マルハの前身は、兵庫県明石市で鮮魚の仲買を営んだ中部幾次郎氏の個人商店・林兼商店[1]である。中部家は代々明石の漁師で、祖父の代から魚の運搬問屋を始めて林屋兼松と称した[2]。屋号の林兼はここから出ており、幾次郎氏はその五代目にあたる[3]。丸の中に『は』を置いた社標[4]も、この屋号を記念したものである。創業は明治10年代のこととされる[5]。幾次郎氏は12歳ころから家業の魚問屋で働き[6]、押送船に乗って五島のマグロや阿波方面の鮮魚を買い出しては、大阪へ運んで売りさばいた。当時の鮮魚流通は人力の押送船に頼っており、明石から大阪までは14〜15時間を要した[7]。時間がかかるほど魚の鮮度は落ち、損失も大きかった[8]。
幾次郎氏が最初に手を打ったのは、運搬の速度で、1897年に100トンほどの運搬船を借り入れて押送船の曳船に使い[9]、生魚を大阪市場へ送ることに成功する。曳船で運んだ林兼の魚は5割も高く取り引きされ[10]、家業は伸びた。次に着目したのが動力で、1903年に大阪で開かれた内国勧業博覧会で、人波をさばくために川筋を走る巡航船を見たこと[11]が発想のもとになった。日露戦争で計画は中断した[12]が、1905年の暮れ、明石海岸の高い山の上で建造した12トンの木造船に石油発動機を据えつけ[13]、試運転に成功する。国産第一号の発動機付き運搬船・新生丸[14]であり、幾次郎氏は39歳になっていた。この船は手こぎの運搬船に代わって航海の時間を縮め、鮮魚の流通に一つの変革をもたらした[15]。
発動機船が生まれた時期は、日本の漁業が沿岸から沖合へ出ていく転換期[16]にあたる。明治中期以降の漁業政策は技術政策を中心に据え[17]、1897年に公布された遠洋漁業奨励法は漁船・漁具・乗組員へ補助金を交付して[18]沖合遠洋漁業を後押しした。この法律は1905年の全面改正をはじめ何度も改められ、沖合遠洋漁業推進の牽引車となった[19]。漁船の動力化によって沖合遠洋漁業発展の第一条件が満たされ[20]、綿網の普及で漁網の性能も高まる。明治43年の海面漁獲量を100とすると、大正3年は157、大正12年は233[21]に伸びた。沖合漁業の担い手には、旧来の沿岸漁業者や魚商が漁船を動力化して沖へ出ていった例が多い[22]。
発動機船は航海の距離を伸ばし、幾次郎氏は1904年、内海・山陰・九州および朝鮮水域の漁業に便利な下関市を事業の根拠地とし[23]、1907年には釜山へ航行して羅老島を拠点に朝鮮各地へ広がった[24]。同じ年、林兼は仲買運搬業を廃止して漁業の直営に踏み切った[25]。1910年ころの林兼はまだ発動機船を3隻持つにすぎず、朝鮮の慶尚南道・巨済島に根拠地を置いていた[26]。幾次郎氏の二男である中部謙吉氏は、満14歳で高等小学校を出るとすぐ下関へ向かい、20トンあまりの第二新生丸で巨済島へ渡った[27]。玄界灘のシケで三日三晩吐き続けたこの初航海[28]が、のちに三代目社長となる謙吉氏[29]の最初の仕事であった。
1915年秋、林兼は朝鮮東海岸の方魚津へ本拠地を移した[30]。それまでの漁は仕込み契約に頼っていたが、事業場や運搬船が増えるにつれて他人任せでは心もとなくなり、アジ・サバの巾着網と定置漁場の直営を始める[31]。中部謙吉氏は米国で行われていたターンテーブル式巾着網を手本に、朝鮮の漁場に合わせた片手回し・テーブル式を試した[32]。網が引っかかるなどして2年を費やし、試験だけで身上をつぶすと言われながら改良を重ねて、3年目に完成させた[33]。機船巾着網の発明について、林兼は朝鮮総督府から表彰を受けた[34]。25トン・60〜80馬力の機船は8ノットを出し[35]、シケになっても最後まで漁場に残れたため、櫓櫂の船より多く漁獲を得た。
定置網では出遅れが響き、最優秀の漁場はすでに既存業者が押さえており[36]、林兼は朝鮮沿岸一帯の何十カ所へ試験的に網を入れたが、収支が償ったのは3分の1にも満たない[37]。それでも見込みのある場所には3年でも5年でも改良を続け、良漁場が移動していくうちに、朝鮮の定置網漁場で最も良い場所はほとんど林兼の支配下に入った[38]。事業の広がりに合わせて設備も増え、1918年に下関市彦島へ林兼造船鉄工所を設け、1920年には彦島冷蔵庫を建設した[39]。1924年9月、幾次郎氏は個人経営の林兼商店を分離して株式会社林兼商店・林兼冷蔵・林兼漁業の3社を設立し[40]、翌1925年に3社を合併して資本金1000万円の株式会社林兼商店とした[41]。1921年以降は以西底曳網漁業にも参入しており[42]、共同漁業・日魯漁業と並ぶ三大漁業会社の一角[43]を占めるに至る。
1930年代の林兼は、北洋の漁場を目指した[44]。朝鮮時代にサワラやサバの流し網を長く経験していた中部謙吉氏は、その技術を生かして1932年からカムチャッカ西海岸でサケ・マスの沖取り流し網に乗り出す[45]。試みは網が沈むほどの好漁で、翌年には5000トン級の貨物船を輸入して幸生丸と名づけ[46]、1934年には北千島の陸上漁場と缶詰工場も整えた[47]。しかし当時の北洋漁業は政府の大合同方針の下にあり、露領漁業の大部分は日魯漁業が握っていた[48]。公海で沖取りする母船式サケ・マス漁業でも、1935年には日魯漁業が支配力を握った[49]。林兼の北洋事業は同じ1935年に日魯漁業へ買収され[50]、買収金135万円を手にしたものの、北洋からは手を引くほかなかった[51]。
北洋の道を閉ざされた林兼が活路を求めたのが、南氷洋の捕鯨[52]であった。捕鯨部の責任者・志野徳助氏はかねて南氷洋捕鯨を提唱していた名砲手であり[53]、林兼は日魯漁業から得た買収資金を元手に出漁を計画する。1936年には土佐捕鯨・大東捕鯨・藤村捕鯨の3社を買収合併して資本金1000万円の大洋捕鯨を設立し[54]、この会社を出漁の母体とした。母船は2万トン級の新造が必要で、母船550万円、捕鯨船8隻で200万円、仕込み金200万円と、あわせて950万円を要した。これに対し東京にあった手元資金は50万円である[55]。資金は興銀・勧銀・安田が世話をし、仕込み金は三菱商事[56]が引き受けた。英国ファーネス社から母船の図面を10万円で買い、川崎造船が7カ月の突貫工事[57]で捕鯨母船・日新丸を完成させた。
1936年10月7日、日新丸船団は神戸を出港[58]した。船団長の志野徳助氏は最終寄港地のフリーマントルで脳出血により急逝し、見習いとして乗っていた謙吉氏の弟・中部利三郎氏が急きょ船団長を継いだ[59]が、その年の成績は良好だった[60]。日本水産に続く南氷洋捕鯨への参入[61]である。翌1937年6月には第二日新丸が完成[62]したものの、7月に日中戦争が起こり、500坪の大甲板を持つ同船は上海の呉淞上陸作戦へ徴用されて上陸用舟艇を運んだ。第一・第二日新丸は1936年から1941年まで5漁期を出漁[63]したのち、ともにタンカーとして国に徴用され、南氷洋捕鯨は中断した。
戦時色が濃くなるなかで、林兼商店を中心とする事業は日本本土のほか朝鮮・台湾・満州・中国・南方・北千島・樺太・小笠原・メキシコ・南氷洋の各水域へ広がっていた[64]。捕鯨・カツオマグロ漁業・サケマス漁業・底曳網漁業に加え、製氷・冷凍・缶詰・食品加工・造船造機・製函・製網までを直営する構えである[65]。1943年3月31日、水産統制令に基づいて株式会社林兼商店の水産部門と同系の大洋捕鯨・遠洋捕鯨が共同出資し、資本金6000万円の西大洋漁業統制株式会社が下関市に設立された[66]。捕鯨業・トロール漁業・底曳網漁業を事業目的とする国策の統合であり、社長には中部幾次郎氏が就いた[67]。マルハがのちに数える創立からの期数は、この1943年設立の法人を第1期とする[68]。
戦争は会社の資産をほとんど奪い、第二日新丸は1943年に石垣島付近で撃沈され、第一日新丸も終戦の前年に北ボルネオ沖で沈んでいる[69]。失われた船は200数十隻・7万数千トンに及び[70]、外地資産の全部とほとんどの船舶が消えた[71]。沈没船の補償金6000数百万円のうち受け取れたのは1500〜1600万円程度[72]で、残りは戦時補償の打ち切りで棒引きとなり、会社には数千万円の借金と、外地から戻ってくる700人ほどの社員が残された。それでも終戦の8日後に開かれた役員会議では、食糧不足に対処するには漁撈の再開が先決だと決め、1946年1月までに底曳・トロール・マグロ・捕鯨船など218隻・2万トンを発注した[73]。
1945年12月、西大洋漁業統制は水産統制令の廃止に伴って西大洋漁業へ商号を変え、同じ月にさらに大洋漁業へと改めた[74]。新造船の手配は終戦直後から動き、手繰り船80トン、トロール船270トンという船を、三菱重工の神戸・彦島・長崎・広島、三井造船の玉野、川崎重工の神戸へ20隻30隻と分散して発注した[75]。造船所はいずれも終戦の打撃で仕事が止まっており、資材と人はあっても資金がなかった[76]ため、発注はこぞって歓迎された。契約はトン当たり6000円[77]だったが、インフレで諸費用が急増して造船所が負担しきれなくなり、中部謙吉氏は興銀と勧銀に事情を説明して割り増し金の追加を頼んで回った。1年余りで100数十隻が完成[78]し、トン当たりの価格は1万2000円へ上がっていた。
食糧増産は占領下の政策とも合致[79]した。GHQの水産部は日本の食糧問題を解く早道として漁業の振興を奨励し[80]、大洋漁業は終戦の年の暮れ近くに、借り受けた1500トンほどの水雷敷設艦を母船として戦後第1回の小笠原捕鯨を行った[81]。続いて三菱重工長崎造船所で建造途中だったタンカーを引き継いで母船に仕上げ[82]、南氷洋へ向かった。1万トン超の母船を海外へ出すのは早すぎるという横やりがある国から入った際、中部謙吉氏は捕鯨母船が駄目ならタンカーとして進水させてほしいと頼み[83]、工事を先へ進めた。1946年には戦後第1回の南氷洋捕鯨に参加[84]した。
一方、1947年には公職追放令が林兼にも及んだ。林兼は地方財閥の一つと見なされ、中部一族は全員が追放されて株式も預かり没収となる[85]。中部謙吉氏はGHQへ陳情に通い、軍への協力とされた事実は徴用船の乗組員が軍命令で動いたものだと説き、英文の陳情書を重ねた[86]。2年ほどののち一族はそろって追放解除となり、株式も全部返還された[87]。漁場も少しずつ戻り、1950年に大洋漁業は数百海里の沖合でサケ・マスを獲る沖取りに踏み切り、30隻の独航船と3500トンの第三天洋丸を出漁させて初年度から成果を上げた[88]。1952年には北洋の母船式サケ・マス漁業と北洋捕鯨へ、1953年には母船式カニ漁業へ参加した[89]。
1953年3月、二代社長の中部兼市氏が62歳で死去し[90]、幾次郎氏・兼市氏に続いて中部謙吉氏が三代目の社長に就いた。初代の幾次郎氏は1946年5月に80歳で世を去った[91]。同社の売上高は1953年1月期の146億円から1955年1月期には224億円へ伸び[92]、1955年9月12日に東京証券取引所へ上場した[93]。1955年1月末の大株主は上位10名がすべて中部姓[94]で、筆頭の中部謙吉氏が355万株、中部タミ氏が293万株、中部悦良氏が272万株を保有した。発行済み株式4000万株に対して株主数は5719名、金融機関の持ち株は13.4%にとどまり[95]、副社長には中部悦良氏と中部利三郎氏が並んだ[96]。
事業の広げ方には、水産業に固有の理由[97]があった。漁業は天候・場所・時期・潮流に左右されて豊凶の差が激しく[98]、漁獲量が多くても魚価が下がれば儲けは少なく、魚価が高くても漁獲が細れば利益にならない。『水物事業』(証券 1955/10)と呼ばれるゆえんであり、単一の事業規模では危険が大きいため、大規模な多角経営で危険を分散する必要があった[99]。大洋漁業は南氷洋捕鯨・北洋のサケマス・カニ・捕鯨・南洋のマグロ漁業に加え、製氷・冷凍・缶詰製造・食品加工・貿易・海上運送を営み[100]、1955年1月末には全国に製氷工場11・冷凍工場15・食品工場6を持ち、船舶479隻・11万3178総トンを保有した[101]。1961年3月には肥料・飼料事業を事業目的へ加えた[102]。
多角化はグループの規模にも表れ、1967年度の大洋漁業単体の売上高は1553億円で前年比20%増、税引後利益は16億7000万円、従業員は1万1420名である[103]。関係60社を合わせた総売上高は4370億円、税引前利益60億円[104]、従業員は約3万5000人に達した。系列には林兼産業・佐世保重工業・大洋商船・アジア石油・大都魚類[105]などが並び、漁業を基幹とした総合食品業への道が掲げられた。プロ野球の大洋ホエールズも1950年に発足したグループの一つで、1960年には三原脩監督を迎えてセ・リーグを制し[106]、日本シリーズでも大毎を4連勝で下した。一方、各国が食糧資源の確保のため領海を拡大し、漁業専管水域を設けて日本漁船を締め出す動きが増え、公海上の競争は激しくなっていた[107]。
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|---|---|---|---|---|
| 1880〜1931年明石の鮮魚問屋が発動機船で開いた朝鮮の漁場と漁業資本への道 | 中部幾次郎が明石で鮮魚仲買業の林兼商店を創業 | ★★ | ||
| 日本初の発動機付き鮮魚運搬船「新生丸」を建造 | ★★ | |||
| 朝鮮の漁場に参入し仲買運搬業から漁業の直営へ | ★★ | |||
| 朝鮮東海岸の方魚津へ本拠を移し機船巾着網を導入 | ★ | |||
| 個人経営を改組し株式会社林兼商店を設立 | ★★ | |||
| 林兼漁業・林兼冷蔵を合併し資本金1000万円へ | ★ | |||
| 1932〜1945年北洋からの撤退が生んだ南氷洋捕鯨と、水産統制令による国策統合 | カムチャッカ西海岸でさけ・ます沖取り流し網を開始 | ★ | ||
| 北洋漁業の権益を日魯漁業へ譲渡し北洋から撤退 | ★★ | |||
| 大洋捕鯨の捕鯨母船「日新丸」が南氷洋へ初出漁 | ★★ | |||
| 水産統制令により西大洋漁業統制を下関市に設立 | ★★ | |||
| 水産物・農畜産物の製造加工販売業と冷蔵倉庫業を追加 | ★ | |||
| 西大洋漁業を経て大洋漁業に商号変更 | ★★ | |||
| 1946〜1976年中部家三代の同族経営が築いた水産日本の全盛と、翳りはじめた遠洋漁業 | 戦後第1回の南氷洋捕鯨に参加 | ★ | ||
| 公職追放により中部一族が退き株式を没収 | ★★ | |||
| 大都魚類を設立 | ★ | |||
| 神港魚類を設立 | ★ | |||
| 本社を東京都に移転 | ★ | |||
| プロ野球球団の大洋ホエールズが発足 | ★ | |||
| 北洋の母船式さけ・ます漁業に参加 | ★ | |||
| 二代社長の中部兼市氏の死去により中部謙吉氏が社長に就任 | ★★ | |||
| 東京証券取引所に上場 | ★ | |||
| 肥料・飼料事業を事業目的に追加 | ★ | |||
| 1977〜2007年二百カイリが終わらせた遠洋漁業と、マルハへの改称・非同族化を経た統合 | 二百カイリ規制を受けた遠洋漁業からの主力転換と、加工食品・養殖事業への移行 二百カイリ漁業水域の設定で公海の漁場を失った水産最大手の大洋漁業が、1977年以降、陸上の加工・養殖・外食へ資本を移し、獲る会社から作り売る会社への転換を進めた。1987年にマグロの養殖研究へ着手し、1993年には社名を大洋漁業からマルハへ改めて『脱漁業』を鮮明にした、十数年におよぶ事業構造の組み替えである。 詳細を読む | ★★★ | ||
| 宇都宮市に練り製品工場が竣工 | ★ | |||
| 宇都宮市に調味料・薬品・健康食品工場が竣工 | ★ | |||
| クロマグロの種苗開発チームを発足し養殖研究に着手 | ★★ | |||
| ギル&ダファス社への資本参加により国際原糖事業へ参入 | ★★ | |||
| つくば市に中央研究所が竣工 | ★ | |||
| 大洋漁業からマルハへの改称と、中部家三代の同族経営からの離脱 明石の魚問屋から数えて三代、株式と社長職の双方を中部家が握ってきた大洋漁業が、1993年に社名をマルハへ改め、2002年には興銀出身の五十嵐勇二氏へ社長を譲った。創業家以外から本格的な社長が出たのはこのときが初めてで、負の遺産の処理を自らの手で終えた中部慶次郎氏が経営から退く形の交代であった。 詳細を読む | ★★★ | |||
| 本社ビルの証券化を柱とする構造改革に着手 | ★★ | |||
| 国際原糖事業の損失処理と、本社ビル証券化による穴埋め マルハが1989年に資本参加した砂糖トレーダーのギル&ダファス社を通じたキューバ産原糖の取引が、ソ連崩壊後の供給難で回収不能に陥った。2000年末にキューバとの20年のリスケジュール交渉をまとめ、135億円の貸倒引当金と39億円の評価損を計上し、その原資には大手町の本社ビルを証券化して得た185億円の含み益をあてた。 詳細を読む | ★★★ | |||
| 興銀出身の五十嵐勇二氏が非同族の社長に就任 | ★★ | |||
| 株式移転により完全親会社のマルハグループ本社を設立 | ★★ | |||
| マルハグループ本社とニチロの経営統合、マルハニチロホールディングスの発足 2006年12月11日、水産最大手のマルハグループ本社と業界三位のニチロが経営統合を発表した。マルハ本社はマルハニチロホールディングスへ商号を改め、ニチロを株式交換で完全子会社とし、2007年10月に新会社を発足させた。両社の2006年3月期の単純合算売上高は約9,700億円で、二位の日本水産の約二倍となった。 詳細を読む | ★★★ |
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事実根拠:出所(マルハ)