日本鋼管広島県福山への第4の総合製鉄所の建設と、粗鋼年産600万トン計画への約2,500億円の投資
京浜の粗鋼能力350万トンで頭打ちになった会社が、既存3製鉄所の手直しで凌ぐか、埋立から新立地を起こすか
- 概要
- 1961年秋、京浜地区の粗鋼能力350万トンが限界に達した日本鋼管が、第4の総合製鉄所を広島県福山に置くと決め、1962年1月に埋立から着工した投資。最終目標は粗鋼年産600万トン・約2,500億円で、会社が当期の売上高として示した810億円の3倍を超える計画であった。
- 背景
- 川崎・鶴見・水江の京浜3製鉄所は合理化がほぼ完了し、粗鋼能力350万トンで頭打ちとなっていた。戦災からの復旧に歳月を要し、新立地への着手も後ろへずれていた。世界では生産規模と高炉の大型化が進み、赤坂武副社長は国際市場の競争に敗れれば国内市場まで荒らされるとみていた。
- 内容
- 第1期は日産3,200トン級の大型高炉1基と150トン転炉2基、全連続式80インチホットストリップミルなどで構成され、粗鋼能力は150万トンとも180万トンとも説明された。1963年度から1967年度に約1,100億円の設備資金を見込み、増資・自己資金・社債借入で3分の1ずつ賄う想定を置いた。
- 含意
- 第1期は1966年8月に総工費1,000億円強で完成し、1968年3月の第2期で粗鋼能力450万トンとなった。高度成長のもとで計画は拡大修正され、高炉5基・年産1,600万トンと世界最大の規模に育った一方、発祥の地の京浜は老朽化し、扇島への建て替えが次の課題として残った。
売上の3倍を、埋立地に置いた
会社が当期の売上高として示したのは810億円、福山ひとつの計画額は約2,500億円であった。京浜の粗鋼能力350万トンが天井に達したという事実だけなら、既存3製鉄所の手直しで数年を凌ぐ道もあったはずである。赤坂武副社長がそれを採らず、埋立から始まる新立地に売上の3倍を超える額を割り当てたのは、設備の規模そのものが国際競争の条件になるとみていたからである。槇田久生氏が「社運をかけた計画」と呼んだのは、この不釣り合いを指している。
見通しの精度が高かったわけではない。第1期の粗鋼能力は同じ日の説明で150万トンと180万トンに割れ、工業用水は600万トン体制のまま据え置かれて後年の水不足を招いた。福山が1,600万トンに届いたのは、当初の設計が正確だったからではなく、高度成長が計画を次々に拡大修正させたからである。そして福山に投資を集めた十数年の裏側で京浜の設備は老朽化し、トン当たり3倍以上の建設費がかかる扇島への建て替えが、次の課題として残った。
Yutaka Sugiura, 2026年7月
背景
350万トンという天井
日本鋼管は京浜地区に川崎・鶴見・水江の三つの製鉄所を並べ、鋼管と条鋼、厚板、薄板と品種を分けて受け持たせていた。高炉の定期修理で一つが止まっても近くの他の二つが補う、集中立地の利点も生かしていた。しかし1963年夏、水江製鉄所長の中野宏氏は、川崎地区の合理化計画がほとんど完成に近づき、粗鋼生産能力350万トンも能力いっぱいのところにあると説明している。伸ばす余地は、京浜には残っていなかった[1][2]。
新立地への着手が遅れたのには、前史がある。日本鋼管は1942年4月の初の関東大空襲で真っ先に工場を爆撃され、1945年8月の京浜空襲でも被害を受けた。槇田久生氏は、戦後の復興で同社が鉄鋼メーカーの中で一番遅れたのは空襲の打撃が最大の理由であり、福山製鉄所の建設が遅れたのも京浜地区の復興に時間がかかったことが大きいと書き残している。京浜での復旧に費やした歳月が、新立地への着手を後ろへ押していた[3]。
大型化する世界の鉄鋼業
1962年の日本の鉄鋼業は不況にあった。前年10月の金融引締めで景気調整が入り、生産財の不振がそのまま鉄鋼に及んで需要は減退し、価格は下落した。赤坂武副社長は、この集中的な打撃を鉄鋼業の宿命と呼んでいる。ただし、長期の見方は違った。世界の粗鋼生産は10年で2倍となり、1962年には3億6,400万トンと史上最高を記録した。1961年の世界の鉄鋼設備投資は約50億ドル、邦貨で1兆5,000億円に達していた[4][5]。
赤坂氏の危機感は、国際競争の形そのものに向いていた。アメリカの製鉄会社の生産規模は年産粗鋼5,000万トンから8,000万トン程度へ上がり、高炉の炉床径は8〜10メートルに及び、圧延設備は半連続式から完全連続式へ移りつつあった。国際市場の競争に敗退すれば自国の国内市場だけに後退するのみならず、その市場さえ外国の強力な競争相手に荒らされる、と赤坂氏は述べている。設備の規模そのものが競争条件であった[6][7]。
決断
第4の総合製鉄所を福山に置く
方針が決まったのは1961年の秋であった。京浜の3製鉄所に続く第4の総合製鉄所を、広島県福山に建設する。最終の目標は粗鋼年産600万トン、投じる額は約2,500億円と置かれた。1962年1月に工事へ入り、220万坪の土地造成のうち1963年7月までに約50万坪が仕上がった。海を埋めて土地をつくるところから始める、時間のかかる立ち上がりであった[8][9][10]。
計画の大きさは、当時の会社の売上高と並べると見当がつく。中野氏が示した当期の売上見通しは製鉄部門700億円と造船部門110億円の合計810億円で、福山ひとつの計画額はその3倍を超えていた。槇田久生氏は後年、当時の京浜製鉄所の粗鋼生産量は年に300万トンぐらいで、その二倍の生産量を誇る工場をつくろうという計画であったと記し、社運をかけた計画であり、赤坂氏の大英断だったと振り返っている[11][12]。
資金の割り付けと、揺れる第1期の数字
資金の手当ても同時に組まれた。福山と京浜3製鉄所の合理化を合わせ、1963年度から1967年度に約1,100億円の設備資金が要ると見積もり、1964年度に3対1、1966年度に4対1程度の増資でその3分の1を賄い、残りを自己資金と社債・借入金で3分の1ずつ充てる想定を置いた。全社の粗鋼生産計画は1967年に550万トン、1970年度には能力770万トン・売上高3,000億円と、当時の倍に届く絵が描かれた[13][14][15]。
第1期の設備は、日産3,200トン程度の大型高炉1基、150トン転炉2基、分塊設備、全連続式80インチのホットストリップミルとコールドタンデムミルで固められた。ただし第1期の粗鋼能力は、同じ日の説明でも赤坂氏が年産150万トン、中野氏が180万トンと食い違っている。赤坂氏は前年からの設備調整と減産体制の維持で工期に遅れが出たとも述べており、着工から1年半を過ぎても計画はなお揺れていた[16][17][18]。
結果
拡大修正されて1,600万トンへ
第1期は計画より早く仕上がった。1966年8月、総工費1,000億円強を投じた1号高炉・転炉2基・ホットストリップミル・コールドストリップミルが異例の工事スピードで完成する。1968年3月には約900億円の第2期工事が終わり、福山の粗鋼生産能力は450万トンとなった。高度成長の需要に押されて計画は次々に拡大修正され、高炉は5本立ち、年産1,600万トンという世界最大の能力を持つ製鉄所ができあがった[19][20]。
拡大には取りこぼしもあった。工業用水は当初の600万トン体制に合わせて手当てしてあったため、生産能力の拡大に水の確保が追い付かず、福山は後年に水不足で悩んでいる。同じ時期、川崎製鉄水島、八幡製鉄君津、神戸製鋼所加古川、住友金属工業鹿島と新鋭製鉄所が相次いで動き出した。過当競争を警戒する声と国際的な反響が起こり、1967年度からは産業構造審議会鉄鋼部会が設備調整に入った[21][22]。
順番が回ってきた京浜
1975年3月、常務の堀切治雄氏は、世界一の規模を誇る福山が高炉5基で1,600万トンの生産能力を持つ一方、発祥の地の京浜はリプレース中で生産を200万〜250万トン前後まで落としていると説明した。京浜は創業以来、空いている土地を見つけては設備を増強してきたため人家に工場が隣接し、設備も老朽化していた。全社の粗鋼生産シェアは14%程度で、会社はこの水準の維持を前提に設備計画を組んでいた[23][24]。
福山の拡充は人の配置も動かした。ピーク時に2万5,000人いた京浜製鉄所の従業員は、福山への異動と自然減によって1970年に1万8,000人へ減った。老朽化した京浜の建て替え先として選ばれた扇島は、土地造成と海底トンネル、公害対策を含めて建設費1兆円にのぼる計画となり、粗鋼1トンあたりの建設費は16万円ほどと見積もられた。5万円足らずで建った福山とは、3倍以上の開きがあった[25][26]。