日本鋼管白石元治郎氏による日本鋼管の設立と、継目無鋼管専業での発足

官営八幡製鉄所でさえ製造していなかった品目を、なぜ民間資本だけの新会社が専業に選んだのか

時期 1912年6月
意思決定者(推定) 白石元治郎 創立者・社長
論点 参入する品目の選択と資金の出どころ
概要
1912年6月、白石元治郎氏が資本金200万円、20トン平炉2基と製管工場1つの規模で日本鋼管を創立し、官営八幡製鉄所でさえ生産していなかった継目無鋼管の製造を専業として発足させた判断。
背景
鋼管は需要の数量が少なく、製造に特別の設備と高度の技術を要したため、製品はすべて輸入に依存していた。民営で最初の銑鋼一貫作業は1903年に釜石製鉄所が始めており、後発の新会社が銑鉄や条鋼で正面から競う余地は乏しかった。
内容
銑鉄からの一貫生産ではなく、平炉と製管工場だけで継目無鋼管に絞って発足した。資金は政府に頼らず株主の払込と借入で賄い、1934年の製鉄大合同にも加わらなかった。
含意
数量が出ない代わりに設備と技術が参入を阻む品目を選び、民間鉄鋼業の先駆的役割を担った。自前の高炉に火が入るのは1936年6月で、創立から24年を要した。
筆者の見解

小さな市場を選ぶという選択

創立の時点で、継目無鋼管は国内の誰も作っていない製品であった。需要が数量として小さく、特別の設備と高度の技術を要したためである。白石元治郎氏は、量が出ないと承知のうえでその一点に資本金200万円を集め、銑鉄からの一貫生産は後回しに置いた。官営八幡製鉄所が圧倒的な地位を占める産業で、後発の民間資本が生き残る道を、規模ではなく品目の選び方に求めた判断である。

事業が自立するまでには長い時間がかかった。第一次大戦後の反動で鋼管株は5円まで下がり、二度の減資と関東大震災を経なければならず、自前の高炉に火が入るまでに24年を要した。その間、高炉の建設計画は国策に添わないとして商工省に握りつぶされてもいる。それでも1934年の製鉄大合同に加わらずに済んだのは、鋼塊の12%を占めるまでに事業が育っていたからで、品目の選択と資金の出どころが揃って初めて、「純然たる民間会社」であり続けることができた。

Yutaka Sugiura, 2026年7月

背景

鉄が国産されなかった時代

開港後の日本で、製鉄業の立ち上がりはとりわけ遅れた。官営釜石製鉄所は明治13年に25トン高炉2基を完成させたものの、木炭の不足やコークスへの切替の失敗で操業が続かず、240万円を投じたすえ明治15年に事業廃止となった。明治14年の国内生産は銑鉄と鋼材を合わせて1万6,000トン、輸入は3万6,000トンで、需要そのものが小さかった。近代的な製鉄業が糸口についたのは、日清戦争後に設けられた官営八幡製鉄所が明治34年に作業を始めてからであった[1][2]

鋼管は、その八幡製鉄所でさえ手をつけていなかった。民間はもとより官営製鉄所も製造を計画せず、製品はすべて輸入に依存していた。理由は二つあり、一つは鋼管に対する需要が数量として少なかったこと、もう一つはその製造に特別の設備と高度の技術を要したことにある。輸入に頼るほかなかった事情が、そのまま新規の参入を阻んでいた[3]

日露戦争後に起きた民間鉄鋼業

日露戦争後、民間の鉄鋼業が相次いで起こった。官営から民営に移った釜石製鉄所は明治36年に民営として最初の銑鋼一貫作業を始め、明治40年には日本製鋼所と輪西製鉄所が設立された。神戸製鋼所、川崎造船、住友鋳鋼も製鋼に進出し、明治44年には満州に本溪湖煤鉄公司ができた。日本鋼管の創立は、その翌年の大正元年にあたる[4]

後発が選べる場所は限られていた。八幡製鉄所はひとり圧倒的な地位を占め、官営であるがゆえに財政資金で設備を拡張していた。銑鉄や条鋼で官営と先発の民間企業に正面から挑むには、資本金200万円は小さすぎた。白石元治郎氏が選んだのは、その序列の外にある品目、すなわち国内で誰も作っていない継目無鋼管であった[5]

決断

継目無鋼管の専業として発足する

1912年6月、白石元治郎氏は資本金200万円、20トン平炉2基、製管工場1つの規模で日本鋼管を創立した。設立日は資料により6月8日とも6月14日とも記されている。当時のわが国の鉄鋼業は官営八幡製鉄所のほか民間企業がわずか数社にすぎず、そのなかで同社は、八幡製鉄所でさえ生産していなかった継目無鋼管の製造を専業として発足し、民間鉄鋼業の先駆的役割を果たした[6][7]

品目の選び方に、この創業の判断が表れている。需要が数量として小さいことは、量産で採算を取ろうとする事業には不利に働く。しかし特別の設備と高度の技術を要するという条件は、国内での製造を阻んできた理由であると同時に、後から来る者を締め出す条件でもあった。日本鋼管は、銑鉄から一貫して作る力を持たないうちに、数量の出ない代わりに競争相手のいない領域を押さえた[8]

資金は株主と借入だけで賄う

資金についても、政府をあてにしなかった。のちに社長となる河田重氏は、日本鋼管を「純然たる民間会社である」と書き、資金はすべて株主から集め、あとは借金でまかなってきたと振り返っている。政府の金や援助なしにここまで来られたものだ、という述懐が続く。半官半民でも財閥系でもない資本の構成が、その後の増資と減資の重さを決めた[9]

白石氏がどのような人物であったかも、河田氏が書き残している。越後に生まれて福島の士族の家へ養子に入り、貧しさのなかで苦学して東京大学へ進んだ。深酒をせず歌舞音曲を解さない謹厳な人柄で、口ぐせは「ロングラン」であった。あくせくするな、人生行路は長距離走であり、長生きした者が最後の勝利を得る、と説いたという。需要の小さい品目を専業に選び、自前の高炉を24年待った選択は、この時間の取り方と重なってみえる[10]

結果

大戦景気と、その反動

操業の直後に欧州大戦が起こり、予想外の好況が訪れた。同社は平炉を7基に増やし、小形中形条鋼、厚板、薄板、第二製管、スポンジ鉄の各工場と小型高炉を建て、資本金は1,600万円へ膨らんだ。1918年7月に入社した河田重氏の目には、それでも川崎工場は平炉が3つか4つ、パイプの小さな工場が2つほどの規模に映った。川崎駅から工場までは、田んぼの中の一本道を40分歩く道のりであった[11][12]

反動は速かった。休戦とともに注文が止まり、トン当たり200円だった丸棒は70〜80円に暴落し、鋼管株は5円まで下がった。拡張した工場のうち平炉・鋼管・条鋼を除く各工場は操業中止か廃棄となり、1921年には前例のない減資と増資を同時に行うため、社員が全国へ委任状を集めに回った。1923年の関東大震災では川崎工場のコンクリート煙突が3分の2倒れ、昭和初頭の世界恐慌では再度の減資に至った[13][14]

製鉄大合同への不参加と、24年目の高炉

1934年1月、官営八幡製鉄所と財閥系5社が合同して半官半民の日本製鉄が創立された。政府の出資は79%を占め、成立当時の銑鉄生産は全国の96%に達した。参加を求められた白石社長は「製鉄業は、政府の一企業として競争のない温室育ちの事業ではいかぬ。あくまでも民間企業として競争しながら発展すべきだ」として加わらず、日本鋼管は鋼塊で12%、鋼材で13.6%を占める最大の民間勢力となった[15][16]

独立を保った代償は、時間で支払われた。高炉の建設は創立以来の宿願であったが、会社の方針が国策に添わないという理由で、計画は当時の商工省に握りつぶされた。満州事変から日華事変へ進むなかで官営製鉄所だけでは鉄鋼需要を賄えなくなり、政策が民間育成へ転じてようやく認可が下りた。1934年10月に扇町製銑工場へ着手し、1936年6月の第一高炉の火入れで銑鋼一貫態勢が確立する。創立から24年が経っていた[17][18]

出典・参考
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社, 1955)第2篇 日本会社史 34_鉄鋼「日本鋼管」「概説」
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社, 1955)第1篇 会社企業発達史「戦時経済への移行期の会社」
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社, 1968)「日本鋼管」
  • 日本産業史 第1巻(日本経済新聞社, 1994年)「製鉄-苦闘重ねた先駆者」
  • 証券アナリストジャーナル 1975年13巻4号「日本鋼管 70年代に挑戦する三事業部体制」(堀切治雄常務取締役・日本証券アナリスト協会企業分析部会 1975年3月20日講演要旨)
  • 河田重「私の履歴書」(日本経済新聞社編『私の履歴書 経済人2』日本経済新聞社, 1980 所収)

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