オルガノの創業は、戦時研究の残りを民需へ移し替える試みだった。丸山正武氏が陸軍軍医学校で追っていたイオン交換樹脂は、戦後の日本でまず電池用蒸溜水という官需の穴を埋めた。燃料の要らない脱塩は、燃料の無い国でこそ値打ちがある。だが樹脂そのものを作る力は無く、三菱化成の樹脂を買い、次は米国ローム・アンド・ハース社のアンバーライトを買った。買った樹脂を筒に詰めて売るだけなら、代理店で終わる。オルガノが代理店で終わらなかったのは、供給元が示した通水条件を疑い、樹脂の性能を引き出す運転条件を自分の手で決めたからである。その運転条件がやがて装置の設計に変わり、装置の設計が据付と試運転までを呼び込んだ。
1951年に昭和電工大川工場へ納めた日量600トンのモノベッド式装置は、蒸溜水1トン500円を純水30円に、18人の交替要員を1人の巡回に置き換えた。ここで示されたのは樹脂の優秀さではなく、設計から据付までを一社で引き受けられることの値打ちだった。翌1952年、社員70名の会社がアンバーライトの日本総代理権を取る。売る樹脂と、その樹脂を最も良く使う装置の両方が揃った。ただし資本は自前ではない。1955年に東洋曹達工業が株式の過半数を握り、オルガノは独立の技術会社から化学資本の系列に置かれた装置会社へ変わった。相次ぐ増資と1959年の店頭公開、1961年の東京証券取引所市場第二部への上場は、その系列の中で資金を集める道筋であった。
終戦でイオン交換樹脂の研究は一時中断したが、陸軍軍医学校薬剤部で主任研究者を務めた丸山正武氏は、その将来性を確信していた。三菱化成工業黒崎工場のイオン交換樹脂ダイヤイオンを買い取り、1945年10月に加田守治氏ら4人と研究を再開した。翌1946年2月に完成した最初の脱塩水製造装置は、セルロイド製の樹脂筒に陽イオン交換樹脂と陰イオン交換樹脂を交互に詰めた毎時40リットルの4筒型であった。その量産と普及のため、加田氏らが戦時中から所有していた山梨化学工業を買収して商号を変え、1946年5月1日、資本金5万円で長野県諏訪に日本オルガノ商会が発足した。イオン交換装置を主な営業品目とする日本で最初の会社であり、社名は当時イオン交換樹脂をオルガニック・ゼオライト、略してオルガノライトと呼んだことに由来する。
発足当初の事務所は、上諏訪町で電気関係と自転車を扱う店の一隅であり、その裏手で滅菌蒸溜水や注射薬の製薬と装置の加工・組立てを行った。イオン交換装置だけでは経営が立たず、塩化カルシウムやぶどう糖の注射薬をアンプルに詰めて売る兼業が当初を支えた。終戦直後の物資不足のなか、丸山社長以下の全役員がリュックサックに樹脂筒を詰めて超満員の列車に乗り込み、東京・大阪・名古屋へ売り込みと集金に歩く『全員セールス、全員製造、全員経理』の時代が続いた。バッテリー用蒸溜水の不足に悩む逓信省が性能試験のうえ1947年に採用を決め、国鉄など各官公庁へ急速に普及したことが転機となり、1948年暮に製薬を中止して、イオン交換樹脂の応用と企業化という設立の目的どおり水処理装置の製造販売へ事業を絞った。
脱塩水の純度を化学分析で測るのは煩雑で、装置化と量産にはより簡便な判定手段が要った。水の純度が上がるほど導電率が下がる性質を使い、ネオンランプの発光部分が縮むことで樹脂の再生時期を知らせる方式を開発し、1947年12月8日に公告されたこれがオルガノの特許第1号となった。1949年には携帯用電気水質計として実を結んだ。装置そのものも1948年にアクリル樹脂製の樹脂筒へ替わり、毎時25リットル・50リットル・100リットルと種類が標準化され、樹脂を筒から取り出さずコックの操作だけで再生できるようになった。中央官庁との商談が増えるにつれ営業の重心は東京へ移り、1949年1月には東京都千代田区へ営業所を開設した。純度の計測と装置の標準化が揃い、売り歩く商品は一台ごとの手作りから型番のある製品へ変わった。
1950年末、米国ローム・アンド・ハース社の新しいスチレン系イオン交換樹脂アンバーライトの輸入許可を取り、翌1951年初めに現物が到着した。同年1月には同社との提携が成立している。京都大学でイオン交換樹脂を6年研究してきた清水博氏が助手1人と混床式の試験に取りかかると、ローム・アンド・ハース社の説明書が毎時16倍としていた通水速度を30倍、50倍へ上げ、水道栓を全開にして100倍を超えても処理水の純度は落ちなかった。この小型試験装置が、後の標準型小型モノベッド式純水製造装置の原型となった。同年4月には東京都文京区本郷の菊富士ホテル戦災跡地を社員が自ら整地して東京研究所を建て、清水氏が初代所長に就任した。供給元の示した条件を疑うところから、輸入樹脂は自社の製品設計へ組み替えられた。
昭和電工から水電解用水の純水製造装置の話が持ち込まれ、発足したばかりの東京研究所が現地実験・樹脂量算定・装置設計・計測器の考案まで抱えた。1951年8月、日量600トンという世界最大級のモノベッド式装置が昭和電工大川工場に完成し、試運転で生じた不具合には昼夜兼行の改良で応じた。この装置の登場で、1トンあたり500円かかっていた蒸溜水は純水30円で得られ、6人3交替で18人を要した人手も1人の巡回で足りた。日本で最初の大型純水装置という実績は連鎖を生み、同年10月の日本ゼオン蒲原工場、日本パルプ工業米子工場に続き、翌1952年には北越製紙・十条製紙釧路工場・興国人絹パルプ佐伯工場・東亜燃料工業和歌山工場など5工場から大型装置を受注した。
1952年1月1日、丸山正武社長は羽田を発って渡米した。目的はアンバーライトの日本総代理店契約であり、相手は米国有数の化学会社、こちらは発足5年半・社員約70名の小会社であった。4週間にわたる折衝の末、1月29日に契約書の調印へこぎつけた。総代理権の獲得は装置に充填する樹脂の供給を自社の手に収めることであり、高圧ボイラ用水向けの需要増と重なって、1952年度の売上高は前年度の約2倍へ増えた。用途はすぐ水の外へ広がり、1952年から53年にかけて葡萄糖・甘蔗糖・フォルマリンの精製装置や、ストレプトマイシン・ペニシリン・アルカロイドの抽出精製装置を手がけ、特殊液精製装置へ進出した。
営業も製造も研究も東京が主体となったため、1954年7月1日に本社を東京都千代田区神田鍛冶町へ移す登記を行い、翌8月には資本金を800万円へ増資した。1955年6月には関西市場の拡大に応じて大阪駐在所を開設し、同年8月15日には本社と研究所が神田と本郷に分かれている不便を解いて、研究所のある文京区菊坂町へ本社を移した。この間の1955年8月、東洋曹達工業がオルガノ株式の過半数を取得した。装置の主要な納入先であり、樹脂の再生に使う苛性ソーダや塩酸の供給元でもある化学資本を株主に迎えたことは、販路と原材料の双方を資本の側から安定させる選択であった。
アンバーライトの輸入量が伸びたため、1955年11月15日、ローム・アンド・ハース社・日産化学工業・三洋貿易・日本オルガノ商会の4社が資本金5億400万円で日米合弁の東京有機化学工業を設立し、1957年5月からアンバーライトと農薬ダイセンの国産を始めた。社員は1953年に100名、1956年初めに150名を超え、同年2月13日には営業課・工務課といった課制を、総務部・営業部・技術部・製造部・経理部・研究所・技師長室からなる部所室制へ改めた。販売と施工の側も本体から切り出され、1959年9月に販売子会社の起点となる日本デグラモンを東京都文京区に設立し、1960年4月には後のオルガノ関西となる日本水工へ資本参加し、1961年5月にオルガノソフナーを設立した。製造と設計を本体に残し、地域ごとの販売と施工を別法人が担う体制が、この数年で固まった。
資本金は1955年12月に1,600万円、1956年4月に3,200万円、1958年1月に4,000万円と積み増され、1959年1月に5,000万円、同年5月には1億円へ達した。同年に株式を店頭へ公開し、寄付き700円の高値を呼んだ。さらに1960年に2億円、1961年に4億円まで増やし、9回を重ねた増資がここで一区切りとなった。1961年10月には東京証券取引所市場第二部へ上場した。生産の側でも同年11月、埼玉県戸田市に戸田工場を開設し、各種装置の組立・発送と水処理薬品類の製造を企業化した。諏訪の店先で毎時40リットルの装置を組んでいた会社は、創業から15年で東証二部の上場企業になった。
1960年代のオルガノが取った道は、技術を替えることではなく、同じイオン交換技術を当てる相手を替え続けることだった。純水装置の顧客は発電所と化学工場、製紙とパルプに偏っており、その設備投資が止まれば受注も止まる。フランス・デグラモン社から導入した高速沈殿池パルセーターは、この偏りを崩す道具になった。上水道は景気ではなく人口と行政計画で動く市場であり、1961年の勿来市を皮切りに横浜・大阪・名古屋・神戸・仙台と続いた受注は、民需の波とは別の足場を与えた。1962年に旭化成工業から導入した連続イオン交換装置も同じ性格を持つ。自社で発明した技術ではないが、実用化の苦労を引き受けた側が市場を取る。1975年までに115セットという数は、その引き受けの対価であった。
もう一つの足場は原子力だった。1956年に置いた原子力研究委員会から11年、1967年に日本原子力発電敦賀発電所の水処理装置を全式受注したとき、オルガノは資本金4億円・従業員555名の会社にすぎない。それでも復水脱塩から放射性廃液処理までを一社で引き受けられたのは、火力発電所で積んだ実績が、より高い安全性の要求へそのまま横滑りできたからである。ここで採った球型タンクや分離再生方式は、十余年後も沸騰水型で使われ続けた。1973年の石油危機は、石油化学・紙パルプ・繊維・食品という得意先の設備投資を一斉に細らせ、1978年9月期の減収を招く。省資源・省力という次の売り文句は、顧客の投資動機が能力の増強から原単位の改善へ移ったことへの応答であった。
1962年3月、旭化成工業から連続イオン交換装置の技術を導入した。実用化のための実験と設計基準づくりは導入した側の仕事であり、1963年3月に旭ダウ川崎工場へ納めた第1号機では改造すべき点が次々に見つかった。納入の山は1967年から74年までで、その間に約80セットを収め、1975年までの累計は115セットとなった。最初は使った樹脂が思うように働かず、アンバーライトIRA-402がほどなく崩れたためIRA-400に切り替え、陽イオン交換樹脂も順次替え、1966年5月に旭ダウへ収めた第2号機からは、据え付けに要する面積でも処理水の純度でもまさる混床式に改めて、以後はすべてこの方式で納めた。技術を外から買って自社で実用に持ち込むやり方は、旭化成に加え米国のグレーバー社、カルゴン社とのつながりにも及んだ。
1954年に欧米を視察した清水博研究所長は、欧州一の水処理装置会社として伸びていたフランスのデグラモン社を高く評価した。報告を受けた丸山正武社長は1958年に訪仏して技術提携を申し入れ、先方の要望で合弁の準備に入る。導入技術の中核である凝集沈殿池パルセーターは誰も実物を見たことがなく、関係官庁への説明には苦労が伴ったが、1959年5月16日に外資審議会の認可が下り、8月20日の創立総会を経て同年9月、資本金500万円・両社50対50の日本デグラモンが東京都文京区に発足した。国内実績のない装置は容易には売れなかった。北海道進出を決めた大昭和製紙白老工場が採用へ踏み切り、日量6,000立方メートルの装置が従来の沈殿池のおよそ6倍を処理してみせたことで、工場用水向けの普及が始まった。
上水道へ入ると、下水道の話も自治体から持ち込まれるようになった。1963年に建設省土木研究所の指導で枚岡市の特別都市下水の調査設計を受託し、これが6年後の1969年、東大阪市から日量24,000立方メートルの宝町処理場を受注する契機になった。公共下水道の第1号は1967年10月、デグラモン社が開発した複合槽式活性汚泥法オキシコンタクトを用いた大分市原川終末処理場であった。公害対策基本法が公布された同年8月には、清掃工場の浸出水処理でも東京都石神井清掃工場から第1号機を受けている。廃水処理と下水処理の開発は、このころ社外からも新しい収益源と見られるようになった。1970年5月には小倉四郎氏を部長とする約20名の廃水部を新設し、調査・実験から設計・試運転までを一貫して担う体制を敷いた。
1968年のオルガノは、資本金4億円・従業員555名、社長を二宮正三郎氏が務める水処理装置の専業会社であった。日本原子力研究所が設立された翌1956年1月には、丸山正武社長を委員長とする原子力研究委員会を置き、イオン交換技術の原子力分野への利用を調べ始めていた。1958年には原子燃料公社と共同でウランの抽出・精製を研究し、1962年頃から原子力研究所へプール水の精製装置を納め始めた。その積み重ねの上で1967年4月、日本原子力発電敦賀発電所向けに、復水脱塩装置・原子炉浄化装置・燃料プール水濾過装置・放射性廃液処理装置・補給水処理装置という沸騰水型原子炉の水処理装置を全式受注した。
求められたのは性能だけではなく、放射性廃液と廃棄物の発生量を最小限に抑えることと、厳しい品質保証であった。顧客とゼネラル・エレクトリック社、エバスコ社との全面的な技術検討を経て、復水脱塩装置の通水塔には高圧設計のため初めて球型タンクが採られ、陰陽両樹脂を別の塔で再生する分離再生方式も初めて採用された。1967年9月には東京電力福島第一原子力発電所1号機の復水脱塩装置を、翌1968年11月には2号機の原子炉水浄化装置と燃料プール水浄化装置を受注した。2号機からは粉末樹脂をプリコートする濾過脱塩方式を用い、逆洗浄には自力で開発したエアサージ方式を組み合わせて、これは後に米国へ逆輸出された。米国グレーバー社をはじめ海外の技術を取り入れて製品にする手順は、このころ対外的にもオルガノの特徴として紹介されている。
1957年、日本電気の協力を得て日本で初めて電子工業用高純度純水装置を完成させ、続いて東京芝浦電気のトランジスタ工場へ小型装置を納めた。1959年には旭化成工業富士工場で、処理水中の鉄分が10億分の5以下という装置を運転している。これが超純水製造装置の始まりで、以後は東芝・日立・日本電気・東京三洋・信越半導体などへ大型装置を納めた。1972年10月には日本電気玉川工場へ逆浸透膜を用いた装置を、翌1973年3月にはデュポン社の逆浸透モジュールによる本格的な超純水製造装置を納入した。この間の1966年2月には、商号を日本オルガノ商会からオルガノへ改め、樹脂を仕入れて売る商会の名を外した。発電所が求めた量の水と、電子工場が求めた質の水が、同じイオン交換技術の上に並び立った。
1973年の石油危機は、石油化学・紙パルプ・繊維・食品という得意先の設備投資を細らせた。省資源・省エネルギーが強調される時代の要請に応じて、装置の設計も再生剤と人手の節減へ向かった。1972年10月の環境技術部発足とともに着手した凍結融解法は、1973年に明石市の伊川谷・明石川両浄水場から第1、2号機を受注した直後に原材料の高騰へ見舞われ、1975年4月にようやく試運転へ漕ぎつけた。無薬注で汚泥を脱水できるこの方式は受注が続き、24号機まで稼働している。1979年8月にはサッポロビール恵比寿工場へ、再生剤を極限まで節減したツイン・ストラタ純水製造装置の第1号機を納めた。1974年7月には丸栄工業へ資本参加してオルガノ工事へ商号を変え、現地での施工を自社の側へ抱え込んだ。
販売は長く東京本社と大阪営業所の2拠点に代理店・特約店を組み合わせる形だったが、1971年のニクソン・ショックの後、国内販売網の強化が急務となった。同年11月にプラント営業本部を新設し、1972年には九州オルガノ商事と北海道オルガノ商事を設けてセールスエンジニアを出向させた。以後、1973年3月の滋賀事務所に始まり、1975年8月の仙台営業所、同年10月の大阪支社昇格、1976年の広島と福岡、1977年の名古屋と東京支社、1978年の山口と札幌へと拠点を並べ、全国の販売網をひとまず完成させた。生産の側では1969年11月に大型装置の組立工場として千葉県柏市に柏工場を開設し、1977年5月には装置研究と中間試験を担う大船研究所を横浜市戸塚区に開設した。
1970年11月の第25期決算で、年間売上高が初めて100億円を超え、105億1,500万円を計上した。1976年9月期には前期を9.4%上回る204億円で200億円台へ乗せた。だが翌1977年9月期は239億円へ伸ばしながらコスト高で経常利益が前年比16%減の7億8千万円にとどまり、1978年9月期は212億9千万円と11%の減収となって、経常損益も厳しい決算となった。1977年12月に社長となった永井邦夫氏は赤字基調からの脱却と業績回復を掲げる三ヵ年計画を全社へ伝え、人員の重点配置と技術の規格化・標準化を進めた結果、1979年9月期は266億8千万円、1980年9月期は310億3,000万円へ戻した。1985年3月、東京証券取引所市場第一部へ指定替えとなった。
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|---|---|---|---|---|
| 1946〜1961年技術導入による装置事業の確立 | 山梨化学工業を日本オルガノ商会に商号変更し諏訪市で創業 | ★ | ||
| イオン交換樹脂アンバーライトの日本総代理店化 1951年1月、日本オルガノ商会(現オルガノ)は米国のローム・アンド・ハース社と提携した。同社はイオン交換樹脂アンバーライトの製造元であり、オルガノは後にその日本総代理店となる。三菱化成工業のダイヤイオンを買って装置に詰めていた会社が、樹脂の供給元と直接結びついた提携であった。 詳細を読む | ★★★ | |||
| 本社移転 | ★ | |||
| 本社移転 | ★ | |||
| 日本デグラモンを設立 | ★ | |||
| 日本水工(後のオルガノ関西)に資本参加 | ★ | |||
| オルガノソフナー(後のオルガノ東京)を設立 | ★ | |||
| 東京証券取引所市場第二部に上場 | ★ | |||
| 1962〜1985年用途拡張による事業構造の転換 | 商号をオルガノに変更 | ★ | ||
| 九州オルガノ商事(後のオルガノ九州)を設立 | ★ | |||
| 北海道オルガノ商事(後のオルガノ北海道)を設立 | ★ | |||
| 丸栄工業に資本参加しオルガノ工事に商号変更 | ★ | |||
| 東京証券取引所市場第一部に指定替え | ★ | |||
| オルガノメンテナンスサービスを設立 | ★ | |||
| 1986〜2013年海外生産拠点の設置と国内工場・販売子会社の再編 | オルガノSDN.BHD.を設立 | ★ | ||
| オルガノ(タイランド)を設立 | ★ | |||
| つくば工場を新設 | ★ | |||
| オルガノ工事がオルガノ電工を吸収合併しオルガノプラントエンジニアリングに商号変更 | ★ | |||
| オルガノプラントエンジニアリングがオルガノメンテナンスサービスを吸収合併 | ★ | |||
| オルガノプラントサービスに商号変更 | ★ | |||
| 本社移転 | ★ | |||
| 東北オルガノ商事と中部オルガノ商事を設立しいわき工場を新設 | ★ | |||
| オルガノローディアフードテクノを設立 | ★ | |||
| オルガノ(蘇州)水処理有限公司を設立 | ★ | |||
| 橋本喜代志 | オルガノエコテクノを設立 | ★ | ||
| 橋本喜代志 | オルガノCO.,LTD.を設立 | ★ | ||
| 内田裕行 | PT Lautan Luas Tbkと合弁でPTラウタン・オルガノ・ウォーターをインドネシアに設立 | ★ | ||
| 2014〜2026年地域販社7社の吸収合併とオルガノUSAの設立 | 内田裕行 | 地域販社7社(北海道・東北・東京・中部・関西・九州・山下薬品)を吸収合併 | ★★ | |
| 内倉昌樹 | オルガノUSA Inc.を設立 | ★ | ||
| 内倉昌樹 | プライム市場へ移行 | ★ | ||
| 山田正幸 | オルガノエコテクノを吸収合併 | ★ |
免責事項およびポリシー
事実根拠:出所(オルガノ)