MARUWA日本証券業協会への株式店頭登録と、増資資金によるマレーシア第3工場の建設

利益は出ていた同族会社が、なぜ設立22年目に外部株主を迎えたか

時期 1995年8月
意思決定者(推定) 神戸誠 社長
論点 資本市場への初進出と海外生産能力の増強
概要
1995年8月22日、丸和セラミック(現MARUWA)は日本証券業協会に株式を店頭登録した。設立から22年での公開であった。社長・神戸誠氏は公開の是非に随分迷ったと述べながら、増資で得た資金の一部をマレーシア子会社の第3棟目の工場建設に充てる方針を示した。同族の会社が外部株主を迎えた最初の判断であった。
背景
1989年12月のマレーシア生産子会社を皮切りに、台湾・韓国・ドイツへ拠点を広げていたが、投資はほぼ自己資金で賄っていた。1995年3月期の連結売上高は58億円。世界の各ブロック圏に生産と販売を置くという構想を自前で支えるには、まだ小さい会社であった。
内容
店頭登録にあわせて増資を行い、調達した資金の一部をマレーシア子会社の第3棟目の工場建設に投じた。丸和セラミックは早くから社員に株式を持たせており、神戸誠氏は公開を社員のこれまでの働きに報いる機会とも語った。
含意
第3棟は1996年3月に稼働し、連結売上高は58億円から74億円へ伸びた。店頭登録は1998年12月の東証・名証二部上場、2000年3月の一部指定へ続いた。一方で筆頭株主は創業家側にとどまり、所有の構造そのものは動かなかった。
筆者の見解

手放したのは株式ではなかった

この店頭登録を、海外工場の資金を集めるための調達手段と読むだけでは足りない。神戸誠氏自身が「利益も十分出ていたし、公開すべきか否か随分迷いました」と述べているとおり、資金に詰まっての公開ではなかった。芯にあるのは、私情に流されるようでは公開した意味がないという言葉の側で、同族の裁量で決めてきた会社を、外部株主に説明のつく会社へ作り替える判断であったとみることができる。

もっとも、それで創業家の支配が薄まったわけではない。公開から2年半後の1998年3月末でも筆頭株主は丸和合名会社の31.6%で、神戸姓の個人株主が上位に並び、社長も神戸誠氏のままであった。入れ替わったのは所有ではなく、資金の使い道を外へ説明する義務の方だったといえる。同族の会社が資本市場に入るとき、最初に手放すのは株式ではなく、説明しないでいられる自由なのかもしれない。

Yutaka Sugiura, 2026年7月

背景

チップ基板で得た世界シェア

丸和セラミックは1973年4月、通信機器向け特殊磁器の生産を目的に愛知県瀬戸市祖母懐町で設立された。1946年に父が興した陶磁器の丸和合資から分かれた会社で、設立と同時に父が退き、兄が社長、神戸誠氏が専務として製造と営業を受け持った。神戸誠氏は当時伸びていた京セラのアルミナ基板に将来性を見て、それをやらせてくれるならという条件で家業に入った[1][2]

当初の主力は父の代からの固定抵抗器用セラミックで、同業7社のうち4番目から5番目まで伸びたところで販売が頭打ちになった。行き詰まりを破ったのは、得意先から持ちかけられたチップ抵抗器用基板であった。碁盤の目のように刻んだスリットを均一に割る技術に全力で取り組み、「チップの丸和」と呼ばれる評価を得た。1995年3月期の品目別構成比では電子回路用セラミックが58.8%を占めていた[3][4]

資本市場より先に出ていた海外拠点

海外への出方は資本市場への進出より早かった。1989年12月にマレーシアへ生産子会社を設け、同月には台湾に、1993年7月に韓国に、1994年11月にドイツに販売子会社を置いた。神戸誠氏は世界の各ブロック圏に生産拠点と販売拠点をくまなく置き、政治経済や為替相場が動いてもやっていける会社をつくると語り、欧州と北米自由貿易協定地域にも早く生産拠点を設ける計画を示していた[5][6]

その投資は自前の資金でまかなってきた。利益のほとんどを人材の育成と機械に投じ、社屋にまで手が回らず、貧弱な建物を見て逃げ出した就職希望者もいたと神戸誠氏は後年語っている。1995年3月期の連結売上高は58億円、経常利益11億円で、利益そのものは出ていた。ただ、各ブロック圏に生産と販売を並べる構想を自己資金だけで支えるには、規模が足りなかった[7][8]

決断

迷った末の店頭公開

1995年8月22日、丸和セラミックは日本証券業協会に株式を店頭登録した。設立から22年であった。神戸誠氏は「利益も十分出ていたし、公開すべきか否か随分迷いました」と述べており、資金繰りに追われての公開ではなかった。それでも踏み切った第一の理由は資金調達で、公開に際しての増資で得た資金の一部をマレーシア子会社の第3棟目の工場建設に投入すると明言していた[9][10][11]

第二の理由は社員であった。丸和セラミックは早くから社員に株式を持たせ、持株会への参加が広がっていた。公開でいちばんうれしかったのは年配の社員から「社長のおかげで大きな財産ができました」と言ってもらえたことだと、神戸誠氏は振り返っている。1998年3月末の株主名簿では従業員持株会が2.4%を保有し、第4位の株主に並んだ[12][13]

同族会社をやめるということ

公開は経営の作法も変えた。神戸誠氏は「ファミリーカンパニーから脱したことで、僕自身は本当に厳しくなった」とし、調達した資金はすべて会社のプラスになることに使う、あらゆる経営判断も会社のプラスになるかどうかが基準で、私情に流されるようでは公開した意味がない、と述べている。同族の裁量を自分から縛る言い方であった[14]

ただし、支配そのものが移ったわけではなかった。1998年3月末の筆頭株主は丸和合名会社で31.6%を保有し、神戸芳樹氏3.1%、神戸誠氏2.9%、神戸節也氏2.1%と創業家の個人株主がこれに続いた。外部株主を迎えながら、創業家側が3分の1を超える議決権を握ったまま資本市場に入った形であった[15]

結果

マレーシア第3棟と、5年での一部指定

増資資金を充てたマレーシア子会社の第3棟目の工場は1996年3月に稼働し、現地の生産能力は5割ほど増える見通しであった。連結売上高は1995年3月期の58億円から1996年3月期は74億円へ、経常利益は11億円から17億円へ伸びた。海外生産を厚くする投資と業績の伸びが同じ時期に重なった[16][17]

資本市場での格上げも続いた。1998年12月に東京証券取引所と名古屋証券取引所の市場第二部へ上場し、2000年3月には両取引所の市場第一部に指定された。店頭登録から4年7カ月での一部指定であった。1999年8月には商号を丸和セラミックから MARUWA へ改め、2000年12月にはロンドンとシンガポールの両証券取引所にも上場している[18]

出典・参考
  • 証券アナリストジャーナル 1995年 第33巻第10号 別冊付録「企業」『丸和セラミック』(神戸誠)
  • 東海総研マネジメント 1996年4月号(通巻99号)「丸和セラミック社長 神戸誠」
  • 証券 1999年2月号(第51巻第2号・通巻599号)
  • MARUWA 有価証券報告書【沿革】

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