日本特殊陶業 の歴史

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創業 1936年
母体 日本碍子
創業地 愛知県名古屋市
創業
1936年10月、日本碍子が1921年から蓄えたセラミック焼結技術のうち、点火プラグ・濾過器・耐酸モルタルの三製造部門を継承して独立し、愛知県名古屋市で資本金100万円の日本特殊陶業が発足した。初代社長には日本碍子の江副孫右衛門氏が就任している。1937年4月には自社ブランドNGKを冠した点火プラグの製造を始めたが、戦時下は航空機用へ傾き、1943年6月に濾過器と耐酸モルタルの部門を日本碍子へ返還した。1949年5月には東京・名古屋両証券取引所へ上場する。終戦の1945年11月に従業員2,000名を解雇しており、輸入品の国産化という設立目的は、需要が消えた地点から立て直された。
決断
国際規格の消耗部品であることを、そのまま海外展開の条件に変えてきた。1956年1月の渡米視察を境に工数低減による量産へ転換し、1966年には点火プラグの国内生産量シェア70%を確保する。1959年8月にはブラジルに全額出資の製造販売会社を設立し、輸出ではなく現地生産で欧米系メーカーの需要を取り込んだ。1967年10月には絶縁体で培ったアルミナ焼成とメタライズ封着を転用してセラミックICパッケージの製造を始めた。ただし1997年、最大顧客のインテルがパッケージ素材を樹脂へ切り替え、約50%あったシェアの発注は半減し、2009年3月期には最終赤字に転じた。規格品の消耗部品で得た利益を非自動車の焼成技術へ振り向けたことが、内燃機関の外に事業を持つ現在の構成を作った。
現況
現在の利益は、内燃機関に取り付く2つの部品がほぼ全てを生んでいる。2026年3月期の売上高7,312億円のうち自動車関連が5,875億円でセグメント利益1,353億円、これに対しコンポーネント・ソリューションは売上1,299億円で46億円の損失である。自動車関連の中身は点火プラグと酸素センサなどの排気系部品で、電動化が進むほど装着先そのものが減る。地域別では日本1,599億円に対し米国1,723億円・ドイツ1,340億円と、海外が8割弱を占める。2023年4月に英文商号をNiterraへ改め、2025年6月には東芝マテリアルを完全子会社化した。点火プラグで得た利益を材料と半導体向けへ移し替えたことが、内燃機関の縮小と会社の縮小を切り離す条件になっている。
競合
競争の焦点は新車装着ではなく、買い替えが続く補修用の需要にある。点火プラグの国内競合は日本電装(現デンソー)と日立で、1966年には国内生産量の70%を占めて差を広げた。完成車メーカーの系列に属さないため新車装着では価格の主導権を持てない一方、補修用は買い手が分散して価格決定力が残り、ここが利益率を支えてきた。海外では独ボッシュや米チャンピオンと同じ規格品で競う。半導体パッケージでは事情が異なり、1997年にインテルが樹脂へ切り替えたことで約50%あったシェアを失った。買い替えの続く部品では価格を自ら決められ、世代交代のある部品では顧客の設計変更ひとつで採用が消える。この違いが、点火プラグを残しながらパッケージ事業を縮ませた。
日本特殊陶業:長期業績の推移(売上高・利益率)売上高(億円純利益率(%)
1997年3月期2026年3月期

設立ストーリー 日本碍子からの分離独立と戦後復興への苦闘 (1936年〜)

日本碍子から派生した創業と戦時下の航空機用プラグ

森村グループは1876年に森村市左衛門・豊の兄弟が輸出貿易を手がける森村組を設立したことに始まり、1904年には米国向けの洋食器を国産する日本陶器が生まれた。採算の目処が立つと事業部ごと独立させる「一業一社」の方針のもと、衛生陶器は東洋陶器、碍子事業部は日本碍子として一本立ちし、その日本碍子のなかの自動車用点火栓部門が独立して日本特殊陶業となった。点火栓の研究は1921年に日本碍子で着手され、[1]1930年には「NG点火栓」のブランドで月産1,000個ほどの発売にこぎ着ける。1934年に日本フォードの新車用として採用された際、「NG」がノーグッドの意味に取られやすいという意見が出てブランドを「NGK」へ改めた。[2]世界へ広がる商標は、この呼び替えから始まっている。

  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 1968)
    • [1]大正10年(1921年)に姉妹会社の日本碍子でスパークプラグの研究に着手(設立に先立つ前史)
  • 証券アナリストジャーナル 1976年4月号(小川修次・日本特殊陶業社長)
    • [2]昭和5年(1930年)に「NG点火栓」のブランドで発売、当時は月産1,000個程度。昭和9年(1934年)に日本フォードで新車用に採用された際、「NG」がノーグッドの意味に取られやすいという意見があってブランドを「NGK」に改めた

1936年10月、日本碍子から点火プラグ・濾過器・耐酸モルタルの三製造部門を継承し、資本金100万円で日本特殊陶業株式会社が設立された。[3][4][5]創業地は愛知県名古屋市で、[6]初代社長には江副孫右衛門が就いている。[7]同年には自動車製造事業法が制定され、翌年の日華事変で軍用自動車関係の需要が急増した。[8]1943年6月には濾過器・耐酸モルタルの製造部門を日本碍子へ返還して点火プラグに集中し、[9]戦時中はほとんど航空機用スパークプラグを生産する体制となる。[10]1944年4月に軍需会社の指定を受け、森村勇が第2代社長となった。[11]1945年3月時点の従業員数は2,887名に達していた。[12]

  • 日本特殊陶業 有価証券報告書 第125期(2025年3月期)【沿革】
    • [3]1936年10月 日本特殊陶業株式会社を設立(有報【沿革】の記載は「日本碍子株式会社からスパークプラグ部門を分離し資本金100万円を以って設立」で、継承部門を三部門とする記述は【沿革】には無い)
    • [5]母体は日本碍子(現・日本ガイシ)。沿革は『日本碍子株式会社からスパークプラグ部門を分離し設立』と記載=直接の母体は日本碍子(日本陶器/ノリタケはさらに祖会社)
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 1968)
    • [4]設立時の資本金は100万円。日本碍子から点火プラグ・濾過器・耐酸モルタルの三製造部門を継承して設立
    • [9]1943年6月 濾過器・耐酸モルタルの製造部門を日本碍子へ返還し、点火プラグの製造に集中(明治百年は「昭和一八年六月…日本碍子に返還、点火プラグの製造に全力を傾注」と記載)
  • 日本特殊陶業 有価証券報告書 第125期(2025年3月期)【企業の概況】
    • [6]創業地は愛知県名古屋市(本店所在地は名古屋市東区)
  • 日本特殊陶業株式会社『日本特殊陶業株式会社五十年史』(日本特殊陶業株式会社, 1987年)
    • [7]初代社長は江副孫右衛門(昭和11年10月26日の設立時に就任)。昭和19年4月に軍需会社に指定され森村勇が第2代社長となる(五十年史巻末年表の当社事項欄)
    • [11]初代社長は江副孫右衛門(昭和11年10月26日の設立時に就任)。昭和19年4月に軍需会社に指定され森村勇が第2代社長となる(五十年史巻末年表の当社事項欄)
  • 証券アナリストジャーナル 1976年4月号(小川修次・日本特殊陶業社長)
    • [8]設立と同年に自動車製造事業法が制定され、翌年の日華事変勃発で軍用自動車関係の需要が急増。戦時中はほとんど航空機用スパークプラグを生産した
    • [10]設立と同年に自動車製造事業法が制定され、翌年の日華事変勃発で軍用自動車関係の需要が急増。戦時中はほとんど航空機用スパークプラグを生産した
  • 日本特殊陶業 有価証券報告書(社内沿革・主要指標)
    • [12]1945年3月時点の従業員数 2,887名

終戦で軍需は消え、1945年11月に2,000名を解雇して事業規模を縮小した。[13]戦時補償の打ち切りで被った損失は500万円以上、当時の資本金800万円の63%にあたる額で、同社は特別経理会社に指定されて経理の再建整備を迫られる。[14]航空機用の点火栓は製造を許されず、機械を動かす資金を銀行から借りることもできない。再開には進駐軍から民需転換の許可を得るほかなかったが、名古屋の支部へ願書を出しても10日20日と待たされて許可が下りず、水野智彦専務が京都の司令部へ出向いて許可証を持ち帰り、農船用の点火栓の生産にこぎ着けた。[15][16]1947年には月産20万個に満たない生産のなかで朝鮮向け特需60万個の大口注文を受け、9月には一躍40万個へ跳ね上がっている。[17]

  • 日本特殊陶業 有価証券報告書(社内沿革)
    • [13]終戦に伴い1945年11月に2,000名を解雇
  • 日本特殊陶業株式会社『日本特殊陶業株式会社五十年史』(日本特殊陶業株式会社, 1987年)
    • [14]戦時補償打ち切りによる損失は500万円以上にのぼり、当時の資本金800万円の63%にあたる額だった。同社は特別経理会社に指定され、企業経理の再建整備を図ることになった
    • [16]終戦後はGHQの生産再開許可を得るのに手を焼き、水野智彦専務(のち第7代社長)の尽力で月産5万個の許可を得て農船用プラグから再出発した(第8代社長・小川修次の座談会証言)
  • 日本特殊陶業株式会社『日本特殊陶業株式会社三十年史』(日本特殊陶業株式会社, 1967年)
    • [15]航空機用の点火栓は製造を許されず、機械を動かすことも銀行から資金を借りることもできない状況で、進駐軍司令部へ民需転換の許可を受ける必要が生じた。名古屋支部を通して願書を出しても10日20日待っても許可が来ず、水野智彦専務を京都の司令部へ派遣して許可証を得、農舶用の点火栓の生産を開始した
    • [17]昭和22年(1947年)は月産20万ケ足らずの生産だったが朝鮮向特需60万ケの大口注文を受け、スパーク・プラグの生産販売は14〜5万ケ程度から9月には一躍40万ケという異常な程の好況にめぐまれた
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 1968)
    • [1]大正10年(1921年)に姉妹会社の日本碍子でスパークプラグの研究に着手(設立に先立つ前史)
    • [4]設立時の資本金は100万円。日本碍子から点火プラグ・濾過器・耐酸モルタルの三製造部門を継承して設立
    • [9]1943年6月 濾過器・耐酸モルタルの製造部門を日本碍子へ返還し、点火プラグの製造に集中(明治百年は「昭和一八年六月…日本碍子に返還、点火プラグの製造に全力を傾注」と記載)
  • 証券アナリストジャーナル 1976年4月号(小川修次・日本特殊陶業社長)
    • [2]昭和5年(1930年)に「NG点火栓」のブランドで発売、当時は月産1,000個程度。昭和9年(1934年)に日本フォードで新車用に採用された際、「NG」がノーグッドの意味に取られやすいという意見があってブランドを「NGK」に改めた
    • [8]設立と同年に自動車製造事業法が制定され、翌年の日華事変勃発で軍用自動車関係の需要が急増。戦時中はほとんど航空機用スパークプラグを生産した
    • [10]設立と同年に自動車製造事業法が制定され、翌年の日華事変勃発で軍用自動車関係の需要が急増。戦時中はほとんど航空機用スパークプラグを生産した
  • 日本特殊陶業 有価証券報告書 第125期(2025年3月期)【沿革】
    • [3]1936年10月 日本特殊陶業株式会社を設立(有報【沿革】の記載は「日本碍子株式会社からスパークプラグ部門を分離し資本金100万円を以って設立」で、継承部門を三部門とする記述は【沿革】には無い)
    • [5]母体は日本碍子(現・日本ガイシ)。沿革は『日本碍子株式会社からスパークプラグ部門を分離し設立』と記載=直接の母体は日本碍子(日本陶器/ノリタケはさらに祖会社)
  • 日本特殊陶業 有価証券報告書 第125期(2025年3月期)【企業の概況】
    • [6]創業地は愛知県名古屋市(本店所在地は名古屋市東区)
  • 日本特殊陶業株式会社『日本特殊陶業株式会社五十年史』(日本特殊陶業株式会社, 1987年)
    • [7]初代社長は江副孫右衛門(昭和11年10月26日の設立時に就任)。昭和19年4月に軍需会社に指定され森村勇が第2代社長となる(五十年史巻末年表の当社事項欄)
    • [11]初代社長は江副孫右衛門(昭和11年10月26日の設立時に就任)。昭和19年4月に軍需会社に指定され森村勇が第2代社長となる(五十年史巻末年表の当社事項欄)
    • [14]戦時補償打ち切りによる損失は500万円以上にのぼり、当時の資本金800万円の63%にあたる額だった。同社は特別経理会社に指定され、企業経理の再建整備を図ることになった
    • [16]終戦後はGHQの生産再開許可を得るのに手を焼き、水野智彦専務(のち第7代社長)の尽力で月産5万個の許可を得て農船用プラグから再出発した(第8代社長・小川修次の座談会証言)
  • 日本特殊陶業 有価証券報告書(社内沿革・主要指標)
    • [12]1945年3月時点の従業員数 2,887名
  • 日本特殊陶業 有価証券報告書(社内沿革)
    • [13]終戦に伴い1945年11月に2,000名を解雇
  • 日本特殊陶業株式会社『日本特殊陶業株式会社三十年史』(日本特殊陶業株式会社, 1967年)
    • [15]航空機用の点火栓は製造を許されず、機械を動かすことも銀行から資金を借りることもできない状況で、進駐軍司令部へ民需転換の許可を受ける必要が生じた。名古屋支部を通して願書を出しても10日20日待っても許可が来ず、水野智彦専務を京都の司令部へ派遣して許可証を得、農舶用の点火栓の生産を開始した
    • [17]昭和22年(1947年)は月産20万ケ足らずの生産だったが朝鮮向特需60万ケの大口注文を受け、スパーク・プラグの生産販売は14〜5万ケ程度から9月には一躍40万ケという異常な程の好況にめぐまれた

ドッジ不況の希望退職と朝鮮動乱による再建

1949年5月、東京・名古屋の両証券取引所に株式を上場した。[18]同じ頃、ドッジ・ラインによる安定強化予算の決定で株式市場は崩落し、1948年初めに500円を超えていた同社株は17円まで下がって、日本特殊陶業はつぶれるのではないかと言われた。[19]プラグの在庫は3.5か月分の販売数にあたる70万個を超え、同年7月、全従業員782名の43%にあたる336名の希望退職を募って「創業以来初めて迎えた難局」を切り抜けている。[20][21]退職金すら払えず銀行に融資を断られる有様だった。[22]森村勇社長は、今はぬるま湯につかっている時だから飛び出しては風邪を引くと繰り返し、耐えることを説いた。[23]

  • 日本特殊陶業 有価証券報告書 第125期(2025年3月期)【沿革】
    • [18]1949年5月 東京・名古屋証券取引所に株式上場
  • 日本特殊陶業株式会社『日本特殊陶業株式会社三十年史』(日本特殊陶業株式会社, 1967年)
    • [19]ドッジ氏の安定強化予算等の決定(昭和24年4月15日)で株式界は崩落し、株価は昭和23年初め頃の500円以上から17円まで下落、「日本特殊陶業はつぶれるのではないか」と言われた。プラグ在庫は70万ケを突破し、昭和24年7月に従業員782名中336名の希望退職を出すに至った。森村勇社長は「今はぬるま湯につかつている時だ。飛び出しては風邪を引く、じつと我慢していなければならない」と繰り返した
    • [21]ドッジ氏の安定強化予算等の決定(昭和24年4月15日)で株式界は崩落し、株価は昭和23年初め頃の500円以上から17円まで下落、「日本特殊陶業はつぶれるのではないか」と言われた。プラグ在庫は70万ケを突破し、昭和24年7月に従業員782名中336名の希望退職を出すに至った。森村勇社長は「今はぬるま湯につかつている時だ。飛び出しては風邪を引く、じつと我慢していなければならない」と繰り返した
    • [23]ドッジ氏の安定強化予算等の決定(昭和24年4月15日)で株式界は崩落し、株価は昭和23年初め頃の500円以上から17円まで下落、「日本特殊陶業はつぶれるのではないか」と言われた。プラグ在庫は70万ケを突破し、昭和24年7月に従業員782名中336名の希望退職を出すに至った。森村勇社長は「今はぬるま湯につかつている時だ。飛び出しては風邪を引く、じつと我慢していなければならない」と繰り返した
  • 日本特殊陶業株式会社『日本特殊陶業株式会社五十年史』(日本特殊陶業株式会社, 1987年)
    • [20]ドッジ不況でプラグ在庫が3.5か月分の販売数に相当する70万個を超え、昭和24年(1949年)7月に全従業員782名の43%にあたる336名の希望退職を募り「創業以来初めて迎えた難局」を切り抜けた
    • [22]人員整理の退職金も払えず、三菱銀行名古屋支店長から融資を断られた(第8代社長・小川修次の座談会証言)

翌1950年に始まった朝鮮動乱は自動車産業を活況に導き、受注急増によって売上高はわずか半年で1.6倍に増え、操業以来初めて1億円の大台を突破する。1年後には2.6倍の2億円に達した。[24]1951年3月には配当を年8%から一挙に20%へ引き上げ、同年9月には創立15周年の記念増配分20%を加えた40%という同社史上最高の配当で株主に応えている。[25]同年12月には資本金を5,000万円へ倍額増資し、生産力の拡充と近代化のための設備投資に充てた。[26]戦後の危機を脱した同社は、ここから量産企業への道を歩み出す。

  • 日本特殊陶業株式会社『日本特殊陶業株式会社五十年史』(日本特殊陶業株式会社, 1987年)
    • [24]朝鮮動乱の特需で売上高は半年間で1.6倍、操業以来初めて1億円を突破し1年後には2.6倍の2億円に到達。昭和26年3月に配当を年8%から20%へ、同年9月に創立15周年記念増配分20%を加えて史上最高の40%配当、同年12月に資本金を5,000万円へ倍額増資
    • [25]朝鮮動乱の特需で売上高は半年間で1.6倍、操業以来初めて1億円を突破し1年後には2.6倍の2億円に到達。昭和26年3月に配当を年8%から20%へ、同年9月に創立15周年記念増配分20%を加えて史上最高の40%配当、同年12月に資本金を5,000万円へ倍額増資
    • [26]朝鮮動乱の特需で売上高は半年間で1.6倍、操業以来初めて1億円を突破し1年後には2.6倍の2億円に到達。昭和26年3月に配当を年8%から20%へ、同年9月に創立15周年記念増配分20%を加えて史上最高の40%配当、同年12月に資本金を5,000万円へ倍額増資

増産は機械の合理化を呼び、エンジンの高性能化に合わせて絶縁体素地の改良が絶えず進められた。焼物の素地はコージライト系からムライト系へ、さらにアルミナ系へと改良され、1951年5月のP-5素地を経て1955年8月には高アルミナ質のP-6素地へ全面的に切り替えられている。成形方法も1954年5月に、噴霧乾燥した微粉末を油圧成形するラバープレス方式へ改められた。[27]当時すでにチャンピオンとACはアルミナ磁器を採用しており、[28]素地の転換は世界の先行メーカーに追いつくために避けて通れない作業だった。大規模生産に対応してコールドフォーマーが導入され、金具の増産とコストダウンに寄与している。[29]

  • 日本特殊陶業株式会社『日本特殊陶業株式会社五十年史』(日本特殊陶業株式会社, 1987年)
    • [27]プラグ絶縁体素地は昭和26年5月にP-4からP-5へ改良、高アルミナ質のP-6素地を開発して昭和30年8月から全面的に切り替えた。成形方法も昭和29年5月に、噴霧乾燥による微粉末を油圧成形するラバープレス方式へ改善
    • [28]朝鮮戦争の特需で息を吹き返し、素地はコージライト系からムライト系、アルミナ系へと改良された。当時チャンピオン、ACは既にアルミナ磁器になっていた。大規模生産に対応するためコールドフォーマーが導入され、金具の増産とコストダウンに大きく貢献した(初代労組委員長・小林朗の座談会証言)
    • [29]朝鮮戦争の特需で息を吹き返し、素地はコージライト系からムライト系、アルミナ系へと改良された。当時チャンピオン、ACは既にアルミナ磁器になっていた。大規模生産に対応するためコールドフォーマーが導入され、金具の増産とコストダウンに大きく貢献した(初代労組委員長・小林朗の座談会証言)
  • 日本特殊陶業 有価証券報告書 第125期(2025年3月期)【沿革】
    • [18]1949年5月 東京・名古屋証券取引所に株式上場
  • 日本特殊陶業株式会社『日本特殊陶業株式会社三十年史』(日本特殊陶業株式会社, 1967年)
    • [19]ドッジ氏の安定強化予算等の決定(昭和24年4月15日)で株式界は崩落し、株価は昭和23年初め頃の500円以上から17円まで下落、「日本特殊陶業はつぶれるのではないか」と言われた。プラグ在庫は70万ケを突破し、昭和24年7月に従業員782名中336名の希望退職を出すに至った。森村勇社長は「今はぬるま湯につかつている時だ。飛び出しては風邪を引く、じつと我慢していなければならない」と繰り返した
    • [21]ドッジ氏の安定強化予算等の決定(昭和24年4月15日)で株式界は崩落し、株価は昭和23年初め頃の500円以上から17円まで下落、「日本特殊陶業はつぶれるのではないか」と言われた。プラグ在庫は70万ケを突破し、昭和24年7月に従業員782名中336名の希望退職を出すに至った。森村勇社長は「今はぬるま湯につかつている時だ。飛び出しては風邪を引く、じつと我慢していなければならない」と繰り返した
    • [23]ドッジ氏の安定強化予算等の決定(昭和24年4月15日)で株式界は崩落し、株価は昭和23年初め頃の500円以上から17円まで下落、「日本特殊陶業はつぶれるのではないか」と言われた。プラグ在庫は70万ケを突破し、昭和24年7月に従業員782名中336名の希望退職を出すに至った。森村勇社長は「今はぬるま湯につかつている時だ。飛び出しては風邪を引く、じつと我慢していなければならない」と繰り返した
  • 日本特殊陶業株式会社『日本特殊陶業株式会社五十年史』(日本特殊陶業株式会社, 1987年)
    • [20]ドッジ不況でプラグ在庫が3.5か月分の販売数に相当する70万個を超え、昭和24年(1949年)7月に全従業員782名の43%にあたる336名の希望退職を募り「創業以来初めて迎えた難局」を切り抜けた
    • [22]人員整理の退職金も払えず、三菱銀行名古屋支店長から融資を断られた(第8代社長・小川修次の座談会証言)
    • [24]朝鮮動乱の特需で売上高は半年間で1.6倍、操業以来初めて1億円を突破し1年後には2.6倍の2億円に到達。昭和26年3月に配当を年8%から20%へ、同年9月に創立15周年記念増配分20%を加えて史上最高の40%配当、同年12月に資本金を5,000万円へ倍額増資
    • [25]朝鮮動乱の特需で売上高は半年間で1.6倍、操業以来初めて1億円を突破し1年後には2.6倍の2億円に到達。昭和26年3月に配当を年8%から20%へ、同年9月に創立15周年記念増配分20%を加えて史上最高の40%配当、同年12月に資本金を5,000万円へ倍額増資
    • [26]朝鮮動乱の特需で売上高は半年間で1.6倍、操業以来初めて1億円を突破し1年後には2.6倍の2億円に到達。昭和26年3月に配当を年8%から20%へ、同年9月に創立15周年記念増配分20%を加えて史上最高の40%配当、同年12月に資本金を5,000万円へ倍額増資
    • [27]プラグ絶縁体素地は昭和26年5月にP-4からP-5へ改良、高アルミナ質のP-6素地を開発して昭和30年8月から全面的に切り替えた。成形方法も昭和29年5月に、噴霧乾燥による微粉末を油圧成形するラバープレス方式へ改善
    • [28]朝鮮戦争の特需で息を吹き返し、素地はコージライト系からムライト系、アルミナ系へと改良された。当時チャンピオン、ACは既にアルミナ磁器になっていた。大規模生産に対応するためコールドフォーマーが導入され、金具の増産とコストダウンに大きく貢献した(初代労組委員長・小林朗の座談会証言)
    • [29]朝鮮戦争の特需で息を吹き返し、素地はコージライト系からムライト系、アルミナ系へと改良された。当時チャンピオン、ACは既にアルミナ磁器になっていた。大規模生産に対応するためコールドフォーマーが導入され、金具の増産とコストダウンに大きく貢献した(初代労組委員長・小林朗の座談会証言)

アメリカ流経営手法の導入とデフレ下の海外販路開拓

量産への転換は、設備よりも先に管理の作法から始まった。1952年1月、外部から講師を招いて部課長級十数名にMTコース(Management Training Program)の訓練を施したところ、日常の会話に「原価意識」「統制の限界」「わからないのは教えないからだ」といった言葉が飛び出すようになる。最初は批判的だった者も終わり頃には熱心に聞き入り、これを機にTWIの講習会も開かれて、受講者がやがて講師に回る循環が生まれた。[30]石炭ストーブを焚いた旧事務所の会議室で行われた講習が、戦中戦後の混乱を抜けて再建に立ち上がろうとする空気を映していた。

  • 日本特殊陶業株式会社『日本特殊陶業株式会社三十年史』(日本特殊陶業株式会社, 1967年)
    • [30]昭和27年(1952年)1月21日から月末まで、石山トレーナーを招きMTコース(Management Trainning Program)を旧事務所1階会議室で実施し、部課長クラス十数名が毎日訓練を受けた。日常の会話にも「原価意識」「統制の限界」「わからないのは教えないからだ」といった言葉が飛び出すようになり、最初は批判的だった者も終わり頃には信者の様に聞き入った。これが切っかけとなってその後「TWI」の講習会も開かれ、生徒はやがて先生となった

1955年9月には西堀栄三郎を招いて午前・午後の二回にわたる品質管理の講演会を開き、係長以上の数十名が「品質は検査で作る事ができない」という考え方を受け取った。統計的手法で工程そのものを良くして作り込むべきだという主張である。[31]工場のコンクリート柱には管理図が掲げられ、油で汚れて見にくくなった表に日々の成果が記録された。品質管理は検査課や一部の担当者の仕事ではなく全社のものだという認識が広がり、同年7月に定めた社内規格も肉付けされて製品品質の向上に結びついている。[32]

  • 日本特殊陶業株式会社『日本特殊陶業株式会社三十年史』(日本特殊陶業株式会社, 1967年)
    • [31]昭和30年(1955年)9月21日に西堀栄三郎博士を招き午前・午後の2回にわたって品質管理の講演会を開催、係長以上の数十名が受講した。「品質は検査で作る事ができない」統計的手法を用いて工程を良くし作りこむようにすべきだという話があり、工場内のコンクリートの柱に管理図が掲げられた。品質管理は検査課とか一部の人で行うものでなく全社的なものでなければならないと再認識させ、NIS規程(30年7月)も肉付けされた
    • [32]昭和30年(1955年)9月21日に西堀栄三郎博士を招き午前・午後の2回にわたって品質管理の講演会を開催、係長以上の数十名が受講した。「品質は検査で作る事ができない」統計的手法を用いて工程を良くし作りこむようにすべきだという話があり、工場内のコンクリートの柱に管理図が掲げられた。品質管理は検査課とか一部の人で行うものでなく全社的なものでなければならないと再認識させ、NIS規程(30年7月)も肉付けされた

1954年6月から9月にかけては松尾義人常務が欧米を視察し、増産体制と合理化システムを研究して帰った。帰朝後は社内の合理化気運が一段と高まり、各工程の自動化が随所に見られるようになる。[33]もっともこの頃の産業界はデフレ政策の強化で暗く、同社の生産も伸び悩んで8月7日からは土曜日の操短休業に追い込まれた。そこで海外販路開拓の必要が生じ、10月には星野茂雄常務が加藤誠也を伴って南米を主に中北米の市場を調査し、11月のサンパウロ国際見本市では現地の第一物産とロレット商会の協力を得て製品を展示している。[34]

  • 日本特殊陶業株式会社『日本特殊陶業株式会社三十年史』(日本特殊陶業株式会社, 1967年)
    • [33]昭和29年(1954年)6月から9月まで松尾義人常務が欧米視察に赴き増産体制と合理化システムの研究に当たった。帰朝後、社内の合理化ムードは一段と盛んとなり各工程の自動化が随所に見られるようになった。デフレ政策の強化で生産は伸び悩み8月7日より土曜日は操短休業となり、海外販路開拓の必要性が生じて10月に星野茂雄常務が加藤誠也を帯同し南米を主に中北米の市場調査を実施、11月15日のブラジル・サンパウロ国際見本市では第一物産とロレット商会の協力で当社品を展示した
    • [34]昭和29年(1954年)6月から9月まで松尾義人常務が欧米視察に赴き増産体制と合理化システムの研究に当たった。帰朝後、社内の合理化ムードは一段と盛んとなり各工程の自動化が随所に見られるようになった。デフレ政策の強化で生産は伸び悩み8月7日より土曜日は操短休業となり、海外販路開拓の必要性が生じて10月に星野茂雄常務が加藤誠也を帯同し南米を主に中北米の市場調査を実施、11月15日のブラジル・サンパウロ国際見本市では第一物産とロレット商会の協力で当社品を展示した
  • 日本特殊陶業株式会社『日本特殊陶業株式会社三十年史』(日本特殊陶業株式会社, 1967年)
    • [30]昭和27年(1952年)1月21日から月末まで、石山トレーナーを招きMTコース(Management Trainning Program)を旧事務所1階会議室で実施し、部課長クラス十数名が毎日訓練を受けた。日常の会話にも「原価意識」「統制の限界」「わからないのは教えないからだ」といった言葉が飛び出すようになり、最初は批判的だった者も終わり頃には信者の様に聞き入った。これが切っかけとなってその後「TWI」の講習会も開かれ、生徒はやがて先生となった
    • [31]昭和30年(1955年)9月21日に西堀栄三郎博士を招き午前・午後の2回にわたって品質管理の講演会を開催、係長以上の数十名が受講した。「品質は検査で作る事ができない」統計的手法を用いて工程を良くし作りこむようにすべきだという話があり、工場内のコンクリートの柱に管理図が掲げられた。品質管理は検査課とか一部の人で行うものでなく全社的なものでなければならないと再認識させ、NIS規程(30年7月)も肉付けされた
    • [32]昭和30年(1955年)9月21日に西堀栄三郎博士を招き午前・午後の2回にわたって品質管理の講演会を開催、係長以上の数十名が受講した。「品質は検査で作る事ができない」統計的手法を用いて工程を良くし作りこむようにすべきだという話があり、工場内のコンクリートの柱に管理図が掲げられた。品質管理は検査課とか一部の人で行うものでなく全社的なものでなければならないと再認識させ、NIS規程(30年7月)も肉付けされた
    • [33]昭和29年(1954年)6月から9月まで松尾義人常務が欧米視察に赴き増産体制と合理化システムの研究に当たった。帰朝後、社内の合理化ムードは一段と盛んとなり各工程の自動化が随所に見られるようになった。デフレ政策の強化で生産は伸び悩み8月7日より土曜日は操短休業となり、海外販路開拓の必要性が生じて10月に星野茂雄常務が加藤誠也を帯同し南米を主に中北米の市場調査を実施、11月15日のブラジル・サンパウロ国際見本市では第一物産とロレット商会の協力で当社品を展示した
    • [34]昭和29年(1954年)6月から9月まで松尾義人常務が欧米視察に赴き増産体制と合理化システムの研究に当たった。帰朝後、社内の合理化ムードは一段と盛んとなり各工程の自動化が随所に見られるようになった。デフレ政策の強化で生産は伸び悩み8月7日より土曜日は操短休業となり、海外販路開拓の必要性が生じて10月に星野茂雄常務が加藤誠也を帯同し南米を主に中北米の市場調査を実施、11月15日のブラジル・サンパウロ国際見本市では第一物産とロレット商会の協力で当社品を展示した

生産性本部の渡米視察と「工数低減」への転換

1956年1月28日、松尾義人常務が日本生産性本部の「自動車部品チーム」の団員として渡米した。[35]この視察を境に、社内では労働装備率や付加価値生産性という言葉が話題の中心に座るようになる。米国の水準を尺度として一個あたりの手間をどれだけ削れるかを問う「工数低減」への足掛かりとされ、それまでの合理化気運と相まって工数は月ごとに下がり、世界一流品に追いつき追い越せという体制に入った。[36]戦後の再建を支えたのが素地と設備の改良だったとすれば、ここから先の武器は生産性という物差しそのものだった。

  • 日本特殊陶業株式会社『日本特殊陶業株式会社三十年史』(日本特殊陶業株式会社, 1967年)
    • [35]昭和31年(1956年)1月28日、松尾義人常務が生産性本部「自動車部品チーム」団員として渡米。この頃より労働装備率とか付加価値生産性という問題が話題の中心となり、いわゆる「工数低減」への足掛りとし、社内の合理化ムードと相俟って月毎に工数は下がり、世界一流品に追いつき追いこせの体制に入った
    • [36]昭和31年(1956年)1月28日、松尾義人常務が生産性本部「自動車部品チーム」団員として渡米。この頃より労働装備率とか付加価値生産性という問題が話題の中心となり、いわゆる「工数低減」への足掛りとし、社内の合理化ムードと相俟って月毎に工数は下がり、世界一流品に追いつき追いこせの体制に入った

外部からの評価もこの時期に定まった。自動車部品工業会が全国の自動車部品メーカー338社から資料を集めて行った実態調査は1956年春に完了し、その総括論は点火プラグの圧倒的な安定性と強力性に目を見張るとしたうえで、材料費の異例の低さゆえの粗付加価値の高さ、大規模な投資と高い自己蓄積比率を挙げた。[37]森村勇会長は創立記念日の折などに、一般の事業会社は銀行に頭を下げて金を借りたがるが自社は銀行が金を貸したがる全国でも一、二の優秀企業だと得意満面に語り、ぬるま湯を説いた頃との隔世の感を口にしている。[38]

  • 日本特殊陶業株式会社『日本特殊陶業株式会社三十年史』(日本特殊陶業株式会社, 1967年)
    • [37]昭和30年秋に自動車部品工業会が全国の自動車部品メーカー338社から資料を蒐めて企業の実態を調査(昭和31年春完了)。総括論は「点火プラグの圧倒的な安定性と素晴らしい強力性に目を見はるばかり」「点火プラグの材料費の異例的な低さ、従つて粗付加価値の高さが目立つ」「点火プラグに於ける大規模な投資と同時に高い自己蓄積比率」と評した。森村勇会長は創立記念日の折など全従業員の前で、一般の事業会社は銀行に頭を下げて金を借りたがるが当社は銀行が金を貸したがる全国でも一、二の優秀企業だと語った
    • [38]昭和30年秋に自動車部品工業会が全国の自動車部品メーカー338社から資料を蒐めて企業の実態を調査(昭和31年春完了)。総括論は「点火プラグの圧倒的な安定性と素晴らしい強力性に目を見はるばかり」「点火プラグの材料費の異例的な低さ、従つて粗付加価値の高さが目立つ」「点火プラグに於ける大規模な投資と同時に高い自己蓄積比率」と評した。森村勇会長は創立記念日の折など全従業員の前で、一般の事業会社は銀行に頭を下げて金を借りたがるが当社は銀行が金を貸したがる全国でも一、二の優秀企業だと語った

輸出の歴史は戦後間もない1949年上半期まで遡るが、組織としての輸出専門セクションは1956年4月に営業部内の営業課として発足したのが最初である。1960年8月には輸出拡大を重点戦略に掲げて輸出課を設置し、[39]プラグの輸出比率は1961年の6%台から1966年には18.4%へ、年平均22%の伸びで拡大した。[40]国内では1955年の点火プラグ生産量が業界全体で月産70万個、うち同社が50万個を占め、10年後の1965年には業界全体400万個に対して同社が300万個へ伸びている。[41]国内で競合したのは日本電装と日立で、[42]国産化の先行者である同社が市場の主導権を握る構図がこの10年で固まった。

  • 日本特殊陶業株式会社『日本特殊陶業株式会社五十年史』(日本特殊陶業株式会社, 1987年)
    • [39]輸出専門セクションは昭和31年(1956年)4月に営業部の営業課として発足、昭和35年(1960年)8月に輸出課を設置。プラグの輸出比率は昭和36年の6%台から昭和41年に18.4%へ、年平均22%の伸び率で増加した
    • [40]輸出専門セクションは昭和31年(1956年)4月に営業部の営業課として発足、昭和35年(1960年)8月に輸出課を設置。プラグの輸出比率は昭和36年の6%台から昭和41年に18.4%へ、年平均22%の伸び率で増加した
  • 証券アナリストジャーナル 1976年4月号(小川修次・日本特殊陶業社長)
    • [41]昭和30年(1955年)の点火プラグ国内生産量は月産70万個で、うち同社が50万個。10年後の昭和40年(1965年)には全体400万個・うち同社300万個。国内では同社のほかに日本電装、日立が製造していた
    • [42]昭和30年(1955年)の点火プラグ国内生産量は月産70万個で、うち同社が50万個。10年後の昭和40年(1965年)には全体400万個・うち同社300万個。国内では同社のほかに日本電装、日立が製造していた
  • 日本特殊陶業株式会社『日本特殊陶業株式会社三十年史』(日本特殊陶業株式会社, 1967年)
    • [35]昭和31年(1956年)1月28日、松尾義人常務が生産性本部「自動車部品チーム」団員として渡米。この頃より労働装備率とか付加価値生産性という問題が話題の中心となり、いわゆる「工数低減」への足掛りとし、社内の合理化ムードと相俟って月毎に工数は下がり、世界一流品に追いつき追いこせの体制に入った
    • [36]昭和31年(1956年)1月28日、松尾義人常務が生産性本部「自動車部品チーム」団員として渡米。この頃より労働装備率とか付加価値生産性という問題が話題の中心となり、いわゆる「工数低減」への足掛りとし、社内の合理化ムードと相俟って月毎に工数は下がり、世界一流品に追いつき追いこせの体制に入った
    • [37]昭和30年秋に自動車部品工業会が全国の自動車部品メーカー338社から資料を蒐めて企業の実態を調査(昭和31年春完了)。総括論は「点火プラグの圧倒的な安定性と素晴らしい強力性に目を見はるばかり」「点火プラグの材料費の異例的な低さ、従つて粗付加価値の高さが目立つ」「点火プラグに於ける大規模な投資と同時に高い自己蓄積比率」と評した。森村勇会長は創立記念日の折など全従業員の前で、一般の事業会社は銀行に頭を下げて金を借りたがるが当社は銀行が金を貸したがる全国でも一、二の優秀企業だと語った
    • [38]昭和30年秋に自動車部品工業会が全国の自動車部品メーカー338社から資料を蒐めて企業の実態を調査(昭和31年春完了)。総括論は「点火プラグの圧倒的な安定性と素晴らしい強力性に目を見はるばかり」「点火プラグの材料費の異例的な低さ、従つて粗付加価値の高さが目立つ」「点火プラグに於ける大規模な投資と同時に高い自己蓄積比率」と評した。森村勇会長は創立記念日の折など全従業員の前で、一般の事業会社は銀行に頭を下げて金を借りたがるが当社は銀行が金を貸したがる全国でも一、二の優秀企業だと語った
  • 日本特殊陶業株式会社『日本特殊陶業株式会社五十年史』(日本特殊陶業株式会社, 1987年)
    • [39]輸出専門セクションは昭和31年(1956年)4月に営業部の営業課として発足、昭和35年(1960年)8月に輸出課を設置。プラグの輸出比率は昭和36年の6%台から昭和41年に18.4%へ、年平均22%の伸び率で増加した
    • [40]輸出専門セクションは昭和31年(1956年)4月に営業部の営業課として発足、昭和35年(1960年)8月に輸出課を設置。プラグの輸出比率は昭和36年の6%台から昭和41年に18.4%へ、年平均22%の伸び率で増加した
  • 証券アナリストジャーナル 1976年4月号(小川修次・日本特殊陶業社長)
    • [41]昭和30年(1955年)の点火プラグ国内生産量は月産70万個で、うち同社が50万個。10年後の昭和40年(1965年)には全体400万個・うち同社300万個。国内では同社のほかに日本電装、日立が製造していた
    • [42]昭和30年(1955年)の点火プラグ国内生産量は月産70万個で、うち同社が50万個。10年後の昭和40年(1965年)には全体400万個・うち同社300万個。国内では同社のほかに日本電装、日立が製造していた

北米・南米市場の開拓と製品の刷新

輸出は具体的な取引の積み重ねで広がった。1957年8月に中国・青島向けの自動車用プラグ3万個が成約し、翌9月にはアメリカ・ペンシルバニア州のバウア社へプラグ磁器10万個の輸出が決まる。同時期にはベネズエラ向け5,100個の初輸出もあった。[43]10月にはカラチの代理店エクィティ社の社長が来社し、パキスタン政府の購買名簿にNGKプラグが正式登録されたことを伝えている。[44]完成品ではなく絶縁体用の磁器から入り、代理店網と公的調達の登録を押さえていくという順序が、この時期の海外展開の実際だった。

  • 日本特殊陶業株式会社『日本特殊陶業株式会社三十年史』(日本特殊陶業株式会社, 1967年)
    • [43]昭和32年(1957年)8月14日に中共地区青島向け自動車用プラグ3万個を成約、翌9月にアメリカ・ペンシルバニア州のバウア社へ当社のプラグ磁器10万個を輸出することとなり、初輸出のヴェネゼラ向5,100個と共に世界に雄飛することとなった。10月25日にはカラチの代理店エクィティ社のカーン社長が来社し、パキスタン政府の購買名簿にNGKプラグが正式登録されることとなったことを伝えた
    • [44]昭和32年(1957年)8月14日に中共地区青島向け自動車用プラグ3万個を成約、翌9月にアメリカ・ペンシルバニア州のバウア社へ当社のプラグ磁器10万個を輸出することとなり、初輸出のヴェネゼラ向5,100個と共に世界に雄飛することとなった。10月25日にはカラチの代理店エクィティ社のカーン社長が来社し、パキスタン政府の購買名簿にNGKプラグが正式登録されることとなったことを伝えた

製品そのものも刷新された。1958年9月21日に売り出した「NGKスーパー」は、超高質アルミナ質絶縁体にひだを付けてフラッシュオーバーを防ぎ、絶縁体の機械的強度が増した分だけ発火部を細長くできた。中心電極を太くして銅線を使い、電極が受ける熱を逃がしやすくしている。これによって熱価の異なる数種類の在来品が、1本で広い熱範囲を持つ製品に置き換わった。[45]この銅軸入りワイドレンジプラグの発売は自動車業界の先駆とされる。[46]同月28日には米タコマ市のツンガーニ・ピストン社へ初のアメリカ向け完成品輸出が行われ、10月にはパキスタンの軍用プラグ5,000個の国際入札にも落札した。[47]

  • 日本特殊陶業株式会社『日本特殊陶業株式会社三十年史』(日本特殊陶業株式会社, 1967年)
    • [45]「NGKスーパー」は昭和33年(1958年)9月21日より売出しを開始。超高質アルミナ質絶縁体にひだをつけてフラッシュ・オーバーを阻止し、絶縁体の機械的強度も増したので発火部を細長くでき、中心電極も従前に比し太くし銅線を使用して熱を逃がし得るようにした。これによって熱価の異なる数種類の在来品が1本で広熱範囲を持つものに変更できた。9月28日にアメリカ・タコマ市のツンガーニ・ピストン社へ初めてアメリカ向のプラグ完成品を輸出し、10月16日にはパキスタンの軍用プラグ5,000個の国際入札に落札した
    • [47]「NGKスーパー」は昭和33年(1958年)9月21日より売出しを開始。超高質アルミナ質絶縁体にひだをつけてフラッシュ・オーバーを阻止し、絶縁体の機械的強度も増したので発火部を細長くでき、中心電極も従前に比し太くし銅線を使用して熱を逃がし得るようにした。これによって熱価の異なる数種類の在来品が1本で広熱範囲を持つものに変更できた。9月28日にアメリカ・タコマ市のツンガーニ・ピストン社へ初めてアメリカ向のプラグ完成品を輸出し、10月16日にはパキスタンの軍用プラグ5,000個の国際入札に落札した
  • 日本特殊陶業 有価証券報告書 第125期(2025年3月期)【沿革】
    • [46]1958年9月 銅軸入りワイドレンジプラグ発売(有報【沿革】は「自動車業界の先駆となる」と付記)

1959年8月、ブラジルに製造販売会社を設立して点火プラグの現地生産を開始した。[48]きっかけは前年4月にモザイクタイルを手がけるモジ製陶の社長らが提携を求めて来社したことで、6月には松尾義人専務と小林朗が現地を視察し、1959年2月16日付で日本政府の許可が下りている。[49]当時の同国はチャンピオンとボッシュの二大メーカーが市場を独占し、これといった得意先を持たない同社にとっては「全く冒険」と言うほかない賭けだった。[50]同年4月に小林朗を団長とする14名が現地へ渡り、フォードやGMに50回、60回と足を運ぶ営業を重ねた末に、[51]ゼネラルモーターズ・ウィリーオーバーランド・シムカ・フォルクスワーゲンといった現地生産車への組み付けを勝ち取った。[52]

  • 日本特殊陶業 有価証券報告書 第125期(2025年3月期)【沿革】
    • [48]1959年 ブラジルで点火プラグの現地生産を開始(沿革は『1959年8月 ブラジルに製造販売会社を設立』)
  • 日本特殊陶業株式会社『日本特殊陶業株式会社三十年史』(日本特殊陶業株式会社, 1967年)
    • [49]昭和33年(1958年)4月20日にブラジルからプラグ企業提携の目的でモジ製陶の山口社長・今井工場長が来訪し、これに基づき6月8日に松尾義人専務と小林朗がブラジルにおける現地の状況を視察した。モジ製陶との提携は昭和34年2月16日付で許可され、モザイクタイル製造販売中のPorcelana Mogi Das Cruzes S/Aに現金及びプラグ製造用機械設備を投資してサンパウロ州モジ市でスパークプラグの製造販売を開始するものだった
  • 日本特殊陶業株式会社『日本特殊陶業株式会社五十年史』(日本特殊陶業株式会社, 1987年)
    • [50]ブラジル進出は「全く冒険」といってよく、当時同国はチャンピオン社(米)とボッシュ(西独)の二大メーカーが市場を独占していた。昭和34年4月に小林朗団長以下14名が渡伯し、現地のフォード社・GM社などに50回、60回と足を運ぶ営業を重ねた
    • [51]ブラジル進出は「全く冒険」といってよく、当時同国はチャンピオン社(米)とボッシュ(西独)の二大メーカーが市場を独占していた。昭和34年4月に小林朗団長以下14名が渡伯し、現地のフォード社・GM社などに50回、60回と足を運ぶ営業を重ねた
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 1968)
    • [52]ブラジル特殊陶業のプラグはゼネラルモーターズ・ウィリーオーバーランド・シムカ・フォルクスワーゲン等の現地生産車に組み付けられた(明治百年は「同国ゼネラルモーター、ウィリーオーバーランド、シムカ、フォルクスワーゲンその他の有名車に組み付けられ」と記載)
  • 日本特殊陶業株式会社『日本特殊陶業株式会社三十年史』(日本特殊陶業株式会社, 1967年)
    • [43]昭和32年(1957年)8月14日に中共地区青島向け自動車用プラグ3万個を成約、翌9月にアメリカ・ペンシルバニア州のバウア社へ当社のプラグ磁器10万個を輸出することとなり、初輸出のヴェネゼラ向5,100個と共に世界に雄飛することとなった。10月25日にはカラチの代理店エクィティ社のカーン社長が来社し、パキスタン政府の購買名簿にNGKプラグが正式登録されることとなったことを伝えた
    • [44]昭和32年(1957年)8月14日に中共地区青島向け自動車用プラグ3万個を成約、翌9月にアメリカ・ペンシルバニア州のバウア社へ当社のプラグ磁器10万個を輸出することとなり、初輸出のヴェネゼラ向5,100個と共に世界に雄飛することとなった。10月25日にはカラチの代理店エクィティ社のカーン社長が来社し、パキスタン政府の購買名簿にNGKプラグが正式登録されることとなったことを伝えた
    • [45]「NGKスーパー」は昭和33年(1958年)9月21日より売出しを開始。超高質アルミナ質絶縁体にひだをつけてフラッシュ・オーバーを阻止し、絶縁体の機械的強度も増したので発火部を細長くでき、中心電極も従前に比し太くし銅線を使用して熱を逃がし得るようにした。これによって熱価の異なる数種類の在来品が1本で広熱範囲を持つものに変更できた。9月28日にアメリカ・タコマ市のツンガーニ・ピストン社へ初めてアメリカ向のプラグ完成品を輸出し、10月16日にはパキスタンの軍用プラグ5,000個の国際入札に落札した
    • [47]「NGKスーパー」は昭和33年(1958年)9月21日より売出しを開始。超高質アルミナ質絶縁体にひだをつけてフラッシュ・オーバーを阻止し、絶縁体の機械的強度も増したので発火部を細長くでき、中心電極も従前に比し太くし銅線を使用して熱を逃がし得るようにした。これによって熱価の異なる数種類の在来品が1本で広熱範囲を持つものに変更できた。9月28日にアメリカ・タコマ市のツンガーニ・ピストン社へ初めてアメリカ向のプラグ完成品を輸出し、10月16日にはパキスタンの軍用プラグ5,000個の国際入札に落札した
    • [49]昭和33年(1958年)4月20日にブラジルからプラグ企業提携の目的でモジ製陶の山口社長・今井工場長が来訪し、これに基づき6月8日に松尾義人専務と小林朗がブラジルにおける現地の状況を視察した。モジ製陶との提携は昭和34年2月16日付で許可され、モザイクタイル製造販売中のPorcelana Mogi Das Cruzes S/Aに現金及びプラグ製造用機械設備を投資してサンパウロ州モジ市でスパークプラグの製造販売を開始するものだった
  • 日本特殊陶業 有価証券報告書 第125期(2025年3月期)【沿革】
    • [46]1958年9月 銅軸入りワイドレンジプラグ発売(有報【沿革】は「自動車業界の先駆となる」と付記)
    • [48]1959年 ブラジルで点火プラグの現地生産を開始(沿革は『1959年8月 ブラジルに製造販売会社を設立』)
  • 日本特殊陶業株式会社『日本特殊陶業株式会社五十年史』(日本特殊陶業株式会社, 1987年)
    • [50]ブラジル進出は「全く冒険」といってよく、当時同国はチャンピオン社(米)とボッシュ(西独)の二大メーカーが市場を独占していた。昭和34年4月に小林朗団長以下14名が渡伯し、現地のフォード社・GM社などに50回、60回と足を運ぶ営業を重ねた
    • [51]ブラジル進出は「全く冒険」といってよく、当時同国はチャンピオン社(米)とボッシュ(西独)の二大メーカーが市場を独占していた。昭和34年4月に小林朗団長以下14名が渡伯し、現地のフォード社・GM社などに50回、60回と足を運ぶ営業を重ねた
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 1968)
    • [52]ブラジル特殊陶業のプラグはゼネラルモーターズ・ウィリーオーバーランド・シムカ・フォルクスワーゲン等の現地生産車に組み付けられた(明治百年は「同国ゼネラルモーター、ウィリーオーバーランド、シムカ、フォルクスワーゲンその他の有名車に組み付けられ」と記載)

小牧への生産移転と補修用市場の高収益構造

1959年9月の伊勢湾台風では生素地の半分が使用不能になりトンネル窯も浸水し、従業員の出勤率は5〜6割まで落ちた。ただ被害のより大きかった同業・日本電装の名古屋工場は再開に数か月を要する状況で、同社は先方の取引先の要望に応じて肩替り納入を行い、市場の不安を抑えている。[53]本社工場は拡張の余地が乏しくなり、電車道路に面した部分が道路拡張で収用されることも重なって、1960年10月に小牧市へ約94,000平方メートル、約28,000坪の用地を取得した。[54][55]工場進出とあわせて資本金500万円・総員13名の子会社、日特製作所も設けている。[56]小牧工場は1962年4月に472名の陣容でセラミックの生産を始め、[57][58]プラグ工場の完成は1964年2月である。[59]

  • 日本特殊陶業株式会社『日本特殊陶業株式会社三十年史』(日本特殊陶業株式会社, 1967年)
    • [53]昭和34年(1959年)9月26日の伊勢湾台風でモーター冠水、生素地の50%は使用不能、トンネル窯浸水、金属材料の錆びが生じ従業員の出勤率も5〜60%となった。同業・日本電装名古屋工場の被害は特に大きくトンネル窯は水浸しのままで再開には数カ月を要する状況だったため、同社の取引先には要望によって肩替り納入を行い市場の不安をなくした
    • [55]本社工場は拡張の余地が少なくなった上に電車道路に面した工場が一部切取られることとなったため、小牧市に工場進出を図り約28,000坪の土地を購入することとした。また子会社として日特製作所を設立(資本金500万円、総員13名)
    • [56]本社工場は拡張の余地が少なくなった上に電車道路に面した工場が一部切取られることとなったため、小牧市に工場進出を図り約28,000坪の土地を購入することとした。また子会社として日特製作所を設立(資本金500万円、総員13名)
  • 日本特殊陶業株式会社『日本特殊陶業株式会社五十年史』(日本特殊陶業株式会社, 1987年)
    • [54]本社工場敷地の一部が道路拡張で収用されたことも重なり、昭和35年(1960年)10月に小牧市岩崎で約94,000m2の用地を取得。昭和37年(1962年)4月から472名の陣容でセラミックの生産を開始し、プラグ工場(第2工場)の完成は昭和39年(1964年)2月
    • [57]本社工場敷地の一部が道路拡張で収用されたことも重なり、昭和35年(1960年)10月に小牧市岩崎で約94,000m2の用地を取得。昭和37年(1962年)4月から472名の陣容でセラミックの生産を開始し、プラグ工場(第2工場)の完成は昭和39年(1964年)2月
    • [59]本社工場敷地の一部が道路拡張で収用されたことも重なり、昭和35年(1960年)10月に小牧市岩崎で約94,000m2の用地を取得。昭和37年(1962年)4月から472名の陣容でセラミックの生産を開始し、プラグ工場(第2工場)の完成は昭和39年(1964年)2月
  • 日本特殊陶業 有価証券報告書 第125期(2025年3月期)【沿革】
    • [58]1962年4月 小牧工場(愛知県)操業開始。有報【沿革】は「本社工場よりニューセラミック部門を移転」と記載し、操業開始時の移転対象はプラグ部門ではない

1966年時点で点火プラグの国内生産量ベースのシェアは70%に達した。[60]同年6月には最大市場である米国を深耕するため、ロサンゼルスに全額出資の海外販売会社「米国NGKスパークプラグ」を設立している。資本金は5万ドル、社長には輸出部長の加藤誠也が就いた。[61][62][63]補修用プラグは車検・整備時に定期交換される消耗品で、新車装着用に比べて利益率が高い。日本では新車装着用と補修用の比率がおよそ1対3、米国では1対8で、[64]自動車の保有台数が生産台数を上回るほど補修用の比重は増す。プラグは国際共通規格品であり、トヨタや日産の車に付くNGK製がGMやフィアットの車にもそのまま適合したことが、[65]この収益モデルを国外へ広げる前提となった。

  • 日本特殊陶業 有価証券報告書(社内沿革)
    • [60]1966年時点で点火プラグの国内生産量シェア70%を確保
  • 日本特殊陶業 有価証券報告書 第125期(2025年3月期)【沿革】
    • [61]1966年6月 米国に製造販売会社を設立(有報【沿革】の記載は「米国NGKスパークプラグ株式会社(現 Niterra North America株式会社)」で、所在地・設立目的の記載は【沿革】には無い)
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 1968)
    • [62]昭和41年(1966年)7月にロスアンジェルスに現地法人「米国NGK」を設立し営業を開始した。年々増加する米国向け輸出を強化拡大するための設立だった
  • 日本特殊陶業株式会社『日本特殊陶業株式会社五十年史』(日本特殊陶業株式会社, 1987年)
    • [63]昭和41年(1966年)6月、最大のマーケットである米国プラグ市場を深耕するため、当社初の海外販売会社としてロサンゼルスに全額出資の「NGK SPARK PLUGS (U.S.A.) INC.」を設立。資本金5万ドル、社長には輸出部長の加藤誠也が就任
  • 証券アナリストジャーナル 1976年4月号(小川修次・日本特殊陶業社長)
    • [64]スパークプラグの新車用と補修用の比率は日本で1対3、米国で1対8程度。規格は国際的に共通で、トヨタや日産の車に付くNGKスパークプラグをGMやフィアットの車に付けてもそのまま適合する
    • [65]スパークプラグの新車用と補修用の比率は日本で1対3、米国で1対8程度。規格は国際的に共通で、トヨタや日産の車に付くNGKスパークプラグをGMやフィアットの車に付けてもそのまま適合する

1968年時点で点火プラグの生産は本社工場で月産260万個、小牧工場で月産290万個の合計月産550万個に達し、国内市場の70%以上を占めた。[66]海外でも品質が評価され、アメリカをはじめ80数ヵ国へ逐年倍増の輸出実績を示している。[67]あわせて、スパークプラグの絶縁体研究から派生した工業用セラミック「NTKニューセラミック」を1949年に本格生産し、[68]高い電気絶縁性・耐摩耗性・耐熱性を備えた特殊磁器材質を電子・機械・化学・繊維など幅広い分野へ供給した。さかのぼれば1947年にはるつぼや燃焼管などの理化学製品を開発しており、蓄積は古い。[69]年間売上高は約70億円、借入金を持たない無借金経営で、[70]堅実な財務基盤の上に量産と輸出を伸ばしたのがこの時期の姿である。

  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 1968)
    • [66]1968年時点で点火プラグは本社工場月産260万個・小牧工場月産290万個の合計月産550万個、国内市場の70%以上を占めた(明治百年)
    • [67]アメリカをはじめ80数ヵ国へ逐年倍増の輸出実績(明治百年は「アメリカはじめ八〇数ヵ国に逐年倍増の輸出実績」と記載)
    • [70]1968年時点の年間売上高は約70億円、無借金経営(明治百年は「年間売上げ高は約七〇億円、借入金のない会社」と記載)
  • 日本特殊陶業 有価証券報告書 第125期(2025年3月期)【沿革】
    • [68]スパークプラグ絶縁体研究から開発した工業用セラミック「NTKニューセラミック」を1949年に本格生産開始
  • 日経ビジネス 1980年10月6日号
    • [69]ニューセラミックス部門の起点は昭和22年(1947年)のるつぼ・燃焼管などの理化学製品の開発で、その後耐熱磁器や切削工具、圧電磁器などを発売してきた
  • 日本特殊陶業株式会社『日本特殊陶業株式会社三十年史』(日本特殊陶業株式会社, 1967年)
    • [53]昭和34年(1959年)9月26日の伊勢湾台風でモーター冠水、生素地の50%は使用不能、トンネル窯浸水、金属材料の錆びが生じ従業員の出勤率も5〜60%となった。同業・日本電装名古屋工場の被害は特に大きくトンネル窯は水浸しのままで再開には数カ月を要する状況だったため、同社の取引先には要望によって肩替り納入を行い市場の不安をなくした
    • [55]本社工場は拡張の余地が少なくなった上に電車道路に面した工場が一部切取られることとなったため、小牧市に工場進出を図り約28,000坪の土地を購入することとした。また子会社として日特製作所を設立(資本金500万円、総員13名)
    • [56]本社工場は拡張の余地が少なくなった上に電車道路に面した工場が一部切取られることとなったため、小牧市に工場進出を図り約28,000坪の土地を購入することとした。また子会社として日特製作所を設立(資本金500万円、総員13名)
  • 日本特殊陶業株式会社『日本特殊陶業株式会社五十年史』(日本特殊陶業株式会社, 1987年)
    • [54]本社工場敷地の一部が道路拡張で収用されたことも重なり、昭和35年(1960年)10月に小牧市岩崎で約94,000m2の用地を取得。昭和37年(1962年)4月から472名の陣容でセラミックの生産を開始し、プラグ工場(第2工場)の完成は昭和39年(1964年)2月
    • [57]本社工場敷地の一部が道路拡張で収用されたことも重なり、昭和35年(1960年)10月に小牧市岩崎で約94,000m2の用地を取得。昭和37年(1962年)4月から472名の陣容でセラミックの生産を開始し、プラグ工場(第2工場)の完成は昭和39年(1964年)2月
    • [59]本社工場敷地の一部が道路拡張で収用されたことも重なり、昭和35年(1960年)10月に小牧市岩崎で約94,000m2の用地を取得。昭和37年(1962年)4月から472名の陣容でセラミックの生産を開始し、プラグ工場(第2工場)の完成は昭和39年(1964年)2月
    • [63]昭和41年(1966年)6月、最大のマーケットである米国プラグ市場を深耕するため、当社初の海外販売会社としてロサンゼルスに全額出資の「NGK SPARK PLUGS (U.S.A.) INC.」を設立。資本金5万ドル、社長には輸出部長の加藤誠也が就任
  • 日本特殊陶業 有価証券報告書 第125期(2025年3月期)【沿革】
    • [58]1962年4月 小牧工場(愛知県)操業開始。有報【沿革】は「本社工場よりニューセラミック部門を移転」と記載し、操業開始時の移転対象はプラグ部門ではない
    • [61]1966年6月 米国に製造販売会社を設立(有報【沿革】の記載は「米国NGKスパークプラグ株式会社(現 Niterra North America株式会社)」で、所在地・設立目的の記載は【沿革】には無い)
    • [68]スパークプラグ絶縁体研究から開発した工業用セラミック「NTKニューセラミック」を1949年に本格生産開始
  • 日本特殊陶業 有価証券報告書(社内沿革)
    • [60]1966年時点で点火プラグの国内生産量シェア70%を確保
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 1968)
    • [62]昭和41年(1966年)7月にロスアンジェルスに現地法人「米国NGK」を設立し営業を開始した。年々増加する米国向け輸出を強化拡大するための設立だった
    • [66]1968年時点で点火プラグは本社工場月産260万個・小牧工場月産290万個の合計月産550万個、国内市場の70%以上を占めた(明治百年)
    • [67]アメリカをはじめ80数ヵ国へ逐年倍増の輸出実績(明治百年は「アメリカはじめ八〇数ヵ国に逐年倍増の輸出実績」と記載)
    • [70]1968年時点の年間売上高は約70億円、無借金経営(明治百年は「年間売上げ高は約七〇億円、借入金のない会社」と記載)
  • 証券アナリストジャーナル 1976年4月号(小川修次・日本特殊陶業社長)
    • [64]スパークプラグの新車用と補修用の比率は日本で1対3、米国で1対8程度。規格は国際的に共通で、トヨタや日産の車に付くNGKスパークプラグをGMやフィアットの車に付けてもそのまま適合する
    • [65]スパークプラグの新車用と補修用の比率は日本で1対3、米国で1対8程度。規格は国際的に共通で、トヨタや日産の車に付くNGKスパークプラグをGMやフィアットの車に付けてもそのまま適合する
  • 日経ビジネス 1980年10月6日号
    • [69]ニューセラミックス部門の起点は昭和22年(1947年)のるつぼ・燃焼管などの理化学製品の開発で、その後耐熱磁器や切削工具、圧電磁器などを発売してきた

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日本特殊陶業の沿革1936〜2025年における主な出来事を抜粋

時代年月社長・CEO出来事重要度
1936〜1955年日本碍子からの分離独立と戦後復興への苦闘日本碍子からの点火プラグ・濾過器・耐酸モルタル三部門の継承と分離独立

1936年10月、日本碍子(現・日本ガイシ)が点火プラグ・濾過器・耐酸モルタルの三製造部門を分離し、資本金100万円で日本特殊陶業を名古屋に設立した。母体が1921年から重ねた点火プラグの研究を受け継ぎ、輸入に頼っていた自動車・航空機用点火プラグの国産化を事業目的に掲げた分離独立であった。

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★★★
NGKスパークプラグの製造を開始★★
森村勇終戦により2000名を解雇★★
森村勇東京・名古屋両証券取引所に株式上場
森村勇NTKニューセラミックの製造を開始
森村勇全従業員782名の43%にあたる336名の希望退職を募集★★
1956〜1970年米国型量産への転換と輸出市場の本格開拓森村勇松尾義人常務が生産性本部「自動車部品チーム」団員として渡米
森村勇銅軸入りワイドレンジプラグを発売
森村勇ブラジル特殊陶業の設立と、点火プラグの海外現地生産の開始

1959年8月、日本特殊陶業はブラジルに100%出資の製造販売会社ブラジル特殊陶業を設立し、点火プラグの現地生産を始めた。輸出を中心に海外へ広げてきた同社が、自ら工場を構えて海外で生産する体制へ乗り出した最初の事例で、当時の森村勇社長のもとで進められた。

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★★★
松尾義人小牧工場が操業開始(本社工場よりニューセラミック部門を移転)
松尾義人小牧工場にプラグ工場(第2工場)が完成
松尾義人点火プラグで国内シェア70%を確保・補修用で高収益
松尾義人子会社を設立
星野茂雄セラミックICパッケージの製造販売開始と非自動車領域への多角化

日本特殊陶業は1967年10月、ICチップを封止するセラミックICパッケージの製造販売を開始した。点火プラグの絶縁体アルミナ磁器で培った焼成技術を半導体向けへ転用し、点火プラグに次ぐ非自動車の事業柱を築く多角化であった。

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★★★
1971〜2008年海外生産体制の本格整備と半導体パッケージ事業への多角化星野茂雄スーパープラグの値上げ実施
星野茂雄現地生産を本格化
星野茂雄自動車用温度センサの製造を開始
小川修次製造販売会社を設立
小川修次欧・米・豪で販売拠点を拡充
小川修次自動車用酸素センサの製造を開始(ジルコニア型・チタニア型)★★
小川修次韓国・友進工業に資本参加
小川修次先進国での現地生産を本格化
小川修次製造販売会社を設立
小川修次伊勢工場を操業開始
金川重信NGKイリジウムプラグを発売★★
金川重信インテル向けの樹脂PKGの量産を本格化★★
金川重信医療用酸素濃縮装置の量産を開始
羽賀征治アジアでの生産増強
加藤倫朗半導体向けパッケージの増産・小牧工場で増産計画
2009〜2023年リーマンショックを経た事業再編とスパークプラグ拡大加藤倫朗最終赤字に転落・セラミックICパッケージの再編★★
尾堂真一スパークプラグ10億本生産計画を公表
尾堂真一日本セラテックを完全子会社化
尾堂真一Wells Vehicle Electronics関連を買収
尾堂真一CAIRE Inc.を買収★★
川合尊監査等委員会設置会社へ移行
川合尊英文商号をNGK SPARK PLUG CO., LTD.からNiterra Co., Ltd.に変更★★
川合尊過去最高益を達成
川合尊東芝マテリアルを完全子会社化★★
出典・参考
  • 日本特殊陶業 有価証券報告書 第125期(2025年3月期)【沿革】
  • 日本特殊陶業 有価証券報告書 第125期(2025年3月期)【企業の概況】
  • 日本特殊陶業 有価証券報告書(社内沿革・主要指標)
  • 日本特殊陶業 有価証券報告書(社内沿革)
  • 日本特殊陶業株式会社『日本特殊陶業株式会社三十年史』(日本特殊陶業株式会社, 1967年)
  • 日本特殊陶業株式会社『日本特殊陶業株式会社五十年史』(日本特殊陶業株式会社, 1987年)
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 1968)
  • 証券アナリストジャーナル 1976年4月号(小川修次・日本特殊陶業社長)
  • 日経ビジネス 1980年10月6日号

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