電通総研電通・米GEの二親会社体制から東証一部への株式公開へ

親会社の同意なしには増資もできない会社が、なぜ設立25年目に市場から資金を採る側へ回ったのか

時期 2000年11月
意思決定者(推定) 瀧浪壽太郎 社長
論点 資本調達手段と親会社依存
概要
2000年11月30日、電通国際情報サービスが東京証券取引所市場第一部に上場した。公募は250万株、上場時の発行済株式総数は14,814,200株、主幹事は野村證券であった。1975年に電通と米国General Electric Companyの合弁として設立されてから25年目の株式公開にあたる。
背景
設立時の出資比率は電通66%、米ゼネラル・エレクトリック34%で、株式は市場に出ていなかった。1990年代前半に一度検討された株式公開は、株主の同意が得られずに立ち消えとなり、本格的な計画づくりは上場の3年ほど前に始まった。
内容
上場直前の株主構成は電通60.45%、GE Information Services, Inc.が23.6%、電通国際情報サービス持株会が13.92%。公募増資で調達した資金は、オープン系システムインテグレーションの強化と、手薄だったビジネスコンサルティング領域の企業買収に充てる計画であった。瀧浪壽太郎社長は上場当日、数年後に年商1,000億円を目指すと語った。
含意
買収を前提にした年率3割の成長計画は届かず、連結売上高は700億円前後で数年横ばいとなった。それでも上場企業としての地位は残り、2026年7月には親会社の電通グループが非公開化を検討しているとの報道が出るまで、26年間続いた。
筆者の見解

市場で値をつけられる25年を選んだこと

上場の効き目は、掲げた1,200億円という目標では測れない。売上は数年横ばいで、赤字の期も挟んだ。それでも公開市場に出たことで、この会社は買収の対価にも従業員の報酬にも使える株式を持ち、決算を四半期ごとに問われる会社になった。1990年代前半に一度は流れた公開が実現したのは、株主の同意という一点が動いたためで、事業の勢いに押されたわけではない。二親会社の合意待ちという設立以来の制約を外したことこそ、この判断の実質であったとみることができる。

26年たって、その制約の外し方が逆向きに問い直されている。2026年7月の報道によれば、電通グループは61.8%を保ったまま残りの株式を富士通や総合商社に持たせる案を検討している。上場によって薄まったはずの親会社の判断が、ふたたび資本の全部を覆う設計にあたる。1975年に電通66%・GE34%で始まった会社が、市場を経由して電通61.8%に落ち着き、いままた市場を降りる案が検討されている。市場に出るという判断の値打ちは、降りるときの値段の付き方にも表れる。

Yutaka Sugiura, 2026年7月

背景

二つの親会社を持つ非公開会社

電通国際情報サービスは1975年12月、株式会社電通と米国General Electric Companyの合弁として東京都中央区に設立された。設立の目的は、GEが所有・運営する情報通信ネットワーク設備を使った国際遠隔情報処理サービスを日本で売ることにあった。瀧浪壽太郎社長は上場時のインタビューで、設立当初の出資比率を電通66%、米ゼネラル・エレクトリック34%と説明している。日米二社の合弁という資本構成は、増資も公開も両株主の合意を要する構造でもあった[1][2]

株式公開の検討は、実際の上場より8年ほど前に一度おこなわれている。瀧浪社長によれば、そのときは机上の検討にとどまり、本格的な計画立案に入ったのは上場の3年ほど前であった。この間に会社の中身は入れ替わっている。汎用ホストによるタイムシェアリング・サービスからシステムインテグレーションへ主力が移り、1997年7月には子会社の電通国際システムを吸収合併して国内の開発体制を一本化した。売上規模は単体で500億円台に達し、案件の大型化に見合う資金と信用が要った[3][4]

決断

公募250万株での東証一部上場

2000年11月30日、電通国際情報サービスは東京証券取引所市場第一部に上場した。仮条件の提示が11月8日、ブックビルディングが10日から16日、公募価格の決定が17日という日程で、公開は公募250万株、上場時の発行済株式総数は14,814,200株、主幹事は野村證券であった。上場直前の株主構成は電通が60.45%、GE Information Services, Inc.が23.6%、電通国際情報サービス持株会が13.92%で、公募増資の分だけ二社の持株比率は薄まった[5][6]

上場の理由を、瀧浪社長は事業規模と資金需要の関係に求めた。情報サービス企業は規模が大きくなるほど、資金調達にも速さと大きさを要求されるという説明であった。同時に社長は、二つの親会社を持つ資本構成のもとで会社の像がどう見られてきたかにも触れ、どのような場合でも電通子会社というイメージが先行してきたと述べている。市場で値段のつく株式を持つことは、資金の道を増やすと同時に、会社が自分の評価を自分で受け取ることでもあった[7][8]

調達資金を買収に充てる計画

調達した資金の使い道は、オープン系システムインテグレーションの強化と、その手段としての企業買収に置かれた。とりわけ手薄だったのがビジネスコンサルティングで、NTTデータや野村総合研究所に見劣りする領域を買って埋める構想であった。瀧浪社長は上場当日、数年後に年商1,000億円を目指すと語っている。当時の売上は530億〜540億円規模で、目標はその倍近い水準にあたった[9][10]

計画は上場の翌年から実行に移された。2001年3月のキスコソリューション子会社化、同年6月の米International TechneGroupとの合弁によるアイティアイディコンサルティング設立、同年9月の経調子会社化、2002年3月のエスアイアイディ子会社化と、出資と買収が2〜3年に集中した。週刊東洋経済は2002年9月、富士ソフトABC・TISとともに同社を情報サービス業の準大手「M&Aの御三家」と呼んだ。同誌によれば、2004年3月期に売上1,200億円・経常利益120億円という目標は、M&Aの実施を前提としていた[11][12]

結果

届かなかった1,200億円と、26年続いた上場

買収を前提にした成長計画は数字に結びつかなかった。連結売上高は2002年3月期の724億円から2003年3月期708億円、2004年3月期716億円、2005年3月期720億円、2006年3月期687億円と横ばいで推移し、2004年3月期の1,200億円という目標には遠かった。2003年3月期には経常損失15億円・当期純損失20億円を計上している。年率3割の成長を前提に組んだ計画は、ITバブル崩壊後の需要では支えられなかった[13]

それでも上場は残った。市場で株式が値づけされる状態は26年続き、2026年7月2日、親会社の電通グループが電通総研を非公開化する方向で検討しているという報道が出た。61.8%の持株比率を保ったまま残りを富士通や総合商社が買い取り、出資額は2,000億円規模になるとみられるという内容であった。電通グループは同日、非公開化も一つの選択肢として常にさまざまな可能性を検討しているが、現時点で開示すべき情報はないとのコメントを出した。翌3日の株式市場で電通総研株は一時16.7%高となった[14][15][16]

出典・参考

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