森村グループは1876年に森村市左衛門・豊の兄弟が輸出貿易を手がける森村組を設立したことに始まり、1904年には米国向けの洋食器を国産する日本陶器が生まれた。採算の目処が立つと事業部ごと独立させる「一業一社」の方針のもと、衛生陶器は東洋陶器、碍子事業部は日本碍子として一本立ちし、その日本碍子のなかの自動車用点火栓部門が独立して日本特殊陶業となった。点火栓の研究は1921年に日本碍子で着手され、[1]1930年には「NG点火栓」のブランドで月産1,000個ほどの発売にこぎ着ける。1934年に日本フォードの新車用として採用された際、「NG」がノーグッドの意味に取られやすいという意見が出てブランドを「NGK」へ改めた。[2]世界へ広がる商標は、この呼び替えから始まっている。
1936年10月、日本碍子から点火プラグ・濾過器・耐酸モルタルの三製造部門を継承し、資本金100万円で日本特殊陶業株式会社が設立された。[3][4][5]創業地は愛知県名古屋市で、[6]初代社長には江副孫右衛門が就いている。[7]同年には自動車製造事業法が制定され、翌年の日華事変で軍用自動車関係の需要が急増した。[8]1943年6月には濾過器・耐酸モルタルの製造部門を日本碍子へ返還して点火プラグに集中し、[9]戦時中はほとんど航空機用スパークプラグを生産する体制となる。[10]1944年4月に軍需会社の指定を受け、森村勇が第2代社長となった。[11]1945年3月時点の従業員数は2,887名に達していた。[12]
終戦で軍需は消え、1945年11月に2,000名を解雇して事業規模を縮小した。[13]戦時補償の打ち切りで被った損失は500万円以上、当時の資本金800万円の63%にあたる額で、同社は特別経理会社に指定されて経理の再建整備を迫られる。[14]航空機用の点火栓は製造を許されず、機械を動かす資金を銀行から借りることもできない。再開には進駐軍から民需転換の許可を得るほかなかったが、名古屋の支部へ願書を出しても10日20日と待たされて許可が下りず、水野智彦専務が京都の司令部へ出向いて許可証を持ち帰り、農船用の点火栓の生産にこぎ着けた。[15][16]1947年には月産20万個に満たない生産のなかで朝鮮向け特需60万個の大口注文を受け、9月には一躍40万個へ跳ね上がっている。[17]
1949年5月、東京・名古屋の両証券取引所に株式を上場した。[18]同じ頃、ドッジ・ラインによる安定強化予算の決定で株式市場は崩落し、1948年初めに500円を超えていた同社株は17円まで下がって、日本特殊陶業はつぶれるのではないかと言われた。[19]プラグの在庫は3.5か月分の販売数にあたる70万個を超え、同年7月、全従業員782名の43%にあたる336名の希望退職を募って「創業以来初めて迎えた難局」を切り抜けている。[20][21]退職金すら払えず銀行に融資を断られる有様だった。[22]森村勇社長は、今はぬるま湯につかっている時だから飛び出しては風邪を引くと繰り返し、耐えることを説いた。[23]
翌1950年に始まった朝鮮動乱は自動車産業を活況に導き、受注急増によって売上高はわずか半年で1.6倍に増え、操業以来初めて1億円の大台を突破する。1年後には2.6倍の2億円に達した。[24]1951年3月には配当を年8%から一挙に20%へ引き上げ、同年9月には創立15周年の記念増配分20%を加えた40%という同社史上最高の配当で株主に応えている。[25]同年12月には資本金を5,000万円へ倍額増資し、生産力の拡充と近代化のための設備投資に充てた。[26]戦後の危機を脱した同社は、ここから量産企業への道を歩み出す。
増産は機械の合理化を呼び、エンジンの高性能化に合わせて絶縁体素地の改良が絶えず進められた。焼物の素地はコージライト系からムライト系へ、さらにアルミナ系へと改良され、1951年5月のP-5素地を経て1955年8月には高アルミナ質のP-6素地へ全面的に切り替えられている。成形方法も1954年5月に、噴霧乾燥した微粉末を油圧成形するラバープレス方式へ改められた。[27]当時すでにチャンピオンとACはアルミナ磁器を採用しており、[28]素地の転換は世界の先行メーカーに追いつくために避けて通れない作業だった。大規模生産に対応してコールドフォーマーが導入され、金具の増産とコストダウンに寄与している。[29]
量産への転換は、設備よりも先に管理の作法から始まった。1952年1月、外部から講師を招いて部課長級十数名にMTコース(Management Training Program)の訓練を施したところ、日常の会話に「原価意識」「統制の限界」「わからないのは教えないからだ」といった言葉が飛び出すようになる。最初は批判的だった者も終わり頃には熱心に聞き入り、これを機にTWIの講習会も開かれて、受講者がやがて講師に回る循環が生まれた。[30]石炭ストーブを焚いた旧事務所の会議室で行われた講習が、戦中戦後の混乱を抜けて再建に立ち上がろうとする空気を映していた。
1955年9月には西堀栄三郎を招いて午前・午後の二回にわたる品質管理の講演会を開き、係長以上の数十名が「品質は検査で作る事ができない」という考え方を受け取った。統計的手法で工程そのものを良くして作り込むべきだという主張である。[31]工場のコンクリート柱には管理図が掲げられ、油で汚れて見にくくなった表に日々の成果が記録された。品質管理は検査課や一部の担当者の仕事ではなく全社のものだという認識が広がり、同年7月に定めた社内規格も肉付けされて製品品質の向上に結びついている。[32]
1954年6月から9月にかけては松尾義人常務が欧米を視察し、増産体制と合理化システムを研究して帰った。帰朝後は社内の合理化気運が一段と高まり、各工程の自動化が随所に見られるようになる。[33]もっともこの頃の産業界はデフレ政策の強化で暗く、同社の生産も伸び悩んで8月7日からは土曜日の操短休業に追い込まれた。そこで海外販路開拓の必要が生じ、10月には星野茂雄常務が加藤誠也を伴って南米を主に中北米の市場を調査し、11月のサンパウロ国際見本市では現地の第一物産とロレット商会の協力を得て製品を展示している。[34]
1956年1月28日、松尾義人常務が日本生産性本部の「自動車部品チーム」の団員として渡米した。[35]この視察を境に、社内では労働装備率や付加価値生産性という言葉が話題の中心に座るようになる。米国の水準を尺度として一個あたりの手間をどれだけ削れるかを問う「工数低減」への足掛かりとされ、それまでの合理化気運と相まって工数は月ごとに下がり、世界一流品に追いつき追い越せという体制に入った。[36]戦後の再建を支えたのが素地と設備の改良だったとすれば、ここから先の武器は生産性という物差しそのものだった。
外部からの評価もこの時期に定まった。自動車部品工業会が全国の自動車部品メーカー338社から資料を集めて行った実態調査は1956年春に完了し、その総括論は点火プラグの圧倒的な安定性と強力性に目を見張るとしたうえで、材料費の異例の低さゆえの粗付加価値の高さ、大規模な投資と高い自己蓄積比率を挙げた。[37]森村勇会長は創立記念日の折などに、一般の事業会社は銀行に頭を下げて金を借りたがるが自社は銀行が金を貸したがる全国でも一、二の優秀企業だと得意満面に語り、ぬるま湯を説いた頃との隔世の感を口にしている。[38]
輸出の歴史は戦後間もない1949年上半期まで遡るが、組織としての輸出専門セクションは1956年4月に営業部内の営業課として発足したのが最初である。1960年8月には輸出拡大を重点戦略に掲げて輸出課を設置し、[39]プラグの輸出比率は1961年の6%台から1966年には18.4%へ、年平均22%の伸びで拡大した。[40]国内では1955年の点火プラグ生産量が業界全体で月産70万個、うち同社が50万個を占め、10年後の1965年には業界全体400万個に対して同社が300万個へ伸びている。[41]国内で競合したのは日本電装と日立で、[42]国産化の先行者である同社が市場の主導権を握る構図がこの10年で固まった。
輸出は具体的な取引の積み重ねで広がった。1957年8月に中国・青島向けの自動車用プラグ3万個が成約し、翌9月にはアメリカ・ペンシルバニア州のバウア社へプラグ磁器10万個の輸出が決まる。同時期にはベネズエラ向け5,100個の初輸出もあった。[43]10月にはカラチの代理店エクィティ社の社長が来社し、パキスタン政府の購買名簿にNGKプラグが正式登録されたことを伝えている。[44]完成品ではなく絶縁体用の磁器から入り、代理店網と公的調達の登録を押さえていくという順序が、この時期の海外展開の実際だった。
製品そのものも刷新された。1958年9月21日に売り出した「NGKスーパー」は、超高質アルミナ質絶縁体にひだを付けてフラッシュオーバーを防ぎ、絶縁体の機械的強度が増した分だけ発火部を細長くできた。中心電極を太くして銅線を使い、電極が受ける熱を逃がしやすくしている。これによって熱価の異なる数種類の在来品が、1本で広い熱範囲を持つ製品に置き換わった。[45]この銅軸入りワイドレンジプラグの発売は自動車業界の先駆とされる。[46]同月28日には米タコマ市のツンガーニ・ピストン社へ初のアメリカ向け完成品輸出が行われ、10月にはパキスタンの軍用プラグ5,000個の国際入札にも落札した。[47]
1959年8月、ブラジルに製造販売会社を設立して点火プラグの現地生産を開始した。[48]きっかけは前年4月にモザイクタイルを手がけるモジ製陶の社長らが提携を求めて来社したことで、6月には松尾義人専務と小林朗が現地を視察し、1959年2月16日付で日本政府の許可が下りている。[49]当時の同国はチャンピオンとボッシュの二大メーカーが市場を独占し、これといった得意先を持たない同社にとっては「全く冒険」と言うほかない賭けだった。[50]同年4月に小林朗を団長とする14名が現地へ渡り、フォードやGMに50回、60回と足を運ぶ営業を重ねた末に、[51]ゼネラルモーターズ・ウィリーオーバーランド・シムカ・フォルクスワーゲンといった現地生産車への組み付けを勝ち取った。[52]
1959年9月の伊勢湾台風では生素地の半分が使用不能になりトンネル窯も浸水し、従業員の出勤率は5〜6割まで落ちた。ただ被害のより大きかった同業・日本電装の名古屋工場は再開に数か月を要する状況で、同社は先方の取引先の要望に応じて肩替り納入を行い、市場の不安を抑えている。[53]本社工場は拡張の余地が乏しくなり、電車道路に面した部分が道路拡張で収用されることも重なって、1960年10月に小牧市へ約94,000平方メートル、約28,000坪の用地を取得した。[54][55]工場進出とあわせて資本金500万円・総員13名の子会社、日特製作所も設けている。[56]小牧工場は1962年4月に472名の陣容でセラミックの生産を始め、[57][58]プラグ工場の完成は1964年2月である。[59]
1966年時点で点火プラグの国内生産量ベースのシェアは70%に達した。[60]同年6月には最大市場である米国を深耕するため、ロサンゼルスに全額出資の海外販売会社「米国NGKスパークプラグ」を設立している。資本金は5万ドル、社長には輸出部長の加藤誠也が就いた。[61][62][63]補修用プラグは車検・整備時に定期交換される消耗品で、新車装着用に比べて利益率が高い。日本では新車装着用と補修用の比率がおよそ1対3、米国では1対8で、[64]自動車の保有台数が生産台数を上回るほど補修用の比重は増す。プラグは国際共通規格品であり、トヨタや日産の車に付くNGK製がGMやフィアットの車にもそのまま適合したことが、[65]この収益モデルを国外へ広げる前提となった。
1968年時点で点火プラグの生産は本社工場で月産260万個、小牧工場で月産290万個の合計月産550万個に達し、国内市場の70%以上を占めた。[66]海外でも品質が評価され、アメリカをはじめ80数ヵ国へ逐年倍増の輸出実績を示している。[67]あわせて、スパークプラグの絶縁体研究から派生した工業用セラミック「NTKニューセラミック」を1949年に本格生産し、[68]高い電気絶縁性・耐摩耗性・耐熱性を備えた特殊磁器材質を電子・機械・化学・繊維など幅広い分野へ供給した。さかのぼれば1947年にはるつぼや燃焼管などの理化学製品を開発しており、蓄積は古い。[69]年間売上高は約70億円、借入金を持たない無借金経営で、[70]堅実な財務基盤の上に量産と輸出を伸ばしたのがこの時期の姿である。
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|---|---|---|---|---|
| 1936〜1955年日本碍子からの分離独立と戦後復興への苦闘 | 日本碍子からの点火プラグ・濾過器・耐酸モルタル三部門の継承と分離独立 1936年10月、日本碍子(現・日本ガイシ)が点火プラグ・濾過器・耐酸モルタルの三製造部門を分離し、資本金100万円で日本特殊陶業を名古屋に設立した。母体が1921年から重ねた点火プラグの研究を受け継ぎ、輸入に頼っていた自動車・航空機用点火プラグの国産化を事業目的に掲げた分離独立であった。 詳細を読む | ★★★ | ||
| NGKスパークプラグの製造を開始 | ★★ | |||
| 森村勇 | 終戦により2000名を解雇 | ★★ | ||
| 森村勇 | 東京・名古屋両証券取引所に株式上場 | ★ | ||
| 森村勇 | NTKニューセラミックの製造を開始 | ★ | ||
| 森村勇 | 全従業員782名の43%にあたる336名の希望退職を募集 | ★★ | ||
| 1956〜1970年米国型量産への転換と輸出市場の本格開拓 | 森村勇 | 松尾義人常務が生産性本部「自動車部品チーム」団員として渡米 | ★ | |
| 森村勇 | 銅軸入りワイドレンジプラグを発売 | ★ | ||
| 森村勇 | ブラジル特殊陶業の設立と、点火プラグの海外現地生産の開始 1959年8月、日本特殊陶業はブラジルに100%出資の製造販売会社ブラジル特殊陶業を設立し、点火プラグの現地生産を始めた。輸出を中心に海外へ広げてきた同社が、自ら工場を構えて海外で生産する体制へ乗り出した最初の事例で、当時の森村勇社長のもとで進められた。 詳細を読む | ★★★ | ||
| 松尾義人 | 小牧工場が操業開始(本社工場よりニューセラミック部門を移転) | ★ | ||
| 松尾義人 | 小牧工場にプラグ工場(第2工場)が完成 | ★ | ||
| 松尾義人 | 点火プラグで国内シェア70%を確保・補修用で高収益 | ★ | ||
| 松尾義人 | 子会社を設立 | ★ | ||
| 星野茂雄 | セラミックICパッケージの製造販売開始と非自動車領域への多角化 日本特殊陶業は1967年10月、ICチップを封止するセラミックICパッケージの製造販売を開始した。点火プラグの絶縁体アルミナ磁器で培った焼成技術を半導体向けへ転用し、点火プラグに次ぐ非自動車の事業柱を築く多角化であった。 詳細を読む | ★★★ | ||
| 1971〜2008年海外生産体制の本格整備と半導体パッケージ事業への多角化 | 星野茂雄 | スーパープラグの値上げ実施 | ★ | |
| 星野茂雄 | 現地生産を本格化 | ★ | ||
| 星野茂雄 | 自動車用温度センサの製造を開始 | ★ | ||
| 小川修次 | 製造販売会社を設立 | ★ | ||
| 小川修次 | 欧・米・豪で販売拠点を拡充 | ★ | ||
| 小川修次 | 自動車用酸素センサの製造を開始(ジルコニア型・チタニア型) | ★★ | ||
| 小川修次 | 韓国・友進工業に資本参加 | ★ | ||
| 小川修次 | 先進国での現地生産を本格化 | ★ | ||
| 小川修次 | 製造販売会社を設立 | ★ | ||
| 小川修次 | 伊勢工場を操業開始 | ★ | ||
| 金川重信 | NGKイリジウムプラグを発売 | ★★ | ||
| 金川重信 | インテル向けの樹脂PKGの量産を本格化 | ★★ | ||
| 金川重信 | 医療用酸素濃縮装置の量産を開始 | ★ | ||
| 羽賀征治 | アジアでの生産増強 | ★ | ||
| 加藤倫朗 | 半導体向けパッケージの増産・小牧工場で増産計画 | ★ | ||
| 2009〜2023年リーマンショックを経た事業再編とスパークプラグ拡大 | 加藤倫朗 | 最終赤字に転落・セラミックICパッケージの再編 | ★★ | |
| 尾堂真一 | スパークプラグ10億本生産計画を公表 | ★ | ||
| 尾堂真一 | 日本セラテックを完全子会社化 | ★ | ||
| 尾堂真一 | Wells Vehicle Electronics関連を買収 | ★ | ||
| 尾堂真一 | CAIRE Inc.を買収 | ★★ | ||
| 川合尊 | 監査等委員会設置会社へ移行 | ★ | ||
| 川合尊 | 英文商号をNGK SPARK PLUG CO., LTD.からNiterra Co., Ltd.に変更 | ★★ | ||
| 川合尊 | 過去最高益を達成 | ★ | ||
| 川合尊 | 東芝マテリアルを完全子会社化 | ★★ |
免責事項およびポリシー
事実根拠:出所(日本特殊陶業)