歴史概要 — 現在に至るあゆみ 主要な意思決定と帰結のまとめ
創業1868年、明治維新直後の京都で石田才次郎が銅版印刷の石田旭山印刷所を個人創業した。2代目の敬三は1920年代に写真印刷の普及を見据え、銅版彫刻の将来性に見切りをつける。全量を輸入に頼っていたガラススクリーンの国産化に挑み、求められるエッチングの精度は当時の国内技術を上回っていたため、約20年の試行錯誤を要した。1934年に「写真製版用網目スクリーンの蝕刻法」を独自開発し、1943年に大日本スクリーン製造所を設立。精密な図版を化学的に刻む技術を自前で持った。
決断1975年にウエハー腐食機を独自開発し、製版機器で蓄えた位置決め・塗布・表面処理の三技術をそのまま半導体装置へ転用した。祖業の印刷で稼いだ利益を装置開発へ自己資金で回し、1994年に電子工業向け売上が印刷を上回る。決定打は1997年、石田明社長が次世代の300mmウエハ対応に設備投資184億円で踏み込んだ判断だった。直後にシリコンサイクル不況が訪れ、FY1998に営業赤字131億円を出しても投資を止めず、2001年に彦根で量産を開始。専用工場を建てられたのは同社だけで、中堅勢の脱落とともに洗浄装置の寡占が固定した。
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歴史詳細 - 3つの時代区分で読み解く
1868年〜1974年 印刷技術から精密加工への技術系譜の転換
銅版彫刻からガラスエッチングへの技術転換
1868年に石田才次郎は京都で銅版印刷を手掛ける石田旭山印刷所を個人創業し、明治維新直後の活字・印刷需要に応える小さな工房として事業を始めた。2代目の石田敬三は1920年代に写真印刷が普及する将来像を見据えた。従来の銅版彫刻を前提とした事業モデルに将来性を見いだせないという危機感を抱き、写真印刷に不可欠なガラススクリーンの国産化に挑戦する方針を固めた。当時のガラススクリーンは全量を海外からの輸入に頼り、その面に求められるエッチングの精密さは当時の国内技術の水準を上回るもので、試行錯誤が長期にわたって続いた。敬三の判断が、後年の半導体装置参入へ至る精密加工技術の起点となる。
1934年に「写真製版用網目スクリーンの蝕刻法」を独自に開発し、商工省から工業研究奨励金7000円を得て技術の将来性について公的な評価を受けた。量産工程の確立は難航し、参入決定から約20年の歳月を要した。1943年10月に株式会社大日本スクリーン製造所を設立して軍需向けのガラススクリーン供給に着手し、法人としての事業基盤を整えた。この精密エッチング技術が、戦後の写真製版機器からシャドーマスク、半導体製造装置へ連続的に展開する技術系譜の出発点であり、150年を超える企業史を一本の軸でつなぐ技術的継承の原点となった。精密な図版を化学的に刻む基礎技術を自前で持ったことが、以後の産業変化の波に耐える体質を生んだ。
ソニー共同開発と印刷関連機器の事業拡大
戦後、大日本スクリーン製造所は写真製版機器の製造を主力として事業を再開し、日本経済の高度成長と印刷産業の近代化のなかで業容を広げた。1953年に堀川工場を新設して生産体制を整備し、京都に本社を構える体制を整えた。1962年に大阪証券取引所第2部に株式を上場して市場からの資金調達手段を獲得した。1963年にソニーと共同でカラーテレビ向けシャドーマスクの開発に着手し、写真製版で培ってきたエッチング技術の応用先として家電向け精密部品の領域を開拓した。写真製版で培った技術の転用可能性を事業として実証した最初の成功事例となり、経営上の重要なきっかけとなった。
シャドーマスクはカラーテレビのブラウン管に不可欠な精密部品で、ソニーのカラーテレビ販売の拡大とともに大日本スクリーンの業容も並行して広がった。1980年にスキャナグラフ2000を開発するなど、印刷画像処理の分野でも高い技術力を示した。銅版印刷から写真製版、カラーテレビ部品へ広がった事業の拡散は、表面的な多角化ではなく精密エッチングという一本の技術軸で貫かれた連続的な進化で、後年の半導体装置参入もこの技術系譜の延長にある。祖業の印刷技術を棄てずに新しい市場へ横展開する姿勢が、同社の長寿の一因となった。
1975年〜2000年 半導体製造装置への参入と業態転換の達成
製版機器の基本技術を半導体装置へ転用
1975年に大日本スクリーンはウエハー腐食機(ウェット式エッチング装置)を独自開発して半導体業界向けの事業を開始し、印刷機器メーカーから半導体製造装置メーカーへの業態転換を始めた。製版機器で蓄積した「位置決め・塗布・表面処理」という三つの基本技術は、そのまま半導体製造装置に転用できる汎用性を備え、参入障壁は同業の総合電機メーカーと比べて相対的に低かった。1977年にEMW-322/411を製品化して洗浄装置の商業的な第一歩を固め、1978年にスピンコータやスピンデベロッパを相次いで投入した。製品展開で、半導体メーカーの製造ラインへの供給実績を短期間で積み上げた。
FY1978を境に設備投資額はFY1977の12億円からFY1980の51億円へ4倍以上に拡大し、半導体製造装置事業への経営資源の重点配分が数字で示された。売上高はFY1972の105億円からFY1983の670億円へ6倍以上に伸び、1994年に電子工業向け機器の売上が印刷関連機器を上回った。祖業である印刷から半導体装置へ主力事業が入れ替わる業態転換の節目である。製版機器で稼いだ利益を半導体装置の研究開発へ再投資する自己資金型の業態転換は、外部資本に依存しない事業構造の入れ替えとして業界の注目を集めた。並行して参入した総合電機系の半導体装置部門が採算に苦しむなかで、祖業の利益で研究開発を回せた同社の独自性が結果として競争力を生んだ。
300mmウエハ対応への先行投資と不況期の決断
1990年代初頭の洗浄装置市場で大日本スクリーンはシェア約22%の首位に立っていたが、中堅企業が群雄割拠する競争構造が長く続いた。1993年に東京エレクトロンが新規参入してシェアを広げるなかで、石田明社長は次世代規格である300mmウエハへの対応が業界の競争構造を決定づける経営テーマだと判断した。1997年にバッチ式洗浄装置「FC-3000」を発表し、同年度に設備投資額184億円を計上して多賀事業所を新設するという、先行者の地位を賭けた184億円投資に踏み切った。シリコンサイクル不況期の到来が現実味を帯びる時期の重たい判断で、社内外から不安視する声も相次いだ。石田社長はこのタイミングで規格転換に踏み込まなければ業界をリードできないという危機感で判断を貫いた。
1998年にシリコンサイクルが不況期に入り、FY1998には営業赤字131億円、最終赤字245億円の損失を計上した。石田社長はそれでも不況期の投資継続という方針を堅持し、2001年3月に彦根事業所にFab.FC-1を新設して300mm対応洗浄装置の本格量産を開始する決断を貫いた。300mm対応の専用量産工場を建設できたのは洗浄装置メーカーのなかで大日本スクリーンだけで、体力の乏しい中堅企業が次々と脱落する過程で寡占構造が確定した。不況期の184億円投資という賭けが、業界の競争構造を自社に有利な形に塗り替えた。石田体制が下した規格転換への先行投資の決断が、次の20年の寡占を生んだ。赤字期にも規格転換への設備投資を止めなかったことが、結果として洗浄装置市場の寡占を生む分水嶺となった。
2001年〜2023年 洗浄装置の世界首位と持株会社化による体制の再編
印刷事業の分離と半導体装置への経営集中
300mm対応投資の成功を経て、大日本スクリーンは半導体洗浄装置を中核事業に据え、経営資源の配分を半導体装置へ集中する体制へと組み直した。2002年に印刷関連機器の事業を分割する組織再編を実施し、長年の祖業である印刷事業を本体から切り離して経営資源を半導体装置に集中する体制へ移行した。2006年に彦根事業所にFab.FC-2を増設し、世界の半導体メーカーの投資拡大に対応する供給能力の強化を図った。2009年にリーマンショックの影響で再び最終赤字に転落したが、半導体需要の回復とともに業績は短期間のうちに持ち直した。持株会社移行を主導した垣内永次は、同社の歴史を振り返り、会社の窮地を救ったのは人と人とのつながりであり昨日の敵を友とした縁尋機妙だったと語り、不況と業態転換を人的な信頼網で乗り切った経緯を述べている。
2014年10月に商号を株式会社SCREENホールディングスに変更し、持株会社体制へ組織形態を移行した。半導体製造装置・グラフィックアーツ機器・ディスプレー製造装置・プリント基板関連機器の複数事業を傘下子会社で分担して運営する新しい組織に再編した。各事業の自律的な経営と全社の意思決定の速さを両立させる設計で、次の成長期への準備が整った。2019年に彦根事業所で半導体洗浄装置の増産投資を実施し、スマートフォンとデータセンター需要の拡大を受けた世界の半導体設備投資の波に対応する供給体制を整備した。垣内は後年、技術革新で本業が消失しても過去の教訓を忘れず挑めば乗り切れると語り、印刷・ブラウン管・半導体と本業が入れ替わってきた同社の経営を貫く原則を示した。
ウエハ洗浄装置で得た世界シェア首位の地位
2022年時点でSCREENホールディングスはバッチ式洗浄装置で世界シェア48%、枚葉式洗浄装置で世界シェア33%の寡占的地位を得た。1990年代後半の不況期に石田明社長が断行した先行投資が、競合する中堅企業を市場から次々と脱落させ、300mmウエハ時代の本格的な到来とともに当初の184億円投資が回収されていく流れを作った。洗浄装置市場の競争構造は先行投資の決断によって自社に有利な寡占構図として固定化され、同社の持続的な収益力の核心となり続けた。当時の決断は財務的には危険な賭けに映ったが、結果として一時のリスクと引き換えに長期の寡占利益を獲得する道筋を切り開いた。
FY2024/3期に売上高5049億円、経常利益705億円という過去最高益を達成し、寡占構造の勝者として半導体製造装置業界での地位を固めた。1868年の銅版印刷から出発し、戦前期のガラスエッチング、戦後のカラーテレビ向けシャドーマスク、1975年以降の半導体製造装置と、時代ごとに異なる市場へ技術を移植した約150年の技術の系譜は、精密な画像を化学的に加工するという一貫した技術軸に沿って続いてきた。2019年に社長に就任した廣江敏朗は、半導体製造装置やFPD製造装置の経験を活かしより強靭なグループ体制の確立を目指すと述べ、総合装置メーカーとして社内の経営資源を束ねる方向を示した。京都の小さな印刷工房から世界の最先端半導体製造を支える装置メーカーへ進化した長寿企業の歩みは、技術軸の継承という観点から経営史の事例として位置付けられている。