{"spec_version":"3","endpoint":"history","stock_code":"maruha","company_name":"マルハ","content_lang":"ja","meta_lang":"en","canonical_url":"https://the-shashi.com/tse/maruha/","api_url":"/api/maruha/history.json","updated":"2026-08-05","license":"© 2026 Yutaka Sugiura. All rights reserved.","attribution":"The社史 (the-shashi.com) — https://the-shashi.com/tse/maruha/","title":"マルハの歴史概略","sections":[{"start_year":1880,"end_year":1931,"main_title":"明石の鮮魚問屋が発動機船で開いた朝鮮の漁場と漁業資本への道","subsections":[{"title":"押送船の14時間を縮めた国産第一号の発動機船","text":"マルハの前身は、兵庫県明石市で鮮魚の仲買を営んだ中部幾次郎氏の個人商店・林兼商店である。中部家は代々明石の漁師で、祖父の代から魚の運搬問屋を始めて林屋兼松と称した。屋号の林兼はここから出ており、幾次郎氏はその五代目にあたる。丸の中に「は」を置いた社標も、この屋号を記念したものである。創業は明治10年代のこととされ、のちにマルハは1880年を創業の年として数えた。幾次郎氏は12歳ころから家業の魚問屋で働き、押送船に乗って五島のマグロや阿波方面の鮮魚を買い出しては、大阪へ運んで売りさばいた。当時の鮮魚流通は人力の押送船に頼っており、明石から大阪までは14〜15時間を要した。時間がかかるほど魚の鮮度は落ち、損失も大きかった。\n\n幾次郎氏が最初に手を打ったのは、運搬の速度で、1897年に100トンほどの運搬船を借り入れて押送船の曳船に使い、生魚を大阪市場へ送ることに成功する。曳船で運んだ林兼の魚は5割も高く取り引きされ、家業は伸びた。次に着目したのが動力で、1903年に大阪で開かれた内国勧業博覧会で、人波をさばくために川筋を走る巡航船を見たことが発想のもとになった。日露戦争で計画は中断したが、1905年の暮れ、明石海岸の高い山の上で建造した12トンの木造船に石油発動機を据えつけ、試運転に成功する。国産第一号の発動機付き運搬船・新生丸であり、幾次郎氏は39歳になっていた。この船は手こぎの運搬船に代わって航海の時間を縮め、鮮魚の流通に一つの変革をもたらした。\n\n発動機船が生まれた時期は、日本の漁業が沿岸から沖合へ出ていく転換期にあたる。明治中期以降の漁業政策は技術政策を中心に据え、1897年に公布された遠洋漁業奨励法は漁船・漁具・乗組員へ補助金を交付して沖合遠洋漁業を後押しした。この法律は1905年の全面改正をはじめ何度も改められ、沖合遠洋漁業推進の牽引車となった。漁船の動力化によって沖合遠洋漁業発展の第一条件が満たされ、綿網の普及で漁網の性能も高まる。明治43年の海面漁獲量を100とすると、大正3年は157、大正12年は233に伸びた。沖合漁業の担い手には、旧来の沿岸漁業者や魚商が漁船を動力化して沖へ出ていった例が多い。","references":[{"title":"『会社銀行八十年史』（東洋経済新報社、1955年）「大洋漁業」の項","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"『企業の歴史 : 明治百年』（経済春秋社編、1968年）「大洋漁業」の項","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"『日本産業史』第1巻（日本経済新聞社、1994年）「水産－荒波こえ遠洋へ」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"『日本産業史』第1巻（日本経済新聞社、1994年）「食品－戦火の陰に泣く」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"『私の履歴書 経済人6』（日本経済新聞社、1980年）「中部謙吉」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"週刊東洋経済 2007年1月13日号「TOP INTERVIEW 五十嵐勇二 マルハグループ本社社長」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]}]},{"title":"仲買から漁業の直営へ、朝鮮の漁場で築いた地歩","text":"発動機船は航海の距離を伸ばし、幾次郎氏は1904年、内海・山陰・九州および朝鮮水域の漁業に便利な下関市を事業の根拠地とし、1907年には釜山へ航行して羅老島を拠点に朝鮮各地へ広がった。同じ年、林兼は仲買運搬業を廃止して漁業の直営に踏み切った。1910年ころの林兼はまだ発動機船を3隻持つにすぎず、朝鮮の慶尚南道・巨済島に根拠地を置いていた。幾次郎氏の二男である中部謙吉氏は、満14歳で高等小学校を出るとすぐ下関へ向かい、20トンあまりの第二新生丸で巨済島へ渡った。玄界灘のシケで三日三晩吐き続けたこの初航海が、のちに三代目社長となる謙吉氏の最初の仕事であった。\n\n1915年秋、林兼は朝鮮東海岸の方魚津へ本拠地を移した。それまでの漁は仕込み契約に頼っていたが、事業場や運搬船が増えるにつれて他人任せでは心もとなくなり、アジ・サバの巾着網と定置漁場の直営を始める。中部謙吉氏は米国で行われていたターンテーブル式巾着網を手本に、朝鮮の漁場に合わせた片手回し・テーブル式を試した。網が引っかかるなどして2年を費やし、試験だけで身上をつぶすと言われながら改良を重ねて、3年目に完成させた。機船巾着網の発明について、林兼は朝鮮総督府から表彰を受けた。25トン・60〜80馬力の機船は8ノットを出し、シケになっても最後まで漁場に残れたため、櫓櫂の船より多く漁獲を得た。\n\n定置網では出遅れが響き、最優秀の漁場はすでに既存業者が押さえており、林兼は朝鮮沿岸一帯の何十カ所へ試験的に網を入れたが、収支が償ったのは3分の1にも満たない。それでも見込みのある場所には3年でも5年でも改良を続け、良漁場が移動していくうちに、朝鮮の定置網漁場で最も良い場所はほとんど林兼の支配下に入った。事業の広がりに合わせて設備も増え、1918年に下関市彦島へ林兼造船鉄工所を設け、1920年には彦島冷蔵庫を建設した。1924年9月、幾次郎氏は個人経営の林兼商店を分離して株式会社林兼商店・林兼冷蔵・林兼漁業の3社を設立し、翌1925年に3社を合併して資本金1000万円の株式会社林兼商店とした。1921年以降は以西底曳網漁業にも参入しており、共同漁業・日魯漁業と並ぶ三大漁業会社の一角を占めるに至る。","references":[{"title":"『会社銀行八十年史』（東洋経済新報社、1955年）「大洋漁業」の項","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"『企業の歴史 : 明治百年』（経済春秋社編、1968年）「大洋漁業」の項","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"『日本産業史』第1巻（日本経済新聞社、1994年）「水産－荒波こえ遠洋へ」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"『日本産業史』第1巻（日本経済新聞社、1994年）「食品－戦火の陰に泣く」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"『私の履歴書 経済人6』（日本経済新聞社、1980年）「中部謙吉」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"週刊東洋経済 2007年1月13日号「TOP INTERVIEW 五十嵐勇二 マルハグループ本社社長」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]}]}]},{"start_year":1932,"end_year":1945,"main_title":"北洋からの撤退が生んだ南氷洋捕鯨と、水産統制令による国策統合","subsections":[{"title":"日魯漁業に買われた北洋と、活路になった捕鯨母船","text":"1930年代の林兼は、北洋の漁場を目指した。朝鮮時代にサワラやサバの流し網を長く経験していた中部謙吉氏は、その技術を生かして1932年からカムチャッカ西海岸でサケ・マスの沖取り流し網に乗り出す。試みは網が沈むほどの好漁で、翌年には5000トン級の貨物船を輸入して幸生丸と名づけ、1934年には北千島の陸上漁場と缶詰工場も整えた。しかし当時の北洋漁業は政府の大合同方針の下にあり、露領漁業の大部分は日魯漁業が握っていた。公海で沖取りする母船式サケ・マス漁業でも、1935年には日魯漁業が支配力を握った。林兼の北洋事業は同じ1935年に日魯漁業へ買収され、買収金135万円を手にしたものの、北洋からは手を引くほかなかった。\n\n北洋の道を閉ざされた林兼が活路を求めたのが、南氷洋の捕鯨であった。捕鯨部の責任者・志野徳助氏はかねて南氷洋捕鯨を提唱していた名砲手であり、林兼は日魯漁業から得た買収資金を元手に出漁を計画する。1936年には土佐捕鯨・大東捕鯨・藤村捕鯨の3社を買収合併して資本金1000万円の大洋捕鯨を設立し、この会社を出漁の母体とした。母船は2万トン級の新造が必要で、母船550万円、捕鯨船8隻で200万円、仕込み金200万円と、あわせて950万円を要した。これに対し東京にあった手元資金は50万円である。資金は興銀・勧銀・安田が世話をし、仕込み金は三菱商事が引き受けた。英国ファーネス社から母船の図面を10万円で買い、川崎造船が7カ月の突貫工事で捕鯨母船・日新丸を完成させた。\n\n1936年10月7日、日新丸船団は神戸を出港した。船団長の志野徳助氏は最終寄港地のフリーマントルで脳出血により急逝し、見習いとして乗っていた謙吉氏の弟・中部利三郎氏が急きょ船団長を継いだが、その年の成績は良好だった。日本水産に続く南氷洋捕鯨への参入である。翌1937年6月には第二日新丸が完成したものの、7月に日中戦争が起こり、500坪の大甲板を持つ同船は上海の呉淞上陸作戦へ徴用されて上陸用舟艇を運んだ。第一・第二日新丸は1936年から1941年まで5漁期を出漁したのち、ともにタンカーとして国に徴用され、南氷洋捕鯨は中断した。","references":[{"title":"『会社銀行八十年史』（東洋経済新報社、1955年）「大洋漁業」の項","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"『企業の歴史 : 明治百年』（経済春秋社編、1968年）「大洋漁業」の項","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"『日本産業史』第1巻（日本経済新聞社、1994年）「食品－戦火の陰に泣く」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"『私の履歴書 経済人6』（日本経済新聞社、1980年）「中部謙吉」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"マルハニチロ 有価証券報告書【沿革】","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]}]},{"title":"水産統制令で生まれた西大洋漁業統制と、敗戦で失った船","text":"戦時色が濃くなるなかで、林兼商店を中心とする事業は日本本土のほか朝鮮・台湾・満州・中国・南方・北千島・樺太・小笠原・メキシコ・南氷洋の各水域へ広がっていた。捕鯨・カツオマグロ漁業・サケマス漁業・底曳網漁業に加え、製氷・冷凍・缶詰・食品加工・造船造機・製函・製網までを直営する構えである。1943年3月31日、水産統制令に基づいて株式会社林兼商店の水産部門と同系の大洋捕鯨・遠洋捕鯨が共同出資し、資本金6000万円の西大洋漁業統制株式会社が下関市に設立された。捕鯨業・トロール漁業・底曳網漁業を事業目的とする国策の統合であり、社長には中部幾次郎氏が就いた。マルハがのちに数える創立からの期数は、この1943年設立の法人を第1期とする。\n\n戦争は会社の資産をほとんど奪い、第二日新丸は1943年に石垣島付近で撃沈され、第一日新丸も終戦の前年に北ボルネオ沖で沈んでいる。失われた船は200数十隻・7万数千トンに及び、外地資産の全部とほとんどの船舶が消えた。沈没船の補償金6000数百万円のうち受け取れたのは1500〜1600万円程度で、残りは戦時補償の打ち切りで棒引きとなり、会社には数千万円の借金と、外地から戻ってくる700人ほどの社員が残された。それでも終戦の8日後に開かれた役員会議では、食糧不足に対処するには漁撈の再開が先決だと決め、1946年1月までに底曳・トロール・マグロ・捕鯨船など218隻・2万トンを発注した。","references":[{"title":"『会社銀行八十年史』（東洋経済新報社、1955年）「大洋漁業」の項","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"『企業の歴史 : 明治百年』（経済春秋社編、1968年）「大洋漁業」の項","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"『日本産業史』第1巻（日本経済新聞社、1994年）「食品－戦火の陰に泣く」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"『私の履歴書 経済人6』（日本経済新聞社、1980年）「中部謙吉」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"マルハニチロ 有価証券報告書【沿革】","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]}]}]},{"start_year":1946,"end_year":1976,"main_title":"中部家三代の同族経営が築いた水産日本の全盛と、翳りはじめた遠洋漁業","subsections":[{"title":"218隻の発注から始まった戦後の再建","text":"1945年12月、西大洋漁業統制は水産統制令の廃止に伴って西大洋漁業へ商号を変え、同じ月にさらに大洋漁業へと改めた。新造船の手配は終戦直後から動き、手繰り船80トン、トロール船270トンという船を、三菱重工の神戸・彦島・長崎・広島、三井造船の玉野、川崎重工の神戸へ20隻30隻と分散して発注した。造船所はいずれも終戦の打撃で仕事が止まっており、資材と人はあっても資金がなかったため、発注はこぞって歓迎された。契約はトン当たり6000円だったが、インフレで諸費用が急増して造船所が負担しきれなくなり、中部謙吉氏は興銀と勧銀に事情を説明して割り増し金の追加を頼んで回った。1年余りで100数十隻が完成し、トン当たりの価格は1万2000円へ上がっていた。\n\n食糧増産は占領下の政策とも合致した。GHQの水産部は日本の食糧問題を解く早道として漁業の振興を奨励し、大洋漁業は終戦の年の暮れ近くに、借り受けた1500トンほどの水雷敷設艦を母船として戦後第1回の小笠原捕鯨を行った。続いて三菱重工長崎造船所で建造途中だったタンカーを引き継いで母船に仕上げ、南氷洋へ向かった。1万トン超の母船を海外へ出すのは早すぎるという横やりがある国から入った際、中部謙吉氏は捕鯨母船が駄目ならタンカーとして進水させてほしいと頼み、工事を先へ進めた。1946年には戦後第1回の南氷洋捕鯨に参加した。\n\n一方、1947年には公職追放令が林兼にも及んだ。林兼は地方財閥の一つと見なされ、中部一族は全員が追放されて株式も預かり没収となる。中部謙吉氏はGHQへ陳情に通い、軍への協力とされた事実は徴用船の乗組員が軍命令で動いたものだと説き、英文の陳情書を重ねた。2年ほどののち一族はそろって追放解除となり、株式も全部返還された。漁場も少しずつ戻り、1950年に大洋漁業は数百海里の沖合でサケ・マスを獲る沖取りに踏み切り、30隻の独航船と3500トンの第三天洋丸を出漁させて初年度から成果を上げた。1952年には北洋の母船式サケ・マス漁業と北洋捕鯨へ、1953年には母船式カニ漁業へ参加した。","references":[{"title":"『会社銀行八十年史』（東洋経済新報社、1955年）「大洋漁業」の項","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"『企業の歴史 : 明治百年』（経済春秋社編、1968年）「大洋漁業」の項","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"『私の履歴書 経済人6』（日本経済新聞社、1980年）「中部謙吉」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"証券 1955年10月号「新規上場会社紹介 大洋漁業株式会社」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"マルハニチロ 有価証券報告書【沿革】","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]}]},{"title":"一族が持ち合う株式と、多角経営で広げた裾野","text":"1953年3月、二代社長の中部兼市氏が62歳で死去し、幾次郎氏・兼市氏に続いて中部謙吉氏が三代目の社長に就いた。初代の幾次郎氏は1946年5月に80歳で世を去った。同社の売上高は1953年1月期の146億円から1955年1月期には224億円へ伸び、1955年9月12日に東京証券取引所へ上場した。1955年1月末の大株主は上位10名がすべて中部姓で、筆頭の中部謙吉氏が355万株、中部タミ氏が293万株、中部悦良氏が272万株を保有した。発行済み株式4000万株に対して株主数は5719名、金融機関の持ち株は13.4%にとどまり、副社長には中部悦良氏と中部利三郎氏が並んだ。\n\n事業の広げ方には、水産業に固有の理由があった。漁業は天候・場所・時期・潮流に左右されて豊凶の差が激しく、漁獲量が多くても魚価が下がれば儲けは少なく、魚価が高くても漁獲が細れば利益にならない。「水物事業」（証券 1955/10）と呼ばれるゆえんであり、単一の事業規模では危険が大きいため、大規模な多角経営で危険を分散する必要があった。大洋漁業は南氷洋捕鯨・北洋のサケマス・カニ・捕鯨・南洋のマグロ漁業に加え、製氷・冷凍・缶詰製造・食品加工・貿易・海上運送を営み、1955年1月末には全国に製氷工場11・冷凍工場15・食品工場6を持ち、船舶479隻・11万3178総トンを保有した。1961年3月には肥料・飼料事業を事業目的へ加えた。\n\n多角化はグループの規模にも表れ、1967年度の大洋漁業単体の売上高は1553億円で前年比20%増、税引後利益は16億7000万円、従業員は1万1420名である。関係60社を合わせた総売上高は4370億円、税引前利益60億円、従業員は約3万5000人に達した。系列には林兼産業・佐世保重工業・大洋商船・アジア石油・大都魚類などが並び、漁業を基幹とした総合食品業への道が掲げられた。プロ野球の大洋ホエールズも1950年に発足したグループの一つで、1960年には三原脩監督を迎えてセ・リーグを制し、日本シリーズでも大毎を4連勝で下した。一方、各国が食糧資源の確保のため領海を拡大し、漁業専管水域を設けて日本漁船を締め出す動きが増え、公海上の競争は激しくなっていた。","references":[{"title":"『会社銀行八十年史』（東洋経済新報社、1955年）「大洋漁業」の項","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"『企業の歴史 : 明治百年』（経済春秋社編、1968年）「大洋漁業」の項","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"『私の履歴書 経済人6』（日本経済新聞社、1980年）「中部謙吉」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"証券 1955年10月号「新規上場会社紹介 大洋漁業株式会社」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"マルハニチロ 有価証券報告書【沿革】","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]}]}]},{"start_year":1977,"end_year":2007,"main_title":"二百カイリが終わらせた遠洋漁業と、マルハへの改称・非同族化を経た統合","subsections":[{"title":"漁場を失った会社が陸へ移した資本","text":"1977年、各国が相次いで二百カイリ漁業水域を設定し、大洋漁業は北洋をはじめとする公海の漁場から締め出された。二百カイリ以前の1973年に400万トンあった日本の遠洋漁業の漁獲高は、その後200万トンへ半減する。依存度の高かった米国水域のスケソウタラ漁は漁獲割当枠が1983年以降減り、1986年には50万トンを割り、1987年分は5万トン強にまで落ちた。漁場に残る負担も重くなり、日本の入漁料支払額は1977年度の16億円が1985年度には80億円へ急増し、大洋漁業単独でも1986年度に21億円を負担した。同社は1982年の決算で円安の為替差損などから経常赤字に転じ、以後は無配が続いた。\n\n漁船に向けていた資本は、陸上の生産と研究へ移された。投資と並行して資産の整理も進み、1985年には自社ビルの4分の3を売却して借入金の返済にあてた。1983年7月に宇都宮市で練り製品工場、1985年8月に同市で調味料・薬品・健康食品の工場が完成し、1990年9月にはつくば市へ中央研究所を開いた。1987年にはマグロの成長ホルモン抽出に成功したと日本水産学会で発表し、同じ年にクロマグロの種苗開発チームを発足させて養殖の研究に着手した。1990年には外食事業のプロジェクトチームを設け、タイ料理店など消費の現場に近い売り場を自ら持つ試みも始めた。\n\n1993年9月、同社は社名を大洋漁業からマルハへ改めた。社名から漁業の文字を外し、創業以来の「まるは」の社標も新しいものへ変えた。もっとも収益はすぐには安定しなかった。1991年3月期は魚介類の相場低迷のなかで抱えたイカ在庫の処分が響いて61億円の経常赤字に転落し、1992年3月期も36億円の経常赤字を計上した。1991年度は総売上高5259億円のうち魚介類が2846億円と半分を超え、相場に左右される水産商事への依存が色濃く残っていた。中部慶次郎社長は、魚を大量に買い付ける川上の人材ほど、売りの現場である川下を知らないと述べた。","references":[{"title":"日経ビジネス 1987年6月8日号「大洋漁業、バイオに挑む 高級マグロ『つくる漁業』で量産」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"日経ビジネス 1993年4月26日号「大洋漁業 ケチに徹したタイ料理店『脱漁業』の有力な武器に」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"週刊東洋経済 2001年2月3日号「代償 マルハが砂糖事業で損失 本社ビルで埋める『キューバ侵攻』の失敗」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"週刊東洋経済 2002年9月21日号「トップの履歴書 マルハ社長 五十嵐勇二」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"週刊東洋経済 2007年1月13日号「TOP INTERVIEW 五十嵐勇二 マルハグループ本社社長」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"マルハニチロ 有価証券報告書【沿革】","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]}]},{"title":"砂糖事業の損失処理と非同族社長の登板","text":"本業から離れた損失も抱えた。マルハは1989年に国際的な砂糖トレーダーのギル＆ダファス社へ資本参加し、キューバ産の原糖取引に踏み込む。キューバへ前渡金を渡して翌年に原糖で回収し、価格変動はニューヨークの先物市場でヘッジする取引は、1991年のソ連崩壊で狂い始めた。石油輸入が細ったキューバは慢性的なエネルギー危機と肥料不足に陥り、原糖生産量は1990年の800万トンが1998年には320万トンへ落ち、2000年度の供給はゼロになる。マルハのギル＆ダファス社に対する債務保証額は1995年の143億円から375億円へ膨らんだ。2000年末にキューバとの20年のリスケジュール交渉がまとまり、マルハは135億円の貸倒引当金を設定し、出資会社の評価損39億円も計上した。\n\n損失の穴埋めには、大手町一丁目一番地の本社ビルを証券化して吐き出した185億円の含み益があてられた。2000年前後のマルハは中部慶次郎社長の指揮の下で構造改革を進め、本社ビルの証券化、原糖事業と養殖事業の整理、ペットフード事業のMBO、横浜ベイスターズの売却を並べて実行し、2年間で550億円の特別損失を計上した。この整理をともに担ったのが、2000年6月に日本興業銀行から移った五十嵐勇二氏であった。マルハと興銀の付き合いは1935年の第一次捕鯨船団への融資にさかのぼる。五十嵐氏は2002年3月に社長へ就き、中部家以外から出た最初の本格的な社長となった。「奇手妙手はない」（週刊東洋経済 2002/9/21）と語った五十嵐氏は、本業回帰を方針に掲げた。","references":[{"title":"日経ビジネス 1987年6月8日号「大洋漁業、バイオに挑む 高級マグロ『つくる漁業』で量産」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"日経ビジネス 1993年4月26日号「大洋漁業 ケチに徹したタイ料理店『脱漁業』の有力な武器に」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"週刊東洋経済 2001年2月3日号「代償 マルハが砂糖事業で損失 本社ビルで埋める『キューバ侵攻』の失敗」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"週刊東洋経済 2002年9月21日号「トップの履歴書 マルハ社長 五十嵐勇二」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"週刊東洋経済 2007年1月13日号「TOP INTERVIEW 五十嵐勇二 マルハグループ本社社長」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"マルハニチロ 有価証券報告書【沿革】","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]}]},{"title":"統合が下ろしたマルハ127年の看板","text":"2004年4月、株式移転により完全親会社の株式会社マルハグループ本社が設立され、マルハは上場を親会社へ譲って完全子会社となった。統合の判断は、市場と資源の両方の制約から出た。日本の魚食量は850万トン前後で頭打ちとなり、人口が減るなかで国内に成長の機会を見つけるのは難しかった。水産資源も確実に減り、調達力の強さが重みを増す。流通側が総合商社系の卸やスーパーへ集約される一方、供給側は大から小までばらばらだった。五十嵐氏は「もう再編は不可避と思っていました」（週刊東洋経済 2007/1/13）と答えた。2006年12月11日にマルハグループ本社とニチロは経営統合を発表し、両社の2006年3月期の売上高を単純合算した9700億円は、第2位の日本水産の約2倍にあたる規模であった。\n\n2007年10月、マルハグループ本社はニチロを株式交換により完全子会社とし、商号をマルハニチロホールディングスへ改めた。上場体の名からマルハの文字が消え、事業会社として残ったマルハも2008年4月にマルハニチロ水産へ商号を変えた。明石の魚問屋に始まり、林兼商店・西大洋漁業統制・大洋漁業を経てマルハに至る127年の社名は、この統合をもって幕を下ろした。不良資産と不採算事業の整理が完了したのは2005年3月期で、統合を発表した時点の時価総額は1300億円と、日本水産の1900億円には届いていなかった。残ったのは、世界70カ国で水産物を買い付ける調達の網と、1987年に始めたクロマグロ養殖の研究である。","references":[{"title":"日経ビジネス 1987年6月8日号「大洋漁業、バイオに挑む 高級マグロ『つくる漁業』で量産」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"日経ビジネス 1993年4月26日号「大洋漁業 ケチに徹したタイ料理店『脱漁業』の有力な武器に」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"週刊東洋経済 2001年2月3日号「代償 マルハが砂糖事業で損失 本社ビルで埋める『キューバ侵攻』の失敗」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"週刊東洋経済 2002年9月21日号「トップの履歴書 マルハ社長 五十嵐勇二」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"週刊東洋経済 2007年1月13日号「TOP INTERVIEW 五十嵐勇二 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