THKTHKの株式店頭公開による世界市場向け資金調達体制の構築
個人資金では届かない設備投資と海外販売網を、どこから賄うか
- 概要
- 1989年11月、THKは株式を店頭公開した。創業者の寺町博社長は、直動案内の潜在需要が世界で何十倍にも広がるとみて、その需要を取りにいくための設備投資と海外販売網の費用を株式市場から賄う体制へ切り替えた。
- 背景
- LMガイドは寺町博氏が世界で初めて商品化した直線運動用の軸受で、1980年代末の国内シェアは75%に達していた。一方、潜在需要に対する浸透率は国内15%、海外2〜3%にとどまり、需要を取り込むには工場と海外拠点への先行投資が続いた。
- 内容
- 1989年11月20日に店頭公開し、初値は1万9,000円。額面50円の株式としては当時の任天堂を上回り、株価は日本一となった。寺町博氏は、上場する以上は一部まで行く前提で店頭に出すべきだと、公開の条件を語っている。
- 含意
- 公開で得た知名度は、技術のわからないユーザー企業の経営層に製品の価値を伝える材料にもなった。一方で高株価は創業者を仕手筋との株取引に引き寄せ、1997年の社長交代につながった。
需要の速度に、投資の速度を合わせる
この判断の中身は、資金調達の手段選びというより、需要をどこまで取りにいくかの設定にあったとみられる。国内の浸透率15%、海外2〜3%という数字を前にして、寺町博氏は市場が30倍になる前提で工場と海外拠点を先に用意する道を選び、その原資を創業者個人と銀行から株式市場へ移した。上場する以上は一部まで行く前提で店頭に出すべきだという助言も、店頭公開を到達点ではなく通過点として扱う考え方から出ている。
公開の効果として寺町博氏が真っ先に挙げたのが、資金ではなく「20倍ぐらいの株価をしているということで、よっぽどいいものを作っているんだなとわかってもらえた」という販売現場の変化だった点に、機械の内側にしか現れない部品を売る会社の事情がうかがえる。もっとも、その株価は創業者を仕手筋との株取引に引き寄せ、1997年1月の社長交代を招いた。1990年に本人が語った一部上場は、それから11年後の2001年2月、会長に退いた寺町博氏ではなく寺町彰博社長の手で果たされた。
Yutaka Sugiura, 2026年7月
背景
個人資金で立ち上げた直線運動の市場
寺町博氏は日本トムソンの創業社長でありながら、個人会社の名義で張った商品相場で約6億円の損失を出し、1970年7月に社長を辞任した。翌1971年4月に東邦精工を設立し、直線運動用の軸受という、どのメーカーも手をつけていなかった部品の製造・販売を始めた。回転運動にはボールベアリングが普及していたのに対し、直線運動はすべり案内が主流で、摩擦の大きさと位置決め精度に難があった。寺町博氏は鋼球が触れる軌道面に丸い切り込みを入れて線接触に変え、高荷重に耐える方式を他社に先んじて実用化した[1]。
1973年から本格発売すると機械技術者の反響を呼び、1978年に米国の大手工作機械メーカーのマシニングセンターに採用されたことで受注に弾みがついた。1982年1月の取材で寺町博氏は「年間売上高は確実に500億円まで行くでしょう」と語り、名誉回復の条件として「年間売上高1000億円と、一部上場」を挙げている。当時の東邦精工は資本金4億円、1981年3月期の売上高113億円・経常利益21億円で、日本トムソンから合流した部下には設立時に将来の上場を約束していた[2][3]。
浸透率15%の市場と、設備産業の投資負担
直動システムの用途は、NC旋盤や研削盤などの工作機械、半導体の製造装置、産業用ロボット、電子機器へ広がった。寺町博氏の見立てでは、国内の需要が潜在需要の10%を超えたのは1988年前後で、公開当時の浸透率は国内で15%、海外では2〜3%にとどまっていた。「将来は現状に比べて30倍は成長できる分野」というのが本人の読みであった。競合は5、6社に増えていたが、同社は直動システムで75%のシェアを保っていた[4]。
この需要を取り込むには、工場と海外拠点への投資が先に立つ。THKは1981年3月に米シカゴでTHK America、1982年10月に西ドイツのデュッセルドルフでTHK Europeを設立し、1985年4月にはLMガイド製造の山口工場を新設した。1984年1月には商号をTHK株式会社へ改めている。製品は特許で守られていたものの、開発と量産設備の支出は先に立ち、回収は市場の立ち上がりに従う。寺町博氏はのちに、この規模の投資を個人資金だけで賄うのは難しいと述べている[5][6]。
決断
1989年11月20日、店頭市場へ
1989年11月20日、THKは株式を店頭公開した。公開の狙いを問われた寺町博氏は「何十倍もの需要がある世界でシェアを確保していくには、相当の企業規模の拡大が必要です」と答えている。設備産業は新規開発投資に危険が伴うため、有利な資金調達が欠かせず、多少の損失が出ても十分に吸収できる調達体制を先に整えておく必要がある、というのが公開に踏み切った理由であった。株式公開は、需要の伸びに投資の速度を合わせるための手段として選ばれた[7][8]。
初値は1万9,000円をつけた。額面50円の株式としては当時の任天堂を上回り、株価は日本一となった。2カ月後には3万円を超えている。寺町博氏は「上場直後の初値が極端に高かったという印象はありません」と述べ、店頭市場に出る会社にはその業種の潜在成長力がそれほど見込まれていない例もあるが、直動システムの潜在需要は世界の水準でみれば極めて大きい、と株価の水準を説明した。市場は、まだ浸透率が15%に届かない部品の将来に値をつけたことになる[9]。
一部上場を前提に店頭へ出す
寺町博氏は、これから店頭公開を考える企業への助言として「上場する以上は、1部まで行って上場のメリットを最大限に生かせる大前提で店頭に出すべきでしょう」と語った。上場には決算書の作成をはじめ余分な経費と神経が要り、公開株を買ってもらうことで経営責任はより重くなる。店頭にとどまり続ければ経費の負担で他社よりコストがかかり、競争力が弱まって潰されてしまう、というのがその理由であった。店頭公開は到達点ではなく、一部上場までの経路の一部と考えられていた[10]。
もう一つ挙げたのが社内の合意であった。「従業員全員が一致して、なぜ上場するのかという方向づけをしておかないといけない」。社長が上場して働こうと考えても、公開した途端に従業員が持ち株を売り抜けかねず、好況のうちは表面化しなくても不況になれば起きやすい、というのが寺町博氏の懸念であった。日本トムソン時代からついてきた部下に設立時に約束した上場は、辞任から19年を経てこの形で果たされた[11]。
結果
公開が変えたもの、株価が招いたもの
公開によって何が変わったかを問われた寺町博氏は、資金ではなく販売の場面を挙げた。技術者はTHKの製品の良さを理解していたが、技術のわからない経営者には使ってもらうまでの説得に時間がかかっていた。それが「今回の上場で20倍ぐらいの株価をしているということで『これは、よっぽどいいものを作っているんだな』とわかってもらえた」。ユーザー企業の社長やトップ層が製品の価値に気づいた、というのが公開直後の実感であった。株価が、部品メーカーの説明を代行した[12]。
一方、高い株価は別の形で経営に跳ね返った。1997年1月27日、寺町博氏は代表権のない会長に退き、長男の寺町彰博氏が社長に昇格した。自動車部品メーカーTDF株の決済をめぐるトラブルが引き金で、寺町博氏は同年2月の取材に、仕手筋として知られた人物からTHK株を買い支えてもらっていたと答えている。幹事証券の野村証券と全面対決するには社長を退く必要があった、というのが本人の説明であった。公開企業の株価は、創業者個人の取引にも跳ね返った[13]。
12年後の東証一部
2001年2月、THKは東京証券取引所市場第一部に上場した。1989年の店頭公開から12年、寺町博氏が公開の前提として挙げた一部上場は、創業者が経営の一線を退いたあとに実現した。同じころのLMガイド事業は半導体製造装置・工作機械・ロボットの設備投資に連動して伸び、連結売上高は2003年3月期の945億円から2004年3月期に1,192億円、2005年3月期には1,471億円へ増えた。経常利益も同じ2期で158億円、276億円と増えている[14][15]。
1982年に寺町博氏が名誉回復の条件として挙げた二つの数字は、順に満たされた。一部上場は2001年2月、連結売上高1,000億円の突破は2004年3月期である。日本トムソンの社長を辞任した1970年から数えて、前者に31年、後者に34年かかった。公開の翌々年にあたる1991年6月にはLMガイドと特殊軸受を製造する山形工場を新設し、1992年8月にはアイルランドのボールねじメーカーPGM Ballscrews Irelandを買収している。寺町博氏が1990年に語った「30倍」の市場観に沿って設備が先に積み上がる形が、その後の投資の型になった[16][17][18]。
- 日経ビジネス 1982年1月25日号(日経マグロウヒル社)
- 日経ビジネス 1990年2月12日号「株価日本一は当然。もっと伸びます」
- 週刊東洋経済 1997年2月22日号「[特別レポート]TDF株の怪 社長辞任の真相 渦中の寺町博THK会長に直撃」
- 証券調査 349号(新日本証券調査センター, 1999年10月)
- THK 有価証券報告書 第56期(2025年12月期)【沿革】
- THK 有価証券報告書 第36期(2005年3月期・連結)