呉羽紡績の創立——繊維商社から工業(紡績)経営への進出

金解禁を控えた不況の入口で、二代伊藤忠兵衛はなぜ自ら紡績工場を持とうとしたか

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時期 1929年7月
意思決定者 伊藤忠兵衛 伊藤忠 二代目当主
論点 商社の工業経営への進出と多角化
概要
1929年(昭和4年)7月、二代伊藤忠兵衛が、金解禁を控えた不況下で紡績会社・呉羽紡績を創立し、繊維貿易商社であった伊藤忠が自ら工業(紡績)経営へ本格進出した経営判断。売った紡機の代金回収から関わった富山紡績の経験を土台に、のちの三興・大建産業へと連なる工業展開のはじまりとなった。
背景
二代伊藤忠兵衛は英国留学で外国の低金利を用いる金融手腕を培い、大正9年の恐慌の年には紡機の売込先の経営難から富山紡績の代表を引き受け、数年をかけて紡績経営の実務を学んでいた。工業への入口は計画よりも取引の後始末から開かれていた。
内容
浜口内閣成立・金解禁不安の年に「延期せよ」との忠告を押し切り、日本で未着手の革新的なハイ・ドラフト操作の自信を背に呉羽紡績を創立した。借金を抱えながら、綿花代金を低利の米国資金で賄って操業を回した。
含意
呉羽紡績は東洋紡につぐ工場実勢へと拡大し、戦時統合で三興・大建産業の中核となった。商社が自ら工業を持つ発想は、戦後の過度経済力集中排除法による再分離を経てなお伊藤忠の来歴に刻まれている。
筆者の見解

逆張りの工業進出が残したもの

この判断の核心は、商品の仲立ちで稼ぐ商社が、自ら工場を持ちリスクを抱える工業経営へ乗り出した点にある。しかも乗り出した時機は、金解禁を目前にした不況の入口という、最も不利な条件のもとであった。売った機械の代金回収から始まった不本意な関わりを、革新的な紡績技術への自信と外国資金の活用でひとつの事業へ組み替えていった過程には、商社の金融力を工業の元手へ転じる発想がうかがえる。逆風のなかで先手を取ろうとした選択は、のちの伊藤忠が資源開発や事業投資へ乗り出す際の型を先取りしていたとみることもできる。

もっとも、こうして築かれた工業の集積は、時代の力によって大きく姿を変えていった。戦時下の強制合併で三興・大建産業へと束ねられた事業体は、終戦後に過度経済力集中排除法の指定を受け、伊藤忠商事・呉羽紡績・丸紅・尼崎製釘所の四社へと再び分離された。一代の経営者が逆張りで興し、戦争が巨大化させ、戦後の制度が解体する——呉羽紡績の来歴は、個人の決断と時代の圧力がせめぎ合った軌跡として読むことができる。今日の総合商社が事業会社を広く抱え込む経営の遠い原型を、ここに見いだせるかどうかは、なお問いとして残されているとみられる。

Yutaka Sugiura, 2026年7月

背景

商社が握っていた金融の力

二代伊藤忠兵衛は、家業の呉服太物商を繊維貿易商社へと押し上げた人物であった。英国留学中には、日本の金利が高い一方で英国の手形割引が格段に低いことに着目し、外国の低金利を用いる無為替輸入を断行した。輸入価格は一割以上安くつき、金利は三分の一に減って、商売は自然に三倍へ膨らんだ。三井物産や大倉組でさえ手を付けていなかった外国資金の活用は、のちに呉羽紡の綿花金融をも支える伊藤忠兵衛の武器になっていた[1]

事業の体制も整いつつあった。大正3年に伊藤家の各事業を統轄する伊藤忠合名会社が設けられ、第一次大戦の好況を受けて大正7年にはその営業部門を二分し、綿糸布と貿易を引き継ぐ旧伊藤忠商事と、後の丸紅商店となる伊藤忠商店が分立した。繊維の貿易商社としての骨格はこの時期に固まっていた。もっとも、伊藤忠兵衛の関心は商いの仲立ちにとどまらず、やがて自ら工場を持つ工業経営へと向かっていった[2]

富山紡績の代表という偶発的な入口

工業への入口は、計画されたものというより取引の後始末から開かれた。現在の呉羽紡績の母体である富山紡績が創立されたのは、大正9年の「ガラ」(恐慌)の年であった。伊藤忠が紡機を売り込んだ得意先の経営が行き詰まり、やむを得ず伊藤忠兵衛自身がその代表者を引き受けた。商社が売った機械の代金を回収するために、機械を動かす側へ回り込んだ格好であった[3]

引き受けた紡績の経営は容易ではなかった。技術も人も足りないなかで、伊藤忠兵衛は先輩の紡績会社に頭を下げて技術者を世話してもらい、どうにか操業を継続した。この不本意な出発が、結果として紡績業の実務を学ぶ場になっていた。数年をかけて蓄えた経験は、のちに自前の紡績を興す判断を後押しする土台になったとみることができる[4]

決断

金解禁不安のさなかの創立

昭和4年7月、伊藤忠兵衛は自らの手で呉羽紡績を創立した。この年は浜口雄幸内閣が成立し、金解禁を控えて景気の先行きに不安が広がっていた時期であった。周囲の先輩からは「こんなときに」と創業の延期を勧める忠告が相次いだ。恩義の深い紡績会社と競い合う紡績を、よりによって不況の入口で興すという判断は、当時の常識からは無謀に映ったとみられる[5]

それでも踏み切った背景には、二つの自信があった。一つは、富山紡績の代表として数年をかけて積んだ紡績経営の経験であった。もう一つは、まだ日本で誰も手を付けていない革新的なハイ・ドラフト操作を採り入れる技術上の見込みであった。市況の逆風よりも、新しい紡績技術で先手を取れるという読みを優先した判断であったとみることができる[6]

借金日本一を金融でしのぐ

創立の条件は、けっして恵まれていなかった。従来の事業が負った傷は深く、伊藤忠兵衛自身が「借金は日本一」と振り返るほどの重い負債を抱えていた。加えて、これまで技術面で世話になってきた先輩紡績と正面から競合する事業に踏み込むことへの心配が、各方面から寄せられた。それでも表口から堂々と頼めば、先輩紡績は技師を割愛してくれた。その好意に頭が下がるばかりだったと、伊藤忠兵衛は記している[7]

重い負債を抱えながら操業を回せたのは、商社仕込みの資金調達力によるところが大きい。原料となる綿花の代金は、ナショナル・シティ・バンクの手形切り替えを用い、低利の米国資金で賄った。日本国内では金を貸してくれない場面でも、外国での借り入れならなんとかなる——英国留学で身につけた外国金融の活用が、ここでも工業経営を支える形になっていた[8]

結果

東洋紡につぐ工場実勢と戦時統合

呉羽紡績はその後、急速に規模を広げた。昭和9年には富山紡績系と合併し、前後して富山・長野・静岡に新工場を設け、数年後には福島・茨城・津にあった昭和人絹をも合併した。日華事変の進展にともなう政府の強制合併で傍系数社を組み込むと、紡機百六十二万錘、織機一万一千台に人絹スフや染晒工場、化学工業までを一つの機構に抱え、東洋紡につぐ工場実勢へと育った。伊藤忠兵衛が実際に手塩にかけた分は百二十万錘、天津の裕大・宝成紡を加えれば紡機換算で二百五十万錘に達していた[9]

工業への転出は、伊藤忠という企業集団の形そのものを変えていった。昭和16年には兄弟事業の丸紅・伊藤忠と、鉄鋼商の岸本商店が合併して三興株式会社となり、19年にはこの三興・呉羽紡績・大同貿易の三社が合併して資本金一億余の大建産業株式会社が生まれた。商社の傍らで始まった一つの紡績が、繊維・貿易・工業を束ねる巨大な統合体の中核の一つを占めていた[10]

出典・参考
  • 日本経済新聞「私の履歴書」(伊藤忠兵衛、1957年)
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社)