重要な意思決定
193610月

日本特殊陶業株式会社を設立

背景

碍子メーカーの技師が見出した点火プラグという未開市場

日本碍子で絶縁部品を手がけていた技術者・江副孫右衛門は、1921年に海外で普及しつつあった自動車用点火プラグに着眼し、社内で研究開発に着手した。しかし、点火プラグの絶縁体には通常の陶器とは異なる電気絶縁性能・機械強度・急熱急冷耐性が求められ、原材料の選定から焼成技術の確立まで長期の開発期間を要した。1926年に試作品1000個を生産したものの不良品が発見され、品質管理の徹底を理由に販売計画を一度中止する判断を下している。

その後も歩留まり改良を続け、1930年にようやく自動車向け点火プラグの製造販売を開始した。研究着手から実用化まで約9年を費やした形であり、碍子由来のセラミック焼成技術を転用するという着想が正しかったとしても、製品として成立させるまでの技術的ハードルは高かった。1930年代を通じてトヨタ自動車をはじめとする国産メーカーが成長し、点火プラグの内需が拡大する局面で、江副の9年間の技術蓄積が事業基盤として機能し始めた。

決断

点火プラグ事業の分離独立と日本特殊陶業の設立

自動車の国産化に伴う需要増大に対応するため、日本碍子は点火プラグ事業の分離を決定し、1936年に資本金100万円で日本特殊陶業を設立した。本社工場は日本碍子の隣接地に竣工し、従業員数259名の規模で操業を開始した。初代社長には9年間にわたり開発の最前線に立ち続けた江副孫右衛門が就任し、研究者がそのまま経営トップを務める体制となった。

日本特殊陶業の設立時期は、結果的に追い風となった。戦時体制のもとで独ボッシュや米AC社からの輸入が途絶し、国産自動車メーカーは国内調達に切り替えざるを得なかった。日本特殊陶業は国産唯一の専業メーカーとして注文を集め、戦時需要を取り込む形で業容を拡大した。輸入途絶という外部環境の変化が、設立間もない企業に市場独占の機会を与えた構図であった。

結果

輸入途絶が生んだ国産独占体制と戦後への技術蓄積

戦時中は航空機向け点火プラグの製造にも対応し、1945年3月時点で従業員数は2887名にまで膨張した。しかし終戦とともに軍需が消失し、約2600名の人員を解雇して従業員数約200名の規模に縮小するという急激な調整を経験している。戦時の急拡大と終戦後の急縮小は、需要構造が軍需に偏っていたことの帰結であった。

ただし、戦時中に蓄積された大量生産の技術と設備運用の経験は、戦後の自動車産業の復興とともに再び活用されることとなった。碍子メーカーの一部門から始まった点火プラグ事業は、分離独立と輸入途絶を経て国内市場の支配的地位を獲得し、以後の日本特殊陶業の事業基盤を形成した。江副が1921年に始めた研究は、15年以上の歳月を経て一企業の設立に結実した格好であった。