オルガノ の歴史

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創業 1946年
母体 山梨化学工業を改称
創業地 長野県諏訪市
創業 1946年5月1日、資本金5万円で長野県諏訪に日本オルガノ商会が発足した。陸軍軍
1946年5月1日、資本金5万円で長野県諏訪に日本オルガノ商会が発足した。陸軍軍医学校薬剤部で主任研究者を務めた丸山正武氏が、1945年10月に三菱化成工業のイオン交換樹脂ダイヤイオンを買い取って研究を再開し、1946年2月に毎時40リットルの脱塩水製造装置を完成させたのが起点である。量産のため、戦時下に応用研究を進めていた1941年7月設立の山梨化学工業を買収して母体とした。社名は当時イオン交換樹脂をオルガニック・ゼオライトと呼んだことに由来する。1951年に昭和電工大川工場へ納めた日量600トンの純水装置は、蒸溜水1トン500円を30円へ、人手18人を1人へ下げた。1961年10月に東京証券取引所市場第二部へ上場し、1966年2月に商号をオルガノへ改めた。
決断 全国へ分けて置いた販売会社を、半世紀かけて本体へ戻した。1959年9月に日本デグ
全国へ分けて置いた販売会社を、半世紀かけて本体へ戻した。1959年9月に日本デグラモンを設立し、製造の本体と販売・施工の別法人に分けた。1972年に九州と北海道、1974年に施工のオルガノ工事、1985年に保守のオルガノメンテナンスサービスと、樹脂供給・装置設計・現地施工・保守の4機能を地域子会社へ配っていく。装置に充填する樹脂を他社から調達していた立場は、1951年1月に米ローム・アンド・ハースと提携してイオン交換樹脂アンバーライトの総代理店になったことで解けている。だが顧客の国内生産拠点が統廃合と海外移転へ動くと、地域ごとに会社を設立する利点は薄れた。2014年4月にオルガノ北海道など7社を本体が一括で吸収している。地域へ配った4機能を本体へ集めたことが、装置を売る窓口と保守を回す窓口を同じ組織に置き、半導体工場の増設へ一本の営業で応じる形を作った。
現況 中国の売上が3分の1へ縮んだ年、台湾は1.6倍に伸びた。2026年3月期の連結売
中国の売上が3分の1へ縮んだ年、台湾は1.6倍に伸びた。2026年3月期の連結売上高は1,776億円、営業利益376億円、当期純利益284億円で、いずれも過去最高である。地域別では日本1,111億円に対し台湾442億円、中国61億円で、前期に205億円あった中国と278億円だった台湾が入れ替わった。事業別では水処理エンジニアリングが1,519億円・営業利益343億円、樹脂と薬剤の機能商品が256億円・33億円で、装置側が売上の86%を占める。営業利益率は21.2%に達し、2015年3月期の3.5%から10年で6倍になった。2021年9月に設けたオルガノUSAの売上97億円が初めて地域別に現れ、1986年のマレーシア以来アジアに限ってきた海外網へ米州が加わった。
競合 首位の同業は薬品を買い集め、後発は半導体一本に絞った。国内首位の栗田工業は200
首位の同業は薬品を買い集め、後発は半導体一本に絞った。国内首位の栗田工業は2006年12月に官公庁発注の建設工事から全面撤退し、2015年1月には独BKギウリニを取得して欧米の水処理薬品事業へ投資を重ねている。もう一方では、1974年に米アクアメディア社の技術で超純水装置へ参入した野村マイクロ・サイエンスが、半導体という1業種の工場に張り付いて伸びている。オルガノはそのどちらでもなく、樹脂と薬剤の機能商品256億円と、装置の設計・施工・保守を担う水処理エンジニアリング1,519億円を同じ会社で持ち続けた。1957年に日本電気の協力で日本初の電子工業用高純度純水装置を完成させて以来、発電所向けの純水から半導体向けの超純水へ顧客産業を移してきた経緯が、その構成を支える。オルガノは営業利益率を10年で3.5%から21.2%へ引き上げる代わりに、受注の増減を半導体の投資循環へ委ねた。
長期業績の推移 1946〜2026年
オルガノ:長期業績の推移(売上高・利益率)売上高(億円純利益率(%)
2002年3月期2026年3月期

第1章 1946年〜 技術導入による装置事業の確立アンバーライト総代理権からモノベッド式装置へ

筆者考察y.sugiura, author

オルガノの創業は、戦時研究の残りを民需へ移し替える試みだった。丸山正武氏が陸軍軍医学校で追っていたイオン交換樹脂は、戦後の日本でまず電池用蒸溜水という官需の穴を埋めた。燃料の要らない脱塩は、燃料の無い国でこそ値打ちがある。だが樹脂そのものを作る力は無く、三菱化成の樹脂を買い、次は米国ローム・アンド・ハース社のアンバーライトを買った。買った樹脂を筒に詰めて売るだけなら、代理店で終わる。オルガノが代理店で終わらなかったのは、供給元が示した通水条件を疑い、樹脂の性能を引き出す運転条件を自分の手で決めたからである。その運転条件がやがて装置の設計に変わり、装置の設計が据付と試運転までを呼び込んだ。

1951年に昭和電工大川工場へ納めた日量600トンのモノベッド式装置は、蒸溜水1トン500円を純水30円に、18人の交替要員を1人の巡回に置き換えた。ここで示されたのは樹脂の優秀さではなく、設計から据付までを一社で引き受けられることの値打ちだった。翌1952年、社員70名の会社がアンバーライトの日本総代理権を取る。売る樹脂と、その樹脂を最も良く使う装置の両方が揃った。ただし資本は自前ではない。1955年に東洋曹達工業が株式の過半数を握り、オルガノは独立の技術会社から化学資本の系列に置かれた装置会社へ変わった。相次ぐ増資と1959年の店頭公開、1961年の東京証券取引所市場第二部への上場は、その系列の中で資金を集める道筋であった。

日本オルガノ商会の業績の伸び 1946年を1とした倍率(倍)

1 1946 3 1947 6 1948 16 1949 24 1950 40 1951
  • 1946年の業績を1とした各年の倍率。
  • 出所はオルガノ35年のあゆみ(オルガノ、1981年)。

1946年〜無熱蒸溜水製造装置を元手にした諏訪での発足

終戦でイオン交換樹脂の研究は一時中断したが、陸軍軍医学校薬剤部で主任研究者を務めた丸山正武氏は、その将来性を確信していた。三菱化成工業黒崎工場のイオン交換樹脂ダイヤイオンを買い取り、1945年10月に加田守治氏ら4人と研究を再開した。翌1946年2月に完成した最初の脱塩水製造装置は、セルロイド製の樹脂筒に陽イオン交換樹脂と陰イオン交換樹脂を交互に詰めた毎時40リットルの4筒型であった。その量産と普及のため、加田氏らが戦時中から所有していた山梨化学工業を買収して商号を変え、1946年5月1日、資本金5万円で長野県諏訪に日本オルガノ商会が発足した。イオン交換装置を主な営業品目とする日本で最初の会社であり、社名は当時イオン交換樹脂をオルガニック・ゼオライト、略してオルガノライトと呼んだことに由来する

  • オルガノ35年のあゆみ(オルガノ, 1981)
    • [1]創業者・初代社長は丸山正武(陸軍軍医学校薬剤部の主任研究者)
    • [2]三菱化成工業黒崎工場のイオン交換樹脂ダイヤイオンA・Kを購入し、加田守治・宮坂良一・野原文治・宮沢常吉らと1945年10月に研究を再開
    • [3]1946年2月に最初の4筒型脱塩水製造装置(毎時40リットル、セルロイド製樹脂筒)を完成
    • [6]社名は「オルガニック・ゼオライト」(略称オルガノライト)に由来
  • オルガノ 有価証券報告書【沿革】
    • [4]前身は1941年7月設立の山梨化学工業(戦時下にイオン交換樹脂の応用研究)
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 1968)
    • [5]1946年5月1日、資本金5万円で長野県諏訪市に日本オルガノ商会を設立し、水処理装置の製造販売を開始

発足当初の事務所は、上諏訪町で電気関係と自転車を扱う店の一隅であり、その裏手で滅菌蒸溜水や注射薬の製薬と装置の加工・組立てを行った。イオン交換装置だけでは経営が立たず、塩化カルシウムやぶどう糖の注射薬をアンプルに詰めて売る兼業が当初を支えた。終戦直後の物資不足のなか、丸山社長以下の全役員がリュックサックに樹脂筒を詰めて超満員の列車に乗り込み、東京・大阪・名古屋へ売り込みと集金に歩く『全員セールス、全員製造、全員経理』の時代が続いた。バッテリー用蒸溜水の不足に悩む逓信省が性能試験のうえ1947年に採用を決め、国鉄など各官公庁へ急速に普及したことが転機となり、1948年暮に製薬を中止して、イオン交換樹脂の応用と企業化という設立の目的どおり水処理装置の製造販売へ事業を絞った

  • オルガノ35年のあゆみ(オルガノ, 1981)
    • [7]創業当初は上諏訪町の店(屋号・佐寿中)の一隅を借り、裏手で製薬と装置の加工・組立てを実施
    • [8]創業時はイオン交換装置だけで経営が立たず、滅菌蒸溜水・塩化カルシウム・ぶどう糖の注射薬をアンプル充填して販売
    • [9]丸山社長以下の全役員がリュックサックに樹脂筒を詰めて東京・大阪・名古屋へ売り込みと集金に歩いた
    • [10]バッテリー用蒸溜水の不足に悩む逓信省が試験のうえ1947年に採用を決定し、国鉄など各官公庁へ急速に普及
    • [11]1948年暮に製薬を中止し、装置メーカーに徹することを決めた
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 1968)
    • [12]イオン交換樹脂の応用および企業化を目的として設立し、水処理装置の製造販売を開始

脱塩水の純度を化学分析で測るのは煩雑で、装置化と量産にはより簡便な判定手段が要った。水の純度が上がるほど導電率が下がる性質を使い、ネオンランプの発光部分が縮むことで樹脂の再生時期を知らせる方式を開発し、1947年12月8日に公告されたこれがオルガノの特許第1号となった。1949年には携帯用電気水質計として実を結んだ。装置そのものも1948年にアクリル樹脂製の樹脂筒へ替わり、毎時25リットル・50リットル・100リットルと種類が標準化され、樹脂を筒から取り出さずコックの操作だけで再生できるようになった。中央官庁との商談が増えるにつれ営業の重心は東京へ移り、1949年1月には東京都千代田区へ営業所を開設した純度の計測と装置の標準化が揃い、売り歩く商品は一台ごとの手作りから型番のある製品へ変わった。

  • オルガノ35年のあゆみ(オルガノ, 1981)
    • [13]脱塩水の純度の化学的測定は煩雑で困難だったため、導電率を用いる簡便な判定方式を開発
    • [14]ネオンランプの発光部分の縮小で樹脂の再生時期を知らせる連続的蒸溜水純度測定装置が、1947年12月8日公告のオルガノ特許第1号
    • [15]1949年に携帯用電気水質計として実用化
    • [16]1948年にアクリル樹脂製の樹脂筒を採用し、毎時25・50・100リットルと標準化、コック操作だけで樹脂再生が可能に
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 1968)
    • [17]1949年1月 東京都千代田区に営業所を開設して営業活動を強化
参考文献[1]-[17]
  • オルガノ35年のあゆみ(オルガノ, 1981)
    • [1]創業者・初代社長は丸山正武(陸軍軍医学校薬剤部の主任研究者)
    • [2]三菱化成工業黒崎工場のイオン交換樹脂ダイヤイオンA・Kを購入し、加田守治・宮坂良一・野原文治・宮沢常吉らと1945年10月に研究を再開
    • [3]1946年2月に最初の4筒型脱塩水製造装置(毎時40リットル、セルロイド製樹脂筒)を完成
    • [6]社名は「オルガニック・ゼオライト」(略称オルガノライト)に由来
    • [7]創業当初は上諏訪町の店(屋号・佐寿中)の一隅を借り、裏手で製薬と装置の加工・組立てを実施
    • [8]創業時はイオン交換装置だけで経営が立たず、滅菌蒸溜水・塩化カルシウム・ぶどう糖の注射薬をアンプル充填して販売
    • [9]丸山社長以下の全役員がリュックサックに樹脂筒を詰めて東京・大阪・名古屋へ売り込みと集金に歩いた
    • [10]バッテリー用蒸溜水の不足に悩む逓信省が試験のうえ1947年に採用を決定し、国鉄など各官公庁へ急速に普及
    • [11]1948年暮に製薬を中止し、装置メーカーに徹することを決めた
    • [13]脱塩水の純度の化学的測定は煩雑で困難だったため、導電率を用いる簡便な判定方式を開発
    • [14]ネオンランプの発光部分の縮小で樹脂の再生時期を知らせる連続的蒸溜水純度測定装置が、1947年12月8日公告のオルガノ特許第1号
    • [15]1949年に携帯用電気水質計として実用化
    • [16]1948年にアクリル樹脂製の樹脂筒を採用し、毎時25・50・100リットルと標準化、コック操作だけで樹脂再生が可能に
  • オルガノ 有価証券報告書【沿革】
    • [4]前身は1941年7月設立の山梨化学工業(戦時下にイオン交換樹脂の応用研究)
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 1968)
    • [5]1946年5月1日、資本金5万円で長野県諏訪市に日本オルガノ商会を設立し、水処理装置の製造販売を開始
    • [12]イオン交換樹脂の応用および企業化を目的として設立し、水処理装置の製造販売を開始
    • [17]1949年1月 東京都千代田区に営業所を開設して営業活動を強化

1951年〜アンバーライト総代理権が開いた大型純水の市場

1950年末、米国ローム・アンド・ハース社の新しいスチレン系イオン交換樹脂アンバーライトの輸入許可を取り、翌1951年初めに現物が到着した。同年1月には同社との提携が成立している京都大学でイオン交換樹脂を6年研究してきた清水博氏が助手1人と混床式の試験に取りかかると、ローム・アンド・ハース社の説明書が毎時16倍としていた通水速度を30倍、50倍へ上げ、水道栓を全開にして100倍を超えても処理水の純度は落ちなかった。この小型試験装置が、後の標準型小型モノベッド式純水製造装置の原型となった。同年4月には東京都文京区本郷の菊富士ホテル戦災跡地を社員が自ら整地して東京研究所を建て、清水氏が初代所長に就任した供給元の示した条件を疑うところから、輸入樹脂は自社の製品設計へ組み替えられた。

  • オルガノ35年のあゆみ(オルガノ, 1981)
    • [18]1950年末にローム・アンド・ハース社のアンバーライトIR-120・IRA-410・IRA-400の輸入許可を取得し、1951年初めに到着
    • [20]清水博が混床式を試験し、説明書のSV16/hに対し30/h・50/h・100/h超でも純度が低下しないことを確認
    • [21]小型試験装置が標準型小型モノベッド式純水製造装置の、パイロットプラントが中型装置の原型となった
    • [22]1951年4月 東京研究所を本郷(菊富士ホテル戦災跡地)に建設、初代所長は清水博
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 1968)
    • [19]1951年1月 米国ローム・アンド・ハース社と提携
    • [23]1951年 東京都文京区に研究所を開設し研究部門を強化

昭和電工から水電解用水の純水製造装置の話が持ち込まれ、発足したばかりの東京研究所が現地実験・樹脂量算定・装置設計・計測器の考案まで抱えた。1951年8月、日量600トンという世界最大級のモノベッド式装置が昭和電工大川工場に完成し、試運転で生じた不具合には昼夜兼行の改良で応じた。この装置の登場で、1トンあたり500円かかっていた蒸溜水は純水30円で得られ、6人3交替で18人を要した人手も1人の巡回で足りた。日本で最初の大型純水装置という実績は連鎖を生み、同年10月の日本ゼオン蒲原工場、日本パルプ工業米子工場に続き、翌1952年には北越製紙・十条製紙釧路工場・興国人絹パルプ佐伯工場・東亜燃料工業和歌山工場など5工場から大型装置を受注した

  • オルガノ35年のあゆみ(オルガノ, 1981)
    • [24]昭和電工からの水電解用水の引き合いに、1951年4月発足の東京研究所が現地実験・樹脂量算定・装置設計・計測器考案まで対応
    • [25]1951年8月 昭和電工大川工場に世界最大級の日量600トンのモノベッド式純水製造装置が完成、試運転のトラブルに昼夜兼行で対応
    • [26]純水コストは蒸溜水1トン500円に対し純水1トン30円、人手は6人3交替の18人から1人の巡回へ
    • [28]1951年10月に日本ゼオン蒲原工場・日本パルプ工業米子工場、1952年に北越製紙・十条製紙釧路工場・興国人絹パルプ佐伯工場・東亜燃料工業和歌山工場など5工場から大型モノベッド装置を受注
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 1968)
    • [27]1951年に日本最初の大型純水装置を完成

1952年1月1日、丸山正武社長は羽田を発って渡米した。目的はアンバーライトの日本総代理店契約であり、相手は米国有数の化学会社、こちらは発足5年半・社員約70名の小会社であった。4週間にわたる折衝の末、1月29日に契約書の調印へこぎつけた。総代理権の獲得は装置に充填する樹脂の供給を自社の手に収めることであり、高圧ボイラ用水向けの需要増と重なって、1952年度の売上高は前年度の約2倍へ増えた。用途はすぐ水の外へ広がり、1952年から53年にかけて葡萄糖・甘蔗糖・フォルマリンの精製装置や、ストレプトマイシン・ペニシリン・アルカロイドの抽出精製装置を手がけ、特殊液精製装置へ進出した

  • オルガノ35年のあゆみ(オルガノ, 1981)
    • [29]1952年1月1日 丸山正武社長が羽田を発ち渡米
    • [30]交渉時の日本オルガノ商会は発足5年半・社員約70名
    • [31]1952年1月29日 イオン交換樹脂アンバーライトの日本総代理店契約に調印
    • [32]1952年度の売上高は高圧ボイラ用水向け需要の伸びもあり前年度の約2倍に増加
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 1968)
    • [33]1952〜53年に葡萄糖・甘蔗糖・フォルマリンの抽出精製装置、ストレプトマイシン・ペニシリン・アルカロイド等の抽出精製装置を開発し特殊液精製装置に進出
参考文献[18]-[33]
  • オルガノ35年のあゆみ(オルガノ, 1981)
    • [18]1950年末にローム・アンド・ハース社のアンバーライトIR-120・IRA-410・IRA-400の輸入許可を取得し、1951年初めに到着
    • [20]清水博が混床式を試験し、説明書のSV16/hに対し30/h・50/h・100/h超でも純度が低下しないことを確認
    • [21]小型試験装置が標準型小型モノベッド式純水製造装置の、パイロットプラントが中型装置の原型となった
    • [22]1951年4月 東京研究所を本郷(菊富士ホテル戦災跡地)に建設、初代所長は清水博
    • [24]昭和電工からの水電解用水の引き合いに、1951年4月発足の東京研究所が現地実験・樹脂量算定・装置設計・計測器考案まで対応
    • [25]1951年8月 昭和電工大川工場に世界最大級の日量600トンのモノベッド式純水製造装置が完成、試運転のトラブルに昼夜兼行で対応
    • [26]純水コストは蒸溜水1トン500円に対し純水1トン30円、人手は6人3交替の18人から1人の巡回へ
    • [28]1951年10月に日本ゼオン蒲原工場・日本パルプ工業米子工場、1952年に北越製紙・十条製紙釧路工場・興国人絹パルプ佐伯工場・東亜燃料工業和歌山工場など5工場から大型モノベッド装置を受注
    • [29]1952年1月1日 丸山正武社長が羽田を発ち渡米
    • [30]交渉時の日本オルガノ商会は発足5年半・社員約70名
    • [31]1952年1月29日 イオン交換樹脂アンバーライトの日本総代理店契約に調印
    • [32]1952年度の売上高は高圧ボイラ用水向け需要の伸びもあり前年度の約2倍に増加
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 1968)
    • [19]1951年1月 米国ローム・アンド・ハース社と提携
    • [23]1951年 東京都文京区に研究所を開設し研究部門を強化
    • [27]1951年に日本最初の大型純水装置を完成
    • [33]1952〜53年に葡萄糖・甘蔗糖・フォルマリンの抽出精製装置、ストレプトマイシン・ペニシリン・アルカロイド等の抽出精製装置を開発し特殊液精製装置に進出

1955年〜東洋曹達工業の傘下入りと株式公開

営業も製造も研究も東京が主体となったため、1954年7月1日に本社を東京都千代田区神田鍛冶町へ移す登記を行い、翌8月には資本金を800万円へ増資した。1955年6月には関西市場の拡大に応じて大阪駐在所を開設し、同年8月15日には本社と研究所が神田と本郷に分かれている不便を解いて、研究所のある文京区菊坂町へ本社を移した。この間の1955年8月、東洋曹達工業がオルガノ株式の過半数を取得した装置の主要な納入先であり、樹脂の再生に使う苛性ソーダや塩酸の供給元でもある化学資本を株主に迎えたことは、販路と原材料の双方を資本の側から安定させる選択であった。

  • オルガノ35年のあゆみ(オルガノ, 1981)
    • [34]1954年7月1日 本社を東京都千代田区神田鍛冶町へ移転登記、翌8月に資本金800万円へ増資
    • [36]1955年6月1日 大阪市北区に大阪駐在所を開設
    • [37]1955年8月15日 研究所のある東京都文京区菊坂町へ本社を移転
    • [39]1955年8月 東洋曹達工業がオルガノ株式の過半数を取得
  • オルガノ 有価証券報告書【沿革】
    • [35]1954年7月 本社を東京都千代田区へ移転
    • [38]1955年8月 本社を東京都文京区(本郷)へ移転

アンバーライトの輸入量が伸びたため、1955年11月15日、ローム・アンド・ハース社・日産化学工業・三洋貿易・日本オルガノ商会の4社が資本金5億400万円で日米合弁の東京有機化学工業を設立し、1957年5月からアンバーライトと農薬ダイセンの国産を始めた。社員は1953年に100名、1956年初めに150名を超え、同年2月13日には営業課・工務課といった課制を、総務部・営業部・技術部・製造部・経理部・研究所・技師長室からなる部所室制へ改めた。販売と施工の側も本体から切り出され、1959年9月に販売子会社の起点となる日本デグラモンを東京都文京区に設立し、1960年4月には後のオルガノ関西となる日本水工へ資本参加し、1961年5月にオルガノソフナーを設立した製造と設計を本体に残し、地域ごとの販売と施工を別法人が担う体制が、この数年で固まった。

  • オルガノ35年のあゆみ(オルガノ, 1981)
    • [40]1955年11月15日 ローム・アンド・ハース社・日産化学工業・三洋貿易・日本オルガノ商会の4社が資本金5億400万円で東京有機化学工業を設立、1957年5月からアンバーライトと農薬ダイセンの国産を開始
    • [41]社員は1953年に100名、1956年初めに150名を超え、1956年2月13日に課制を部所室制へ改める機構改革を実施
  • オルガノ 有価証券報告書【沿革】
    • [42]1959年9月 販売子会社の起点 日本デグラモン(現オルガノアクティ)を東京都文京区に設立
    • [43]1960年4月 日本水工(後のオルガノ関西)へ資本参加
    • [44]1961年5月 オルガノソフナー(後のオルガノ東京)を設立

資本金は1955年12月に1,600万円、1956年4月に3,200万円、1958年1月に4,000万円と積み増され、1959年1月に5,000万円、同年5月には1億円へ達した。同年に株式を店頭へ公開し、寄付き700円の高値を呼んだ。さらに1960年に2億円、1961年に4億円まで増やし、9回を重ねた増資がここで一区切りとなった。1961年10月には東京証券取引所市場第二部へ上場した。生産の側でも同年11月、埼玉県戸田市に戸田工場を開設し、各種装置の組立・発送と水処理薬品類の製造を企業化した諏訪の店先で毎時40リットルの装置を組んでいた会社は、創業から15年で東証二部の上場企業になった。

  • オルガノ35年のあゆみ(オルガノ, 1981)
    • [45]資本金は1955年12月に1,600万円、1956年4月に3,200万円、1958年1月に4,000万円、1959年1月に5,000万円、同年5月に1億円へ増資
    • [46]1959年に株式を店頭に公開し、寄付き700円の高値をつけた
    • [47]1960年に資本金2億円、1961年に4億円へ増資
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 1968)
    • [48]1961年5月までに9回の増資を経て資本金4億円に到達
    • [50]1961年11月 埼玉県戸田市に戸田工場を開設し各種装置の組立・発送と水処理薬品類の製造を企業化
  • オルガノ 有価証券報告書【沿革】
    • [49]1961年10月 東京証券取引所市場第二部に上場
参考文献[34]-[50]
  • オルガノ35年のあゆみ(オルガノ, 1981)
    • [34]1954年7月1日 本社を東京都千代田区神田鍛冶町へ移転登記、翌8月に資本金800万円へ増資
    • [36]1955年6月1日 大阪市北区に大阪駐在所を開設
    • [37]1955年8月15日 研究所のある東京都文京区菊坂町へ本社を移転
    • [39]1955年8月 東洋曹達工業がオルガノ株式の過半数を取得
    • [40]1955年11月15日 ローム・アンド・ハース社・日産化学工業・三洋貿易・日本オルガノ商会の4社が資本金5億400万円で東京有機化学工業を設立、1957年5月からアンバーライトと農薬ダイセンの国産を開始
    • [41]社員は1953年に100名、1956年初めに150名を超え、1956年2月13日に課制を部所室制へ改める機構改革を実施
    • [45]資本金は1955年12月に1,600万円、1956年4月に3,200万円、1958年1月に4,000万円、1959年1月に5,000万円、同年5月に1億円へ増資
    • [46]1959年に株式を店頭に公開し、寄付き700円の高値をつけた
    • [47]1960年に資本金2億円、1961年に4億円へ増資
  • オルガノ 有価証券報告書【沿革】
    • [35]1954年7月 本社を東京都千代田区へ移転
    • [38]1955年8月 本社を東京都文京区(本郷)へ移転
    • [42]1959年9月 販売子会社の起点 日本デグラモン(現オルガノアクティ)を東京都文京区に設立
    • [43]1960年4月 日本水工(後のオルガノ関西)へ資本参加
    • [44]1961年5月 オルガノソフナー(後のオルガノ東京)を設立
    • [49]1961年10月 東京証券取引所市場第二部に上場
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 1968)
    • [48]1961年5月までに9回の増資を経て資本金4億円に到達
    • [50]1961年11月 埼玉県戸田市に戸田工場を開設し各種装置の組立・発送と水処理薬品類の製造を企業化

第2章 1962年〜 用途拡張による事業構造の転換パルセーター導入から敦賀原発の水処理一式受注へ

筆者考察y.sugiura, author

1960年代のオルガノが取った道は、技術を替えることではなく、同じイオン交換技術を当てる相手を替え続けることだった。純水装置の顧客は発電所と化学工場、製紙とパルプに偏っており、その設備投資が止まれば受注も止まる。フランス・デグラモン社から導入した高速沈殿池パルセーターは、この偏りを崩す道具になった。上水道は景気ではなく人口と行政計画で動く市場であり、1961年の勿来市を皮切りに横浜・大阪・名古屋・神戸・仙台と続いた受注は、民需の波とは別の足場を与えた。1962年に旭化成工業から導入した連続イオン交換装置も同じ性格を持つ。自社で発明した技術ではないが、実用化の苦労を引き受けた側が市場を取る。1975年までに115セットという数は、その引き受けの対価であった。

もう一つの足場は原子力だった。1956年に置いた原子力研究委員会から11年、1967年に日本原子力発電敦賀発電所の水処理装置を全式受注したとき、オルガノは資本金4億円・従業員555名の会社にすぎない。それでも復水脱塩から放射性廃液処理までを一社で引き受けられたのは、火力発電所で積んだ実績が、より高い安全性の要求へそのまま横滑りできたからである。ここで採った球型タンクや分離再生方式は、十余年後も沸騰水型で使われ続けた。1973年の石油危機は、石油化学・紙パルプ・繊維・食品という得意先の設備投資を一斉に細らせ、1978年9月期の減収を招く。省資源・省力という次の売り文句は、顧客の投資動機が能力の増強から原単位の改善へ移ったことへの応答であった。

オルガノの年間売上高 1970年〜1980年(億円)

105.15 1970 204 1976 239 1977 212.9 1978 266.8 1979 310.3 1980
  • 1970年は第25期の決算、1976年以降は各年9月期の売上高。
  • 出所はオルガノ35年のあゆみ(オルガノ、1981年)。

1962年〜連続イオン交換の実用化と官公需への進出

1962年3月、旭化成工業から連続イオン交換装置の技術を導入した。実用化のための実験と設計基準づくりは導入した側の仕事であり、1963年3月に旭ダウ川崎工場へ納めた第1号機では改造すべき点が次々に見つかった。納入の山は1967年から74年までで、その間に約80セットを収め、1975年までの累計は115セットとなった。最初は使った樹脂が思うように働かず、アンバーライトIRA-402がほどなく崩れたためIRA-400に切り替え、陽イオン交換樹脂も順次替え、1966年5月に旭ダウへ収めた第2号機からは、据え付けに要する面積でも処理水の純度でもまさる混床式に改めて、以後はすべてこの方式で納めた。技術を外から買って自社で実用に持ち込むやり方は、旭化成に加え米国のグレーバー社、カルゴン社とのつながりにも及んだ

  • オルガノ35年のあゆみ(オルガノ, 1981)
    • [51]1962年3月 旭化成工業から連続イオン交換装置の技術を導入
    • [52]1963年3月 連続式複床式純水製造装置の第1号機を旭ダウ川崎工場へ納入、種々の改造点が判明
    • [53]1967〜74年が最盛期で約80セット、1975年までに累計115セットを納入
    • [54]アンバーライトIRA-402が崩壊しIRA-400へ変更、陽イオン交換樹脂もIR-120Bから順次入れ替え
    • [55]1966年5月納入の旭ダウ川崎工場第2号機から混床式連続純水製造装置へ変更、以後すべて混床式
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 1968)
    • [56]旭化成、米国グレーバー社、ピッツバーグカーボン社、カルゴン社、ニコルス社等の技術による粒状活性炭溶液脱色装置・ヨード抽出精製装置・接触酸化除鉄装置などを製品化

1954年に欧米を視察した清水博研究所長は、欧州一の水処理装置会社として伸びていたフランスのデグラモン社を高く評価した。報告を受けた丸山正武社長は1958年に訪仏して技術提携を申し入れ、先方の要望で合弁の準備に入る。導入技術の中核である凝集沈殿池パルセーターは誰も実物を見たことがなく、関係官庁への説明には苦労が伴ったが、1959年5月16日に外資審議会の認可が下り、8月20日の創立総会を経て同年9月、資本金500万円・両社50対50の日本デグラモンが東京都文京区に発足した。国内実績のない装置は容易には売れなかった。北海道進出を決めた大昭和製紙白老工場が採用へ踏み切り、日量6,000立方メートルの装置が従来の沈殿池のおよそ6倍を処理してみせたことで、工場用水向けの普及が始まった

  • オルガノ35年のあゆみ(オルガノ, 1981)
    • [57]1954年に欧米視察した清水博研究所長がフランス・デグラモン社を訪問し高く評価
    • [58]1958年 丸山正武社長が訪仏してデグラモン社へ技術提携を申し入れ、先方の要望で合弁設立の準備へ
    • [59]1959年5月16日 外資審議会の認可、8月20日 創立総会、資本金500万円・両社50対50で日本デグラモンが発足
    • [61]パルセーターとアカズールフィルターは国内実績が無く、当初は受注に至らなかった
    • [62]大昭和製紙白老工場がパルセーターを採用し、日量6,000立方メートル(250平方メートル毎時)の装置が従来の沈殿池の約6倍を処理
  • オルガノ 有価証券報告書【沿革】
    • [60]1959年9月 日本デグラモン(現オルガノアクティ)を東京都文京区に設立

上水道へ入ると、下水道の話も自治体から持ち込まれるようになった。1963年に建設省土木研究所の指導で枚岡市の特別都市下水の調査設計を受託し、これが6年後の1969年、東大阪市から日量24,000立方メートルの宝町処理場を受注する契機になった。公共下水道の第1号は1967年10月、デグラモン社が開発した複合槽式活性汚泥法オキシコンタクトを用いた大分市原川終末処理場であった。公害対策基本法が公布された同年8月には、清掃工場の浸出水処理でも東京都石神井清掃工場から第1号機を受けている。廃水処理と下水処理の開発は、このころ社外からも新しい収益源と見られるようになった。1970年5月には小倉四郎氏を部長とする約20名の廃水部を新設し、調査・実験から設計・試運転までを一貫して担う体制を敷いた

  • オルガノ35年のあゆみ(オルガノ, 1981)
    • [63]上水道分野への進出に伴い、下水道関係の施設の話が自治体から持ち込まれるようになった
    • [64]1963年 建設省土木研究所の指導で枚岡市の特別都市下水の調査設計業務を受託、1969年に東大阪市から日量24,000立方メートルの宝町処理場を受注
    • [65]1967年10月 大分市公共下水道原川終末処理場の設備一式を受注、オキシコンタクト採用の公共下水道第1号
    • [66]1967年8月 東京都清掃局石神井清掃工場からオキシアズール第1号機を受注、同年に公害対策基本法が公布
    • [68]1970年5月 小倉四郎を部長として約20名の廃水部を新設、調査・実験から設計・試運転まで一貫する体制を整備
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 1968)
    • [67]廃水処理・下水処理の開発を進め、海外へのプラント輸出も活発化
参考文献[51]-[68]
  • オルガノ35年のあゆみ(オルガノ, 1981)
    • [51]1962年3月 旭化成工業から連続イオン交換装置の技術を導入
    • [52]1963年3月 連続式複床式純水製造装置の第1号機を旭ダウ川崎工場へ納入、種々の改造点が判明
    • [53]1967〜74年が最盛期で約80セット、1975年までに累計115セットを納入
    • [54]アンバーライトIRA-402が崩壊しIRA-400へ変更、陽イオン交換樹脂もIR-120Bから順次入れ替え
    • [55]1966年5月納入の旭ダウ川崎工場第2号機から混床式連続純水製造装置へ変更、以後すべて混床式
    • [57]1954年に欧米視察した清水博研究所長がフランス・デグラモン社を訪問し高く評価
    • [58]1958年 丸山正武社長が訪仏してデグラモン社へ技術提携を申し入れ、先方の要望で合弁設立の準備へ
    • [59]1959年5月16日 外資審議会の認可、8月20日 創立総会、資本金500万円・両社50対50で日本デグラモンが発足
    • [61]パルセーターとアカズールフィルターは国内実績が無く、当初は受注に至らなかった
    • [62]大昭和製紙白老工場がパルセーターを採用し、日量6,000立方メートル(250平方メートル毎時)の装置が従来の沈殿池の約6倍を処理
    • [63]上水道分野への進出に伴い、下水道関係の施設の話が自治体から持ち込まれるようになった
    • [64]1963年 建設省土木研究所の指導で枚岡市の特別都市下水の調査設計業務を受託、1969年に東大阪市から日量24,000立方メートルの宝町処理場を受注
    • [65]1967年10月 大分市公共下水道原川終末処理場の設備一式を受注、オキシコンタクト採用の公共下水道第1号
    • [66]1967年8月 東京都清掃局石神井清掃工場からオキシアズール第1号機を受注、同年に公害対策基本法が公布
    • [68]1970年5月 小倉四郎を部長として約20名の廃水部を新設、調査・実験から設計・試運転まで一貫する体制を整備
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 1968)
    • [56]旭化成、米国グレーバー社、ピッツバーグカーボン社、カルゴン社、ニコルス社等の技術による粒状活性炭溶液脱色装置・ヨード抽出精製装置・接触酸化除鉄装置などを製品化
    • [67]廃水処理・下水処理の開発を進め、海外へのプラント輸出も活発化
  • オルガノ 有価証券報告書【沿革】
    • [60]1959年9月 日本デグラモン(現オルガノアクティ)を東京都文京区に設立

1967年〜原子力と超純水が求めた信頼性の水準

1968年のオルガノは、資本金4億円・従業員555名、社長を二宮正三郎氏が務める水処理装置の専業会社であった。日本原子力研究所が設立された翌1956年1月には、丸山正武社長を委員長とする原子力研究委員会を置き、イオン交換技術の原子力分野への利用を調べ始めていた。1958年には原子燃料公社と共同でウランの抽出・精製を研究し、1962年頃から原子力研究所へプール水の精製装置を納め始めた。その積み重ねの上で1967年4月、日本原子力発電敦賀発電所向けに、復水脱塩装置・原子炉浄化装置・燃料プール水濾過装置・放射性廃液処理装置・補給水処理装置という沸騰水型原子炉の水処理装置を全式受注した

  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 1968)
    • [69]1968年時点の資本金4億円、従業員555名、社長は二宮正三郎、事業は水処理装置他
  • オルガノ35年のあゆみ(オルガノ, 1981)
    • [70]1956年1月 委員長丸山正武、副委員長内野健治らで原子力研究委員会を発足させイオン交換技術の原子力利用を調査研究
    • [71]1958年 原子燃料公社と共同でウランの抽出・精製を研究
    • [72]1962年頃から日本原子力研究所へプール水の精製装置などを納入
    • [73]1967年4月 日本原子力発電敦賀発電所向けに復水脱塩装置・原子炉浄化装置・燃料プール水濾過装置・放射性廃液処理装置・補給水処理装置など沸騰水型原子炉の水処理装置を全式受注

求められたのは性能だけではなく、放射性廃液と廃棄物の発生量を最小限に抑えることと、厳しい品質保証であった。顧客とゼネラル・エレクトリック社、エバスコ社との全面的な技術検討を経て、復水脱塩装置の通水塔には高圧設計のため初めて球型タンクが採られ、陰陽両樹脂を別の塔で再生する分離再生方式も初めて採用された。1967年9月には東京電力福島第一原子力発電所1号機の復水脱塩装置を、翌1968年11月には2号機の原子炉水浄化装置と燃料プール水浄化装置を受注した。2号機からは粉末樹脂をプリコートする濾過脱塩方式を用い、逆洗浄には自力で開発したエアサージ方式を組み合わせて、これは後に米国へ逆輸出された。米国グレーバー社をはじめ海外の技術を取り入れて製品にする手順は、このころ対外的にもオルガノの特徴として紹介されている

  • オルガノ35年のあゆみ(オルガノ, 1981)
    • [74]原子力向けには性能に加え、放射性廃液・廃棄物の発生量の最小化と厳しい品質保証が要求された
    • [75]顧客・GE社・エバスコ社との技術検討を経て、復水脱塩装置の通水塔に高圧設計のため初めて球型タンク、陰陽両樹脂の分離再生方式も初採用
    • [76]1967年9月 東京電力福島第一原子力発電所1号機の復水脱塩装置、1968年11月 2号機の原子炉水浄化装置・燃料プール水浄化装置を受注
    • [77]福島第一2号機から米国グレーバー社導入の粉末樹脂プリコート方式(パウデックス方式)を採用、逆洗浄は自社開発のエアサージ方式で後に米国へ逆輸出
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 1968)
    • [78]独自の研究開発に加え、旭化成・米国グレーバー社・ピッツバーグカーボン社・カルゴン社・ニコルス社等の技術で新製品を展開

1957年、日本電気の協力を得て日本で初めて電子工業用高純度純水装置を完成させ、続いて東京芝浦電気のトランジスタ工場へ小型装置を納めた。1959年には旭化成工業富士工場で、処理水中の鉄分が10億分の5以下という装置を運転している。これが超純水製造装置の始まりで、以後は東芝・日立・日本電気・東京三洋・信越半導体などへ大型装置を納めた。1972年10月には日本電気玉川工場へ逆浸透膜を用いた装置を、翌1973年3月にはデュポン社の逆浸透モジュールによる本格的な超純水製造装置を納入した。この間の1966年2月には、商号を日本オルガノ商会からオルガノへ改め、樹脂を仕入れて売る商会の名を外した発電所が求めた量の水と、電子工場が求めた質の水が、同じイオン交換技術の上に並び立った。

  • オルガノ35年のあゆみ(オルガノ, 1981)
    • [79]1957年 日本電気の協力で日本初の電子工業用高純度純水(10メガオーム)製造装置を完成、東京芝浦電気トランジスタ工場へ小型装置を納入
    • [80]1959年 旭化成工業富士工場で処理水中の鉄分リークが10億分の5以下の装置を運転
    • [81]超純水製造装置を東芝・日立・日本電気・東京三洋・サンケン・信越半導体・九州電子などへ多数納入
    • [82]1972年10月 日本電気玉川工場へ逆浸透膜を用いた装置、1973年3月 デュポン社の逆浸透モジュールB-9による本格的な超純水製造装置を納入
  • オルガノ 有価証券報告書【沿革】
    • [83]1966年2月 商号をオルガノ株式会社に変更
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 1968)
    • [84]1966年2月 さらに飛躍を期して商号をオルガノと改称
参考文献[69]-[84]
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 1968)
    • [69]1968年時点の資本金4億円、従業員555名、社長は二宮正三郎、事業は水処理装置他
    • [78]独自の研究開発に加え、旭化成・米国グレーバー社・ピッツバーグカーボン社・カルゴン社・ニコルス社等の技術で新製品を展開
    • [84]1966年2月 さらに飛躍を期して商号をオルガノと改称
  • オルガノ35年のあゆみ(オルガノ, 1981)
    • [70]1956年1月 委員長丸山正武、副委員長内野健治らで原子力研究委員会を発足させイオン交換技術の原子力利用を調査研究
    • [71]1958年 原子燃料公社と共同でウランの抽出・精製を研究
    • [72]1962年頃から日本原子力研究所へプール水の精製装置などを納入
    • [73]1967年4月 日本原子力発電敦賀発電所向けに復水脱塩装置・原子炉浄化装置・燃料プール水濾過装置・放射性廃液処理装置・補給水処理装置など沸騰水型原子炉の水処理装置を全式受注
    • [74]原子力向けには性能に加え、放射性廃液・廃棄物の発生量の最小化と厳しい品質保証が要求された
    • [75]顧客・GE社・エバスコ社との技術検討を経て、復水脱塩装置の通水塔に高圧設計のため初めて球型タンク、陰陽両樹脂の分離再生方式も初採用
    • [76]1967年9月 東京電力福島第一原子力発電所1号機の復水脱塩装置、1968年11月 2号機の原子炉水浄化装置・燃料プール水浄化装置を受注
    • [77]福島第一2号機から米国グレーバー社導入の粉末樹脂プリコート方式(パウデックス方式)を採用、逆洗浄は自社開発のエアサージ方式で後に米国へ逆輸出
    • [79]1957年 日本電気の協力で日本初の電子工業用高純度純水(10メガオーム)製造装置を完成、東京芝浦電気トランジスタ工場へ小型装置を納入
    • [80]1959年 旭化成工業富士工場で処理水中の鉄分リークが10億分の5以下の装置を運転
    • [81]超純水製造装置を東芝・日立・日本電気・東京三洋・サンケン・信越半導体・九州電子などへ多数納入
    • [82]1972年10月 日本電気玉川工場へ逆浸透膜を用いた装置、1973年3月 デュポン社の逆浸透モジュールB-9による本格的な超純水製造装置を納入
  • オルガノ 有価証券報告書【沿革】
    • [83]1966年2月 商号をオルガノ株式会社に変更

1974年〜石油危機後の省資源技術と全国販売網

1973年の石油危機は、石油化学・紙パルプ・繊維・食品という得意先の設備投資を細らせた。省資源・省エネルギーが強調される時代の要請に応じて、装置の設計も再生剤と人手の節減へ向かった。1972年10月の環境技術部発足とともに着手した凍結融解法は、1973年に明石市の伊川谷・明石川両浄水場から第1、2号機を受注した直後に原材料の高騰へ見舞われ、1975年4月にようやく試運転へ漕ぎつけた。無薬注で汚泥を脱水できるこの方式は受注が続き、24号機まで稼働している。1979年8月にはサッポロビール恵比寿工場へ、再生剤を極限まで節減したツイン・ストラタ純水製造装置の第1号機を納めた。1974年7月には丸栄工業へ資本参加してオルガノ工事へ商号を変え、現地での施工を自社の側へ抱え込んだ

  • オルガノ35年のあゆみ(オルガノ, 1981)
    • [85]1978年9月期の減収は、石油危機前に受注した大型プラントの納期集中と、石油化学・紙パルプ・繊維・食品など従来得意とした分野の設備投資減少による
    • [86]省資源・省エネルギーが強調される時代の要請に応じ、従来の向流再生純水製造装置に比べ再生剤を極限まで節減する設計へ進んだ
    • [87]1972年10月の環境技術部発足とともに凍結融解法の装置化に着手、1973年に明石市伊川谷・明石川両浄水場から第1・2号機を受注、石油ショックによる原材料高騰を経て1975年4月に試運転成功
    • [88]無薬注で汚泥を脱水できる凍結融解法は柏原市・茨木市・久留米市などで採用が続き、第24号機まで稼働
    • [89]1979年8月 ツイン・ストラタ純水製造装置の第1号機をサッポロビール恵比寿工場へ納入
  • オルガノ 有価証券報告書【沿革】
    • [90]1974年7月 丸栄工業に資本参加しオルガノ工事(現オルガノプラントサービス)に商号変更

販売は長く東京本社と大阪営業所の2拠点に代理店・特約店を組み合わせる形だったが、1971年のニクソン・ショックの後、国内販売網の強化が急務となった。同年11月にプラント営業本部を新設し、1972年には九州オルガノ商事と北海道オルガノ商事を設けてセールスエンジニアを出向させた。以後、1973年3月の滋賀事務所に始まり、1975年8月の仙台営業所、同年10月の大阪支社昇格、1976年の広島と福岡、1977年の名古屋と東京支社、1978年の山口と札幌へと拠点を並べ、全国の販売網をひとまず完成させた。生産の側では1969年11月に大型装置の組立工場として千葉県柏市に柏工場を開設し、1977年5月には装置研究と中間試験を担う大船研究所を横浜市戸塚区に開設した

  • オルガノ35年のあゆみ(オルガノ, 1981)
    • [91]販売は長く東京本社と大阪営業所の2拠点と代理店・販売店・特約店に依存しており、1971年のニクソン・ショック後に国内販売網強化の必要が高まった
    • [92]1971年11月 プラント営業本部を新設
    • [95]1973年3月 滋賀事務所、1975年8月 仙台営業所、同年10月 大阪支社昇格、1976年1月 広島・10月 福岡、1977年9月 名古屋・10月 東京支社、1978年7月 山口・9月 札幌と販売拠点を展開
    • [96]1969年11月 千葉県柏市十余二に大型装置の組立工場として柏工場を開設
    • [97]1977年5月 横浜市戸塚区笠間町に装置研究と中間試験を主目的とする大船研究所を開設
  • オルガノ 有価証券報告書【沿革】
    • [93]1972年4月 九州オルガノ商事(後のオルガノ九州)を福岡市に設立
    • [94]1972年10月 北海道オルガノ商事(後のオルガノ北海道)を札幌市に設立

1970年11月の第25期決算で、年間売上高が初めて100億円を超え、105億1,500万円を計上した。1976年9月期には前期を9.4%上回る204億円で200億円台へ乗せた。だが翌1977年9月期は239億円へ伸ばしながらコスト高で経常利益が前年比16%減の7億8千万円にとどまり、1978年9月期は212億9千万円と11%の減収となって、経常損益も厳しい決算となった。1977年12月に社長となった永井邦夫氏は赤字基調からの脱却と業績回復を掲げる三ヵ年計画を全社へ伝え、人員の重点配置と技術の規格化・標準化を進めた結果、1979年9月期は266億8千万円、1980年9月期は310億3,000万円へ戻した。1985年3月、東京証券取引所市場第一部へ指定替えとなった

  • オルガノ35年のあゆみ(オルガノ, 1981)
    • [98]1970年11月の第25期決算で年間売上高が初めて100億円を超え105億1,500万円を計上
    • [99]1976年9月期(第31期)は前期比9.4%増の204億円で初めて200億円台に到達
    • [100]1977年9月期は売上高239億円(前期比17%増)ながらコスト高で経常利益は前年比16%減の7億8千万円
    • [101]1978年9月期は売上高212億9千万円で前年比11%の減収、経常損益もきわめて厳しい決算
    • [102]1977年12月に社長就任した永井邦夫が赤字基調からの脱却と業績回復を掲げる三ヵ年計画を策定し全社へ伝達
    • [103]1979年9月期の売上高266億8千万円、1980年9月期は310億3,000万円で初めて300億円を突破
  • オルガノ 有価証券報告書【沿革】
    • [104]1985年3月 東京証券取引所市場第一部に指定替え
参考文献[85]-[104]
  • オルガノ35年のあゆみ(オルガノ, 1981)
    • [85]1978年9月期の減収は、石油危機前に受注した大型プラントの納期集中と、石油化学・紙パルプ・繊維・食品など従来得意とした分野の設備投資減少による
    • [86]省資源・省エネルギーが強調される時代の要請に応じ、従来の向流再生純水製造装置に比べ再生剤を極限まで節減する設計へ進んだ
    • [87]1972年10月の環境技術部発足とともに凍結融解法の装置化に着手、1973年に明石市伊川谷・明石川両浄水場から第1・2号機を受注、石油ショックによる原材料高騰を経て1975年4月に試運転成功
    • [88]無薬注で汚泥を脱水できる凍結融解法は柏原市・茨木市・久留米市などで採用が続き、第24号機まで稼働
    • [89]1979年8月 ツイン・ストラタ純水製造装置の第1号機をサッポロビール恵比寿工場へ納入
    • [91]販売は長く東京本社と大阪営業所の2拠点と代理店・販売店・特約店に依存しており、1971年のニクソン・ショック後に国内販売網強化の必要が高まった
    • [92]1971年11月 プラント営業本部を新設
    • [95]1973年3月 滋賀事務所、1975年8月 仙台営業所、同年10月 大阪支社昇格、1976年1月 広島・10月 福岡、1977年9月 名古屋・10月 東京支社、1978年7月 山口・9月 札幌と販売拠点を展開
    • [96]1969年11月 千葉県柏市十余二に大型装置の組立工場として柏工場を開設
    • [97]1977年5月 横浜市戸塚区笠間町に装置研究と中間試験を主目的とする大船研究所を開設
    • [98]1970年11月の第25期決算で年間売上高が初めて100億円を超え105億1,500万円を計上
    • [99]1976年9月期(第31期)は前期比9.4%増の204億円で初めて200億円台に到達
    • [100]1977年9月期は売上高239億円(前期比17%増)ながらコスト高で経常利益は前年比16%減の7億8千万円
    • [101]1978年9月期は売上高212億9千万円で前年比11%の減収、経常損益もきわめて厳しい決算
    • [102]1977年12月に社長就任した永井邦夫が赤字基調からの脱却と業績回復を掲げる三ヵ年計画を策定し全社へ伝達
    • [103]1979年9月期の売上高266億8千万円、1980年9月期は310億3,000万円で初めて300億円を突破
  • オルガノ 有価証券報告書【沿革】
    • [90]1974年7月 丸栄工業に資本参加しオルガノ工事(現オルガノプラントサービス)に商号変更
    • [93]1972年4月 九州オルガノ商事(後のオルガノ九州)を福岡市に設立
    • [94]1972年10月 北海道オルガノ商事(後のオルガノ北海道)を札幌市に設立
    • [104]1985年3月 東京証券取引所市場第一部に指定替え

第3章 1986-2013 (気が向いたら執筆します!) 海外生産拠点の設置と国内工場・販売子会社の再編

第4章 2014-2026 (気が向いたら執筆します!) 地域販社7社の吸収合併とオルガノUSAの設立

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歴史年表 1946〜2024年

オルガノの沿革1946〜2024年における主な出来事を抜粋

時代年月社長・CEO出来事重要度
1946〜1961年技術導入による装置事業の確立山梨化学工業を日本オルガノ商会に商号変更し諏訪市で創業
イオン交換樹脂アンバーライトの日本総代理店化

1951年1月、日本オルガノ商会(現オルガノ)は米国のローム・アンド・ハース社と提携した。同社はイオン交換樹脂アンバーライトの製造元であり、オルガノは後にその日本総代理店となる。三菱化成工業のダイヤイオンを買って装置に詰めていた会社が、樹脂の供給元と直接結びついた提携であった。

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★★★
本社移転
本社移転
日本デグラモンを設立
日本水工(後のオルガノ関西)に資本参加
オルガノソフナー(後のオルガノ東京)を設立
東京証券取引所市場第二部に上場
1962〜1985年用途拡張による事業構造の転換商号をオルガノに変更
九州オルガノ商事(後のオルガノ九州)を設立
北海道オルガノ商事(後のオルガノ北海道)を設立
丸栄工業に資本参加しオルガノ工事に商号変更
東京証券取引所市場第一部に指定替え
オルガノメンテナンスサービスを設立
1986〜2013年海外生産拠点の設置と国内工場・販売子会社の再編オルガノSDN.BHD.を設立
オルガノ(タイランド)を設立
つくば工場を新設
オルガノ工事がオルガノ電工を吸収合併しオルガノプラントエンジニアリングに商号変更
オルガノプラントエンジニアリングがオルガノメンテナンスサービスを吸収合併
オルガノプラントサービスに商号変更
本社移転
東北オルガノ商事と中部オルガノ商事を設立しいわき工場を新設
オルガノローディアフードテクノを設立
オルガノ(蘇州)水処理有限公司を設立
橋本喜代志オルガノエコテクノを設立
橋本喜代志オルガノCO.,LTD.を設立
内田裕行PT Lautan Luas Tbkと合弁でPTラウタン・オルガノ・ウォーターをインドネシアに設立
2014〜2026年地域販社7社の吸収合併とオルガノUSAの設立内田裕行地域販社7社(北海道・東北・東京・中部・関西・九州・山下薬品)を吸収合併★★
内倉昌樹オルガノUSA Inc.を設立
内倉昌樹プライム市場へ移行
山田正幸オルガノエコテクノを吸収合併
出典・参考 3件
出典・参考
  • オルガノ 有価証券報告書【沿革】
  • オルガノ35年のあゆみ(オルガノ, 1981)
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 1968)

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