住友電工住友本店による日本製銅の買収と住友伸銅場の開設、銅線製造の開始
別子の銅を掘る側が、なぜ経営難の伸銅会社を買い受けたか
- 概要
- 1897年、住友本店は日清戦争後の不景気で経営が行き詰まった日本製銅を買収し、直営事業として大阪市北区安治川上通に住友伸銅場を開設した。銅板・銅棒とともに銅線の製造を始め、住友電気工業は現在もこの年を創業として数えている。別子銅山で掘った銅を国内で製品へ変える工程を、住友が自ら抱え込んだ判断であった。
- 背景
- 住友家の事業は十六世紀末の銅製錬に始まり、1691年に開坑した別子銅山を中核としてきた。明治期には別子の繁栄とともに林業・石炭・機械・化学へ事業を広げた一方、電線やケーブルの高級品はそのすべてを輸入に頼り、銅を線に延ばして巻く工程は住友の手の外にあった。
- 内容
- 1895年設立の日本製銅を買い受け、その設備と人を引き継いで住友伸銅場を開いた。伸銅製品の製造の一環として裸銅線の製造を始め、1899年には大阪製銅も買収して中之島分工場を設けている。買収による参入であり、新設の工場から出発したのではなかった。
- 含意
- 素材の伸銅と加工の電線が同じ工場から出発した配置が、後年の事業構成を規定した。電線は1900年の被覆線、1909年の通信用ケーブル試作を経て1911年に住友電線製造所として分離し、1939年の住友電気工業への改称につながる。
買ったのは会社ではなく、銅の行き先
この買収を、窮地の同業を助けた美談として読むと、判断の芯を取り逃がす。住友本店はすでに別子銅山という原料を握り、新居浜の製錬所が出す煙の後始末に四阪島移設という巨額の投資まで払っていた。足りなかったのは、掘って精錬した銅を、国内で製品に変える工程だけであった。日本製銅の買収で住友が手に入れたのは、伸銅の設備と職工を備えた一つの会社ではなく、別子の銅の行き先だったとみることができる。
もっとも、1897年の住友に電線会社の絵が見えていたとするのは行き過ぎといえる。この年に始まったのは伸銅製品の一環としての裸銅線であり、ケーブルなど高級品を輸入に頼る状態はその後も続いた。電線が独立した製造所として分けられるのは、十四年を経た1911年になる。素材の隣に加工を置くことの効き目は、置いた時点では誰にも見えていなかったかもしれない。買収で工程を一つ手前まで引き寄せた判断が、次の事業を生む余地を残した。
Yutaka Sugiura, 2026年7月
背景
銅を掘る側に残されていた工程
住友家の事業は銅とともにあった。十六世紀の終わりに京都で銅吹き屋を開き、粗銅から銀を吹き分ける南蛮吹きの技術で鉱業界に独自の地位を占めると、元禄三年(一六九〇年)に伊予で別子銅山を見つけ、翌年から採掘に入った。明治に入っても別子は住友の中核であり、住友はその繁栄とともに林業・石炭・建設・機械・化学・金属工業へ事業を広げた。掘った銅を誰がどこまで加工するかは、そのなかで手つかずに近い領域として残っていた[1][2]。
一方で、銅は住友に重い負担も強いていた。愛媛県新居浜の製錬所が出す煙は周辺の農地を傷め、住友は製錬所のすべてを新居浜沖の無人島・四阪島へ移す巨額の投資に踏み切っている。掘り、精錬し、その害の後始末までを自前で背負う会社であった。それでいて、ケーブルなど高級品はそのすべてを輸入に頼っており、銅を線に延ばして巻く工程だけが住友の外にあった。川下をどう埋めるかという問題が、1890年代の住友本店の前に置かれていた[3][4]。
日清戦争後の不景気で行き詰まった日本製銅
買収の相手となった日本製銅は、1895年に設立された会社である。ところが日清戦争の後に訪れた不景気で経営が行き詰まり、設立から二年ほどで自力の再建が難しい状態に陥った。銅を板や棒に延ばす伸銅は、当時の日本では数少ない近代的な金属加工の一つで、その担い手が倒れれば国内で銅製品を作る手はさらに細る。設備も、それを動かす職工も、容易に代えのきくものではなかった[5][6]。
住友がこの買収に与えた説明は、採算ではなく国の側を向いていた。公式には、国家の近代化に不可欠な銅製品を絶やしてはならないという考えから買い受けたと記されている。住友には「住友の事業は、住友自身を利すると共に、国家を利し、且つ社会を利する事業でなければならぬ」という事業精神があり、これは後に自利利他・公私一如という言葉で受け継がれた。窮地の同業を引き取るという選び方は、その言い分と重なっている[7][8]。
決断
買収による創業と、伸銅場に置かれた銅線
1897年、住友本店は日本製銅を買収し、直営事業として大阪市北区安治川上通に住友伸銅場を開設した。新しく会社を興したのではなく、行き詰まった同業の設備と人をそのまま引き継ぐ参入であった。住友伸銅場は銅板と銅棒を作り、あわせて銅線の製造を始めた。住友電気工業は現在もこの年を創業と数えており、有価証券報告書の沿革も1897年の伸銅場開設を最初の一行に置いている[9][10]。
この創業の性格は、電線が独立した事業として立てられていない点によく表れている。住友伸銅場が製造したのは伸銅製品であり、裸銅線はその事業の一環として作られた。地金を板や棒に延ばす工程と、線に延ばして巻く工程が、同じ屋根の下に並んでいた。電線を別に構えるより、伸銅の延長へ置くほうが自然な規模であった。素材と加工が隣り合うこの配置が、後年まで住友電気工業の事業構成を規定する[11]。
結果
品目の積み上げと電線事業の独立
伸銅場は開設の後、扱う品目を一つずつ増やした。1899年には大阪製銅を買収して中之島分工場を開き、1900年に被覆線、1909年には通信用ケーブルの試作へと進んだ。買収で手に入れた設備を土台に、銅を延ばす技術を線材の側へ寄せる作業であった。電気事業の発展は目覚ましく、国内の電力ケーブル技術がなお幼稚とされた時期にあたる。品目を積み上げる速度は、需要の立ち上がりに引かれていたとみられる[12][13]。
電線が伸銅場の一部門から離れるのは、創業から十四年後の1911年である。この年、住友伸銅場から電線製造業を分離して住友電線製造所が置かれ、ほぼあらゆる電線ケーブルを製造する能力を持つに至った。1920年には住友総本店から分離独立して株式会社住友電線製造所となり、1939年に住友電気工業へ改称する。伸銅場の一角で始まった銅線が、現在の社名まで続いている[14][15]。
- 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社, 1968)
- 住友電気工業 有価証券報告書 第155期(2025年3月期)【沿革】
- 住友電気工業「1897年 住友伸銅場開設(住友電工の創業)」(公式サイト)
- 住友電気工業「住友電工グループの歴史」(公式サイト)
- 住友電気工業 SEI WORLD 2016年10月「住友電工120年の歴史 第1回 1590年~1897年」