マルハ の歴史

更新: Author:

創業 1880年
創業者 中部幾次郎
創業地 兵庫県明石市
創業
1880年、中部幾次郎氏が兵庫県明石で鮮魚の仲買運搬を営む家業を継いだ。明石から大阪の雑喉場までは人力の押送船で14〜15時間を要し、運搬に費やす時間がそのまま魚の値を決める商売だった。1905年の暮れ、12トンの木造船に石油発動機を据えつけ、国産第一号の発動機付き運搬船『新生丸』を完成させた。運搬の速さを足場に朝鮮半島の漁場を開拓し、林兼商店は漁業資本へ育った。1943年3月、水産統制令により西大洋漁業統制株式会社が下関に設立され、1945年12月に大洋漁業、1993年9月にマルハへ商号を改めている。
決断
獲る手段への投資を、獲れなくなってから陸へ移した。1977年に各国が二百カイリ漁業水域を設定すると公海の漁場から締め出され、1982年の決算で経常赤字に転じて以後は無配が続いた。漁船に向けていた資本を陸上の生産と研究へ移した。1983年に宇都宮の練り製品工場、1985年に同市の調味料・薬品工場、1990年につくばの中央研究所が完成し、1985年には自社ビルの4分の3を売却して借入金の返済に充てている。1993年9月には社名から漁業の文字を外し、中部家三代の同族経営から離れた。2000年12月には回収不能となった国際原糖事業の損失を確定させ、本社ビルの含み益を処理の原資に充てた。1987年にはクロマグロの種苗開発チームが発足し、漁船から引き上げた資本は陸の技術へ積み替えられている。
現況
マルハという社名は、上場体からも事業会社からも消えた。連結売上高は1998年3月期の9,782億円が最高で、2001年3月期は8,911億円、その構成は水産71%・加工食品19%と、なお水産商事が大半を占めていた。2004年4月、株式移転で完全親会社のマルハグループ本社が設立され、マルハは上場を親会社へ譲って完全子会社となった。2007年10月、マルハグループ本社はニチロを株式交換で完全子会社とし、商号をマルハニチロホールディングスへ改める。事業会社のマルハも2008年4月にマルハニチロ水産へ改称した。調達と加工の実体は統合後の会社へそのまま引き継がれ、独立した上場体としての立場だけが失われた。
競合
二百カイリのあと、日本水産は漁労へ投じ、大洋漁業は陸へ引いた。1983年、日本水産は約120億円をトロール船へ集中投資し、漁場が半減するなかで漁労部門の相対優位を守る道を選んでいる。大洋漁業は逆に漁船から資本を引き上げ、練り製品・調味料・研究所という陸上の設備へ移した。もっとも転換は速くなく、1991年度は総売上高5,259億円のうち魚介類が2,846億円と半分を超え、相場に左右される水産商事への依存が残った。この依存が解けなかったことが、単独での立て直しよりニチロとの統合を先に選ぶ条件を作った。
マルハ:長期業績の推移(売上高・利益率)売上高(億円純利益率(%)
1972年1月期2001年3月期

創業ストーリー 明石の鮮魚問屋が発動機船で開いた朝鮮の漁場と漁業資本への道 (1880年〜)

明石の鮮魚問屋が発動機船で開いた朝鮮の漁場と漁業資本への道

押送船の14時間を縮めた国産第一号の発動機船

マルハの前身は、兵庫県明石市で鮮魚の仲買を営んだ中部幾次郎氏の個人商店・林兼商店[1]である。中部家は代々明石の漁師で、祖父の代から魚の運搬問屋を始めて林屋兼松と称した[2]。屋号の林兼はここから出ており、幾次郎氏はその五代目にあたる[3]。丸の中に『は』を置いた社標[4]も、この屋号を記念したものである。創業は明治10年代のこととされる[5]。幾次郎氏は12歳ころから家業の魚問屋で働き[6]、押送船に乗って五島のマグロや阿波方面の鮮魚を買い出しては、大阪へ運んで売りさばいた。当時の鮮魚流通は人力の押送船に頼っており、明石から大阪までは14〜15時間を要した[7]。時間がかかるほど魚の鮮度は落ち、損失も大きかった[8]

  • 『会社銀行八十年史』(東洋経済新報社、1955年)「大洋漁業」の項
    • [1]マルハの前身は兵庫県明石市で鮮魚仲買業を営んだ中部幾次郎の個人商店・林兼商店である
    • [5]林兼商店の創業は明治10年代である
    • [6]中部幾次郎は12歳ころから家業の魚問屋で働き、五島のマグロや阿波方面の鮮魚を大阪へ運んで売りさばいた
    • [8]長時間の運搬で鮮度が落ち損失が多かった
  • 『私の履歴書 経済人6』(日本経済新聞社、1980年)「中部謙吉」
    • [2]中部家は代々明石の漁師で、祖父の代から魚の運搬問屋を始めて林屋兼松と称した
    • [3]中部幾次郎は林屋兼松の五代目にあたる
    • [4]丸の中に「は」を置く社標は屋号 林屋兼松を記念したものである
  • 『企業の歴史 : 明治百年』(経済春秋社編、1968年)「大洋漁業」の項
    • [7]当時は押送船で魚を運び、明石から大阪まで14〜15時間を要した

幾次郎氏が最初に手を打ったのは、運搬の速度で、1897年に100トンほどの運搬船を借り入れて押送船の曳船に使い[9]、生魚を大阪市場へ送ることに成功する。曳船で運んだ林兼の魚は5割も高く取り引きされ[10]、家業は伸びた。次に着目したのが動力で、1903年に大阪で開かれた内国勧業博覧会で、人波をさばくために川筋を走る巡航船を見たこと[11]が発想のもとになった。日露戦争で計画は中断した[12]が、1905年の暮れ、明石海岸の高い山の上で建造した12トンの木造船に石油発動機を据えつけ[13]、試運転に成功する。国産第一号の発動機付き運搬船・新生丸[14]であり、幾次郎氏は39歳になっていた。この船は手こぎの運搬船に代わって航海の時間を縮め、鮮魚の流通に一つの変革をもたらした[15]

  • 『会社銀行八十年史』(東洋経済新報社、1955年)「大洋漁業」の項
    • [9]1897年に100トンほどの運搬船を借り入れて曳船とし、生魚の大阪市場への供給に成功した
  • 『企業の歴史 : 明治百年』(経済春秋社編、1968年)「大洋漁業」の項
    • [10]曳船を用いた林兼の魚は5割高く取り引きされた
  • 『私の履歴書 経済人6』(日本経済新聞社、1980年)「中部謙吉」
    • [11]1903年に大阪で開かれた内国勧業博覧会の巡航船が発動機船の発想のもとになった
    • [13]1905年暮れに明石海岸の山の上で建造した12トンの船へ石油発動機を据えつけた
    • [15]新生丸は手こぎ運搬船に代わって時間を短縮し鮮魚の流通に変革をもたらした
  • 『日本産業史』第1巻(日本経済新聞社、1994年)「水産-荒波こえ遠洋へ」
    • [12]日露戦争により発動機船の計画は一時中断した
    • [14]新生丸は国産第一号の発動機付き運搬船で、当時 中部幾次郎は39歳であった

発動機船が生まれた時期は、日本の漁業が沿岸から沖合へ出ていく転換期[16]にあたる。明治中期以降の漁業政策は技術政策を中心に据え[17]、1897年に公布された遠洋漁業奨励法は漁船・漁具・乗組員へ補助金を交付して[18]沖合遠洋漁業を後押しした。この法律は1905年の全面改正をはじめ何度も改められ、沖合遠洋漁業推進の牽引車となった[19]。漁船の動力化によって沖合遠洋漁業発展の第一条件が満たされ[20]、綿網の普及で漁網の性能も高まる。明治43年の海面漁獲量を100とすると、大正3年は157、大正12年は233[21]に伸びた。沖合漁業の担い手には、旧来の沿岸漁業者や魚商が漁船を動力化して沖へ出ていった例が多い[22]

  • 『日本産業史』第1巻(日本経済新聞社、1994年)「水産-荒波こえ遠洋へ」
    • [16]明治末までの漁業はほとんど沿岸漁業で、漁獲量の増加は沖合遠洋漁業の急速な発展によるものだった
    • [17]明治中期以降の漁業政策の中心には技術政策が据えられた
    • [18]1897年に公布された遠洋漁業奨励法は漁船・漁具・乗組員へ補助金を交付するものだった
    • [19]遠洋漁業奨励法は1905年の全面改正をはじめ何度も改正され沖合遠洋漁業推進の牽引車となった
    • [20]漁船の動力化で沖合遠洋漁業発展の第一条件が満たされ、綿網の普及で漁網の性能が高まった
    • [21]明治43年の海面漁獲量を100とすると大正3年は157、大正12年は233である
  • 『日本産業史』第1巻(日本経済新聞社、1994年)「食品-戦火の陰に泣く」
    • [22]沖合漁業は旧来の沿岸漁業者や魚商が漁船を動力化して沖へ出ていったものが多かった
  • 『会社銀行八十年史』(東洋経済新報社、1955年)「大洋漁業」の項
    • [1]マルハの前身は兵庫県明石市で鮮魚仲買業を営んだ中部幾次郎の個人商店・林兼商店である
    • [5]林兼商店の創業は明治10年代である
    • [6]中部幾次郎は12歳ころから家業の魚問屋で働き、五島のマグロや阿波方面の鮮魚を大阪へ運んで売りさばいた
    • [8]長時間の運搬で鮮度が落ち損失が多かった
    • [9]1897年に100トンほどの運搬船を借り入れて曳船とし、生魚の大阪市場への供給に成功した
  • 『私の履歴書 経済人6』(日本経済新聞社、1980年)「中部謙吉」
    • [2]中部家は代々明石の漁師で、祖父の代から魚の運搬問屋を始めて林屋兼松と称した
    • [3]中部幾次郎は林屋兼松の五代目にあたる
    • [4]丸の中に「は」を置く社標は屋号 林屋兼松を記念したものである
    • [11]1903年に大阪で開かれた内国勧業博覧会の巡航船が発動機船の発想のもとになった
    • [13]1905年暮れに明石海岸の山の上で建造した12トンの船へ石油発動機を据えつけた
    • [15]新生丸は手こぎ運搬船に代わって時間を短縮し鮮魚の流通に変革をもたらした
  • 『企業の歴史 : 明治百年』(経済春秋社編、1968年)「大洋漁業」の項
    • [7]当時は押送船で魚を運び、明石から大阪まで14〜15時間を要した
    • [10]曳船を用いた林兼の魚は5割高く取り引きされた
  • 『日本産業史』第1巻(日本経済新聞社、1994年)「水産-荒波こえ遠洋へ」
    • [12]日露戦争により発動機船の計画は一時中断した
    • [14]新生丸は国産第一号の発動機付き運搬船で、当時 中部幾次郎は39歳であった
    • [16]明治末までの漁業はほとんど沿岸漁業で、漁獲量の増加は沖合遠洋漁業の急速な発展によるものだった
    • [17]明治中期以降の漁業政策の中心には技術政策が据えられた
    • [18]1897年に公布された遠洋漁業奨励法は漁船・漁具・乗組員へ補助金を交付するものだった
    • [19]遠洋漁業奨励法は1905年の全面改正をはじめ何度も改正され沖合遠洋漁業推進の牽引車となった
    • [20]漁船の動力化で沖合遠洋漁業発展の第一条件が満たされ、綿網の普及で漁網の性能が高まった
    • [21]明治43年の海面漁獲量を100とすると大正3年は157、大正12年は233である
  • 『日本産業史』第1巻(日本経済新聞社、1994年)「食品-戦火の陰に泣く」
    • [22]沖合漁業は旧来の沿岸漁業者や魚商が漁船を動力化して沖へ出ていったものが多かった

仲買から漁業の直営へ、朝鮮の漁場で築いた地歩

発動機船は航海の距離を伸ばし、幾次郎氏は1904年、内海・山陰・九州および朝鮮水域の漁業に便利な下関市を事業の根拠地とし[23]、1907年には釜山へ航行して羅老島を拠点に朝鮮各地へ広がった[24]。同じ年、林兼は仲買運搬業を廃止して漁業の直営に踏み切った[25]。1910年ころの林兼はまだ発動機船を3隻持つにすぎず、朝鮮の慶尚南道・巨済島に根拠地を置いていた[26]。幾次郎氏の二男である中部謙吉氏は、満14歳で高等小学校を出るとすぐ下関へ向かい、20トンあまりの第二新生丸で巨済島へ渡った[27]。玄界灘のシケで三日三晩吐き続けたこの初航海[28]が、のちに三代目社長となる謙吉氏[29]の最初の仕事であった。

  • 『会社銀行八十年史』(東洋経済新報社、1955年)「大洋漁業」の項
    • [23]1904年に内海・山陰・九州および朝鮮水域の漁業に至便な下関市を事業の根拠地とした
    • [24]1907年に釜山へ航行し羅老島を根拠地として朝鮮各地へ発展した
  • 『企業の歴史 : 明治百年』(経済春秋社編、1968年)「大洋漁業」の項
    • [25]1907年に仲買運搬業を廃止して漁業の直営を実現した
  • 『私の履歴書 経済人6』(日本経済新聞社、1980年)「中部謙吉」
    • [26]1910年ころの林兼には発動機船が3隻あり、朝鮮の慶尚南道・巨済島に根拠地があった
    • [27]中部謙吉は中部幾次郎の二男で、満14歳で高等小学校を出て家業に入り第二新生丸で巨済島へ渡った
    • [28]初航海は玄界灘のシケに遭い三日三晩飲まず食わずで吐き続けた
    • [29]中部謙吉はのちに大洋漁業の三代目社長となった

1915年秋、林兼は朝鮮東海岸の方魚津へ本拠地を移した[30]。それまでの漁は仕込み契約に頼っていたが、事業場や運搬船が増えるにつれて他人任せでは心もとなくなり、アジ・サバの巾着網と定置漁場の直営を始める[31]。中部謙吉氏は米国で行われていたターンテーブル式巾着網を手本に、朝鮮の漁場に合わせた片手回し・テーブル式を試した[32]。網が引っかかるなどして2年を費やし、試験だけで身上をつぶすと言われながら改良を重ねて、3年目に完成させた[33]。機船巾着網の発明について、林兼は朝鮮総督府から表彰を受けた[34]。25トン・60〜80馬力の機船は8ノットを出し[35]、シケになっても最後まで漁場に残れたため、櫓櫂の船より多く漁獲を得た。

  • 『私の履歴書 経済人6』(日本経済新聞社、1980年)「中部謙吉」
    • [30]1915年秋に朝鮮東海岸の方魚津へ本拠地を移した
    • [31]事業場や運搬船が増えて仕込み契約だけでは足りなくなり、巾着網と定置漁場の直営を始めた
    • [32]米国のターンテーブル式巾着網を手本に朝鮮の漁場に合わせた片手回し・テーブル式を採用した
    • [33]巾着網の改良に2年を費やし3年目に完成させた
    • [34]機船巾着網の発明について朝鮮総督府から表彰を受けた
    • [35]機船は25トン・60〜80馬力で8ノットを出し、耐波性から最後まで漁場に残ることができた

定置網では出遅れが響き、最優秀の漁場はすでに既存業者が押さえており[36]、林兼は朝鮮沿岸一帯の何十カ所へ試験的に網を入れたが、収支が償ったのは3分の1にも満たない[37]。それでも見込みのある場所には3年でも5年でも改良を続け、良漁場が移動していくうちに、朝鮮の定置網漁場で最も良い場所はほとんど林兼の支配下に入った[38]。事業の広がりに合わせて設備も増え、1918年に下関市彦島へ林兼造船鉄工所を設け、1920年には彦島冷蔵庫を建設した[39]。1924年9月、幾次郎氏は個人経営の林兼商店を分離して株式会社林兼商店・林兼冷蔵・林兼漁業の3社を設立し[40]、翌1925年に3社を合併して資本金1000万円の株式会社林兼商店とした[41]。1921年以降は以西底曳網漁業にも参入しており[42]、共同漁業・日魯漁業と並ぶ三大漁業会社の一角[43]を占めるに至る。

  • 『私の履歴書 経済人6』(日本経済新聞社、1980年)「中部謙吉」
    • [36]定置網への参入が遅れ最優秀の漁場は既存業者が占有していた
    • [37]朝鮮沿岸一帯の何十カ所に試験的に網を入れたが収支が償ったのは3分の1に満たなかった
    • [38]改良を続けた結果、朝鮮の定置網漁場で最良の場所はほとんど林兼の支配下に入った
  • 『会社銀行八十年史』(東洋経済新報社、1955年)「大洋漁業」の項
    • [39]1918年に下関市彦島へ林兼造船鉄工所を設け、1920年に彦島冷蔵庫を建設した
    • [40]1924年9月に個人経営の林兼商店を分離し株式会社林兼商店・林兼冷蔵・林兼漁業の3社を設立した
    • [41]1925年に3社が合併して資本金1000万円の株式会社林兼商店となった
  • 『日本産業史』第1巻(日本経済新聞社、1994年)「食品-戦火の陰に泣く」
    • [42]林兼商店は1921年以降に以西底曳網漁業へ参入して本格的な漁業資本となった
  • 『企業の歴史 : 明治百年』(経済春秋社編、1968年)「大洋漁業」の項
    • [43]林兼商店は共同漁業・日魯漁業とともに三大漁業会社と呼ばれた
  • 『会社銀行八十年史』(東洋経済新報社、1955年)「大洋漁業」の項
    • [23]1904年に内海・山陰・九州および朝鮮水域の漁業に至便な下関市を事業の根拠地とした
    • [24]1907年に釜山へ航行し羅老島を根拠地として朝鮮各地へ発展した
    • [39]1918年に下関市彦島へ林兼造船鉄工所を設け、1920年に彦島冷蔵庫を建設した
    • [40]1924年9月に個人経営の林兼商店を分離し株式会社林兼商店・林兼冷蔵・林兼漁業の3社を設立した
    • [41]1925年に3社が合併して資本金1000万円の株式会社林兼商店となった
  • 『企業の歴史 : 明治百年』(経済春秋社編、1968年)「大洋漁業」の項
    • [25]1907年に仲買運搬業を廃止して漁業の直営を実現した
    • [43]林兼商店は共同漁業・日魯漁業とともに三大漁業会社と呼ばれた
  • 『私の履歴書 経済人6』(日本経済新聞社、1980年)「中部謙吉」
    • [26]1910年ころの林兼には発動機船が3隻あり、朝鮮の慶尚南道・巨済島に根拠地があった
    • [27]中部謙吉は中部幾次郎の二男で、満14歳で高等小学校を出て家業に入り第二新生丸で巨済島へ渡った
    • [28]初航海は玄界灘のシケに遭い三日三晩飲まず食わずで吐き続けた
    • [29]中部謙吉はのちに大洋漁業の三代目社長となった
    • [30]1915年秋に朝鮮東海岸の方魚津へ本拠地を移した
    • [31]事業場や運搬船が増えて仕込み契約だけでは足りなくなり、巾着網と定置漁場の直営を始めた
    • [32]米国のターンテーブル式巾着網を手本に朝鮮の漁場に合わせた片手回し・テーブル式を採用した
    • [33]巾着網の改良に2年を費やし3年目に完成させた
    • [34]機船巾着網の発明について朝鮮総督府から表彰を受けた
    • [35]機船は25トン・60〜80馬力で8ノットを出し、耐波性から最後まで漁場に残ることができた
    • [36]定置網への参入が遅れ最優秀の漁場は既存業者が占有していた
    • [37]朝鮮沿岸一帯の何十カ所に試験的に網を入れたが収支が償ったのは3分の1に満たなかった
    • [38]改良を続けた結果、朝鮮の定置網漁場で最良の場所はほとんど林兼の支配下に入った
  • 『日本産業史』第1巻(日本経済新聞社、1994年)「食品-戦火の陰に泣く」
    • [42]林兼商店は1921年以降に以西底曳網漁業へ参入して本格的な漁業資本となった

北洋からの撤退が生んだ南氷洋捕鯨と、水産統制令による国策統合

日魯漁業に買われた北洋と、活路になった捕鯨母船

1930年代の林兼は、北洋の漁場を目指した[44]。朝鮮時代にサワラやサバの流し網を長く経験していた中部謙吉氏は、その技術を生かして1932年からカムチャッカ西海岸でサケ・マスの沖取り流し網に乗り出す[45]。試みは網が沈むほどの好漁で、翌年には5000トン級の貨物船を輸入して幸生丸と名づけ[46]、1934年には北千島の陸上漁場と缶詰工場も整えた[47]。しかし当時の北洋漁業は政府の大合同方針の下にあり、露領漁業の大部分は日魯漁業が握っていた[48]。公海で沖取りする母船式サケ・マス漁業でも、1935年には日魯漁業が支配力を握った[49]。林兼の北洋事業は同じ1935年に日魯漁業へ買収され[50]、買収金135万円を手にしたものの、北洋からは手を引くほかなかった[51]

  • 『私の履歴書 経済人6』(日本経済新聞社、1980年)「中部謙吉」
    • [44]林兼の北洋進出は昭和の初めの博愛丸によるカニ工船から始まった
    • [45]中部謙吉は朝鮮時代の流し網の経験を生かし1932年からカムチャッカ西海岸でサケ・マスの沖取り流し網を始めた
    • [46]翌年に5000トン級の貨物船を輸入して幸生丸と名づけ沖取りに出動させ大成功した
    • [47]1934年に北千島の陸上漁場へも広げ缶詰工場を完備した
    • [51]北洋事業の買収金135万円を手にしたが北洋では手も足も出ない状態になった
  • 『日本産業史』第1巻(日本経済新聞社、1994年)「食品-戦火の陰に泣く」
    • [48]日魯漁業は露領漁業の大部分を独占していた
    • [49]公海で沖取りする母船式サケ・マス漁業も1935年に日魯漁業が支配力を握った
  • 『会社銀行八十年史』(東洋経済新報社、1955年)「大洋漁業」の項
    • [50]政府の北洋漁業大合同方針により1935年に林兼の北洋事業は日魯漁業へ買収された

北洋の道を閉ざされた林兼が活路を求めたのが、南氷洋の捕鯨[52]であった。捕鯨部の責任者・志野徳助氏はかねて南氷洋捕鯨を提唱していた名砲手であり[53]、林兼は日魯漁業から得た買収資金を元手に出漁を計画する。1936年には土佐捕鯨・大東捕鯨・藤村捕鯨の3社を買収合併して資本金1000万円の大洋捕鯨を設立し[54]、この会社を出漁の母体とした。母船は2万トン級の新造が必要で、母船550万円、捕鯨船8隻で200万円、仕込み金200万円と、あわせて950万円を要した。これに対し東京にあった手元資金は50万円である[55]。資金は興銀・勧銀・安田が世話をし、仕込み金は三菱商事[56]が引き受けた。英国ファーネス社から母船の図面を10万円で買い、川崎造船が7カ月の突貫工事[57]で捕鯨母船・日新丸を完成させた。

  • 『私の履歴書 経済人6』(日本経済新聞社、1980年)「中部謙吉」
    • [52]北洋の道を閉ざされた林兼は南氷洋捕鯨に活路を求めた
    • [53]捕鯨部責任者の志野徳助はかねて南氷洋捕鯨を提唱していた名砲手であった
    • [55]南氷洋出漁には母船550万円・捕鯨船8隻200万円・仕込み金200万円の計950万円を要し手元資金は50万円だった
    • [56]資金は興銀・勧銀・安田が世話をし仕込み金は三菱商事が引き受けた
    • [57]英国ファーネス社から母船の図面を10万円で購入し川崎造船が7カ月の突貫工事で日新丸を完成させた
  • 『会社銀行八十年史』(東洋経済新報社、1955年)「大洋漁業」の項
    • [54]1936年に土佐捕鯨・大東捕鯨・藤村捕鯨の3社を買収合併し資本金1000万円の大洋捕鯨を設立した

1936年10月7日、日新丸船団は神戸を出港[58]した。船団長の志野徳助氏は最終寄港地のフリーマントルで脳出血により急逝し、見習いとして乗っていた謙吉氏の弟・中部利三郎氏が急きょ船団長を継いだ[59]が、その年の成績は良好だった[60]。日本水産に続く南氷洋捕鯨への参入[61]である。翌1937年6月には第二日新丸が完成[62]したものの、7月に日中戦争が起こり、500坪の大甲板を持つ同船は上海の呉淞上陸作戦へ徴用されて上陸用舟艇を運んだ。第一・第二日新丸は1936年から1941年まで5漁期を出漁[63]したのち、ともにタンカーとして国に徴用され、南氷洋捕鯨は中断した。

  • 『私の履歴書 経済人6』(日本経済新聞社、1980年)「中部謙吉」
    • [58]1936年10月7日に日新丸船団が神戸を出港した
    • [59]船団長の志野徳助はフリーマントルで脳出血により急逝し中部利三郎が船団長を継いだ
    • [60]初年度の日新丸船団は立派な成績を収めた
    • [62]1937年6月に第二日新丸が完成し翌7月の日中戦争勃発後に呉淞上陸作戦へ徴用された
    • [63]第一・第二日新丸は1936年から1941年まで5漁期を出漁した後タンカーとして徴用され南氷洋捕鯨は中断した
  • 『日本産業史』第1巻(日本経済新聞社、1994年)「食品-戦火の陰に泣く」
    • [61]林兼商店は1936年に日本水産に続いて南氷洋捕鯨へ乗り出した
  • 『私の履歴書 経済人6』(日本経済新聞社、1980年)「中部謙吉」
    • [44]林兼の北洋進出は昭和の初めの博愛丸によるカニ工船から始まった
    • [45]中部謙吉は朝鮮時代の流し網の経験を生かし1932年からカムチャッカ西海岸でサケ・マスの沖取り流し網を始めた
    • [46]翌年に5000トン級の貨物船を輸入して幸生丸と名づけ沖取りに出動させ大成功した
    • [47]1934年に北千島の陸上漁場へも広げ缶詰工場を完備した
    • [51]北洋事業の買収金135万円を手にしたが北洋では手も足も出ない状態になった
    • [52]北洋の道を閉ざされた林兼は南氷洋捕鯨に活路を求めた
    • [53]捕鯨部責任者の志野徳助はかねて南氷洋捕鯨を提唱していた名砲手であった
    • [55]南氷洋出漁には母船550万円・捕鯨船8隻200万円・仕込み金200万円の計950万円を要し手元資金は50万円だった
    • [56]資金は興銀・勧銀・安田が世話をし仕込み金は三菱商事が引き受けた
    • [57]英国ファーネス社から母船の図面を10万円で購入し川崎造船が7カ月の突貫工事で日新丸を完成させた
    • [58]1936年10月7日に日新丸船団が神戸を出港した
    • [59]船団長の志野徳助はフリーマントルで脳出血により急逝し中部利三郎が船団長を継いだ
    • [60]初年度の日新丸船団は立派な成績を収めた
    • [62]1937年6月に第二日新丸が完成し翌7月の日中戦争勃発後に呉淞上陸作戦へ徴用された
    • [63]第一・第二日新丸は1936年から1941年まで5漁期を出漁した後タンカーとして徴用され南氷洋捕鯨は中断した
  • 『日本産業史』第1巻(日本経済新聞社、1994年)「食品-戦火の陰に泣く」
    • [48]日魯漁業は露領漁業の大部分を独占していた
    • [49]公海で沖取りする母船式サケ・マス漁業も1935年に日魯漁業が支配力を握った
    • [61]林兼商店は1936年に日本水産に続いて南氷洋捕鯨へ乗り出した
  • 『会社銀行八十年史』(東洋経済新報社、1955年)「大洋漁業」の項
    • [50]政府の北洋漁業大合同方針により1935年に林兼の北洋事業は日魯漁業へ買収された
    • [54]1936年に土佐捕鯨・大東捕鯨・藤村捕鯨の3社を買収合併し資本金1000万円の大洋捕鯨を設立した

水産統制令で生まれた西大洋漁業統制と、敗戦で失った船

戦時色が濃くなるなかで、林兼商店を中心とする事業は日本本土のほか朝鮮・台湾・満州・中国・南方・北千島・樺太・小笠原・メキシコ・南氷洋の各水域へ広がっていた[64]。捕鯨・カツオマグロ漁業・サケマス漁業・底曳網漁業に加え、製氷・冷凍・缶詰・食品加工・造船造機・製函・製網までを直営する構えである[65]。1943年3月31日、水産統制令に基づいて株式会社林兼商店の水産部門と同系の大洋捕鯨・遠洋捕鯨が共同出資し、資本金6000万円の西大洋漁業統制株式会社が下関市に設立された[66]。捕鯨業・トロール漁業・底曳網漁業を事業目的とする国策の統合であり、社長には中部幾次郎氏が就いた[67]。マルハがのちに数える創立からの期数は、この1943年設立の法人を第1期とする[68]

  • 『会社銀行八十年史』(東洋経済新報社、1955年)「大洋漁業」の項
    • [64]林兼商店系の事業は日本本土・朝鮮・台湾・満州・中国・南方・北千島・樺太・小笠原・メキシコ・南氷洋に及んだ
    • [65]捕鯨・鰹鮪漁業・鮭鱒漁業・底曳網漁業のほか製氷・冷凍・缶詰・食品加工・造船造機・製函・製網を直営した
  • マルハニチロ 有価証券報告書【沿革】
    • [66]1943年3月31日に水産統制令に基づき林兼商店水産部門と大洋捕鯨・遠洋捕鯨の共同出資で資本金6000万円の西大洋漁業統制が設立された
    • [67]西大洋漁業統制は捕鯨業・トロール漁業・底曳網漁業を事業目的とし社長には中部幾次郎が就任した
  • マルハニチロ 有価証券報告書
    • [68]有価証券報告書の期数は1943年設立の法人を第1期として連続している

戦争は会社の資産をほとんど奪い、第二日新丸は1943年に石垣島付近で撃沈され、第一日新丸も終戦の前年に北ボルネオ沖で沈んでいる[69]。失われた船は200数十隻・7万数千トンに及び[70]、外地資産の全部とほとんどの船舶が消えた[71]。沈没船の補償金6000数百万円のうち受け取れたのは1500〜1600万円程度[72]で、残りは戦時補償の打ち切りで棒引きとなり、会社には数千万円の借金と、外地から戻ってくる700人ほどの社員が残された。それでも終戦の8日後に開かれた役員会議では、食糧不足に対処するには漁撈の再開が先決だと決め、1946年1月までに底曳・トロール・マグロ・捕鯨船など218隻・2万トンを発注した[73]

  • 『私の履歴書 経済人6』(日本経済新聞社、1980年)「中部謙吉」
    • [69]第二日新丸は1943年に石垣島付近で撃沈され第一日新丸も終戦前年に北ボルネオ沖で沈没した
    • [70]失われた船舶は200数十隻・7万数千トンに及んだ
    • [72]補償金6000数百万円のうち受け取れたのは1500〜1600万円程度で残りは戦時補償の打ち切りで消え数千万円の借金と復員社員700人が残った
  • 『企業の歴史 : 明治百年』(経済春秋社編、1968年)「大洋漁業」の項
    • [71]第二次大戦で外地資産の全部とほとんどの船舶を失った
    • [73]終戦8日後の役員会議で漁撈再開を決め1946年1月までに218隻・2万トンを発注した
  • 『会社銀行八十年史』(東洋経済新報社、1955年)「大洋漁業」の項
    • [64]林兼商店系の事業は日本本土・朝鮮・台湾・満州・中国・南方・北千島・樺太・小笠原・メキシコ・南氷洋に及んだ
    • [65]捕鯨・鰹鮪漁業・鮭鱒漁業・底曳網漁業のほか製氷・冷凍・缶詰・食品加工・造船造機・製函・製網を直営した
  • マルハニチロ 有価証券報告書【沿革】
    • [66]1943年3月31日に水産統制令に基づき林兼商店水産部門と大洋捕鯨・遠洋捕鯨の共同出資で資本金6000万円の西大洋漁業統制が設立された
    • [67]西大洋漁業統制は捕鯨業・トロール漁業・底曳網漁業を事業目的とし社長には中部幾次郎が就任した
  • マルハニチロ 有価証券報告書
    • [68]有価証券報告書の期数は1943年設立の法人を第1期として連続している
  • 『私の履歴書 経済人6』(日本経済新聞社、1980年)「中部謙吉」
    • [69]第二日新丸は1943年に石垣島付近で撃沈され第一日新丸も終戦前年に北ボルネオ沖で沈没した
    • [70]失われた船舶は200数十隻・7万数千トンに及んだ
    • [72]補償金6000数百万円のうち受け取れたのは1500〜1600万円程度で残りは戦時補償の打ち切りで消え数千万円の借金と復員社員700人が残った
  • 『企業の歴史 : 明治百年』(経済春秋社編、1968年)「大洋漁業」の項
    • [71]第二次大戦で外地資産の全部とほとんどの船舶を失った
    • [73]終戦8日後の役員会議で漁撈再開を決め1946年1月までに218隻・2万トンを発注した

中部家三代の同族経営が築いた水産日本の全盛と、翳りはじめた遠洋漁業

218隻の発注から始まった戦後の再建

1945年12月、西大洋漁業統制は水産統制令の廃止に伴って西大洋漁業へ商号を変え、同じ月にさらに大洋漁業へと改めた[74]。新造船の手配は終戦直後から動き、手繰り船80トン、トロール船270トンという船を、三菱重工の神戸・彦島・長崎・広島、三井造船の玉野、川崎重工の神戸へ20隻30隻と分散して発注した[75]。造船所はいずれも終戦の打撃で仕事が止まっており、資材と人はあっても資金がなかった[76]ため、発注はこぞって歓迎された。契約はトン当たり6000円[77]だったが、インフレで諸費用が急増して造船所が負担しきれなくなり、中部謙吉氏は興銀と勧銀に事情を説明して割り増し金の追加を頼んで回った。1年余りで100数十隻が完成[78]し、トン当たりの価格は1万2000円へ上がっていた。

  • マルハニチロ 有価証券報告書【沿革】
    • [74]1945年12月に西大洋漁業へ商号変更し同月さらに大洋漁業へ商号変更した
  • 『私の履歴書 経済人6』(日本経済新聞社、1980年)「中部謙吉」
    • [75]手繰り船80トン・トロール船270トンを三菱重工神戸ほか大手造船所へ20隻30隻と分散発注した
    • [76]造船所は資材と人はあっても資金が止まっており発注を歓迎した
    • [77]契約はトン当たり6000円だったがインフレで負担できなくなり興銀・勧銀に割り増し金の追加を求めた
    • [78]1年余りで100数十隻が完成しトン当たり価格は1万2000円になった

食糧増産は占領下の政策とも合致[79]した。GHQの水産部は日本の食糧問題を解く早道として漁業の振興を奨励し[80]、大洋漁業は終戦の年の暮れ近くに、借り受けた1500トンほどの水雷敷設艦を母船として戦後第1回の小笠原捕鯨を行った[81]。続いて三菱重工長崎造船所で建造途中だったタンカーを引き継いで母船に仕上げ[82]、南氷洋へ向かった。1万トン超の母船を海外へ出すのは早すぎるという横やりがある国から入った際、中部謙吉氏は捕鯨母船が駄目ならタンカーとして進水させてほしいと頼み[83]、工事を先へ進めた。1946年には戦後第1回の南氷洋捕鯨に参加[84]した。

  • 『私の履歴書 経済人6』(日本経済新聞社、1980年)「中部謙吉」
    • [79]食糧問題は当時の日本国民の死活問題であり占領当局も漁業振興を後押しした
    • [80]GHQ水産部は日本の食糧問題解決の早道として漁業の振興を奨励した
    • [81]終戦の年の暮れ近くに借り受けた1500トンほどの水雷敷設艦を母船として戦後第1回の小笠原捕鯨を実行した
    • [82]三菱重工長崎造船所で建造途中のタンカーを引き継ぎ捕鯨母船に仕上げた
    • [83]母船の海外派遣に他国から異論が出たため捕鯨母船ではなくタンカーとして進水させるよう求めた
  • 『会社銀行八十年史』(東洋経済新報社、1955年)「大洋漁業」の項
    • [84]1946年に戦後第1回の南氷洋捕鯨へ参加した

一方、1947年には公職追放令が林兼にも及んだ。林兼は地方財閥の一つと見なされ、中部一族は全員が追放されて株式も預かり没収となる[85]。中部謙吉氏はGHQへ陳情に通い、軍への協力とされた事実は徴用船の乗組員が軍命令で動いたものだと説き、英文の陳情書を重ねた[86]。2年ほどののち一族はそろって追放解除となり、株式も全部返還された[87]。漁場も少しずつ戻り、1950年に大洋漁業は数百海里の沖合でサケ・マスを獲る沖取りに踏み切り、30隻の独航船と3500トンの第三天洋丸を出漁させて初年度から成果を上げた[88]。1952年には北洋の母船式サケ・マス漁業と北洋捕鯨へ、1953年には母船式カニ漁業へ参加した[89]

  • 『私の履歴書 経済人6』(日本経済新聞社、1980年)「中部謙吉」
    • [85]1947年の公職追放令で林兼は地方財閥とされ中部一族全員が追放され株式も没収された
    • [86]中部謙吉はGHQへ陳情し徴用船の行動は軍命令によるものだと説明して英文の陳情書を提出した
    • [87]2年ほどの陳情の末に一族はそろって追放解除となり株式も全部返還された
    • [88]1950年に数百海里沖合のサケ・マス沖取りへ踏み切り30隻の独航船と3500トンの第三天洋丸で初年度から成功した
  • 『会社銀行八十年史』(東洋経済新報社、1955年)「大洋漁業」の項
    • [89]1952年に北洋の母船式サケ・マス漁業と北洋捕鯨へ、1953年に母船式カニ漁業へ参加した
  • マルハニチロ 有価証券報告書【沿革】
    • [74]1945年12月に西大洋漁業へ商号変更し同月さらに大洋漁業へ商号変更した
  • 『私の履歴書 経済人6』(日本経済新聞社、1980年)「中部謙吉」
    • [75]手繰り船80トン・トロール船270トンを三菱重工神戸ほか大手造船所へ20隻30隻と分散発注した
    • [76]造船所は資材と人はあっても資金が止まっており発注を歓迎した
    • [77]契約はトン当たり6000円だったがインフレで負担できなくなり興銀・勧銀に割り増し金の追加を求めた
    • [78]1年余りで100数十隻が完成しトン当たり価格は1万2000円になった
    • [79]食糧問題は当時の日本国民の死活問題であり占領当局も漁業振興を後押しした
    • [80]GHQ水産部は日本の食糧問題解決の早道として漁業の振興を奨励した
    • [81]終戦の年の暮れ近くに借り受けた1500トンほどの水雷敷設艦を母船として戦後第1回の小笠原捕鯨を実行した
    • [82]三菱重工長崎造船所で建造途中のタンカーを引き継ぎ捕鯨母船に仕上げた
    • [83]母船の海外派遣に他国から異論が出たため捕鯨母船ではなくタンカーとして進水させるよう求めた
    • [85]1947年の公職追放令で林兼は地方財閥とされ中部一族全員が追放され株式も没収された
    • [86]中部謙吉はGHQへ陳情し徴用船の行動は軍命令によるものだと説明して英文の陳情書を提出した
    • [87]2年ほどの陳情の末に一族はそろって追放解除となり株式も全部返還された
    • [88]1950年に数百海里沖合のサケ・マス沖取りへ踏み切り30隻の独航船と3500トンの第三天洋丸で初年度から成功した
  • 『会社銀行八十年史』(東洋経済新報社、1955年)「大洋漁業」の項
    • [84]1946年に戦後第1回の南氷洋捕鯨へ参加した
    • [89]1952年に北洋の母船式サケ・マス漁業と北洋捕鯨へ、1953年に母船式カニ漁業へ参加した

一族が持ち合う株式と、多角経営で広げた裾野

1953年3月、二代社長の中部兼市氏が62歳で死去し[90]、幾次郎氏・兼市氏に続いて中部謙吉氏が三代目の社長に就いた。初代の幾次郎氏は1946年5月に80歳で世を去った[91]。同社の売上高は1953年1月期の146億円から1955年1月期には224億円へ伸び[92]、1955年9月12日に東京証券取引所へ上場した[93]。1955年1月末の大株主は上位10名がすべて中部姓[94]で、筆頭の中部謙吉氏が355万株、中部タミ氏が293万株、中部悦良氏が272万株を保有した。発行済み株式4000万株に対して株主数は5719名、金融機関の持ち株は13.4%にとどまり[95]、副社長には中部悦良氏と中部利三郎氏が並んだ[96]

  • 証券 1955年10月号
    • [90]1953年3月に二代社長の中部兼市が死去し中部謙吉が三代目社長に就任した
    • [92]売上高は1953年1月期146億円から1955年1月期224億円へ伸びた
    • [93]1955年9月12日に新規上場した
    • [94]1955年1月末の大株主上位10名はすべて中部姓で筆頭の中部謙吉は355万株を保有した
    • [95]発行済み株式4000万株に対し株主数5719名、金融機関の持ち株比率は13.4%であった
    • [96]上場時の副社長は中部悦良と中部利三郎であった
  • 『私の履歴書 経済人6』(日本経済新聞社、1980年)「中部謙吉」
    • [91]初代社長の中部幾次郎は1946年5月に80歳で死去した

事業の広げ方には、水産業に固有の理由[97]があった。漁業は天候・場所・時期・潮流に左右されて豊凶の差が激しく[98]、漁獲量が多くても魚価が下がれば儲けは少なく、魚価が高くても漁獲が細れば利益にならない。『水物事業』(証券 1955/10)と呼ばれるゆえんであり、単一の事業規模では危険が大きいため、大規模な多角経営で危険を分散する必要があった[99]。大洋漁業は南氷洋捕鯨・北洋のサケマス・カニ・捕鯨・南洋のマグロ漁業に加え、製氷・冷凍・缶詰製造・食品加工・貿易・海上運送を営み[100]、1955年1月末には全国に製氷工場11・冷凍工場15・食品工場6を持ち、船舶479隻・11万3178総トンを保有した[101]。1961年3月には肥料・飼料事業を事業目的へ加えた[102]

  • 証券 1955年10月号
    • [97]単一の事業規模では危険が多く大規模な多角経営による危険分散が必要とされた
    • [98]漁業は自然条件に左右され豊凶の差が著しく、漁獲量が多くても魚価が下がれば利益にならない
    • [99]水産事業は水物事業と呼ばれ、大規模な多角経営で危険を分散する必要があるとされた
    • [101]1955年1月末に製氷工場11・冷凍工場15・食品工場6を持ち船舶479隻・11万3178総トンを保有した
  • 『会社銀行八十年史』(東洋経済新報社、1955年)「大洋漁業」の項
    • [100]南氷洋捕鯨・北洋のサケマス・カニ・捕鯨・南洋マグロ漁業のほか製氷・冷凍・缶詰・食品加工・貿易・海上運送を営んだ
  • マルハニチロ 有価証券報告書【沿革】
    • [102]1961年3月に肥料・飼料事業を事業目的へ追加した

多角化はグループの規模にも表れ、1967年度の大洋漁業単体の売上高は1553億円で前年比20%増、税引後利益は16億7000万円、従業員は1万1420名である[103]。関係60社を合わせた総売上高は4370億円、税引前利益60億円[104]、従業員は約3万5000人に達した。系列には林兼産業・佐世保重工業・大洋商船・アジア石油・大都魚類[105]などが並び、漁業を基幹とした総合食品業への道が掲げられた。プロ野球の大洋ホエールズも1950年に発足したグループの一つで、1960年には三原脩監督を迎えてセ・リーグを制し[106]、日本シリーズでも大毎を4連勝で下した。一方、各国が食糧資源の確保のため領海を拡大し、漁業専管水域を設けて日本漁船を締め出す動きが増え、公海上の競争は激しくなっていた[107]

  • 『企業の歴史 : 明治百年』(経済春秋社編、1968年)「大洋漁業」の項
    • [103]1967年度の単体売上高は1553億円で前年比20%増、税引後利益16億7000万円、従業員1万1420名であった
    • [104]関係60社を合わせた総売上高は4370億円・税引前利益60億円・従業員約3万5000人であった
    • [105]関係会社には林兼産業・佐世保重工業・大洋商船・アジア石油・大都魚類などがあり漁業を基幹とする総合食品業を掲げた
    • [107]各国が領海を拡大し漁業専管水域を設定して日本漁船を締め出し公海上の競争が激しくなった
  • 『私の履歴書 経済人6』(日本経済新聞社、1980年)「中部謙吉」
    • [106]大洋ホエールズは1950年にプロ野球へ踏み切り1960年に三原脩監督のもとセ・リーグを制し日本シリーズで大毎を4連勝で下した
  • 証券 1955年10月号
    • [90]1953年3月に二代社長の中部兼市が死去し中部謙吉が三代目社長に就任した
    • [92]売上高は1953年1月期146億円から1955年1月期224億円へ伸びた
    • [93]1955年9月12日に新規上場した
    • [94]1955年1月末の大株主上位10名はすべて中部姓で筆頭の中部謙吉は355万株を保有した
    • [95]発行済み株式4000万株に対し株主数5719名、金融機関の持ち株比率は13.4%であった
    • [96]上場時の副社長は中部悦良と中部利三郎であった
    • [97]単一の事業規模では危険が多く大規模な多角経営による危険分散が必要とされた
    • [98]漁業は自然条件に左右され豊凶の差が著しく、漁獲量が多くても魚価が下がれば利益にならない
    • [99]水産事業は水物事業と呼ばれ、大規模な多角経営で危険を分散する必要があるとされた
    • [101]1955年1月末に製氷工場11・冷凍工場15・食品工場6を持ち船舶479隻・11万3178総トンを保有した
  • 『私の履歴書 経済人6』(日本経済新聞社、1980年)「中部謙吉」
    • [91]初代社長の中部幾次郎は1946年5月に80歳で死去した
    • [106]大洋ホエールズは1950年にプロ野球へ踏み切り1960年に三原脩監督のもとセ・リーグを制し日本シリーズで大毎を4連勝で下した
  • 『会社銀行八十年史』(東洋経済新報社、1955年)「大洋漁業」の項
    • [100]南氷洋捕鯨・北洋のサケマス・カニ・捕鯨・南洋マグロ漁業のほか製氷・冷凍・缶詰・食品加工・貿易・海上運送を営んだ
  • マルハニチロ 有価証券報告書【沿革】
    • [102]1961年3月に肥料・飼料事業を事業目的へ追加した
  • 『企業の歴史 : 明治百年』(経済春秋社編、1968年)「大洋漁業」の項
    • [103]1967年度の単体売上高は1553億円で前年比20%増、税引後利益16億7000万円、従業員1万1420名であった
    • [104]関係60社を合わせた総売上高は4370億円・税引前利益60億円・従業員約3万5000人であった
    • [105]関係会社には林兼産業・佐世保重工業・大洋商船・アジア石油・大都魚類などがあり漁業を基幹とする総合食品業を掲げた
    • [107]各国が領海を拡大し漁業専管水域を設定して日本漁船を締め出し公海上の競争が激しくなった

二百カイリが終わらせた遠洋漁業と、マルハへの改称・非同族化を経た統合

API for AI Agents — 認証不要、URLをGETするだけで機械可読なJSONをトークン消費を抑えつつ取得できます。

マルハの沿革1880〜2007年における主な出来事を抜粋

時代年月社長・CEO出来事重要度
1880〜1931年明石の鮮魚問屋が発動機船で開いた朝鮮の漁場と漁業資本への道中部幾次郎が明石で鮮魚仲買業の林兼商店を創業★★
日本初の発動機付き鮮魚運搬船「新生丸」を建造★★
朝鮮の漁場に参入し仲買運搬業から漁業の直営へ★★
朝鮮東海岸の方魚津へ本拠を移し機船巾着網を導入
個人経営を改組し株式会社林兼商店を設立★★
林兼漁業・林兼冷蔵を合併し資本金1000万円へ
1932〜1945年北洋からの撤退が生んだ南氷洋捕鯨と、水産統制令による国策統合カムチャッカ西海岸でさけ・ます沖取り流し網を開始
北洋漁業の権益を日魯漁業へ譲渡し北洋から撤退★★
大洋捕鯨の捕鯨母船「日新丸」が南氷洋へ初出漁★★
水産統制令により西大洋漁業統制を下関市に設立★★
水産物・農畜産物の製造加工販売業と冷蔵倉庫業を追加
西大洋漁業を経て大洋漁業に商号変更★★
1946〜1976年中部家三代の同族経営が築いた水産日本の全盛と、翳りはじめた遠洋漁業戦後第1回の南氷洋捕鯨に参加
公職追放により中部一族が退き株式を没収★★
大都魚類を設立
神港魚類を設立
本社を東京都に移転
プロ野球球団の大洋ホエールズが発足
北洋の母船式さけ・ます漁業に参加
二代社長の中部兼市氏の死去により中部謙吉氏が社長に就任★★
東京証券取引所に上場
肥料・飼料事業を事業目的に追加
1977〜2007年二百カイリが終わらせた遠洋漁業と、マルハへの改称・非同族化を経た統合二百カイリ規制を受けた遠洋漁業からの主力転換と、加工食品・養殖事業への移行

二百カイリ漁業水域の設定で公海の漁場を失った水産最大手の大洋漁業が、1977年以降、陸上の加工・養殖・外食へ資本を移し、獲る会社から作り売る会社への転換を進めた。1987年にマグロの養殖研究へ着手し、1993年には社名を大洋漁業からマルハへ改めて『脱漁業』を鮮明にした、十数年におよぶ事業構造の組み替えである。

詳細を読む
★★★
宇都宮市に練り製品工場が竣工
宇都宮市に調味料・薬品・健康食品工場が竣工
クロマグロの種苗開発チームを発足し養殖研究に着手★★
ギル&ダファス社への資本参加により国際原糖事業へ参入★★
つくば市に中央研究所が竣工
大洋漁業からマルハへの改称と、中部家三代の同族経営からの離脱

明石の魚問屋から数えて三代、株式と社長職の双方を中部家が握ってきた大洋漁業が、1993年に社名をマルハへ改め、2002年には興銀出身の五十嵐勇二氏へ社長を譲った。創業家以外から本格的な社長が出たのはこのときが初めてで、負の遺産の処理を自らの手で終えた中部慶次郎氏が経営から退く形の交代であった。

詳細を読む
★★★
本社ビルの証券化を柱とする構造改革に着手★★
国際原糖事業の損失処理と、本社ビル証券化による穴埋め

マルハが1989年に資本参加した砂糖トレーダーのギル&ダファス社を通じたキューバ産原糖の取引が、ソ連崩壊後の供給難で回収不能に陥った。2000年末にキューバとの20年のリスケジュール交渉をまとめ、135億円の貸倒引当金と39億円の評価損を計上し、その原資には大手町の本社ビルを証券化して得た185億円の含み益をあてた。

詳細を読む
★★★
興銀出身の五十嵐勇二氏が非同族の社長に就任★★
株式移転により完全親会社のマルハグループ本社を設立★★
マルハグループ本社とニチロの経営統合、マルハニチロホールディングスの発足

2006年12月11日、水産最大手のマルハグループ本社と業界三位のニチロが経営統合を発表した。マルハ本社はマルハニチロホールディングスへ商号を改め、ニチロを株式交換で完全子会社とし、2007年10月に新会社を発足させた。両社の2006年3月期の単純合算売上高は約9,700億円で、二位の日本水産の約二倍となった。

詳細を読む
★★★
出典・参考
  • マルハニチロ 有価証券報告書【沿革】
  • マルハニチロ 有価証券報告書
  • 『会社銀行八十年史』(東洋経済新報社、1955年)「大洋漁業」の項
  • 『企業の歴史 : 明治百年』(経済春秋社編、1968年)「大洋漁業」の項
  • 『日本産業史』第1巻(日本経済新聞社、1994年)「水産-荒波こえ遠洋へ」
  • 『日本産業史』第1巻(日本経済新聞社、1994年)「食品-戦火の陰に泣く」
  • 証券 1955年10月号
  • 『私の履歴書 経済人6』(日本経済新聞社、1980年)「中部謙吉」

免責事項およびポリシー