加賀電子店頭登録から1年での東証二部上場と、無借金・在庫レス経営の公開

借りない会社が、なぜ資本市場に自社の帳簿を開いたか

時期 1985年12月
意思決定者(推定) 塚本勲 社長
論点 資本市場との関係と成長資金
概要
1985年12月4日、加賀電子は東京店頭市場へ株式を公開し、社団法人日本証券業協会・東京地区協会に株式を登録した。創業17年、資本金100万円の個人商店から始まった独立系の電子部品商社が、無借金・在庫レスという創業以来の商法を資本市場の検証に開いた判断である。
背景
創業時に運転資金がなく在庫を置けなかったため、顧客の注文を受けてから同業者に発注し、代金を回収してから仕入先に支払う受発注方式が定着した。1980年代に入り自社ブランドTAXANの海外販売網が米欧へ広がると、資金需要と信用力の裏づけがともに必要になった。
内容
1985年6月に本店を千代田区外神田六丁目へ移し、同年12月に英国子会社の設立と株式の店頭登録を同時に実施した。塚本勲社長は翌1986年2月の日本証券アナリスト協会企業分析部会で、無借金の由来・受発注方式・米国売掛金15日分という内実を自ら数字で説明した。
含意
講演で塚本社長が語った東証二部上場の目標時期は創業20周年の1988年であったが、実際の上場は1986年12月と2年早まった。1997年9月には東証一部へ指定替えとなり、公開時に示した無借金の規律は2019年3月期の大型買収まで維持された。
筆者の見解

帳簿を見せることが商品になった会社

株式公開は、多くの会社にとって資金を集めるための手続きである。加賀電子の場合、集めた資金より、開示そのものが持つ意味のほうが大きかったようにみえる。1986年2月の講演で塚本社長が投資家に語ったのは、扱う半導体の性能でも将来の市場規模でもなく、売掛金15日分・在庫1カ月分という自社の回転の速さであった。資金がないところから始まった会社が、資金の回し方を最大の説明材料に選んだところに、この公開の性格がうかがえる。

上場の効果は、目標時期の前倒しとなって早々に表れた。創業20周年をめどとしていた東証二部上場は2年早まり、その11年後には一部へ移った。もっとも、公開によって同社が背負ったのは資金だけではない。四半期ごとに帳簿を外に出す会社になった以上、無借金という規律も外から数えられる対象になった。有利子負債が325億円に達した2019年3月期、市場が見たのは規律の放棄ではなく、業界2位への買収資金であった。

Yutaka Sugiura, 2026年7月

背景

借りずに回す商法の完成

加賀電子の商法は、資金がなかったことから生まれた。塚本勲社長は1968年2月、金沢の実家の父から50万円を借りて東京・神田で個人創業し、同年9月に資本金100万円で法人登記した。事務所の設営で30万円ほどを使い果たし、在庫を置く運転資金は残らなかった。そこで、顧客から注文を受けて部品メーカーを選び、同業者に発注して商品を仕入れ、顧客に届けて代金を回収し、その条件で仕入先に支払う受発注の仕組みを採った。賞与資金や配当資金は銀行から借りても、自社の固定預金を超えて借りたことはない。この無借金経営が創業以来の規律となった[1][2]

品目を絞らなかったことも同社の特徴である。塚本社長は大手の半導体商社との違いを、部品メーカーの販売代行より顧客の購買代行に重きを置く点に求めた。顧客はIC・コンデンサー・スイッチ・プリント基板とあらゆる商品を求めてくるため、どれでも扱える体制を保った。1986年2月時点で仕入先は500社以上、顧客は1,600〜1,700社に達し、半導体の売上比率は前期45%から当期32%程度へ動いた。加えて1983年ごろからは、顧客の設計を助ける技術商社としての顔を打ち出し、社外の技術集団を含めて300人近い技術者と組む体制を整えた[3][4]

TAXANブランドが広げた資金需要

1980年代に入ると、同社は工場を持たないメーカーの顔も持った。自社ブランドTAXANを設け、1981年7月に米ロサンゼルスへ資本金95万米ドルの全額出資子会社TAXAN CORPORATIONを設立、1985年12月には英国に資本金30万ポンドのTAXAN(UK)LTD.を置いた。米国では1985年10月にニュージャージー、1986年1月にテキサス州ダラス、2月にシカゴと出先を相次いで開き、企画・開発は社内、生産は外部という分担でCRTディスプレイを売った。英国圏ではTAXANとKAGAの両ブランド合計でシェア18%を占め、フィリップスを上回った[5][6]

拠点をどこに置くかは、経営陣が指示したものではなかった。塚本社長の説明では、平均年齢25歳未満の社員が自ら市場調査をして「ここにつくればもうかります」と申し出る方式を採り、三度目までの失敗はとがめなかった。国内15カ所・米欧の拠点はこうして増えた。業績も伸び、単体売上高は1982年3月期の145億円から1984年3月期227億円、1986年3月期301億円へと4年で2倍を超えた。手元資金だけで拠点網と在庫回転を賄う限界が近づき、成長資金の調達手段を制度として持つ必要が生じていた[7][8]

決断

1985年12月4日、東京店頭市場へ

1985年6月、加賀電子は本店を東京都千代田区外神田六丁目へ移し、創業の地である秋葉原に戻った。同年12月4日、東京店頭市場に株式を公開し、社団法人日本証券業協会・東京地区協会へ株式を登録した。同じ12月には英国のTAXAN(UK)LTD.を設立しており、欧州販売の足場づくりと資本市場への登録が同じ月に並んだ。公開後の株価は順調に推移し、業績も当初の予想を若干上回る見通しとなったと、塚本社長は公開の2カ月後に語っている[9][10]

公開から2カ月後の1986年2月14日、塚本社長は日本証券アナリスト協会企業分析部会に招かれ、東京で講演した。そこで語られたのは商品の説明ではなく、資金繰りの内実である。米国では売掛金を1カ月後に回収する慣習があり同業は45〜60日分を抱えるが、加賀電子は常時15日分ほどしか持たない。在庫も日本からの船積み2週間分を含めて1カ月分で回している。塚本社長は、この売掛金と在庫の状態を金融機関に見せると「こんなに良い状態の会社はない」と感心されると述べた。借入で膨らませない商法そのものを、投資家に向けた説明材料に据えていた[11]

東証二部への申請を2年早める

同じ講演の質疑で、塚本社長は東証二部上場についての考えを聞かれた。答えは、社内では創業20周年にあたる1988年を上場時期の目標としてきた、できるだけ早い時期に業績の推移を見ながら申請する社内の体制づくりを進めている、というものであった。同席したアナリストには、当期の見通しも数字で示した。売上高290億円・経常利益13億5,000万円の計画に対し、売上高は300億円を超える勢い、経常利益は16億5,000万円程度、当期利益は7億5,000万〜7億6,000万円になるという内容である[12][13]

経営の内側を外へ出すことに、塚本社長は抵抗を示さなかった。会社経営は公明正大に公私混同せず、オープンにすべきというのが本人の信条である。株式公開は、この考えを制度として担保する選択でもあった。そして東証二部への上場は、講演で語った1988年の目標より2年早い1986年12月に実現した。1985年12月の店頭登録から1年、創業からは18年であった。円高が進み国内顧客から値引き交渉が出始めた時期に、同社は市場からの評価を先に取りにいった[14][15]

結果

二部から一部へ、11年

東証二部上場から10年余りを経た1997年9月、加賀電子は東京証券取引所市場第一部へ指定替えとなった。創業から29年での一部上場である。この間に同社は1992年の香港を皮切りにシンガポール・台湾・中国・タイへ現地法人を置き、顧客である日本の電機メーカーの海外生産に合わせた調達網を自前で組んだ。店頭公開時に整えた資金調達の手段は、この拡張の裏づけとなった[16][17]

上場会社としての信用は、商権の取得にも使われた。1990年4月にナグザット(現・加賀テック)を子会社化し、1993年1月には巴商会からアップルコンピュータ製品の営業部門を譲り受けて情報機器の流通にも入った。1991年に電子デバイス部を分社して加賀デバイスを設けるなど、事業分野ごとに会社を分ける構造も整えた。2001年には連結売上高が1,000億円を超え、創業時に母が口にした年商100億円という数字の10倍に達した[18][19]

33年守られた「借りない」条件

公開時に投資家へ示した無借金という規律は、その後も長く保たれた。塚本社長が講演で挙げた「在庫は罪の子」[20]の言葉どおり、注文を受けてから仕入れる原則はグループ拡大後も維持された。効き目がはっきり出たのは2008年秋の金融危機である。2009年3月期の加賀電子は連結売上高2,736億円・当期純損失8億円と創業以来初の赤字を出したが、売上が2割から3割減った同業に比べれば傷は浅く、在庫の評価損で身動きが取れなくなることはなかった[21]

その規律が初めて崩れたのは2019年3月期である。富士通エレクトロニクスの買収資金を賄うため、同期末の有利子負債は325億円と前年比3.8倍に膨らんだ。1985年に「借りない会社」として市場に登場した企業が、借入を前提とする買収に動くまで33年を要した。店頭公開の時点で示した経営の型は、規模を一段変える買い物の前でようやく書き換えられた[22]

出典・参考

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