横浜で継目無鋼管専業創業(1912年・日本鋼管の決断)

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論点継目無鋼管の専業で創業するか
白石元治郎氏による日本鋼管の設立と、継目無鋼管専業での発足

何をなぜ決めたか:白石元治郎氏による日本鋼管の設立と、継目無鋼管専業での発足

概要

1912年6月8日、日本橋倶楽部で日本鋼管の創立総会が開かれ、全議案が満場一致で可決された。取締役の互選で白石元治郎氏が社長に就任し、本社は横浜市寿町に置かれた。設立登記は6月14日である。創立時の資本金は200万円、従業員は700名で、鋼管の生産能力は年1万2000トンにすぎなかった。製品に選んだのは、当時の欧米でも最新式だったマンネスマン式の継目無鋼管である。多くの種類の鋼材を手がけていた八幡製鉄所でさえ、鋼管の生産には着手していなかった。社史はこの会社を、日本最初の鋼管専業会社と位置づけている。

背景

鋼管は国内に製造所がなく、すべてを輸入に依存していた。需要が棒鋼・形鋼・鋼板より数量で少なく、製造に特別の設備や技術を要したため、民間はもとより八幡製鉄所でも製造が計画されなかった。1912年の国内生産高は138トンである。創立趣意書は、1911年の鋼管輸入が約400万円に上り、ガス・水道などの普及で需要がさらに伸びると見ていた。もう一つの壁は原料の銑鉄であった。内地銑は1910年の生産が18万トンで、大半を八幡が自ら使い、民間に回す余裕がなかった。東洋汽船にいた白石氏がインドのベンゴール製鉄所の銑鉄に着目し、インド銑と国内のくずで平炉製鋼を行うことが可能になった。

内容

白石氏が出馬を決めたのは1912年1月2日である。岳父の浅野総一郎氏と渋沢栄一氏は、民間事業としては難しいと再三翻意を促したが、白石氏は自分は犠牲者になるつもりだと答えた。創立趣意書の段階では資本金100万円の合資会社とする予定だったが、税金などの関係で株式会社に改めた。資本金はその後150万円、200万円へと積み増されている。株式の公募は、工場を関東に置いたため大阪で人気が上がらず、約2000株が不足した。そこで公募を打ち切り、発起人が各200株ずつ引き受けて埋めた。工場用地は川崎海岸の埋立予定地15万坪を一括13万5000円で交渉し、まず3万坪を買った。1913年末には20トン平炉2基の製鋼工場と製管工場が完工した。

含意

技術を率いた今泉嘉一郎氏は後年、八幡の既成規模に比べれば微々たる小企業で始めようとしたもので、当時の民業としては冒険的な計画と見られたと振り返っている。作業を始めたのは1914年4月である。社史は創立の意義に、民間鉄鋼業の先駆的役割、未開拓の高級製品分野の開拓、インド銑への着目による原料問題の暫定的な解決の3点を挙げる。ただし高炉を持たない単純製鋼圧延会社としての出発であり、銑鉄の自給は創立以来の念願として残った。最初の高炉に白石副社長の手で火が入ったのは1936年6月11日で、ここで銑鋼一貫作業体制の端緒が開かれた。後に同社は「日本鉄鋼業の実験室」と呼ばれる。

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考察:小さな市場を選ぶという選択
考察

考察:小さな市場を選ぶという選択

創立の時点で、継目無鋼管は国内の誰も作っていない製品であった。需要が数量として小さく、特別の設備と高度の技術を要したためである。白石元治郎氏は、量が出ないと承知のうえでその一点に資本金200万円を調達し、銑鉄からの一貫生産は後回しに置いた。官営八幡製鉄所が圧倒的な地位を占める産業で、後発の民間資本が生き残る方策を、規模ではなく品目の選び方に求めた判断である。

事業が自立するまでには長い時間がかかった。第一次大戦後の反動で鋼管株は5円まで下がり、二度の減資と関東大震災を経なければならず、自前の高炉に火が入るまでに24年を要した。その間、高炉の建設計画は国策に添わないとして商工省に握りつぶされてもいる。それでも1934年の製鉄大合同に加わらずに済んだのは、鋼塊の12%を占めるまでに事業が育っていたからで、品目の選択と資金の出どころが揃って初めて、"純然たる民間会社"であり続けることができた。

Yutaka Sugiura, 2026年7月
参考文献

参考文献

参考
  • 日本鋼管株式会社五十年史(日本鋼管、1962年)第1部総合史 第1編 創業時代 第2章 わが社の創立 第5節 わが社の創立とその意義
  • 日本鋼管株式会社五十年史(日本鋼管、1962年)巻頭
  • 日本鋼管株式会社五十年史(日本鋼管、1962年)第1部総合史 第1編 創業時代 第2章 わが社の創立 第1節 大倉喜八郎の鋼管製造計画
  • 日本鋼管株式会社五十年史(日本鋼管、1962年)第1部総合史 第1編 創業時代 第2章 わが社の創立 第4節 創立運動
  • 日本鋼管株式会社五十年史(日本鋼管、1962年)第1部総合史 第1編 創業時代 第2章 わが社の創立 第2節 今泉嘉一郎の決意と苦心
  • 日本鋼管株式会社五十年史(日本鋼管、1962年)第1部総合史 第1編 創業時代 第2章 わが社の創立 第3節 白石元治郎の登場
  • 随筆日本鋼管 七十年の歩み(日本鋼管、1983年)第三章 創業時代
  • 日本鋼管株式会社五十年史(日本鋼管、1962年)第1部総合史 第1編 創業時代 第3章 創業の苦心 第1節 敷地の決定と諸準備
  • 日本鋼管株式会社五十年史(日本鋼管、1962年)第1部総合史 第1編 創業時代 第3章 創業の苦心 第2節 工場の建設
  • 日本鋼管株式会社創業二十年回顧録(今泉嘉一郎、1933年)序
  • 日本鋼管株式会社五十年史(日本鋼管、1962年)第1部総合史 第3編 地位確立時代 第3章 銑鋼一貫体制の確立
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社, 1955)第2篇 日本会社史 34_鉄鋼「日本鋼管」「概説」
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社, 1955)第1篇 会社企業発達史「戦時経済への移行期の会社」
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社, 1968)「日本鋼管」
  • 日本産業史 第1巻(日本経済新聞社, 1994年)「製鉄-苦闘重ねた先駆者」
  • 証券アナリストジャーナル 1975年13巻4号(堀切治雄常務取締役・日本証券アナリスト協会企業分析部会 1975年3月20日講演要旨)
  • 河田重「私の履歴書」(日本経済新聞社編『私の履歴書 経済人2』日本経済新聞社, 1980 所収)

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