フジクラ光ファイバ技術に投資:他社技術に頼らない独自方式の選択と、融着接続機の自社開発
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- 概要
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1973年のCVD法による光ファイバ母材の検討開始から、1975年の日本電信電話公社・古河電気工業・住友電気工業との光ファイバ共同研究協定、1980年のシングルモード用融着接続機の開発までを通じて、藤倉電線が光ファイバとその接続装置へ研究資源を集中させた経営判断。研究員を増やし、通信事業部の研究開発費を光へ寄せた。
- 背景
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電線は素材である銅の値動きに採算を左右される事業で、日本の電線工業は主として産銅業者の投資と保護育成によって発達していた。産銅資本の系列に属さない藤倉電線は、1976年3月期に売上783億円に対し経常損失16億円を計上している。売上の柱は電電公社と電力会社への納入で、通信方式が変われば納入品も入れ替わる立場にあった。
- 内容
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光ファイバ母材の製造法を1973年から検討し、1976年には電電公社と長波長極低損失光ファイバを共同開発、1979年に0.27dB/kmを達成した。並行して1976年から3名の陣容でファイバ同士をつなぐ融着接続機の研究を始め、1977年10月に1号機FR-1を完成させた。1982年に佐倉工場へ光工場を建て、1983年から日本列島縦貫用光ファイバの納入・布設に入った。
- 含意
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融着接続機は世界60カ国に代理店を置く世界シェア首位の製品となり、細径・多心のSWR/WTC光ケーブルは6,912心の超多心ケーブルとしてデータセンター需要の中心に座った。岡田直樹社長は2024年に、旧財閥系に規模で及ばない立場で技術に賭けてきた社内の来歴を語っている。
つなぐ道具を持つということ
3名で始めた融着接続機の研究が、この判断のいちばん効いた部分であったとみられる。光ファイバそのものは電電公社との共同研究に古河電工・住友電工と並んで参加した成果で、藤倉電線だけの持ち物ではない。だが、現場でファイバをつなぐ装置は誰も持っていなかった。ケーブルは銅と同じく量産と価格の勝負に向かう製品であり、その外側にある道具を押さえたことが、素材相場に握られない収益を残した。接続という不便を商売の種と読んだ判断は、結果として当たった。
ただし、光に賭けた効き目が現れるまでの時間は長かった。1979年に0.27dB/kmを達成してから、超多心ケーブルがデータセンターの中心に座るまでに40年が過ぎている。技術で先に立つ方針は、研究費を切らない体力と、需要が来るまで待つ時間を同時に要する。『技術で勝負するしかない』という認識は、選択の潔さより持続の難しさを指しているといえる。
Yutaka Sugiura, 2026年7月
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