住友電線製造所設置(1911年・住友電工の決断)更新:2026/07/24論点電線部門を独立の製造所に分離するか住友電工:業績の推移売上高(億円)経常利益率(%)データ出所住友伸銅場からの電線部門の切り出しと、独立した経営基盤の確立何をなぜ決めたか:住友伸銅場からの電線部門の切り出しと、独立した経営基盤の確立概要1911年8月、住友は住友伸銅場から電線製造業を分離し、住友電線製造所を設けた。伸銅場から建物・機械・原料品などの資産と負債を引き継ぎ、200人足らずで発足した電線ケーブルの専業体制で、住友電気工業はこの年を創立としている。同じ年の秋には電力用鉛被紙ケーブルの実用化に日本で初めて成功した。背景1897年開設の住友伸銅場は別子銅山の産銅を原料に銅板・銅棒・銅線を作っていたが、1908年に設けたケーブル工場は3年続けて損失を計上していた。電灯と電話の拡張で電線需要は増加し、同業でも電線事業会社の独立や新工場の建設が進んでいた。内容資産と負債を引き継いだうえで、被覆線工場478坪・裸線工場171坪などを中心に電線ケーブルの製造販売を独立させた。電気銅を銅棒へ鋳造圧延する工程は伸銅場に残し、手数料を払って銅棒の供給を受けた。含意分離直後の生産高は業界首位の5分の1ほどにとどまったが、逓信省の指定製造所となり、1916年の恩貴島工場(現・大阪製作所)と第一次大戦の需要増で規模を拡大した。1920年には資本金1,000万円の株式会社住友電線製造所へ改組した。いつ何が起きたか7件考察:損の出ている部門を切り出すということ考察考察:損の出ている部門を切り出すということ需要の伸びに合わせた自然な分社と読むと、この判断の芯を取り逃がす。分離の前の3年間、ケーブル工場は毎年5万円前後の損失を計上し続けていた。伸銅場の一部門であれば、銅板や銅棒の稼ぎで穴埋めしながら細々と続ける選択肢もあった。住友がそれを選ばず、200人足らずの製造所として切り出したところに、輸入依存を断ちたいという湯川寛吉氏の意図がうかがえる。赤字の部門ほど、責任と採算の見える単位へ移す必要があったと推察される。もっとも、独立とはいえ実態は半ばであった。銅棒への鋳造圧延は伸銅場に残り、住友電線製造所は手数料を払って供給を受け、事務室や荷造り場も共用のまま残った。1912年の生産高約70万円は、首位の横浜電線製造の5分の1に満たない。専業体制が数字で報われるのは、第一次大戦の需要と1916年の恩貴島工場を待たねばならなかった。事業を切り出す判断の成否は、切り出した時点ではなく、その後どれだけ投資を続けられるかで決まるといえる。Yutaka Sugiura, 2026年7月参考文献参考文献参考住友電工120年の軌跡 Glorious Excellent Companyの実現に向けて(住友電気工業, 2018)会社銀行八十年史(東洋経済新報社, 1955)住友電気工業「1911年 住友電線製造所開設(住友電工の創立)」(未来構築マガジン「id」)住友電気工業 有価証券報告書【沿革】企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社, 1968)次に読む決断住友電工の意思決定1897年住友電工住友電工住友伸銅場を開設日本製銅の買収を足がかりとする銅線製造事業の立ち上げ1897年2001年住友電工住友電工ジェイ・パワーシステムズへの電力ケーブル譲渡創業以来の高圧電力ケーブルを日立電線との折半会社へ移管した祖業の切り出し2001年同じ問い:技術優位を軸とした選択と集中1912年日本鋼管日本鋼管横浜で継目無鋼管専業創業白石元治郎氏による日本鋼管の設立と、継目無鋼管専業での発足1912年1952年ゴールドウインゴールドウイン野球用品中心へ全面転換一般メリヤス雑貨の生産をやめてのスポーツウエア専業への集中1952年1957年ペンタックスペンタックスアサヒペンタックスの開発距離計連動式を採らない一眼レフカメラへの集中と、専業メーカーへの転換1957年2025年ニコンニコンDSP-100の受注開始前工程で失った首位の、後工程のデジタル露光での立て直し2025年2022年ADEKAADEKA全州第二工場の増強半導体材料への経営資源の集中と、高誘電体ALD材料の生産能力の増強2022年×出所