漁場半減下でも止めなかった約120億円のトロール船集中投資

漁場が半分になっても、なぜ漁船へ資本を注いだのか——脱漁労の潮流に背いた大口駿一社長の資本配分

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時期 1983年9月
意思決定者 大口駿一 社長
論点 漁労重点と食品メーカー化の資本配分
概要
1977年の200カイリ規制で主力漁場を半減させながらも、日本水産が脱漁労へ転じず、1980年以降に新鋭トロール船4隻・投資総額約120億円を漁労部門へ集中投下した資本配分の判断。大口駿一社長体制のもと、業界の総合食品メーカー化の流れに背いて漁労重点主義を貫いた。
背景
1970年代後半の200カイリ時代の到来で遠洋漁場からの締め出しが進み、漁獲量は半減した。同業各社は脱漁労と総合食品メーカー化へ動いたが、日本水産は利益の大半を漁労部門が生む収益構造を抱え、漁労を縮めればそのまま全社の利益源を失う関係にあった。
内容
1983年9月に進水した「越前丸」(2800総トン・総工費約30億円)ほか省エネ型トロール船を新造し、1980年以降の投資総額は約120億円に達した。岸本純一副社長が「陸上施設なら1工場に10億円」と語るなか、10工場分の資金を漁船へ集中させ、外部から「虚仮の一念」と評された。
含意
逆張りの漁労投資は1980年代の相対優位を守った反面、食品メーカー化への転換を遅らせた。漁場の締め出しは想定より早く進み、1990年3月期に上場以来初の経常赤字を計上、トロール船を14隻から8隻へ減らす減船へと反転した。
筆者の見解

逆張りが残したもの

この判断の中心にあるのは、事業の前提そのものが崩れたときに、なお得意の型へ資本を集めるという選択であった。200カイリ規制は、遠洋の漁場という同社最大の資産を外から消し去る変化であり、漁船をいくら新しくしても失われた漁場は戻らなかった。それでも同社が漁労へ約120億円を注いだのは、利益の大半をそこが生むという現実の裏返しでもあった。漁労を縮めれば足元の利益が消え、食品へ転じる原資も細る——この二律背反のなかで、当面の稼ぎ頭を磨くほうへ針が振れたことには、一定の合理があったとみることができる。

ただし、合理と過信の境目は紙一重であった。漁場が構造的に縮むなかで、越前丸への投資は相対優位を数年延ばした一方、食品メーカーへの転換という本来急ぐべき課題を先送りする効果も併せ持った。1990年の初の経常赤字と減船は、その先送りに対する請求書であったとみられる。それから40年を経て、同社はニッスイと社名を改め、水産だけの会社であることをみずから卒業しようとしている。獲る事業の効率を極めた企業が作る事業へ移るまでに要した長い時間の出発点に、この漁労への逆張りがあったといえる。

Yutaka Sugiura, 2026年7月

背景

200カイリ規制と漁場の半減

1970年代の日本水産業は、二つの大きな危機に相次いで見舞われた。前半は第1次石油ショックによる燃料費・漁業資材費の高騰であり、後半は200カイリ時代の到来による大規模な漁場規制であった。1976年に米国が漁業保存管理法へ署名し、1977年3月から200カイリの漁業専管水域が発効すると、遠洋漁業を漁撈の主軸に据えてきた同社は、海外漁場からの締め出しと入漁料負担の両面から圧迫を受けた。漁場規制による漁獲量の低下は避けられず、1978年の漁獲量は1972年当時のおよそ半分まで落ち込んだ[1]

漁場の制約は一過性の変動ではなく、構造的な変化であった。サケ・マスのような回遊魚の管轄権まで沿岸国が握る国際的な流れのなかで、遠洋漁業に単独で活路を見いだす余地は狭まっていた。ニチロや極洋、宝幸水産といった同業各社は、この変化を漁業からの転換点ととらえ、脱漁労と総合食品メーカー化へ舵を切り始めた。獲る事業から作る事業へと転じることが、水産各社にとって1980年代を生き延びるための共通の処方箋になりつつあった[2]

利益を漁労に負う収益構造

同社が漁労を手放しにくかった背景には、高度成長期に固まった収益構造がある。戦後の同社は漁撈・加工・海運の三部門を柱としながら、とりわけ遠洋漁業を主軸として拡大し、単体の当期純利益は1972年から1974年度にかけて34億〜40億円のピークを記録した。漁船を増やせば漁獲が増え、漁獲が増えれば利益が伸びるという単純な拡大の循環が、半世紀にわたって同社の意思決定を支えてきた。漁労は稼ぎ頭であり、経営の型そのものであった[3]

この循環が生んだのは、売上と利益の極端なねじれであった。1983年時点の売上構成では自社の漁労はわずか16%にすぎず、商事部門が54%、加工部門が29%を占めていた。ところが利益に関しては、そのほとんどを漁労部門が稼ぎ出していた。加工部門は1982年度にようやく宣伝費や事務経費を負担したうえで黒字へ転じたばかりで、商事部門の売上高利益率は1%にも届かなかった。漁労を縮めれば、そのまま全社の利益源を失う関係にあった[4]

決断

約120億円のトロール船集中投資

漁場が半減し、同業が脱漁労へ動くなかで、大口駿一社長のもとで同社が選んだのは、逆に漁労部門を強化する道であった。1983年9月22日、広島県因島の内海造船田熊工場で、大型トロール船「越前丸」が進水した。総トン数2800トン、総工費約30億円を投じた省エネ型の新造船である。1980年以降に建造した新鋭トロール船は越前丸を含めて4隻、投資総額は約120億円に達した。1983年3月期の単体売上高が4844億円という規模の企業が、単一の船種へこれだけの資金を集中させたことになる[5][6]

約120億円という金額は、陸上事業の投資規模とかけ離れていた。岸本純一副社長は「陸上施設なら1工場に10億円もかければ最新の加工設備が持てる」と語り、漁船への傾斜配分ぶりを認めていた。10工場分の設備投資に相当する資金を、縮小する漁労部門へ集中させた計算になる。外部から「虚仮の一念」とも評されたこの漁労重点主義と、それを支えた財務体質こそが、構造的な危機の荒波のなかで同社を沈ませなかった決め手であったと、当時の経営陣は自負していた[7]

食品化を掲げながら漁労に賭けた論理

大口社長自身、この選択が抱える矛盾を自覚していた。「水産業界という小さな土でこそ、そこそこの業績とみてもらえても、食品という広いグラウンドに身を置けば、売上高経常利益率で1.39%では低収益会社」——同社トップは自らの会社をこう評した。水産という限られた土俵では優等生でも、食品メーカーの物差しを当てれば低収益にとどまるという落差を、経営陣は正確に見ていた。相対優位と絶対的な低収益が同居する会社であった[8]

それでも当面の資本は漁労へ向かった。大口社長は「漁労以外の柱を育てたい」「味の素のようなブランド力、企業力を身につけよう」と号令しながら、同時に「財務体質に余裕のある今こそチャンス」とも語っていた。漁労で相対優位を守って財務の余力を保ち、その余力で食品への転換を進めるという二段構えの構想がそこにあったとみられる。ただし現実には、限られた経営資源が新造船へ吸い上げられ、食品メーカー化に振り向ける原資はむしろ細っていった[9]

結果

想定より早い漁場喪失と初の赤字

漁労への一点張りは、しかし想定より早く限界を迎えた。1990年10月、米沢邦男副社長は遠洋漁業について「ほとんど壊滅してしまったといえます」と述べ、1975年に374万トンあった漁獲が買い付けを含めても数十万トンにとどまると認めた。すでに1988年、同社は「近未来構想」を公表し、1995年をメドに水産・加工食品・総合物流・サービス・ファインケミカルの5事業を柱とする脱漁労リストラを掲げていた。しかし国井康夫常務が「予想以上に早く漁場から締め出されてしまった」と認めたとおり、漁獲の急減で新規事業へ資金を回す余裕は失われ、改革は減速した[10][11]

その帰結が、1990年3月期の上場以来初の経常赤字2億6000万円であった。翌1991年3月期には赤字幅が14億円へ広がり、資本を集中させてきたトロール船そのものが重荷に転じた。5000トン級トロール船の係船料は月5000万円にのぼり、同社は保有14隻を8隻まで減らす減船に踏み切った。かつて越前丸に象徴された漁労重点主義が、わずか数年で減船へと反転した。1985年3月期の単体売上構成では鮮凍品が3138億円と全体の65%を占めており、漁労由来の水産原料に依存する体質は、食品メーカー化の遅れとしてなお残っていた[12][13]

出典・参考
  • 日経ビジネス 1983年10月31日号
  • 日経ビジネス 1991年8月19日号「脱漁労、待ったなし」
  • 日経産業新聞 1990年10月31日「200海里の衝撃」
  • 日本水産の70年(日本水産)
  • 日本水産 会社年鑑(単独業績)