はごろもフーズ創業から69年を経ての東証2部上場
借入で足りる会社がなぜ市場へ出たか——「三代目は会社をつぶす」と言われないための備え
- 概要
- 2000年2月、はごろもフーズが東京証券取引所市場第二部へ株式を上場した。1931年の創業から69年、戦後再起の法人設立から53年を経ての株式公開であり、創業家による非公開経営を長く続けた同社にとって資本政策の転換にあたる。
- 背景
- 資本金は1億円に満たず、静岡銀行との関係が良好で事業に必要な資金は借入で賄えていた。一方でシーチキン一本に依存した収益は原料相場に振られ、輸入ツナ缶の流入も続き、新事業を興す資金と人材の確保が課題として残っていた。
- 内容
- 2000年2月9日に東証2部へ上場。後藤康雄社長は「21世紀における果敢な事業展開を図るべく、会社を公開し体力を強化しておこう」と説明した。公開で得た資金は無菌包装米飯工場(サンライズプラント)の建設に充てられた。
- 含意
- 上場後も創業家関連の財団と持株会が発行済株式の過半に近い比率を保ち、資本市場の規律と同族的な統治が併存した。公開で得た資金を投じた新規分野は、6年後に減損損失として決算に現れた。
公開して、何を手に入れたか
上場の動機として後藤康雄社長が挙げたのは、資金不足の解消ではなく「体力の強化」であった。借入で足りている会社が市場へ出る理由は、資金そのものより、新しい事業を興すための人材と、外から見られる緊張感の側にあったとみることができる。1993年に後藤磯吉会長が「経営と資本の分離はいずれ必要になる」と語ってから7年、公開は準備の整った時期に淡々と実行された。危機に追われた資本政策ではなかった点が、この判断の性格を決めている。
もっとも、公開の後に残ったのは、創業家関連の財団と持株会が過半に近い株式を保持し続ける構造であった。市場の目が入ったことで開示は増えたが、株主構成が経営に働きかける経路は限られたままである。上場で調達した資金を投じた無菌米飯は6年で減損に至り、次の柱を求める投資は借入による買収へ移っていった。公開が社風を入れ替える装置として働いたかどうかは、いまも問い直せる論点として残っているとみられる。
Yutaka Sugiura, 2026年7月
背景
非公開のまま清水で育った会社
はごろもフーズは、1931年の創業から一貫して株式を公開しない会社であった。売上高が900億円台に達した1990年代前半でも資本金は1億円に満たず、メインバンクである静岡銀行との関係が良好だったため、事業に必要な資金はほとんど借り入れで賄えていた。清水市に本社を置き、地元の金融機関と特約店網に支えられて成長した会社にとって、資本市場から資金を集める必然性は薄かった[1]。
それでも公開の意向は、上場の7年前に当事者の口から語られていた。1993年、後藤磯吉会長は、腰を据えて新事業を興す資金と人材を手に入れるためには「経営と資本の分離はいずれ必要になる。公開企業になることに、ためらいはない」と述べている。非公開のまま清水市で育った会社にとって、東京への本社移転や株式の公開は、社風を入れ替える手立てとしても意識されていた。公開は、資金調達の手段であると同時に、組織の性格を変える装置として構想されていた[2]。
シーチキン一本に依存した収益
公開を急がせたのは、単一商品に寄りかかった収益の不安定さであった。1993年3月期の売上高936億円のうち魚類缶詰が60%を占め、そのほとんどがシーチキンであった。原料であるマグロは豊漁と不漁で相場が振れる。1989年に利益が6割強も減った主因は、材料の大半を占めるキハダマグロの暴騰にあった。1000億円近い売上高を出すまでになった組織を安定させるには、シーチキンだけに頼る経営からの脱皮が要る、と社内では受け止められていた[3]。
外からの圧力も強まっていた。円高を受けてタイなどからのツナ缶輸入が急増し、業務用で実績を上げたあと家庭用にも入り始めた。あるツナ缶メーカーは「品質さえつぶせば、日本製の半値で店頭に並べることも可能」と語っている。これに対し新製品の開発は慎重で、3年間の開発点数は25点前後と変化に乏しかった。価格競争を避ける商品を出し続けるにも、新しい柱を育てるにも、まとまった資金と人材が必要になっていた[4][5]。
決断
2000年2月、東証2部への上場
2000年2月9日、はごろもフーズは東京証券取引所市場第二部へ株式を上場した。創業から69年、戦後に法人を設立してから53年を経ての市場登場である。後藤康雄社長は公開の理由を、缶詰の安全性が再認識され、家庭用パスタにも商機が広がるという追い風のもとで「21世紀における果敢な事業展開を図るべく、会社を公開し体力を強化しておこうと今回の株式公開に踏み切った」と説明し、「三代目は会社をつぶすと言われるが、そうならないように手を打った」と述べている[6][7]。
理由はもう一つ挙げられている。缶詰は保存性・安全性・利便性に優れた容器であり、缶の80%が回収されるリサイクルの優等生でもある。缶詰専業メーカーとして上場することで、業界そのものの評価を引き上げ、活性化に寄与したいという意図が語られた。創業70周年を翌年に控えた会社が、なぜこの時期に公開するのか——後藤社長はその問いに、事業の備えと業界の地位という二つの答えを並べていた[8]。
公開で得た資金の使い道
調達資金の行き先は、上場の時点で具体的に示されていた。無菌包装米飯である。米の消費全体は減っていても加工米飯は伸びており、当時200億円ほどの無菌ご飯市場は数年のうちに500億円程度へ育つと見込まれていた。無菌の技術は他分野へも応用が利く。後藤社長は「今回の上場でファイナンスもできたので、現在、そのための無菌ご飯の工場を建設中である」と述べ、上場から7カ月後の2000年9月、焼津市にサンライズプラントが新設された[9][10]。
上場時点の事業構成も明示された。柱は家庭用缶詰・業務用製品・パスタ・ペットフード・フィッシュエキスの5つで、家庭用缶詰、とりわけシーチキンの比重が高いことを後藤社長自身が認めている。まぐろ・かつお缶詰類の市場シェアは53.8%、水産缶詰類でも34.0%で首位にあった。家庭用パスタは1年で日本製粉を抜いて日清製粉に次ぐ2位へ浮上している。「超シーチキン作戦」で主力をさらに伸ばしつつ、新しいブランドと製品の育成に全社で取り組む——公開はその原資を確保する手続きにあたった[11][12]。
結果
公開後も動かなかった持株構成
上場した2000年3月期の単体売上高は802億円、経常利益は42億円であった。ただし公開によって株主の顔ぶれが大きく入れ替わったわけではない。2016年3月期時点の筆頭株主は創業家関連の公益財団法人はごろも教育研究奨励会で持株比率42.53%、これに従業員らによるはごろも高翔会の7.07%が続いた。2024年3月期でも両者の比率は46.67%と9.49%で、公開から四半世紀を経ても、発行済株式の過半に近い部分は創業家の周辺に留め置かれている[13][14]。
経営の側では、公開後に創業家の直接支配が一度緩んだ。2007年6月、後藤康雄社長は代表取締役会長へ退き、創業家以外で初の社長として溝口康博氏が昇格した。2015年には後藤会長の娘婿である池田憲一氏、2019年には長女の後藤佐恵子氏が社長に就いている。代表権は後藤康雄会長が保持し続け、資本市場からの規律と創業家による統治は並存した。市場区分の面では、2022年4月に東証スタンダード市場へ移行している[15][16][17]。
調達した資金が向かった先
公開で得た資金を投じた新分野は、期待どおりには育たなかった。2006年3月期、はごろもフーズは「固定資産の減損に係る会計基準」の適用にあたり、物流センター用地、無菌包装米飯製品製造工場、パスタ製品製造工場の土地・建物などについて減損損失を計上し、連結では25億74百万円を特別損失に積んだ。上場時に成長市場と見込まれた無菌ご飯の設備は、稼働から6年で回収可能価額まで簿価を落とした。同期の連結当期純損失は12億9百万円であった[18][19]。
新しい柱を求める動きは、自前の設備投資から企業買収へ移った。2005年4月、はごろもフーズは乾物メーカーのマルアイ他2社の全株式を取得する。ただしその取得資金44億円は市場からの調達ではなく、金融機関からの長期借入金40億円で賄われた。公開は資本の性格を変えるより、借入余力と信用を厚くする効果として現れたとみられる。1993年に語られた「経営と資本の分離」は、資本構成の面では限定的なかたちで実現した[20]。
- 日経ビジネス 1993年12月20日・27日号「はごろもフーズ 『シーチキン』頼み脱皮へ 慎重な製品開発に転機」
- 証券アナリストジャーナル(2000年、後藤康雄 はごろもフーズ社長「はごろもフーズ」)
- はごろもフーズ 有価証券報告書【沿革】
- はごろもフーズ 有価証券報告書(2006年3月期・連結)
- はごろもフーズ 有価証券報告書【大株主の状況】(2016年3月期・2024年3月期)
- 日本経済新聞(2019年10月15日)「はごろもフーズ社長に後藤佐恵子氏、池田氏は体調不良で退任」