住友電工住友伸銅場からの電線製造業の分離と住友電線製造所の設置
損の出ている部門を伸銅の傘に置くか、専業として独り立ちさせるか
- 概要
- 1911年8月、住友は住友伸銅場から電線製造業を分離し、住友電線製造所を設けた。伸銅場から建物・機械・原料品などの資産と負債を引き継ぎ、200人足らずで発足した電線ケーブルの専業体制で、住友電気工業はこの年を創立としている。同じ年の秋には電力用鉛被紙ケーブルの実用化に日本で初めて成功した。
- 背景
- 1897年開設の住友伸銅場は別子銅山の産銅を原料に銅板・銅棒・銅線を作っていたが、1908年に設けたケーブル工場は3年続けて損失を出していた。電灯と電話の拡張で電線需要は増え、同業でも電線事業会社の独立や新工場の建設が進んでいた。
- 内容
- 資産と負債を引き継いだうえで、被覆線工場478坪・裸線工場171坪などを中心に電線ケーブルの製造販売を独立させた。電気銅を銅棒へ鋳造圧延する工程は伸銅場に残し、手数料を払って銅棒の供給を受けた。
- 含意
- 分離直後の生産高は業界首位の5分の1ほどにとどまったが、逓信省の指定製造所となり、1916年の恩貴島工場(現・大阪製作所)と第一次大戦の需要増で規模を広げた。1920年には資本金1,000万円の株式会社住友電線製造所へ改組した。
損の出ている部門を切り出すということ
需要の伸びに合わせた自然な分社と読むと、この判断の芯を取り逃がす。分離の前の3年間、ケーブル工場は毎年5万円前後の損失を出し続けていた。伸銅場の一部門であれば、銅板や銅棒の稼ぎで穴埋めしながら細々と続ける道もあった。住友がそれを選ばず、200人足らずの製造所として切り出したところに、輸入依存を断ちたいという湯川寛吉氏の意図がうかがえる。赤字の部門ほど、責任と採算の見える単位へ移す必要があったとみることができる。
もっとも、独立とはいえ実態は半ばであった。銅棒への鋳造圧延は伸銅場に残り、住友電線製造所は手数料を払って供給を受け、事務室や荷造り場も共用のまま残った。1912年の生産高約70万円は、首位の横浜電線製造の5分の1に満たない。専業体制が数字で報われるのは、第一次大戦の需要と1916年の恩貴島工場を待たねばならなかった。事業を切り出す判断の成否は、切り出した時点ではなく、その後どれだけ投資を続けられるかで決まるといえる。
Yutaka Sugiura, 2026年7月
背景
産銅業から派生した電線製造
住友の電線事業は、産銅業から枝分かれして始まった。1897年3月、住友家は日本製銅を買収して大阪市北区安治川上通に住友伸銅場を開き、別子銅山の産銅を原料に銅の板・棒線・管類の製造販売に着手した。1899年3月には大阪製銅の伸銅工場を地所約2,890坪ごと17万1,050円で買い取っている。ただし当時の国内の電線需要はまだ低調で、初期の実績としては、硅銅線が逓信省に賞用されたことのほかに特記できるものはなかった[1][2]。
日本の電線工業は、産銅業者の投資と保護育成によって育った点に特徴がある。明治20年以降に興った電灯事業と、1889年の東京・熱海間の開通に始まる電話事業の拡張が需要を作り、日清戦争後の重工業の発展がこれを押し上げた。主要な電線メーカーの基礎が固まったのは明治の末年で、藤倉電線が裸電線の製造を始めたのが1910年、住友電線製造所の設立が1911年にあたる。住友の分離独立も、この業界形成の波のなかで起きた[3]。
ケーブル工場の三年連続の損失
伸銅場が電線の加工へ本格的に踏み込んだのは、1906年9月に通信ケーブルの製造を具体化するため英国人技師を雇い入れてからである。1908年1月には安治川本工場の西側の隣接地を買収し、ケーブル工場を完成させた。ゴム・被覆・編組・撚線・ケーブルの5工場を鋸の歯状に連ねた延床490坪の木造建屋で、伸銅場として初めて動力に電気を用い、150キロワットの発電機も据えて、同年10月から全面操業に入った[4]。
立ち上がりは苦しかった。ケーブルの製造は悪戦苦闘の連続で、1908年から3年続けて毎年5万円前後の損失を出している。それでも技術は次第に上がり、1909年1月には横須賀海軍工廠へ軍艦艦内用ケーブルを納めた。1910年10月には50対の通信用紙ケーブル117ヤードを逓信省へ提出し、製造所の指名を願い出るまでこぎつけた。逓信省の側も、良質な国産ケーブルが得られず輸入が増え続けるなか、製造業者へ研究と製作を督励していた[5][6]。
決断
1911年8月の分離独立
1911年8月、住友は伸銅場から電線製造業を分離し、住友電線製造所を設けた。この年、政府は新たな電気事業法を制定・施行し、逓信省は第3次電話拡張計画に着手している。送電と通信の技術が進むにつれて各種の電線やケーブルの需要は目に見えて増え、競合他社でも電線事業会社の独立や新工場の建設が進んでいた。伸銅の一部門のままでは、増える注文に応じる速さも、設備へ投じる規模も足りなくなっていた[7][8][9]。
分離の中身は、看板の掛け替えにとどまらなかった。新しい製造所は伸銅場から建物・機械・原料品・半製品・製品・売掛金などの資産と、買掛金などの負債を引き継ぎ、計200人足らずで発足した。建物は被覆線工場478坪と裸線工場171坪などで、事務室や荷造り場は伸銅場と共同のまま残した。電気銅を銅棒へ鋳造圧延する工程も引き続き伸銅場が受け持ち、電線製造所は手数料を払って銅棒の供給を受け、銅以外の主な原料品は自ら買い付けた[10]。
国産化を急いだ湯川寛吉
分離を主導したのは、のちに住友の第五代総理事となる湯川寛吉氏であった。逓信省の役人だった1897年、万国郵便会議の委員として渡米した湯川氏は、米国の製鋼所で技術力の高さを目の当たりにし、鋼板や電線といったインフラの基礎材料さえ輸入に頼る母国の後進性に焦りを覚えた。国内メーカーの育成が急務と考えて1905年に住友へ入り、被覆電線と通信・電気ケーブルの製造を本格化させるために、伸銅場からの分離を選んだ[11]。
分離した年の秋、住友電線製造所は電力用鉛被紙ケーブルの実用化に日本で初めて成功した。渇水時の対策として伏見に火力発電所を建てた京都電燈が、市内への送電路に使う高圧地下ケーブルを発注したもので、1万1,000ボルト用3心入り鉄線鎧装鉛被紙ケーブルにあたる。東京電燈や神戸電燈にも高圧地下ケーブルの先例はあったが、使われたのはいずれも輸入品で、国産品の採用はこれが初めてであった。送電線路は同年11月に完成している[12]。
結果
後発の専業所が国産ケーブルの指定を得るまで
専業として立っても、規模は小さかった。1912年の被覆線・ケーブルの生産高は約70万円で、横浜電線製造の380万円、藤倉電線の150万円、日本電線製造の120万円に遠く及ばない。それでも同じ年に通信用紙ケーブル2万3,000ヤードを逓信省へ納め、1913年5月には臨時指定製造所となり、1914年2月に横浜電線製造・日本電気とともに本指定を受けた。外国製品に頼ってきた通信用紙ケーブルは、これを境に国産へ置き換わった[13][14]。
生産と販売が伸びると、安治川の工場は手狭になった。1913年5月に恩貴島南之町の1万1,993坪を新工場の候補地と決め、8月に埋立てへ着手し、1916年7月中旬に操業へ入って年末にはほぼ全面稼働させた。これがのちの大阪製作所である。第一次大戦のあいだはインド・ロシア・豪州・ジャワ・中国などの需要が殺到し、生産技術と生産量がともに飛躍した。1920年12月には資本金1,000万円の株式会社住友電線製造所へ改組した[15][16]。
- 住友電工120年の軌跡 Glorious Excellent Companyの実現に向けて(住友電気工業, 2018)
- 会社銀行八十年史(東洋経済新報社, 1955)
- 住友電気工業「1911年 住友電線製造所開設(住友電工の創立)」(未来構築マガジン「id」)
- 住友電気工業 有価証券報告書【沿革】
- 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社, 1968)