は特許50件・実用新案30件に達し、製品開発には24人で構成する専門の組織体制を置いていた。
  • 中小企業金融公庫月報 1976年1月号(山本順一・大阪府立商工経済研究所長)会社の概要
    • [29]1975年の売上高は30億円を超すとされ、従業員数は267名、資本金は4,800万円であった。
参考文献[16]-[29]
  • 発明 1985年2月号「わが社の技術開発 写真処理機一筋に」(ノーリツ鋼機株式会社)会社の沿革
    • [16]1961年11月に株式会社組織へ変更して社名をノーリツ鋼機株式会社とし、代表取締役に西本貫一が就任した。
    • [25]1964年3月に東京、1966年9月に福岡、1967年に名古屋と札幌、1970年10月に広島、1971年2月に仙台、1973年2月に大阪へサービスセンターを開設した。
  • ノーリツ鋼機 有価証券報告書
    • [17]1961年11月、基幹現像所用の白黒フィルム自動現像機RF-20Eの販売を開始した。
  • 中小企業金融公庫月報 1976年1月号(山本順一・大阪府立商工経済研究所長)
    • [18]写真処理機器の市場規模は大きくないため他企業の参入がなく、1976年時点でも主要メーカーは三社にとどまっていた。
    • [22]1965年に富士写真フイルムを通じそのチェーンラボへ販売する体制をつくり、売上高は1967年約2億8千万円、1968年4億5千万円、1969年6億5千万円と増加した。
    • [26]カラー写真フィルムの自動処理機器は自動機械であるため故障への機敏な修理サービスが要請され、同社は全国のサービス網を確立した。
    • [27]和歌山市は機械工業が発達しておらず利用できる関連産業が乏しかったため、各種の工作機械・金属加工機・溶接機・塗装機を自ら設備して一貫生産の体制を確立した。
    • [28]工業所有権の保有件数は特許50件・実用新案30件に達し、製品開発には24人で構成する専門の組織体制を置いていた。
  • 発明 1985年2月号「わが社の技術開発 写真処理機一筋に」(ノーリツ鋼機株式会社)
    • [19]他メーカーの写真処理機に塩ビが多く使われていたのに対し、西本貫一はモリブデンを含んだステンレスやチタンを採用し、表面研磨や製造方法から研究開発を進めた。
  • 戦略経営者 1993年11月号「写真処理機器業界の覇者になった秘訣 ノーリツ鋼機」(間所政則・取締役営業部長の説明)
    • [20]処理時間は感光材料メーカーが指定するため、薬品による腐食への強さが差別化の切り口になると同社は位置づけた。
  • ノーリツ鋼機 有価証券報告書/戦略経営者 1993年11月号「写真処理機器業界の覇者になった秘訣 ノーリツ鋼機」
    • [21]1964年7月に基幹現像所用カラーフィルム自動現像機RF-C1、1965年にカラーペーパー自動現像機CS-300を発売した。
  • 戦略経営者 1993年11月号「写真処理機器業界の覇者になった秘訣 ノーリツ鋼機」
    • [23]富士写真フイルムに加えサクラ・三菱・コダック系のラボへも納入し、1960年代後半には大型ラボ市場の80%以上を占めた。
  • 近代中小企業 1985年2月号
    • [24]国内シェアは8割に達していたが形としては大手感光材料メーカーのOEMであり、独自の販売網を持たなければ下請けに甘んじるという危機感を西本貫一は抱いた。
  • 中小企業金融公庫月報 1976年1月号(山本順一・大阪府立商工経済研究所長)会社の概要
    • [29]1975年の売上高は30億円を超すとされ、従業員数は267名、資本金は4,800万円であった。

1976年〜店頭で四十五分に仕上げるQSSと、米国から広がったミニラボ市場

1973年の石油ショックで受注が落ち込み、大型ラボに偏った顧客構成の限界が表れた。消費者がDPE店へ預けたフィルムは仕上がりまで二、三日を要していたが、現像と焼き付けにかかる時間そのものは二時間ほどで、残りは現像所へ運ぶ時間と処理量がまとまるまでの待ち時間だった。米国やカナダのように国土の広い国では、写真店から現像所へ航空便で送るため三日から七日を要している。この流通経路を外して店頭で処理すれば待ち時間は消える。西本氏は客が待てる限界を一時間と見積もり、1976年6月に四十五分で仕上げるQSS-1型を完成させた。ところが印画紙を送るローラー・トランスポート方式で紙詰まりと傷が生じ、四、50台で製造を打ち切っている

  • 戦略経営者 1993年11月号「写真処理機器業界の覇者になった秘訣 ノーリツ鋼機」
    • [30]1973年の第一次石油ショックの影響で受注量が減少し、その打開手段としてQSSの開発に着手した。
  • 戦略経営者 1993年11月号「写真処理機器業界の覇者になった秘訣 ノーリツ鋼機」(間所政則・取締役営業部長の説明)
    • [31]DPE店に持ち込まれたフィルムの仕上がりまで二、三日を要していたが、現像処理自体は二時間程度で、残りはラボとDPEを結ぶ流通経路に費やされていた。
  • 発明 1985年2月号「わが社の技術開発 写真処理機一筋に」(ノーリツ鋼機株式会社)
    • [32]アメリカ・カナダ・オーストラリアなど国土の広い国では写真店から現像所へ航空便で送るため、処理に三日から七日を要していた。
  • 近代中小企業 1985年2月号
    • [33]西本貫一は客が待てる時間を一時間と見積もり、1976年にQSS-1型を完成させた。仕上がり時間は45分であった。
  • 近代中小企業 1985年2月号/戦略経営者 1993年11月号
    • [34]QSS-1型はローラー・トランスポート方式のため紙詰まりと印画紙の傷が生じ、四、50台の生産で中止となった。

1979年3月、ノーリツ鋼機はQSS-2型を発表した。印画紙を屋根の樋のように湾曲させて腰を持たせ、わずかな力で自走させるセルフ・サポート・ドライブ方式を独自に編み出して、紙詰まりを解いている。同時にコンピュータを載せ、薬液の温度調節と補充を自動で制御した。ただし国内では、店頭処理機が従来の得意先である大型現像所と正面から競合する。西本氏は国内で思うように売れないと見て、生き残りを賭けて自ら米国へ渡った。車社会を前提にすれば、大型スーパーで買い物をしている間に仕上げれば客は次の週まで待たずに済む。前年の1978年12月には、カリフォルニア州に販売子会社NACを設けている

  • ノーリツ鋼機 有価証券報告書/発明 1985年2月号「わが社の技術開発 写真処理機一筋に」
    • [35]1979年3月にコンピュータを搭載したQSS-2型が完成し、同月アメリカで開かれた写真ショーで発表された。
  • 戦略経営者 1993年11月号「写真処理機器業界の覇者になった秘訣 ノーリツ鋼機」(間所政則・取締役営業部長の説明)
    • [36]印画紙を樋のように湾曲させて腰をつくり、わずかな力で前進させるセルフ・サポート・ドライブ方式を独自に編み出し、QSS-2型に採用した。
  • 発明 1985年2月号「わが社の技術開発 写真処理機一筋に」(ノーリツ鋼機株式会社)
    • [37]QSSは内蔵マイコンにより処理時間を制御し、薬液の温度調節や補充も自動でコントロールした。
  • 経済月報 1994年8月号「わが社のグローバル展開 和歌山有力メーカーの経営戦略」(西本貫一)
    • [38]45分で処理するQSSを開発したものの、しがらみにより国内では思うように売れず、生き残りを賭けて西本貫一自身がアメリカへ渡った。
    • [39]米国は車社会で週に一度大型スーパーでまとめ買いをするため、買い物をしている間に写真を仕上げれば次の週まで待たずに済むと西本貫一は考えた。
  • ノーリツ鋼機 有価証券報告書/発明 1985年2月号「わが社の技術開発 写真処理機一筋に」会社の沿革
    • [40]1978年12月、米国カリフォルニア州に販売会社NAC(Noritsu America Corp.)を設立した。

米国市場を開いたのは一台の機械だった。カナダ総代理店ジャパン・カメラがナイアガラの滝の近くで営むDPE店にQSSを置いたところ、撮ったばかりの写真がその場で見られると評判になり、ニューヨーク・タイムズが報じて注文が殺到した。1980年1月に英国、1982年1月に西ドイツ、1984年7月に香港へ販売子会社を置き、商社を介さず自社の網で売っている。1982年度の経常利益は69億3,200万円と前年度の3.6倍に達し、紀陽銀行を抜いて和歌山県の法人所得で首位に立った。西本氏は利益が出過ぎることを嫌い、翌1983年に設計開発のノーリツ研究センターと輸出入の西本貿易を分離している。1985年には年商250億円の8割が輸出で、QSSは85カ国へ出ていた

  • 戦略経営者 1993年11月号「写真処理機器業界の覇者になった秘訣 ノーリツ鋼機」/経済月報 1994年8月号「和歌山有力メーカーの経営戦略」(西本貫一)
    • [41]カナダ総代理店ジャパン・カメラがナイアガラの滝近くで経営するDPE店にQSSを置いたところ評判となり、ニューヨーク・タイムズに取り上げられて注文が殺到した。
  • ノーリツ鋼機 有価証券報告書/経済月報 1994年8月号「和歌山有力メーカーの経営戦略」(西本貫一)
    • [42]1980年1月に英国へNORITSU (UK) LIMITED、1982年1月に西ドイツへNDG、1984年7月に香港へNORITSU (FAR EAST) LIMITEDを設立した。同社は商社を通さず独自の販売網を持つ方針を採った。
  • 近代中小企業 1985年2月号
    • [43]1981年度の経常利益18億9,900万円に対し1982年度は69億3,200万円と3.6倍になり、紀陽銀行を抜いて和歌山県の法人所得ランキング首位となった。
    • [44]利益が出過ぎることを弊害とみた西本貫一は1982年度の決算後に会社を分割し、設計開発のノーリツ研究センターと輸出入の西本貿易を設けた。
  • 発明 1985年2月号「わが社の技術開発 写真処理機一筋に」(ノーリツ鋼機株式会社)
    • [45]1985年時点で年間売上高250億円の80%を輸出が占め、QSSの輸出国は85カ国に及んだ。
参考文献[30]-[45]
  • 戦略経営者 1993年11月号「写真処理機器業界の覇者になった秘訣 ノーリツ鋼機」
    • [30]1973年の第一次石油ショックの影響で受注量が減少し、その打開手段としてQSSの開発に着手した。
  • 戦略経営者 1993年11月号「写真処理機器業界の覇者になった秘訣 ノーリツ鋼機」(間所政則・取締役営業部長の説明)
    • [31]DPE店に持ち込まれたフィルムの仕上がりまで二、三日を要していたが、現像処理自体は二時間程度で、残りはラボとDPEを結ぶ流通経路に費やされていた。
    • [36]印画紙を樋のように湾曲させて腰をつくり、わずかな力で前進させるセルフ・サポート・ドライブ方式を独自に編み出し、QSS-2型に採用した。
  • 発明 1985年2月号「わが社の技術開発 写真処理機一筋に」(ノーリツ鋼機株式会社)
    • [32]アメリカ・カナダ・オーストラリアなど国土の広い国では写真店から現像所へ航空便で送るため、処理に三日から七日を要していた。
    • [37]QSSは内蔵マイコンにより処理時間を制御し、薬液の温度調節や補充も自動でコントロールした。
    • [45]1985年時点で年間売上高250億円の80%を輸出が占め、QSSの輸出国は85カ国に及んだ。
  • 近代中小企業 1985年2月号
    • [33]西本貫一は客が待てる時間を一時間と見積もり、1976年にQSS-1型を完成させた。仕上がり時間は45分であった。
    • [43]1981年度の経常利益18億9,900万円に対し1982年度は69億3,200万円と3.6倍になり、紀陽銀行を抜いて和歌山県の法人所得ランキング首位となった。
    • [44]利益が出過ぎることを弊害とみた西本貫一は1982年度の決算後に会社を分割し、設計開発のノーリツ研究センターと輸出入の西本貿易を設けた。
  • 近代中小企業 1985年2月号/戦略経営者 1993年11月号
    • [34]QSS-1型はローラー・トランスポート方式のため紙詰まりと印画紙の傷が生じ、四、50台の生産で中止となった。
  • ノーリツ鋼機 有価証券報告書/発明 1985年2月号「わが社の技術開発 写真処理機一筋に」
    • [35]1979年3月にコンピュータを搭載したQSS-2型が完成し、同月アメリカで開かれた写真ショーで発表された。
  • 経済月報 1994年8月号「わが社のグローバル展開 和歌山有力メーカーの経営戦略」(西本貫一)
    • [38]45分で処理するQSSを開発したものの、しがらみにより国内では思うように売れず、生き残りを賭けて西本貫一自身がアメリカへ渡った。
    • [39]米国は車社会で週に一度大型スーパーでまとめ買いをするため、買い物をしている間に写真を仕上げれば次の週まで待たずに済むと西本貫一は考えた。
  • ノーリツ鋼機 有価証券報告書/発明 1985年2月号「わが社の技術開発 写真処理機一筋に」会社の沿革
    • [40]1978年12月、米国カリフォルニア州に販売会社NAC(Noritsu America Corp.)を設立した。
  • 戦略経営者 1993年11月号「写真処理機器業界の覇者になった秘訣 ノーリツ鋼機」/経済月報 1994年8月号「和歌山有力メーカーの経営戦略」(西本貫一)
    • [41]カナダ総代理店ジャパン・カメラがナイアガラの滝近くで経営するDPE店にQSSを置いたところ評判となり、ニューヨーク・タイムズに取り上げられて注文が殺到した。
  • ノーリツ鋼機 有価証券報告書/経済月報 1994年8月号「和歌山有力メーカーの経営戦略」(西本貫一)
    • [42]1980年1月に英国へNORITSU (UK) LIMITED、1982年1月に西ドイツへNDG、1984年7月に香港へNORITSU (FAR EAST) LIMITEDを設立した。同社は商社を通さず独自の販売網を持つ方針を採った。

第2章 1986年〜 ミニラボ世界シェア首位の確立と、大証二部・東証一部への上場

筆者考察y.sugiura, author

1986年のノーリツ鋼機は、ミニラボ世界市場の8割を握りながら資本金4,800万円の非上場会社だった。西本貫一にとって株式の公開とは、写真を知らない者に投資の判断を渡すことでしかない。その構えを十年で覆させたのは、市場が広がったことではなく、規格を決めるのが自分たちではないという条件だろう。処理の処方は感光材料メーカーが指定し、フィルムの規格が変われば機械は作り直しになる。1996年の新写真システムがまさにそれで、対応機は規格の発表前から用意しなければ間に合わない。先行投資を続ける体力は、一人の資本では支えきれない。

市場占有率という数字は、需要そのものが続くことを前提にしたときだけ意味を持つ。1999年のノーリツ鋼機は国内50.5%、米国57.2%を握り、世界では14万台を超えるミニラボが動いていた。デジタルカメラが普及しても撮影枚数は増えるため紙への出力は減らない、という同社の読みは、出力が銀塩に残るかぎり正しい。誤っていたのは、その出力を誰が請け負うかという部分である。街の写真店とDPE店が受け皿として存在し続けることを、同社も業界も疑わなかった。機械を置く場所が消えるとき、占有率は何も守らない。

1986年〜国内九割・世界八割の占有率と、株式を公開しない中堅メーカー

1983年度のカラー写真処理機の国内占有率は9割を超え、ミニラボは世界市場の8割に達した。売上高は1980年度の70億円から1985年度の260億円へ、輸出比率は40%から80%へ動いている。それでいて従業員は910人、資本金は4,800万円にとどまった。西本氏は株式の公開にも増資にも踏み切らず、写真業界を知らない株主が重要な投資に口を挟めばワンマン経営ができなくなる、上場に意味は見いだせないと述べている。1985年8月には和歌山市梅原に本社工場を竣工させ、67万平方メートルの敷地へ工場と事務所棟、研修棟を並べている。売上規模に比して資本金が極端に小さいのは、意思決定を一人に集めておくための構えであった。

  • 石垣 1986年2月号「世界市場を席巻する写真業界の小さな巨人 ノーリツ鋼機株式会社」(日本商工会議所)
    • [46]1983年度のカラー写真処理機器の国内シェアは90%を超え、ミニラボは世界市場の80%を占めた。
    • [47]売上高は1980年度70億円・輸出比率40%から、1985年度260億円・輸出比率80%へ推移した。
    • [48]1986年時点の従業員数は910人、資本金は4,800万円であった。
    • [49]西本貫一は、写真業界や機械を知らない者が株主として重要な投資に口を出せばワンマン経営ができなくなるとして資本金を増やさず、株式上場の利点も認めなかった。
  • ノーリツ鋼機 有価証券報告書/経済月報 1994年8月号「わが社のグローバル展開 和歌山有力メーカーの経営戦略」
    • [50]1985年8月に和歌山市梅原の本社工場が竣工した。総面積67万平方メートルの敷地に工場・事務所棟・研修棟のほかゲストルームとヘリポートを備えている。

1993年の時点でも、同社は世界のミニラボ市場の約六割を押さえていた。自ら一社で切り開いた市場だったが、規模が広がると後を追う会社が現れ、1980年代後半には同じ種類の製品を出すメーカーが複数に及んでいた。そのなかでシェアを保てたのは、新製品で先を行くことと保守の仕組みの二つによる。前者の例がQSS-12型で、1988年に開発されたこの機種は、印画紙を露光するレンズにズームレンズを業界で最初に採用した。後者では、納めた機械の一台ごとに納入の時期と故障の履歴を記したカルテを作っており、1970年代後半にはそれをデータベースに移している。外からは見えにくいこの蓄積が、競合の参入を阻む壁になった。

  • 戦略経営者 1993年11月号「写真処理機器業界の覇者になった秘訣 ノーリツ鋼機」
    • [51]1993年時点で同社は世界のミニラボ市場の約60%を確保していた。
    • [52]1980年代後半には複数のメーカーが同様のミニラボ製品を開発し市場に投入した。
    • [53]1988年に開発したQSS-12型は、印画紙に露光するレンズを業界で初めてズームレンズにした。
  • 戦略経営者 1993年11月号「写真処理機器業界の覇者になった秘訣 ノーリツ鋼機」(間所政則・取締役営業部長の説明)
    • [54]販売した機械一台ごとに納入時期や故障歴を盛り込んだカルテを作成し、当初の手書き処理を1970年代後半にデータベース化した。

西本氏は販売を商社に任せることを避けた。間に業者が入れば最初こそ大量の注文が来るが、止まったときに客の反応が分からないという理由で、国内でも海外でも自社の販売網を持つべきだと語っている。営業担当者には機械を売り込むのではなく、その店が発展する方法を考えて情報を提供せよと指示した。1993年3月期の売上高は約450億円で、内訳はミニラボが8割、大型ラボが1割、部品が1割である。1990年には写真業界最高の栄誉とされるPMA HALL OF FAMEに選ばれ、翌1991年には日本人として初めて米ロチェスター大学の法学博士号を受けた

  • 経済月報 1994年8月号「わが社のグローバル展開 和歌山有力メーカーの経営戦略」(西本貫一)
    • [55]西本貫一は、商社を通すと注文が止まったときに顧客の生の声がわからないとして、国内でも海外でも独自の販売網を持つことが重要だと述べた。
    • [56]西本貫一は営業担当者に対し、機械を売り込もうとするのではなく顧客である店が発展する方法を真剣に考えて情報を提供せよと指示していた。
    • [58]西本貫一は1990年に写真業界最高の栄誉とされるPMA HALL OF FAMEに選出され、1991年に日本人として初めて米国ロチェスター大学の法学博士号を授与された。
  • 戦略経営者 1993年11月号「写真処理機器業界の覇者になった秘訣 ノーリツ鋼機」
    • [57]1993年3月期の売上高は約450億円で、内訳は大型ラボ1割・ミニラボ8割・パーツ関係1割であった。
参考文献[46]-[58]
  • 石垣 1986年2月号「世界市場を席巻する写真業界の小さな巨人 ノーリツ鋼機株式会社」(日本商工会議所)
    • [46]1983年度のカラー写真処理機器の国内シェアは90%を超え、ミニラボは世界市場の80%を占めた。
    • [47]売上高は1980年度70億円・輸出比率40%から、1985年度260億円・輸出比率80%へ推移した。
    • [48]1986年時点の従業員数は910人、資本金は4,800万円であった。
    • [49]西本貫一は、写真業界や機械を知らない者が株主として重要な投資に口を出せばワンマン経営ができなくなるとして資本金を増やさず、株式上場の利点も認めなかった。
  • ノーリツ鋼機 有価証券報告書/経済月報 1994年8月号「わが社のグローバル展開 和歌山有力メーカーの経営戦略」
    • [50]1985年8月に和歌山市梅原の本社工場が竣工した。総面積67万平方メートルの敷地に工場・事務所棟・研修棟のほかゲストルームとヘリポートを備えている。
  • 戦略経営者 1993年11月号「写真処理機器業界の覇者になった秘訣 ノーリツ鋼機」
    • [51]1993年時点で同社は世界のミニラボ市場の約60%を確保していた。
    • [52]1980年代後半には複数のメーカーが同様のミニラボ製品を開発し市場に投入した。
    • [53]1988年に開発したQSS-12型は、印画紙に露光するレンズを業界で初めてズームレンズにした。
    • [57]1993年3月期の売上高は約450億円で、内訳は大型ラボ1割・ミニラボ8割・パーツ関係1割であった。
  • 戦略経営者 1993年11月号「写真処理機器業界の覇者になった秘訣 ノーリツ鋼機」(間所政則・取締役営業部長の説明)
    • [54]販売した機械一台ごとに納入時期や故障歴を盛り込んだカルテを作成し、当初の手書き処理を1970年代後半にデータベース化した。
  • 経済月報 1994年8月号「わが社のグローバル展開 和歌山有力メーカーの経営戦略」(西本貫一)
    • [55]西本貫一は、商社を通すと注文が止まったときに顧客の生の声がわからないとして、国内でも海外でも独自の販売網を持つことが重要だと述べた。
    • [56]西本貫一は営業担当者に対し、機械を売り込もうとするのではなく顧客である店が発展する方法を真剣に考えて情報を提供せよと指示していた。
    • [58]西本貫一は1990年に写真業界最高の栄誉とされるPMA HALL OF FAMEに選出され、1991年に日本人として初めて米国ロチェスター大学の法学博士号を授与された。

1994年〜大証二部への上場と、株式売出しによる非同族会社化

1996年2月14日、ノーリツ鋼機は大阪証券取引所市場第二部へ株式を上場した。十年前に上場の利点を認めなかった会社が、創業から数えて53年目に公開市場へ出たことになる。上場時点のミニラボ市場占有率は国内47.5%、日本を除く海外50.2%で、販売子会社16社・駐在員事務所6か所・支店1か所の販売網を自前で持っていた。同社は研究開発から製造・販売・保守までを自社で抱える一貫体制を強みとし、顧客の要望を新製品へ短期間で反映できることを差別化の根拠に置いている。機械は富士写真フイルムコニカ三菱製紙・コダックのいずれの感光材料にも対応させ、顧客が機器と感材を別々に選べる状態を保った。参入障壁は機械の性能ではなく、機械を売ったあとに続く関係の側にあった。

  • 証券アナリストジャーナル 1996年4月号(池浦裕男・ノーリツ鋼機専務取締役)/ノーリツ鋼機 有価証券報告書
    • [59]1996年2月14日、大阪証券取引所市場第二部に株式を上場した。
  • 証券アナリストジャーナル 1996年4月号(池浦裕男・ノーリツ鋼機専務取締役)
    • [60]1996年時点のミニラボ市場シェアは国内47.5%、日本を除く海外50.2%で、全世界に支店1・駐在員事務所6・販売子会社16による販売サービスネットワークを持っていた。
    • [61]同社は研究開発から製造・販売・サービスまでの一貫体制を確立し、顧客の多様な要望を新製品の開発や改善へ素早く反映できることを差別化の根拠としていた。
    • [62]同社の製品は国内の富士写真フイルム・コニカ・三菱製紙、海外のコダックなどすべての感光材料メーカーの材料に対応し、顧客は機器の選択と感光材料の選択を別々に行えた。

1996年2月1日、感光材料・フィルム・カメラの各メーカーが新写真システムを発表し、四月から市場へ出た。フィルムの規格が三十五ミリから変わるため対応する処理機が要る。ノーリツ鋼機は発表に先んじて1996年1月から対応機器の販売を始め、大型現像所から小規模なミニラボ店まで四つの階層すべてに機種を用意した。1995年10月のロンドンと1996年2月のラスベガスの展示会に出展し、規格が動く前にインフラを置きにいっている。感光材料メーカーが規格を決める産業で、処理機メーカーが採れる手は、決まった規格へ最も早く機械を合わせることだけであった。

  • 証券アナリストジャーナル 1996年4月号(池浦裕男・ノーリツ鋼機専務取締役)
    • [63]1996年2月1日に各感光材料メーカー・フィルムメーカー・カメラメーカーが新写真システム(アドバンストフォトシステム)を発表し、4月22日から発売された。
    • [64]同社は1996年1月から新写真システム対応機器の販売を始め、大型現像所・大手ミニラボ店・中堅ミニラボ店・小規模ミニラボ店の四区分すべてに対応する機種を用意した。
    • [65]1995年10月のロンドンおよび1996年2月のラスベガスの写真関連機器展示会に新写真システム対応機器を出展した。

1997年9月に大阪証券取引所市場第一部へ指定替えとなり、同年11月7日には東京証券取引所市場第一部へ上場した。同年7月、西本氏らが保有株の売出しを実施して同社は非同族会社となり、留保金課税が外れている。七月14日の百株への括り直しと月末の230万株の売出しによって株主数は大きく増え、翌年3月末の株主に対して優待制度を設けた。1997年9月中間期の売上高は312億87百万円で前年同期比1.1%増、株主資本比率は78.4%に達している。1998年3月期は売上高585億円、経常利益110億円を見込み、二期続けての最高益を計画した。創業者が一人で握っていた資本は、二年のうちに市場へ開かれた。

  • 証券アナリストジャーナル 1997年12月号(池浦裕男・ノーリツ鋼機専務取締役)/ノーリツ鋼機 有価証券報告書
    • [66]1997年9月1日に大阪証券取引所市場第一部へ指定替えとなり、同年11月7日に東京証券取引所市場第一部へ上場した。
  • 証券アナリストジャーナル 1997年12月号(池浦裕男・ノーリツ鋼機専務取締役)
    • [67]1997年7月に西本貫一らの株式売出しを実施したことにより非同族会社となり、留保金課税がなくなった。
    • [68]1997年7月14日の100株括り直しと7月末の230万株売出しにより株主数が増加し、1998年3月末の株主を対象に株主優待制度を実施することとした。
    • [69]1997年9月中間期の売上高は31,287百万円で前年同期比1.1%増、株主資本比率は78.4%であった。
    • [70]1998年3月期は売上高585億円・経常利益110億円を計画し、前年に続く過去最高の増収増益を見込んでいた。
参考文献[59]-[70]
  • 証券アナリストジャーナル 1996年4月号(池浦裕男・ノーリツ鋼機専務取締役)/ノーリツ鋼機 有価証券報告書
    • [59]1996年2月14日、大阪証券取引所市場第二部に株式を上場した。
  • 証券アナリストジャーナル 1996年4月号(池浦裕男・ノーリツ鋼機専務取締役)
    • [60]1996年時点のミニラボ市場シェアは国内47.5%、日本を除く海外50.2%で、全世界に支店1・駐在員事務所6・販売子会社16による販売サービスネットワークを持っていた。
    • [61]同社は研究開発から製造・販売・サービスまでの一貫体制を確立し、顧客の多様な要望を新製品の開発や改善へ素早く反映できることを差別化の根拠としていた。
    • [62]同社の製品は国内の富士写真フイルム・コニカ・三菱製紙、海外のコダックなどすべての感光材料メーカーの材料に対応し、顧客は機器の選択と感光材料の選択を別々に行えた。
    • [63]1996年2月1日に各感光材料メーカー・フィルムメーカー・カメラメーカーが新写真システム(アドバンストフォトシステム)を発表し、4月22日から発売された。
    • [64]同社は1996年1月から新写真システム対応機器の販売を始め、大型現像所・大手ミニラボ店・中堅ミニラボ店・小規模ミニラボ店の四区分すべてに対応する機種を用意した。
    • [65]1995年10月のロンドンおよび1996年2月のラスベガスの写真関連機器展示会に新写真システム対応機器を出展した。
  • 証券アナリストジャーナル 1997年12月号(池浦裕男・ノーリツ鋼機専務取締役)/ノーリツ鋼機 有価証券報告書
    • [66]1997年9月1日に大阪証券取引所市場第一部へ指定替えとなり、同年11月7日に東京証券取引所市場第一部へ上場した。
  • 証券アナリストジャーナル 1997年12月号(池浦裕男・ノーリツ鋼機専務取締役)
    • [67]1997年7月に西本貫一らの株式売出しを実施したことにより非同族会社となり、留保金課税がなくなった。
    • [68]1997年7月14日の100株括り直しと7月末の230万株売出しにより株主数が増加し、1998年3月末の株主を対象に株主優待制度を実施することとした。
    • [69]1997年9月中間期の売上高は31,287百万円で前年同期比1.1%増、株主資本比率は78.4%であった。
    • [70]1998年3月期は売上高585億円・経常利益110億円を計画し、前年に続く過去最高の増収増益を見込んでいた。

1998年〜収益源の海外への移動と、フルデジタル化への備え

上場と前後して、収益を支える地域が入れ替わった。1997年9月中間期の地域別売上は国内40.4%、南北アメリカ18.6%、欧州18.4%、アジア・オセアニア17.7%であったが、1999年9月中間期には国内が30.8%へ落ち、南北アメリカが38.1%へ上がっている。1997年のアジア通貨危機ではタイ・マレーシア・インドネシアの通貨切り下げで販売が苦しくなり、日本と北米の強化でこれを補った。米国での占有率は1998年12月時点で57.2%に達し、現地にミニラボメーカーが存在しなかったことがその背景にある。従来は手を出さなかったドラッグストアなどのチェーン店へ営業方針を転じたことも効いた

  • 証券アナリストジャーナル 1997年12月号/1999年12月号(池浦裕男・ノーリツ鋼機専務取締役)
    • [71]1997年9月中間期の地域別売上高比率は国内40.4%・欧州18.4%・南北アメリカ18.6%・アジアオセアニア17.7%であったが、1999年9月中間期には国内30.8%・南北アメリカ38.1%となった。
  • 証券アナリストジャーナル 1997年12月号(池浦裕男・ノーリツ鋼機専務取締役)
    • [72]1997年にタイ・マレーシア・インドネシアが通貨を切り下げアジア向け販売が苦しくなったため、日本と北米で販売を強化して補う方針を採った。
  • 証券アナリストジャーナル 1999年12月号(池浦裕男・ノーリツ鋼機専務取締役)
    • [73]1998年12月時点の米国市場における同社シェアは57.2%で、米国内に現地のミニラボメーカーがなかったことが要因とされた。
    • [74]従来はリスクが高いとしてチェーン展開する店舗への営業を控えていたが、ドラッグストアの増加を受けて方針を改め、大手ドラッグストア向けの実績が伸びた。

1997年10月のロンドンの展示会では、テーマにデジタルが掲げられた。デジタルカメラで撮った画像も、安く効率よく出すなら従来の銀塩印画紙へ出力するほうがよいという方向が示され、デジタル処理に対応したQSS-23型の需要が伸びている。翌1998年10月には新機種QSS-2611を投入した。研究開発費は1996年度の31億7,400万円から1999年度の52億9,400万円へ膨らみ、普通の写真からハイブリッド、さらにフルデジタルへと同時に開発を求められる状態になった。規格が動くたびに機械を作り直す産業では、開発費は売上より速く増える。

  • 証券アナリストジャーナル 1997年12月号(池浦裕男・ノーリツ鋼機専務取締役)
    • [75]1997年10月にロンドンで開かれたPMAの展示会はデジタルをテーマに掲げた。
    • [76]デジタルカメラで撮った写真をきれいに安く効率よく出力するには銀塩ペーパーへ出力するほうがよいとされ、デジタル処理に対応したQSS-23型の需要が大きかった。
  • 証券アナリストジャーナル 1999年12月号(池浦裕男・ノーリツ鋼機専務取締役)
    • [77]1998年10月に新機種QSS-2611を投入し、1999年9月中間期には機種別構成の35.5%を占めた。
  • 証券アナリストジャーナル 1997年12月号/1999年12月号(池浦裕男・ノーリツ鋼機専務取締役)
    • [78]研究開発費は1996年度3,174百万円から1999年度5,294百万円へ増加し、普通の写真からハイブリッド、さらにフルデジタルへと幅広い開発を要求されていた。

同社はデジタルカメラの普及を脅威とは見ていなかった。フィルムが要らなければ消費者は撮影枚数を増やすので、紙に出す総量はむしろ増える。一般の消費者は手間をかけられないから、どこかに頼んで出力するようになるというのが1999年時点の読みである。世界で稼働するミニラボは1998年12月時点で14万3,886台、国内占有率は1999年8月で50.5%に達していた。2000年3月期は売上高539億円を計画している。読みのうち出力先が銀塩に残るという部分は当たったが、出力を請け負う街の写真店そのものが消えるという筋書きは、この時点の見立てに入っていなかった。

  • 証券アナリストジャーナル 1999年12月号(池浦裕男・ノーリツ鋼機専務取締役)
    • [79]同社はデジタルカメラの普及について、フィルムが不要になり撮影枚数が増えるためプリント総量は増え、一般消費者は手間をかけられないためミニラボでの出力が定着するとみていた。
    • [80]1998年12月時点で世界で稼働するミニラボは14万3,886台、1999年8月の同社の国内シェアは50.5%であった。
    • [81]2000年3月期の通期予想は売上高539億円(前期比4.9%増)であった。
参考文献[71]-[81]
  • 証券アナリストジャーナル 1997年12月号/1999年12月号(池浦裕男・ノーリツ鋼機専務取締役)
    • [71]1997年9月中間期の地域別売上高比率は国内40.4%・欧州18.4%・南北アメリカ18.6%・アジアオセアニア17.7%であったが、1999年9月中間期には国内30.8%・南北アメリカ38.1%となった。
    • [78]研究開発費は1996年度3,174百万円から1999年度5,294百万円へ増加し、普通の写真からハイブリッド、さらにフルデジタルへと幅広い開発を要求されていた。
  • 証券アナリストジャーナル 1997年12月号(池浦裕男・ノーリツ鋼機専務取締役)
    • [72]1997年にタイ・マレーシア・インドネシアが通貨を切り下げアジア向け販売が苦しくなったため、日本と北米で販売を強化して補う方針を採った。
    • [75]1997年10月にロンドンで開かれたPMAの展示会はデジタルをテーマに掲げた。
    • [76]デジタルカメラで撮った写真をきれいに安く効率よく出力するには銀塩ペーパーへ出力するほうがよいとされ、デジタル処理に対応したQSS-23型の需要が大きかった。
  • 証券アナリストジャーナル 1999年12月号(池浦裕男・ノーリツ鋼機専務取締役)
    • [73]1998年12月時点の米国市場における同社シェアは57.2%で、米国内に現地のミニラボメーカーがなかったことが要因とされた。
    • [74]従来はリスクが高いとしてチェーン展開する店舗への営業を控えていたが、ドラッグストアの増加を受けて方針を改め、大手ドラッグストア向けの実績が伸びた。
    • [77]1998年10月に新機種QSS-2611を投入し、1999年9月中間期には機種別構成の35.5%を占めた。
    • [79]同社はデジタルカメラの普及について、フィルムが不要になり撮影枚数が増えるためプリント総量は増え、一般消費者は手間をかけられないためミニラボでの出力が定着するとみていた。
    • [80]1998年12月時点で世界で稼働するミニラボは14万3,886台、1999年8月の同社の国内シェアは50.5%であった。
    • [81]2000年3月期の通期予想は売上高539億円(前期比4.9%増)であった。

第3章 2000-2012 (気が向いたら執筆します!) ミニラボ市場の縮小と医療・農業への新規事業設立、創業家による経営陣の刷新

第4章 2013-2026 (気が向いたら執筆します!) 日本医療データセンター買収を軸とする事業入れ替えとNKワークス・ハルメクの譲渡

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歴史年表 1961〜2026年

ノーリツ鋼機の沿革1961〜2026年における主な出来事を抜粋

時代年月社長・CEO出来事重要度
1943〜1985年報国写真館から写真印画自動水洗機へ、QSS-2型ミニラボで米国市場を開く西本貫一ノーリツ鋼機を設立
西本貫一基幹現像所用白黒フィルム自動現像機RF-20E販売開始
西本貫一基幹現像所用カラーフィルム自動現像機RF-C1販売開始
西本貫一QSS-1型ミニラボを開発★★
西本貫一NAC Corporationを販売会社として設立
西本貫一コンピュータ搭載のQSS-2型完成
西本貫一NORITSU (UK) LIMITEDを販売会社として設立
西本貫一NORITSU (FAR EAST) LIMITEDを香港に設立
西本貫一NORITSU SINGAPORE PTE LTDを設立
西本貫一本社工場が竣工
1986〜1999年ミニラボ世界シェア首位の確立と、大証二部・東証一部への上場西本貫一NORITSU KOKI AUSTRALIA PTY. LIMITEDを設立
西本貫一大阪証券取引所市場第二部に上場
西本貫一大阪証券取引所市場第一部に指定
西本貫一東京証券取引所市場第一部に上場
2000〜2012年ミニラボ市場の縮小と医療・農業への新規事業設立、創業家による経営陣の刷新茶山幸彦創業家2代目の動議による経営陣刷新

2008年、創業者の孫にあたる西本博嗣氏が株主提案の動議で経営陣の刷新を主導し、写真現像機メーカーから事業ポートフォリオを組み替える投資会社型へ会社の性格を移した判断。2010年4月に西本博嗣氏自身が社長へ就任した。

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★★★
茶山幸彦NKリレーションズを設立
茶山幸彦NKアグリを設立
西本博嗣ドクターネットを買収★★
西本博嗣新設分割によりNKワークスを設立し持株会社体制に移行★★
2013〜2026年日本医療データセンター買収を軸とする事業入れ替えとNKワークス・ハルメクの譲渡西本博嗣医療・シニア・農業の連続買収による事業ポートフォリオの組み立て

2009年から2013年にかけて、ノーリツ鋼機が医療・シニア向け通販・農業の会社を相次いで買い集め、写真処理機器に代わる収益源を組み立てた判断。2013年3月29日の取締役会でオリンパスビジネスクリエイツからの4社取得を決議し、5月2日に株式を取得した。この1件で買収の頻度と規模がいちばん高まった。

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★★★
西本博嗣テイボーを買収★★
西本博嗣NKワークスを譲渡★★
岩切隆吉AlphaThetaを買収★★
岩切隆吉買い集めた医療・シニア・農業事業の連続譲渡と、製造事業への集約

2018年から2020年にかけて、ノーリツ鋼機が2010年代前半に買い集めた医療・シニア・農業・保険の事業を相次いで手放し、コア事業を"ものづくり"に絞り込んだ判断。売却と並行してDJ機器のAlphaThetaを取得した。

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★★★
岩切隆吉JMDCの一部株式をグループ外へ譲渡
岩切隆吉センクシアを買収
出典・参考 24件
出典・参考
  • ノーリツ鋼機 有価証券報告書/発明 1985年2月号「わが社の技術開発 写真処理機一筋に」
  • ノーリツ鋼機 有価証券報告書/発明 1985年2月号「わが社の技術開発 写真処理機一筋に」会社の沿革
  • ノーリツ鋼機 有価証券報告書/戦略経営者 1993年11月号「写真処理機器業界の覇者になった秘訣 ノーリツ鋼機」
  • ノーリツ鋼機 有価証券報告書/経済月報 1994年8月号「和歌山有力メーカーの経営戦略」(西本貫一)
  • ノーリツ鋼機 有価証券報告書/経済月報 1994年8月号「わが社のグローバル展開 和歌山有力メーカーの経営戦略」
  • 証券アナリストジャーナル 1996年4月号(池浦裕男・ノーリツ鋼機専務取締役)/ノーリツ鋼機 有価証券報告書
  • 証券アナリストジャーナル 1997年12月号(池浦裕男・ノーリツ鋼機専務取締役)/ノーリツ鋼機 有価証券報告書
  • ノーリツ鋼機 有価証券報告書
  • ノーリツ鋼機株式会社編『ノーリツ鋼機のあゆみ 創立四十三周年記念誌』(1993年)第一部立志
  • 中小企業金融公庫月報 1976年1月号(山本順一・大阪府立商工経済研究所長)
  • 中小企業金融公庫月報 1976年1月号(山本順一・大阪府立商工経済研究所長)会社の概要
  • 近代中小企業 1985年2月号
  • 発明 1985年2月号「わが社の技術開発 写真処理機一筋に」(ノーリツ鋼機株式会社)
  • 発明 1985年2月号「わが社の技術開発 写真処理機一筋に」(ノーリツ鋼機株式会社)会社の沿革
  • 近代中小企業 1985年2月号/戦略経営者 1993年11月号
  • 石垣 1986年2月号「世界市場を席巻する写真業界の小さな巨人 ノーリツ鋼機株式会社」(日本商工会議所)
  • 戦略経営者 1993年11月号「写真処理機器業界の覇者になった秘訣 ノーリツ鋼機」(間所政則・取締役営業部長の説明)
  • 戦略経営者 1993年11月号「写真処理機器業界の覇者になった秘訣 ノーリツ鋼機」
  • 戦略経営者 1993年11月号「写真処理機器業界の覇者になった秘訣 ノーリツ鋼機」/経済月報 1994年8月号「和歌山有力メーカーの経営戦略」(西本貫一)
  • 経済月報 1994年8月号「わが社のグローバル展開 和歌山有力メーカーの経営戦略」(西本貫一)
  • 証券アナリストジャーナル 1996年4月号(池浦裕男・ノーリツ鋼機専務取締役)
  • 証券アナリストジャーナル 1997年12月号(池浦裕男・ノーリツ鋼機専務取締役)
  • 証券アナリストジャーナル 1997年12月号/1999年12月号(池浦裕男・ノーリツ鋼機専務取締役)
  • 証券アナリストジャーナル 1999年12月号(池浦裕男・ノーリツ鋼機専務取締役)

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