この判断の中身は、資金調達の手段選びというより、需要をどこまで取りにいくかの設定にあっただろう。国内の浸透率15%、海外2〜3%という数字を前にして、寺町博氏は市場が30倍になる前提で工場と海外拠点を先に用意する道を選び、その原資を創業者個人と銀行から株式市場へ移した。上場する以上は一部まで行く前提で店頭に出すべきだという助言も、店頭公開を到達点ではなく通過点として扱う考え方から出ている。
公開の効果として寺町博氏が真っ先に挙げたのが、資金ではなく『20倍ぐらいの株価をしているということで、よっぽどいいものを作っているんだなとわかってもらえた』という販売現場の変化だった点に、機械の内側にしか現れない部品を売る会社の事情がうかがえる。もっとも、その株価は創業者を仕手筋との株取引に引き寄せ、1997年1月の社長交代を招いた。1990年に本人が語った一部上場は、それから11年後の2001年2月、会長へ就任した寺町博氏ではなく寺町彰博社長の手で果たされた。