GMOインターネットグループ独立系インターネット接続事業者として初の店頭公開
大手資本の出資を受けずに、インターキューはどうやって1999年の店頭市場へ出たか
- 概要
- 1999年8月27日、インターネット接続事業のインターキュー(現GMOインターネットグループ)が店頭市場へ株式を公開した。独立系のインターネット接続事業者としては日本で初の店頭公開で、証券コードは9449。公募価格4,200円に対し初値は21,000円をつけ、時価総額は1,200億円に達した。
- 背景
- 同社は1995年12月にダイヤルQ2の決済機能を用いた接続サービス「interQ」を始め、1997年11月にホスティング事業を加えていた。1997年12月に熊谷正寿社長直轄の公開準備チームが発足し、1998年には2051年に売上高10兆円を掲げる「55ヵ年計画」を定めていた。
- 内容
- 公開準備チームは社長を除く4名で、全員が公開実務の未経験者であった。主幹事証券・監査法人・会計事務所の支援を受けながら、発足から1年8か月で店頭登録に到達した。売上と利益を毎月積み上げる保守的な事業計画が審査を通す条件となった。
- 含意
- 当時のインターネット関連企業は大手商社や通信会社の出資を経て公開へ向かうことが多かったなかで、同社は接続とホスティングという課金型の事業から出た売上と利益で要件を満たした。公開翌月にはドメイン事業を加え、接続・ホスティング・ドメインの三層が揃った。
4,200円と21,000円のあいだ
公募価格4,200円と初値21,000円の差は、1999年夏の市場がインターネットという言葉に付けた値段であった。ただ、その値段を受け取れたのは、ダイヤルQ2の課金網を接続料の回収に転用し、加盟者にアクセスポイントを持たせて設備投資を外へ逃がし、月次で利益を出し続けた4年間があったからでもある。公開準備を担ったのは社長を含めて5名、うち4名は実務の未経験者であった。制度に通じた人材を揃えてから動くのではなく、走りながら書類を埋める進め方で店頭市場に届いた点に、この会社の速さがうかがえる。
公開はまた、後の判断の前提を作った。株式という対価を手にした同社は、翌年には子会社を別の市場へ出し、その後は株式交換で会社を迎え入れることを常態にした。1999年に得たのは1,200億円という評価額よりも、資本市場を繰り返し使ってよいという許可であったといえる。2005年6月に東証一部へ移って階段を上りきったその年の秋、同社は金融事業への参入を決め、公開で積み上げた信用を別の種類の賭けに投じることになる。
Yutaka Sugiura, 2026年7月
背景
転業から4年、課金の通る接続事業
インターキューの前身は、1991年5月に熊谷正寿氏が設立したボイスメディアである。ダイヤルQ2を使った双方向通信の企画・開発と機器販売を営んでいたが、1995年11月に商号をインターキューへ改め、インターネット接続へ転業した。同年12月に始めた接続サービス「interQ」は、ダイヤルQ2の決済機能を用いることで、IDの郵送もクレジットカード登録も要さずに使えた。料金は1分20円で、加盟企業や個人にアクセスポイントを設置・運営させて接続料収入を分ける方式を採り、開始から1か月半で拠点は全国51か所に増えた[1][2]。
1997年11月にはレンタルサーバー事業を加え、本店を渋谷区桜丘町へ移した。接続とホスティングはいずれも月次で課金が立つ事業で、公開審査に必要な売上と利益を毎月積み上げられる形をとっていた。翌1998年、熊谷氏は2051年に売上高10兆円・経常利益1兆円を目指す「55ヵ年計画」を定めた。売上規模が10億円台の未公開企業が半世紀先までの定量目標を持ったことになり、株式公開はその計画の途中に置かれた通過点として社内で共有された[3][4]。
新興市場が整う前の公開ルート
1999年当時、新規に株式を公開しようとするベンチャーが選べる市場は限られていた。東証マザーズと大証ナスダック・ジャパンという二つの新興市場が公開の敷居を下げたと語られるようになるのは、インターキューの公開より後のことである。赤字でも公開できるといわれる以前の店頭市場では、売上と利益を出しているかどうかが審査の中心にあった。公開準備の実務を担った島影将氏は、インターキューが公開できた理由として「売り上げと利益がきちっと上がっていたこと」を挙げている[5]。
準備そのものも手探りであった。公開準備のプロジェクトチームが動き出したのは1997年12月ごろで、本格稼働は翌1998年3月にずれ込んだ。熊谷氏がリーダーを務める社長直轄の体制だったが、辞令もないまま始まり、社長を除く4名のメンバーは全員が公開実務の未経験者であった。中央監査法人(後の中央青山監査法人)と会計事務所の支援を受け、日本証券業協会や財務局へ出す書類を一から組み上げていった[6]。
決断
1999年8月27日、店頭市場へ
1999年8月27日、インターキューは店頭市場へ株式を公開した。証券コードは9449。独立系のインターネット接続事業者としては、日本で初めての店頭公開であった。公募価格4,200円に対して初値は21,000円と5倍をつけ、同社の時価総額は一夜にして1,200億円に達した。準備チームの発足から数えて1年8か月、実務を担った島影氏が入社してからは2年と2日の到達である[7][8]。
公開の日取りを動かさなかったのは熊谷氏である。準備作業に追われた実務側から延期を求める声が出ても、同氏は全社員の前で公開すると言い続け、計画をずらさなかった。島影氏は成功の要因として、経営トップの意志と「出られるときに出る」という判断の二つを挙げている。米国のNASDAQが好調でインターネット関連銘柄に資金が向いていた時期にあたり、その追い風は主幹事証券の審査にも働いたとみられる[9]。
店頭公開の実務と、翌月に足した三層目
店頭公開の申請書類には、当時「Ⅱの部」と呼ばれる分厚い一式があり、後の新興市場向けの手続きより作業量が多かった。監査は中央監査法人(後の中央青山監査法人)が受け持ち、書類の作成と全体の助言はアタックス今井会計グループが、証券印刷は宝印刷が担った。日本証券業協会と財務局へ出す書類は誤字も許されず、担当者は連日会社に泊まり込んだ。未経験の4名が期日を守れたのは、外部の実務家を早くから巻き込んだためであった[10]。
公開から1か月後の1999年9月、インターキューはドメイン事業を始めた。接続、ホスティング、ドメインという三つの層が揃い、インターネットを使う側が毎月払い続ける領域を一通り押さえる構えとなった。同じ時期、広告売上を伸ばして短期での公開を狙う後発のインターネット企業が相次いだのに対し、同社は課金の続く事業を並べる道を選んだ。公開で得た資金と知名度は、この積み上げにそのまま向けられた[11]。
結果
上場企業という通貨
公開の翌年、2000年12月期の連結売上高は79億8,000万円、当期純利益は11億9,000万円であった。規模としては時価総額1,200億円との開きが大きいが、公開で得たのは資金だけではなかった。2000年9月には設立から1年に満たない連結子会社まぐクリックを大証ナスダック・ジャパン市場へ上場させ、2001年5月にはホスティングのアイルを株式交換で完全子会社化した。株式を対価に会社を迎え入れる手段は、公開企業になって初めて使えるものであった[12][13]。
市場そのものも移していった。2001年4月に商号をグローバルメディアオンラインへ改め、2004年2月に東京証券取引所市場第二部、2005年6月に同市場第一部へ上場した。1999年の店頭公開から6年で、店頭・東証二部・東証一部という三段の階段を上りきったことになる。安田昌史氏は2005年6月の一部指定替えを「上場イベントの仕上げ」と表現している[14][15]。
- ITmedia エンタープライズ 2001年5月15日「公開未経験者だけで成し遂げたIPO:From Netinsider(29)」
- ITmedia エンタープライズ 2001年5月22日「成功者が語るIPO攻略の秘けつ:From Netinsider(30)」
- ITmedia ビジネスオンライン 2022年10月28日「債務超過で「突然の経営危機」──GMO安田CFOが、乗り越えられた理由」
- GMOインターネットグループ 有価証券報告書【沿革】
- インターキュー 有価証券報告書(2000年12月期・連結)
- GMOインターネットグループ社史「プロバイダ革命──「interQ ORIGINAL」が切り拓いた世界への扉」
- GMOインターネットグループ 経営方針「熊谷正寿が語るグループ成長戦略・事業戦略」