フジクラ藤倉電線護謨合名からの電線部門の分離独立と株式会社化
電線とゴムを一つの合名会社で持ち続けるか、分けるか——創業者の死から9年後に引かれた線
- 概要
- 1910年3月18日、藤倉電線護謨合名会社が電線とゴム引防水布の二事業を分け、電線部門を資本金50万円の藤倉電線株式会社として独立させた経営判断。創業者藤倉善八氏の死後に事業を継いだ松本留吉氏のもとで、合名会社に残るゴム引防水布事業と別会社に分かれ、双方が別の工場を構えた。
- 背景
- 1885年に東京神田淡路町で始まった綿・絹巻線の製造は、わが国電線製造業の嚆矢といわれた。1901年に創業者が死去したのち、末弟の松本留吉氏が資本金2万5,000円の合名会社を設立し、同時に岡田顕三氏のゴム引防水布事業を合わせて営んでいた。電線は陸海軍と逓信省への納入で伸び、資本金は1907年に20万円へ達していた。
- 内容
- 会社銀行八十年史は「時勢の進運に鑑み、事業を二分することとし、ゴム引防水布事業はそのまま社名を継承」させたと記す。新会社の本店は東京千駄ヶ谷。ゴム側は同時に大崎へ工場を新設し、防水布のほか電気絶縁材料・航空機材料の研究製造に入った。
- 含意
- 電線側は増資と熔銅・伸線工程の内製を重ね、昭和初期には古河電工・住友電工・日立製作所と並ぶ四大電線会社の一角として銅の共同購買に加わった。産銅資本の後ろ盾を持たない独立系という立ち位置は、この分割で定まり、以後の技術投資の性格を規定した。
二つに分けた線の引き方
松本留吉氏が引いた線は、製品の似かよりではなく、資金の集め方に沿っていた。電線は熔銅から伸線、ケーブル化までの工程を抱え込むほど設備が重くなる事業で、合名会社の資本金20万円では次の投資に足りない。新会社が50万円で出発し、6年後に200万円まで積み上げた事実は、分離が増資のための手続きでもあったことを示している。銅山を持たない会社が銅を扱う工程へ進むには、外から資本を入れられる株式会社の形が要ったとみられる。
ただ、この線引きが正しかったと言えるのは、電線側がその後も残ったからにすぎない。1923年に完成した深川の新拠点は8か月で震災に全滅し、生産を支えたのは分離前から使っていた千駄ヶ谷工場であった。ゴム側も戦時に11工場まで膨らみ、戦後は品川・沼田・富山・藤岡の4工場を売却して縮んでいる。分けた二事業のどちらにも、事業を守り切れない時期が来た。分割が生んだのは安全ではなく、それぞれが自力で資本を調達する立場であったといえる。
Yutaka Sugiura, 2026年7月
背景
綿巻電線の家業と、創業者の死
藤倉電線の出発は、1885年2月に藤倉善八氏が東京神田淡路町で綿・絹巻線の製造を始めたところにある。会社銀行八十年史はこれを「わが国電線製造業の嚆矢といわれ」と記す。工場を千駄ヶ谷へ移してからは、当時の国内では不可能とされていたゴム線の製造に着手し、米国から帰った末弟の松本留吉氏の協力を得て量産の方法を固めた。電線とゴムは、この時点では一つの作業場のなかで隣り合っていた[1]。
1901年10月8日、善八氏が59歳で死去した。事業を継いだ松本留吉氏は同月25日に資本金2万5,000円の藤倉電線護謨合名会社を設立して代表社員に就き、あわせて甥の岡田顕三氏が在米中の研究に基づいて始めたゴム引防水布の製造も社内に取り込んだ。電線とゴムを一つの会社で営む形は、創業者の死をきっかけに、むしろこのとき整えられた[2][3]。
売り先の異なる二つの事業
合名会社の9年間で、電線の売り先は官庁と軍にはっきり寄っていた。国産品への不信が残るなかで混合ゴム被覆電球線・陸用電話線・三九式中被覆線などの製造に成功し、陸軍・海軍と逓信省に納入した。1903年には逓信省のゴム被覆線指定工場となり、同じ年の旋風で千駄ヶ谷工場が全壊しながら3か月で復旧している。増資も重ね、資本金は1907年に20万円へ達した[4][5]。
一方の電線業界は、明治末年までに主要メーカーの骨格が固まりつつあった。日清戦争後の重工業の発展と、1887年以降の電灯事業・1889年の東京熱海間開通に続く電話事業の拡張が需要を押し上げていた。ただし会社銀行八十年史は、日本の電線工業が「主として産銅業者の投資ないし保護育成によつて発達した」と整理する。銅山を持たない藤倉は、設備の資金を自ら集めるほかなかった[6]。
決断
事業を二分する
1910年3月18日、電線部門が分離され、資本金50万円の藤倉電線株式会社が設立された。会社銀行八十年史は決定の理由を「時勢の進運に鑑み」たものと書き、ゴム引防水布事業はそのまま社名を継承させたと記す。合名会社の資本金20万円に対し、新会社は2.5倍の資本を積んで出発した。本店は千駄ヶ谷に置かれた[7][8]。
分けられた側の記録も残っている。藤倉ゴム工業の項は、電線部門を分離させたうえで「同時に大崎に工場を新設し、それを藤倉防水布製造所と通称して防水布のほか電気絶縁材料、航空機材料の研究製造に着手した」と書く。二事業は帳簿の上で切り離されただけでなく、それぞれ別の工場を構えて設備を持ち直した。切り出しは縮小の処理ではなく、双方が投資に向かうための線引きであった[9]。
分離後に電線へ寄せた投資
新会社は設立の翌1911年9月に資本金を100万円へ引き上げ、1913年4月に電話用乾紙ケーブルと動力用紙絶縁電纜の製造を始めた。1916年4月には熔銅・伸線・製線の作業に入り、銅を溶かして線に引く工程まで自社に取り込んでいる。同年7月には資本金を200万円とし、福岡・大阪・上海に出張所を開いて販路を広げた。6年で資本金は4倍になった[10]。
1920年には深川の現在地に本社と工場の建設へ着手し、1923年1月に完成して移転した。ところが同年9月の関東大震災で深川は全滅する。被害の軽い千駄ヶ谷工場で生産を続けながら復旧に入り、同年11月にはケーブル工場と製線工場の操業を再開、1924年3月に一切の復旧工事を終えた。分離から13年で得た新拠点は、完成から8か月で作り直しになった[11]。
結果
分かれた二社の四十五年後
電線側は1933年10月に資本金1,000万円へ増資し、SL型電纜・O・Fケーブル・藤光線を送り出した。会社銀行八十年史は、搬送式無装荷ケーブルと藤倉型同軸ケーブルを技術陣の声価を高めた製品と記す。『企業の歴史 明治百年』も、1935年の藤倉型周波同軸ケーブルが米・英・独・仏など7カ国で特許を取ったと書きとめている。1955年5月時点の資本金は10億5,600万円、社長は石橋五郎氏であった[12][13]。
ゴム側は1920年に株式組織へ改めて藤倉工業と称し、1948年10月に藤倉ゴム工業となった。1954年度の売上高は14億7,000万円で、ゴム引布・雨衣関係と履物関係が6割、タイヤ関係が3割を占めた。飛行機用翼布や気球の球皮といった航空材料にも早くから手を伸ばし、戦時には11工場まで増やしたが、戦後は品川・沼田・富山・藤岡の4工場を売却して操業を絞った。1955年時点の資本金は1億円で、電線側の10分の1に届かない[14][15][16]。
独立系電線メーカーという立ち位置
昭和初期の恐慌期、古河電工・住友電工・藤倉電線・日立製作所の四社は電気銅の購買カルテル「電気銅共同購買会」を結成し、産銅側の水曜会と国産銅の優先供給協定を結んだ。産銅資本の系列に属さない藤倉電線も、大手四社の一角として銅の調達に加わっていた。分離から20年で、電線専業の会社は業界の中心に席を得た[17]。
分離から半世紀を経ても、事業構成は電線のままであった。1961年3月期上半期の売上構成は通信ケーブルが28.8%、電力ケーブルが21.0%で、逓信省の後継である電電公社と電力会社への納入が柱を成した。『企業の歴史 明治百年』は1968年の同社を「現在も官のウェイトが高く、安定した成長を続けてきた」と記す。ゴムと分けた選択の効き方が、ここに残っている[18][19]。
- 会社銀行八十年史(東洋経済新報社, 1955)第2篇 日本会社史 35_金属「藤倉電線」
- 会社銀行八十年史(東洋経済新報社, 1955)第2篇 日本会社史 25_ゴム・皮革「藤倉ゴム工業」
- 会社銀行八十年史(東洋経済新報社, 1955)第2篇 日本会社史 35_金属 概説「電線工業」
- 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社, 1968)
- 日本産業史(日経文庫)第1巻 鉄鋼・金属「非鉄金属-海外品に押される」
- フジクラ 公式サイト「先哲の室 ~フジクラの歴史」
- フジクラ 有価証券報告書【沿革】
- 株式会社年鑑 昭和37年版(藤倉電線・部門別売上構成)