東京応化工業東証二部への株式上場と生産能力投資の資金基盤の確保
寡占の責任か、増産の原資か——創業50年目に非公開をやめた理由
- 概要
- 1986年7月30日、東京応化工業は東京証券取引所市場第二部へ株式を上場した。1936年の創業、1940年の法人化から数えて46年目の公開であった。半導体用フォトレジストで国内シェアの7割強を握りながら、資本金5億円台・従業員700人規模で走ってきた会社が、株式市場を投資原資の一つに加えた。
- 背景
- フォトレジストは劣化しやすく、全国を数ブロックに分けて生産拠点を置く工場網が要る。同社は相模・宇都宮に続き熊谷・阿蘇と工場を増やしていた。同じ時期に国内大手と外資が相次いでレジスト市場へ参入し、研究開発と設備の双方に資金を回し続ける必要が高まっていた。
- 内容
- 上場に際して伊藤毅雄社長が挙げた理由は資金ではなく、寡占の立場に見合う社会的責任であった。上場時の規模は従業員800人、売上高370億円(今期見込)。製品別ではフォトレジスト36%、化成品27%、印刷材料15%と続き、輸出比率は総売上高の3%程度にとどまっていた。
- 含意
- 上場の翌年度から、御殿場工場の新設と米国法人の設立が続く。利益と銀行借入だけで研究開発と工場網を賄う段階は、この時期に終わった。ただし調達資金の使途を同社自身が語った記録はなく、資金基盤の確保という読みは後の事実から遡って与えたものにとどまる。
寡占を守るための財布
この上場を、増産資金の手当てとだけ読むのは早い。伊藤毅雄社長が理由に挙げたのは資金ではなく、フォトレジストで70%強、精製水酸化カリウムで90数%という寡占の立場に見合う社会的な責任であった。多数の顧客の企業秘密を預かり、製品が一つ狂えば翌日に数億円の損害を与えかねない事業を、非公開のまま続けることへの居心地の悪さが経営の側にあったとみられる。上場は資金の調達より先に、寡占という立場の申告であった。
もっとも、調達した資金を何に充てたかを、同社自身が語った記録は残っていない。伊藤社長が述べたのは寡占と責任であり、設備投資の計画額でも増資の使途でもなかった。上場した年の売上見込みは前期の430億円から370億円へ落ちていた。資金基盤の確保という読みは、翌年の御殿場工場と米国法人という後の事実から遡って与えたものにすぎない。それでも、市況の谷で手を止めずに済む財布を持つことが、寡占を守る条件になっていたとはいえる。
Yutaka Sugiura, 2026年7月
背景
予算を持たない研究開発と、利益に縛られた原資
1984年の東京応化工業は、資本金5億1150万円、従業員700人、売上高252億3100万円の中堅企業であった。日本電気や日立製作所といった納入先と並べれば小さな会社ながら、半導体用フォトレジストではネガ型で国内シェアの7割強を占め、内外の大手化学メーカーを抑えていた。得意な技術を最も生かせる分野を選んで深耕するという方針を、伊藤毅雄社長は創業以来の型として語っている[1]。
その技術を支えていたのは、予算という枠を持たない研究開発であった。長島藤夫専務は「利益を食い潰さない限り金はどんどん出す」と述べ、研究開発費の大枠さえ決めていないと明かしている。伊藤社長も「他の部門でケチってでも開発部門にカネを回す」と語り、中長期の計画も立てていなかった。支出の額を先に決めない経営は、稼いだ利益と銀行借入という原資の厚みに、そのまま縛られる形でもあった[2]。
全国分散の工場網と、大手・外資の参入
生産の側でも資金の要る計画が動いていた。フォトレジストは劣化しやすく、作られてから使われるまでの日数が短いほど品質が保たれる。同社は全国を数ブロックに分けてブロックごとに生産拠点を置く工場網を構想し、相模事業所と宇都宮工場に加えて熊本県一の宮町に新工場を建て、兵庫県生野町でも着工を控えていた。地方工場網の完成は、5年後を目標に掲げられていた[3][4]。
同じ時期、レジスト市場には大手が相次いで参入していた。国内では日本合成ゴム・住友化学・日立化成、外資ではコダック・シプレイ・ハントケミカルが日本に工場を構え、生産メーカーは十数社に達した。年率20〜30%とされる成長性に引かれた動きで、競争の激化は避けられない見通しであった。研究開発と工場網の双方に資金を回し続ける必要が、上場前の数年で高まっていた[5]。
決断
1986年7月30日、東証二部への上場
1986年7月30日、東京応化工業は東京証券取引所市場第二部へ株式を上場した。1936年の創業、1940年の法人化から数えて46年目の公開にあたる。伊藤社長が上場の理由として挙げたのは、資金ではなく責任の言葉であった。製品の多くがファインケミカルで業界シェアが高く、ほとんど寡占の状態にあることから、会社の存在を社会に認めてもらい責任を果たしたいと述べている[6][7]。
上場時点の規模は従業員800人、売上高370億円(今期見込)であった。製品別の売上構成比はフォトレジスト36%、化成品27%、印刷材料15%、プロセス機器14%、特殊化学材料等8%で、フォトレジスト関連のシェアは70%強、精製水酸化カリウムは90数%を占めていた。輸出比率は前年度で総売上高の3%程度にとどまり、収益の大半を国内の需要に負っていた[8][9]。
市況の谷で公開に踏み切る
上場は業績の上り坂ではなく、踊り場の時期に行われた。1985年11月期に売上高430億円・経常利益116億円をあげた同社の売上見込みは、上場した年には370億円へ後退している。半導体の貿易摩擦と円高が重なるなかで、伊藤社長は量的にはそれほど落ち込んでいないとしつつ、円高による価格への影響が大きいため慎重に対処しなければならないと述べていた[10][11]。
それでも研究開発の手は緩めなかった。伊藤社長は不況下の方針を、研究開発に全力をあげながら様子を見ていくと説明し、1メガ・4メガの半導体への対応はすでに相当進展していると語っている。次の世代の設計基準に合うレジストを先に用意しておかなければ、量産が戻ったときに納入先を失う。市況の谷でこそ支出を続ける必要が、資金の基盤を厚くする動機として働いていたとみられる[12]。
結果
上場翌年度の設備投資と海外法人
上場の翌年度から、投資は目に見える形で動いた。1987年3月に米国法人OHKA AMERICA, INC.を設立し、同年6月には御殿場工場を新設して国内の生産能力を積み増している。海外について伊藤社長は上場時、アメリカの工場に製品を持ち込んですぐにうまくいくわけではないと慎重な見方を示していたが、その慎重さは進出そのものを退けるものではなかった[13][14]。
拠点の設置はその後も続いた。1987年9月に英国のオーカ(ユー・ケー)社、1989年4月にTOK INTERNATIONAL INC.を置き、輸出比率が3%程度にとどまっていた会社が数年で欧米に足場を持つ形へ移っている。予算の枠を設けない研究開発と、劣化しやすい材料を各地で作り分ける工場網という二つの支出を、利益と借入だけで賄う段階は、この時期に終わったとみることができる[15]。
- 日経ビジネス 1984年10月15日号「フォトレジスト深耕で巨人になった東京応化工業」
- 証券アナリストジャーナル(1986年10月号、24巻10号)
- 東京応化工業 有価証券報告書【沿革】
- 東京応化工業 有価証券報告書(1985年11月期・単体)