富士電機通信機部門の分離独立と富士通信機製造の設立

伸び始めた弱電を本体に抱えるか、別の資本を立てて外に出すか——資金の窮屈な合弁会社の分岐

時期 1935年6月
意思決定者(推定) 吉村萬治郎 社長
論点 弱電部門の切り出しと資本の分離
概要
1935年6月、富士電機製造が電話工場の設備と通信機関係の事業一切を新会社に継承させ、資本金300万円の富士通信機製造株式会社(現・富士通)を設立した経営判断。社長には富士電機製造の取締役であった吉村萬治郎氏が就いた。
背景
電話機の製造販売はシーメンスとの提携契約の営業種目から一度外れていたが、関東大震災後の電話局自動化で需要が見込まれ、1925年に販売権を引き継ぎ、1933年には電話部を設けて国産製造に入った。同年9月に逓信省の指定工場となり、需要の増加に伴って工場の新設と拡張が続いた。
内容
通信機関係の事業と設備を切り離し、資本金300万円の別会社に移した。富士電機製造の当時の資本金1,000万円に対して3割にあたる規模で、部門の看板を替えるのではなく、資本と決算を分ける形をとった。
含意
分離の背後には、株主配当を始めた直後でなお資金のやりくりが窮屈だった本体の事情があった。切り出された側は独自の工場網を広げ、20年後には資本金6億円の通信機メーカーとなるが、両社の社長はいずれも和田恒輔氏が務めており、資本の分離は経営の分離を意味していなかった。
筆者の見解

資本を分けた判断をどう読むか

やりくりの金は依然として窮屈であった——初配当にたどりついた直後の社内を、和田恒輔氏はそう書き残している。逓信省の指定工場となって受注が増えるほど、電話工場には新しい設備が要る。重電機の設備投資と同じ財布から出すには無理があり、300万円という別の資本を立てて外に置いたのは、資金の制約から選ばれた形だとみられる。事業を手放す判断ではなく、伸びる事業に別の財布を与える判断であったとみることができる。

分離が正しかったと言えるのは、切り出された側が後の富士通になった経過を知っているからにすぎない。分離の時点では、通信機は逓信省という単一の官需に寄りかかる事業であり、外に出すことは需要の振れを小さな新会社に負わせることでもあった。日本電気の特許使用権という懸案も片づいていなかった。資本を分けた後も社長は富士電機の取締役が兼ね、戦時中は和田氏が両社を見ている。資本の分離が経営の分離を意味しなかった点は、差し引いて読む必要があるだろう。

Yutaka Sugiura, 2026年7月

背景

合弁の設計図から一度こぼれた電話事業

富士電機製造は1923年8月、古河電気工業とドイツ・シーメンスの提携に基づいて設立された。電話機の製造販売はもともと提携契約の営業種目に入っており、古河電気工業が持つ製作工場を現物出資する案が検討されたが、その評価で双方の意見が折り合わず、契約からは除外された。さらに関東大震災で古河の工場が焼け、製作そのものが止まった。弱電は、合弁の設計図から一度こぼれ落ちた事業であった[1][2]

震災後、東京市内の電話局装置の復旧にあたって自動化が計画され、それを他の大都市にも及ぼそうという情勢になった。営業を担っていた和田恒輔氏は「私は電話の将来性について非常な関心をもち、そのころから是非とも自社製造にまでもって行きたいと考えていた」と後に書いている。同社は1925年にシーメンスから電話交換装置の輸入・販売事業を引き継ぎ、1928年に装荷線輪、1930年に局線中継台と電話機の国産化へ手をつけた[3][4]

逓信省が付けた国産化の条件

1932年、大阪南局の6,200回線の引き合いがあり、同社はシーメンス式の電話装置を輸入して納めた。このとき逓信省は、次回から国産品を供給する誓約がなければ発注しないという条件を付けてきた。輸入販売のままでは官需の列から外れる。和田氏の回想によれば、吉村萬治郎社長は背水の陣を敷いて国産化を言明し、逓信省に対して社としての退路を断った[5]

国産化にはシーメンスの承認が必要で、交渉は容易に進まなかった。滞英中であった古河電気工業の萩野専務に依頼してようやく了解を得て、技術者3名をドイツへ送り製造技術を習得させている。1933年、同社は電話部を新設し、実習を終えた技術者の帰朝を待って本格的な製作に入った。同年9月には逓信省の指定工場となり、以後は需要の増加に伴って工場の新設と拡張が続いた[6][7]

決断

部門を分けるのではなく資本を分ける

1935年6月20日、富士電機製造は電話工場の設備と通信機関係の事業一切を新会社に継承させ、資本金300万円の富士通信機製造を設立した。当時の富士電機製造の資本金1,000万円に対して3割にあたる規模で、社長には富士電機製造の取締役であった吉村萬治郎氏が就いている。社内の部門名を替えるのではなく、資本と決算を分けて外に置く形が採られた[8][9]

分離の直前、本体の資金事情は楽ではなかった。和田氏は1934年下期からようやく株主配当ができるようになったと記した直後に、「やりくりの金は依然として窮屈であった」と書き添え、その理由として電話部の新設と富士通信機製造の創立を挙げている。分離の理由についてはもう一つ、通信機は仕事の性質が重電機と異なり、東京電気会社との提携関係もあったためという記録も残る[10][11]

官需と特許をめぐる不確かさ

電話交換装置には別の懸案もあった。1934年、日本電気がシーメンス式のSH式自動交換装置を製造する権利を主張し、和田氏はドイツへ渡って対策を協議している。シーメンスに確かめると、米国ウエスタン社とのクロスライセンスにより、その関係会社である日本電気にも特許の使用権があるという返答であった。日本での独占的な製造権を持つという富士側の理解は、この時点で崩れた[12]

同じ渡独の折、和田氏が川崎工場製の電話機と装置の部品を持参して見せると、シーメンス側はわずか一年でこれほどの製品ができたことに驚いたという。技術は立ち上がり、逓信省の指定も得た。伸びる見込みと、単一の官需に依存する不確かさと、重電機とは共有できない設備投資の必要が、分離の前年に同時に並んでいた[13]

結果

分かれた二社の20年

富士通信機製造は1937年8月に電話中継器と搬送電話装置で逓信省の指定工場となり、翌1938年10月には川崎市上小田中に工場を新設して本社工場をそこへ移した。日華事変後の軍需の膨張を受け、1942年4月に長野県の須坂工場で電話機の製造を始め、1944年6月には茨城県に下館工場を開設して、川崎工場が担ってきた各種搬送機器の製造を引き継がせている[14]

一方の富士電機製造は、分離の後に重電機と軍需へ傾いた。1938年4月にドイツのフォイト社と水車・タービンの製作販売契約を結び、潜水艦主電動機や配電盤、探照灯、水銀整流器が主力に加わる。1937年9月には奉天に富士電機工廠公司、同年12月に富士航空計器、翌1938年3月に富士光機製造を設立し、資本金も1937年10月に1,500万円、1939年8月に2,500万円へ積み増した[15]

同じ章に並んだ親と子

分離から20年後、二社は同じ本の同じ章に並んで載った。1955年の『会社銀行八十年史』によれば、富士電機製造は資本金15億円、川崎を主力とする6工場に従業員7,000人を擁し、1954年度の売上高は102億円に達している。富士通信機製造は資本金6億円で、有線・無線の通信機器を事業としていた[16]

二社の社長は、そのときどちらも和田恒輔氏であった。戦時中も和田氏は富士電機の生産担当者と富士通信機の社長を兼ね、資本は分かれても経営の距離は近いままであった。終戦時に富士電機の疎開工場であった上田工場は富士通信機が引き受け、通信機器の部品と完成品の製造にあてられている[17]

出典・参考
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