住友本店はすでに別子銅山という原料を握り、新居浜の製錬所が出す煙の後始末に四阪島移設という巨額の投資まで払っていた。足りなかったのは、掘って精錬した銅を国内で製品に変える工程だけである。1895年に設立されて経営に行き詰まっていた日本製銅を1897年に買い受けて取得したのは、伸銅の設備と職工を備えた一つの会社ではなく、別子の銅の行き先だったと思われる。
ただ、1897年の住友に電線会社の絵が見えていたとするのは行き過ぎといえる。この年に始まったのは伸銅製品の一環としての裸銅線であり、ケーブルなど高級品を輸入に頼る状態はその後も続いた。電線が独立した製造所として分けられるのは、14年を経た1911年になる。素材の隣に加工を置くことの効き目は、置いた時点では誰にも見えていなかったかもしれない。買収で工程を一つ手前まで引き寄せた判断が、次の事業を生む余地を残した。