1939年10月12日、東京芝浦電気が兵器と機械の生産・販売部門を継承させる形で、株式会社芝浦京町製作所が資本金500万円で設立された。同年に旧芝浦製作所と旧東京電気が合併して東京芝浦電気が発足したことを機に、かねて課題であった兵器部門の分離独立が一気に動いた。同年8月10日、横浜市鶴見区の東芝芝浦支社内に創立事務所を置いて発起人会が開かれ、発起人8名の大半は東芝の幹部が占め、百田貞次氏が発起人総代に選ばれている。資本金のうち98%にあたる9万8800株は東芝が現物出資で引き受け、残る1200株も東芝の役職員12名が100株ずつ分け持った。独立した会社の体裁をとりながら、実質は東芝の全額出資子会社であった。
旧芝浦製作所は明治から昭和にかけての三代、およそ半世紀にわたって強電・機械・兵器を作り続けた会社だが、合併でその名は法人としては消えていた。名を残してほしいという声は方々から上がり、東芝初代社長の山口喜三郎氏も百田会長に書を送って、日本で強電と機械工業が始まった頃から歩んできたその社名を新会社が継いではどうか、東芝としては異存がない、と伝えている。東芝から移ってきた600名は、以前から扱ってきた旧芝浦製作所工場の機械を引き続き使うのだから、元の社名のほうがしっくりきた。発足から2ヵ月後の1939年12月21日、新会社は商号を株式会社芝浦製作所に改めたが、その出発は分離独立というより東芝の一部という色の濃いものだった。
生産の拠点は、東芝鶴見工場の五号館と十号館を機械設備ごと借り受けて賄った。従業員600名もそのまま東芝から譲り受け、1939年12月1日に作業を開始している。鶴見工場が手がけたのは電磁チャック、卓上研磨盤、歯科機械用電動機、人絹ポットモータ、自動車用電装品、陸海軍用電動機器、航空機用電気機器で、創立当時の生産割合は軍需関係が全生産高の約7割を占めた。操業と並行して川崎市京町の東芝京町工場に隣接する約1万5000坪を取得し、川崎工場の建設に入る。工場は竣工を待たず、1940年3月5日に海軍管理工場指定の内定を受けた。建設と鶴見工場の拡充で資金繰りが逼迫し、同年6月15日には未払込株式代金250万円の払込みを完了させている。
川崎工場は1940年8月1日、工事の一部竣工と同時に生産を始めた。ここで作られたのは慣性起動電動機、エンジン直結発電機、航空機用機上無線電源、艦船用無線電源および電動機、空中聴音機など、ほとんどが軍需品であった。工場は拡張を重ね、建物42棟・延1万4616坪・設備機械764台を擁する戦時下の有力拠点へ育っている。1942年1月には大船工場が操業を開始し、鶴見・川崎・大船の三拠点が揃った。売上高は1939年3月期の0.02億円から1944年3月期の0.63億円まで膨らみ、敗戦の年にあたる1945年3月期には0.39億円へ落ちた。
1943年9月、芝浦製作所は福井県小浜市の酒伊繊維工業小浜工場を買収し、海軍機の主発動機用慣性起動電動機を作る拠点へ転用した。軍需の拡大と工場疎開を兼ねて北陸に新工場を探していたところへ、福井県出身の西野嘉一郎経理部長が、企業整備で休止していた紡織工場が産業設備営団の手に移るという話を掴む。設備はすべて新品で、五万錘の紡織設備を整えたばかりの優良工場であり、三菱と松下も着目して三社の争奪戦となった。酒伊繊維側は営団の通帳決済を嫌い、現金1350万円を用意しなければ他へ売ると迫る。西野氏は設立間もない産業設備営団へ乗り込んで理事会で説き、営団第一号の許可を得たうえ、翌日に三井銀行の立替えで小切手を入手し、その日のうちに買収を決めた。
会計畑から出て後に社長となる西野嘉一郎氏が、この買収を主導した。三井物産から1926年に独立した直後の三機工業に入り、23歳で業績の振るわない東京建鉄へ会計監査として送り込まれたが、1929年の金解禁で再建は行き詰まり、三機工業が貸付金を回収したため同社は倒産した。日本へ損益分岐点の考え方を初めて持ち込んだのは、浪人の間に経営分析に打ち込んで書いた財務分析の本である。旧芝浦製作所に入ったのは昭和の初めで、同社では1000人規模の人員整理が済んだ直後だった。倒産と財務の研究から西野氏が得た教訓は、安全と成長の均衡であり、拡大一辺倒では会社が潰れ、慎重にすぎれば新たな成長はないという判断の型であった。数字を読む人物が資金の工面を担ったことが、この会社の戦時の拡張と戦後の再建を分けた。
1948年、芝浦製作所は破産寸前にあり、大規模な人員整理なしには会社が保たない状態へ追い込まれていた。ところが労働協約は期限が自動延長される無期限のもので、組合との協議が成立しなければ整理はできない。会社は協約の期限を6ヵ月後とすること、労働時間中に組合活動をしないことの二項目を提議し、組合は無期限ストで応じた。会社は工場閉鎖で組合員の立入りを禁じ、対立は約2ヵ月に及ぶ。組合は神奈川県の労働委員会へ調停を求める一方、軍需会社が退蔵物資を隠して闇に流していると連合国軍総司令部へ投書すると団体交渉で持ち出したが、西野専務はこれを蹴った。貯蔵していた銀や錫を製品へ変えることが、当時の従業員の生活の糧になっていたからである。
人員整理には退職金の原資が要り、会社は工場と用地を次々に売って現金を作った。1948年12月に川崎工場の四棟と土地1万坪を1500万円で、1949年3月に同工場4号館と土地6090坪を810万円で売却する。1950年4月には小浜工場の土地約1万坪と建物2114坪などを510万円で小浜市へ、1951年3月には大船工場2108坪と川崎工場の建物1019坪を神奈川県へ、同年12月には大船工場の土地7300坪と建物408坪を東洋高圧へ手放した。買い手が少ない時期で値は安く、断行した経営者の心痛がしのばれると社史は書いている。自己資本は1948年度から3年続けてマイナスで、1951年度にようやく8060万円のプラスへ戻り、一本立ちと呼べる状態になった。
戦時に手に入れた小浜工場は、戦後は北陸で唯一の大規模な小型電動機工場に育った。東芝の石坂泰三会長から『洗濯機用モータと家庭用電動井戸ポンプをつくらせよ』との指示を受けて家電向けの生産に踏み出すと、1952年ごろに月2000台から3000台にすぎなかった量は年を追って伸び、1969年度にはクーラー用も加えて月産30万台へ達している。戦時に手がけた人絹ポットモータも好評を得て国内の人絹工場で全面的に採用され、海外市場へも出た。売上高は1953年3月期の8.04億円から1968年3月期には105.20億円へ伸びる。1969年10月、芝浦製作所は東京証券取引所市場第二部へ株式を上場した。軍需に代わる注文主を東芝の家電部門に得たことで、この会社は上場に足る量産の基盤を手にした。
1972年2月、芝浦製作所は東京証券取引所市場第一部へ指定替え上場した。このころの主力は東芝向けの製造設備と家電用の小型モータで、家電用小型モーターでは大手の位置にあった。売上高は1971年3月期の114億円から1974年3月期には175億円へ伸び、第一次石油危機の影響が出た1976年3月期に139億円まで落ちた後、1980年3月期には241億円へ戻している。経常利益も1971年3月期の6億円から1973年3月期には11億円へ増えた。東芝という大口の納入先を後ろに置いたまま、上場会社として単独の決算を市場へ示す立場になった。
モータ技術を土台に、新素材とエレクトロニクス技術を加えて新しい型のモータを出し続けることを、会社は目指していた。その成果の一つが1982年に商品化したRPモータで、独特の鉄芯に巻き線を施して小型・薄型に仕上げ、全体をモールドで固めてあった。寿命と耐久性は従来品を大きく上回り、翌1983年には制御回路を組み込んだICモーターも投入され、どちらもよく売れて成熟したモータ市場に新たな需要を生んだ。売上高は1982年3月期の238億円から、1983年3月期には198億円へ減っている。新機種の投入は、伸びの止まった量を単価で補う手でもあった。
東芝がフロッピーディスク・ドライブを増産し続けたことに押され、ステッピングモーターは量産段階へ進んだ。新製品開発室初のベストセラーとなったこのモーターは、回転数を自由に決められる精度の高い制御の仕組みを組み込んでおり、フロッピーディスク・ドライブや産業機械向けに需要が急速に伸びた。新機種と量産がかみ合い、売上高は1983年3月期の198億円で底を打って、1984年3月期に215億円、1985年3月期に236億円まで回復した。もっとも、需要の源が親会社の製品計画にある以上、東芝が作る品目が変われば、この量産もまた行き場を失う。
芝浦製作所はモータのほかに自動販売機も作り、とくにたばこ自販機で実績を持ち、紙幣識別装置などの新しい機構を組み込んでいた。ウォータージェットカッターや直交ロボットも売れ筋に加わり、食券の券売機などプリペイドカードを使う機器にも力を入れている。モータが東芝の家電計画に連動する量産品であるのに対し、これらは納入先も需要の波も異なる商売であった。1993年6月には自動販売機を扱う芝浦自販機を設立し、1994年4月には芝浦エンジニアリングを設けて、機能ごとに子会社へ切り分ける形を作る。1997年7月には本社事務所を東京都品川区へ移し、本店を神奈川県横浜市へ移した。
当時の芝浦製作所は、重電を離れてデバイス部門へ重心を移す途上にあった。1991年10月の徳田製作所との合併もその線上にあり、同社は真空機器を得意としていた。徳田製作所の事業は芝浦製作所の真空機器システム事業部と相模工場に引き継がれ、あわせて芝浦エレテックが子会社となった。7年後に会社が絞り込む先は、半導体・液晶の製造装置とDVDの成膜装置で、いずれも真空技術を基礎とする分野であり、モータ一本だった会社にとって装置技術を抱えたことが主力交代の足場になった。
国内シェアで40%を占めた芝浦製作所のモータは、東芝をはじめ大半のエアコンメーカーに納められていた。モータ事業の売上はおよそ200億円あり、引き続き会社の柱だったが、需要家のほぼすべてを押さえた供給網は、エアコンという一つの用途に頼っていることの裏返しでもあった。1990年6月には東芝取締役・関西支社長の鈴木三郎氏が社長に就き、渡辺亮前社長は相談役に退いている。1992年の時点で東芝は株式の61.6%を持っており、社長も親会社から迎える形が続いていた。
1998年の再編を促したのは、二つの逆風と一つの追い風であった。逆風の一つは韓国の経済危機である。芝浦製作所のモータは需要の落ち込みが止まらず、自社だけで国際的な競争力を保つのは難しくなっていた。液晶の生産量で日本に次ぐ韓国は液晶製造装置の大口顧客だったが、韓国経済の現状を見る限り輸出の立ち直りは望みにくくなり、エアコンの需給も悪化して、一時帰休や雇用調整助成金の申請を検討するメーカーまで現れ、モータの需要は前年比20%前後の減少が見込まれた。そこでの追い風が日本電産によるモータ部門の買収で、日本電産にとってもモータの品揃えを広げて国際競争力を高める機会となった。
1998年、芝浦製作所は主力のモーター事業を実質的に分割し、日本電産へ事実上統合する道を選んだ。芝浦製作所と日本電産がそれぞれ40%、東芝が20%を出資して芝浦電産を設立し、モータ事業をそこへ営業譲渡する形をとる。譲渡されたモータ事業の売上はおよそ200億円で、譲渡後の芝浦製作所の事業規模はほぼ半分になった。東芝はグループの目標として自己資本利益率10%以上・負債比率100以下を掲げており、この再編でその達成の見込みがついた。国内シェア40%の事業を手放す判断は、規模の大小ではなく単独で国際競争力を保てるかどうかで下された。
1998年10月1日、芝浦製作所はほぼ同規模の東芝メカトロニクスと合併し、商号を芝浦メカトロニクスへ改めた。新会社の売上高は1998年3月期の実績を単純に合計すると約520億円で、内訳は営業譲渡するモータ部門を除く芝浦製作所が約290億円、東芝メカトロニクスが約230億円であった。液晶の製造装置では世界で競争力を持つ企業が生まれ、海外の営業・サービス拠点を共有して海外売上高比率を50%前後まで高める方針を掲げる。液晶は半導体のように小さく切り分けることができず、半導体ほどの価格下落は起きない領域であり、大型画面化と低価格化によってデスクトップ型ディスプレーの置き換えも進んでいた。1999年4月には本社を神奈川県横浜市へ移した。脱重電とデバイス部門への移行は、モータの分離と東芝メカトロニクスとの合併によって完全なものとなる。60年にわたり軍需と東芝の家電に応じて作るものを変えてきた会社は、ここで受注生産の装置メーカーへ姿を変えた。
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|---|---|---|---|---|
| 1939〜1969年東芝からの分社と資本欠損からの再建 | 芝浦京町製作所として設立 | ★★ | ||
| 芝浦製作所に商号変更 | ★ | |||
| 大船工場操業開始 | ★ | |||
| 小浜工場操業開始 | ★ | |||
| 東京証券取引所二部上場 | ★ | |||
| 1970〜1999年小型モータの高付加価値化と装置事業への転換 | 東京証券取引所一部に指定替え | ★ | ||
| 徳田製作所と合併し芝浦エレテックを子会社化 | ★★ | |||
| 芝浦自販機を設立 | ★ | |||
| 芝浦エンジニアリングを設立 | ★ | |||
| 液晶製造装置への参入と、芝浦メカトロニクスへの社名変更 1998年5月12日に東芝が発表した再編スキームに沿って、同年10月1日、芝浦製作所が東芝グループの東芝メカトロニクスを吸収合併し、商号を芝浦メカトロニクス株式会社へ変更した経営判断。同じ月に主力の家電用モータ事業を新会社の芝浦電産へ営業譲渡し、半導体・液晶製造装置を主力とする会社へ移った。 詳細を読む | ★★★ | |||
| 本社を移転 | ★ | |||
| 2000〜2022年芝浦ハイテックの設立と韓国子会社の増資、半導体・液晶製造装置への集中 | 自販機・モータ応用機器など非中核事業の本体外への切り離しと製造装置への集中 1998年10月のモータ応用機器事業部の分離を皮切りに、1999年4月の自販機20営業所の業務移管、2001年1月の自販機事業の営業・サービス移管、2001年10月の小浜工場製造部門の移管、2005年4月のグループ会社統合まで、量産と販売の機能を段階的に子会社へ移し、本体を製造装置に絞った経営判断。 詳細を読む | ★★★ | ||
| 小浜工場の製造部門を芝浦イーエムエスに移管 | ★ | |||
| 森田茂樹 | 芝浦ハイテックを東芝と共同出資で設立 | ★ | ||
| 森田茂樹 | 芝浦自販機が芝浦イーエムエスを合併 | ★ | ||
| 森田茂樹 | 韓国芝浦メカトロニクスを増資 | ★ | ||
| 南健治 | 芝浦ハイテックを完全子会社化 | ★ | ||
| 今村圭吾 | プライム市場へ移行 | ★ | ||
| 2023〜2026年東芝による全保有株式の売出しと独立系装置メーカーへの移行 | 今村圭吾 | 東芝による保有株式の段階的な処分と芝浦メカトロニクスの独立企業化 1939年の設立以来、芝浦メカトロニクスの大株主であり続けた東芝が、2017年12月から2023年9月にかけて保有株式を二段階で処分し、資本関係を解消した経営判断。2018年1月の第1段階で持株比率は36.54%から約10%へ下がり、2023年8月の第2段階で東芝は保有全株を売り出した。 詳細を読む | ★★★ |
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事実根拠:出所(芝浦メカトロニクス)