この判断の核心は、商品の仲立ちで稼ぐ商社が、自ら工場を持ちリスクを抱える工業経営へ乗り出した点にある。しかも乗り出した時機は、金解禁を目前にした不況の入口という、最も不利な条件のもとであった。売った機械の代金回収から始まった不本意な関わりを、革新的な紡績技術への自信と外国資金の活用でひとつの事業へ組み替えていった過程には、商社の金融力を工業の元手へ転じる発想がうかがえる。逆風のなかで先手を取ろうとした選択は、のちの伊藤忠が資源開発や事業投資へ乗り出す際の型を先取りしていたとみることもできる。
もっとも、こうして築かれた工業の集積は、時代の力によって大きく姿を変えていった。戦時下の強制合併で三興・大建産業へと統合された事業体は、終戦後に過度経済力集中排除法の指定を受け、伊藤忠商事・呉羽紡績・丸紅・尼崎製釘所の四社へと再び分離された。一代の経営者が逆張りで興し、戦争が巨大化させ、戦後の制度が解体する——呉羽紡績の来歴は、個人の決断と時代の圧力がせめぎ合った軌跡として読むことができる。今日の総合商社が事業会社を広く保有する経営の遠い原型を、ここに見いだせるかどうかは、なお問いとして残されていると思われる。