1949年〜 神戸で生まれた清缶剤から水処理専業メーカーへ
栗田工業の業績推移:単体
- 1949年 栗田工業を設立
- 1951年 汽缶給水研究所を新設
- 1954年 水処理装置の製造販売を開始
- 1956年 本社を移転
- 1959年 化学洗浄工事部門を分離し鈴木商会を設立
- 1965年 伊藤忠商事と業務提携
- 1967年 粉飾決算の露見と、伊藤忠商事の増資引受による経営再建 倒産させるか、引き受けるか——最大の債権者が社長を送り込んだ6年間
水のドクターを掲げた創業と専業化
1949年7月、栗田春生氏が神戸で資本金30万円の栗田工業を設立し、ボイラの水あかを防ぐ清缶剤の製造販売から事業を始めた。水の将来性に着目した先覚者としての創業だったと、後年の経営陣は語っている。設立の2年後にあたる1951年には兵庫県西宮市に汽缶給水研究所を置き、水質を調べて薬剤を処方する体制を早くから整えた。1954年には水処理装置の製造販売にも乗り出し、水処理薬品と水処理装置という二本柱をこの時期に揃えている。水を汚さず効率よく使いこなす技術を売る発想は、のちに同社が掲げる「水のドクター」という自己規定へと結びついた。 [1][2][3][4][5]
- 栗田工業 有価証券報告書【沿革】
- [1]1949年7月に神戸で栗田工業が設立された
- [3]設立時の資本金は30万円である
- [4]1951年に兵庫県西宮市に汽缶給水研究所を設置した
- [5]1954年に水処理装置の製造販売を開始した
- [2]創業者は栗田春生である
創業の地は神戸だったが、1956年に本社を大阪市へ移し、成長に合わせて組織を整理した。1959年には化学洗浄工事の部門を分離して鈴木商会を設け、専門ごとに会社を分ける形をとった。1961年10月には東京・大阪両証券取引所の第二部に株式を上場し、翌1962年8月には第一部へ指定替えとなる。1962年には横浜に総合研究所を新築移転し、水処理を専門に研究する拠点を構えた。清缶剤の一品から始まった事業は、薬品・装置・化学洗浄を扱う水処理の専業メーカーへと十年あまりで姿を変えている。 [6][7][8][9][10]
- 栗田工業 有価証券報告書【沿革】
- [6]1956年に本社を大阪市へ移転した
- [7]1959年に化学洗浄工事部門を分離して鈴木商会を設立した
- [8]1961年10月に東京・大阪両証券取引所の第二部に上場した
- [9]1962年8月に東京・大阪両証券取引所の第一部に上場した
- [10]1962年に横浜へ総合研究所を新築移転した
1965年、栗田工業は伊藤忠商事と業務提携を結び、資材調達や輸出の面で総合商社の力を借りる関係を築いた。この提携は、のちの経営危機を乗り越える支えの一つにもなる。水処理装置では、上下水道やごみ焼却などの環境衛生施設にも手を広げ、し尿処理の分野では久保田鉄工・荏原インフィルコと並んで御三家と呼ばれる一角を占めた。小さなクリーニング店から大規模な製鉄所まで、水を使うところはすべて客先になり得るという広い事業観が、この時期に形づくられている。水処理装置と水処理薬品の両輪で顧客の設備を長く支える営みは、のちの安定した収益基盤の土台になった。 [11][12]
- 栗田工業 有価証券報告書【沿革】
- [11]1965年に伊藤忠商事と業務提携した
- [12]し尿処理の分野で久保田鉄工・荏原インフィルコと並んで御三家と呼ばれた
- 栗田工業 有価証券報告書【沿革】
- [1]1949年7月に神戸で栗田工業が設立された
- [3]設立時の資本金は30万円である
- [4]1951年に兵庫県西宮市に汽缶給水研究所を設置した
- [5]1954年に水処理装置の製造販売を開始した
- [6]1956年に本社を大阪市へ移転した
- [7]1959年に化学洗浄工事部門を分離して鈴木商会を設立した
- [8]1961年10月に東京・大阪両証券取引所の第二部に上場した
- [9]1962年8月に東京・大阪両証券取引所の第一部に上場した
- [10]1962年に横浜へ総合研究所を新築移転した
- [11]1965年に伊藤忠商事と業務提携した
- [2]創業者は栗田春生である
- [12]し尿処理の分野で久保田鉄工・荏原インフィルコと並んで御三家と呼ばれた
粉飾決算の危機と6年をかけた再建
順調に見えた成長の途上で、栗田工業は1960年代後半に粉飾決算の発覚という危機に見舞われた。当時を振り返った中村貞夫社長は、この発表が会社を揺るがす事態だったと日本証券アナリスト協会の講演で述べている。株式を上場して間もない時期の不祥事であり、信用の回復と財務の立て直しが急務になった。ただし、創業以来の収益源である水処理薬品の事業は、この混乱のなかでも失われずに維持されていた。装置や化学洗浄と違い、薬品は客先の設備が動く限り継続して売れる商材であり、危機のさなかでも会社の底を支える役割を果たしている。 [13][14]
- [13]1960年代後半に粉飾決算が発覚し経営危機となった
- [14]中村貞夫は当時の社長として危機を回顧した
再建の時期は、公害防止ブームと高度経済成長の重なる好機と一致した。鹿島や大分の石油化学コンビナートなどから大型の水処理装置を相次いで受注し、成長市場の追い風を受けている。加えて、伊藤忠商事や取引金融機関の援助を受け、全社員が結束して立て直しに当たった結果、栗田工業は発覚から6年ほどで再建を果たし、配当を復活させた。危機を境に財務体質の強化を意識するようになった点は、のちに超純水供給事業へ多額の投資を振り向ける際の慎重な資金政策にも通じている。経営の危うさを一度味わった経験は、堅実な財務を重んじる社風として長く残った。 [15][16]
- [15]鹿島や大分のコンビナートから大型水処理装置を相次いで受注した
- [16]粉飾決算の発覚から6年ほどで再建し復配した
- [13]1960年代後半に粉飾決算が発覚し経営危機となった
- [14]中村貞夫は当時の社長として危機を回顧した
- [15]鹿島や大分のコンビナートから大型水処理装置を相次いで受注した
- [16]粉飾決算の発覚から6年ほどで再建し復配した