BIPROGY の歴史

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創業 1958年
母体 日本レミントン・ユニバック
創業地 東京都
創業
1958年3月、米スペリー・コーポレーション(Univac事業部)と第一物産(後の三井物産)が資本金7000万円を出資し、東京に日本レミントン・ユニバック株式会社を設立した。米Sperry製メインフレーム『Univac』の日本総代理店である。翌1959年9月にスペリー本体が追加出資し、1968年4月に商号を日本ユニバックへ改め、1970年10月に東京証券取引所へ株式を上場した。官公庁と製造業は国産6社が抑えていたため、出資元の三井物産の販売網に依拠して金融機関を開拓し、1965年の三井銀行の本支店オンラインを皮切りに地方銀行と信用金庫の勘定系へUnivac機を重ねた。ただし製品の性能も価格も発売時期も米国本社が決め、国内シェアは3〜5%前後にとどまった。
決断
二つの親会社の資本支配を、20年かけて順に解いた。1988年4月、米SperryとBurroughsの世界合併に合わせて米Burroughsの日本法人バロース株式会社を吸収合併して日本ユニシスへ商号を変更し、日本市場のユニシス両ブランドを統合した。転機は2006年3月で、米ユニシスが保有株3022万株を売却し、1959年から47年続いた米国本社の支配が終わる。同年6月には三井物産出身の籾井勝人氏が社長へ就任した。2012年8月には三井物産も保有株2072万株を大日本印刷へ譲渡し、日米合弁の資本構成が消える。2022年4月には、米ユニシスとの商標権の制約が残る『日本ユニシス』の商号を、虹の7色の頭文字を並べたBIPROGYへ改めた。米国本社が製品の世代交代を決めていた時代の制約が外れたことで、事業の組み替えを自前で決められるようになった。
現況
システムを預かる事業に、他社の購買データを預かる事業を足した。2006年からコンサルティングのケンブリッジとネットワーク構築のネットマークスを買収し、開発・運用・保守を機能別のグループ会社へ集約している。2026年3月期の売上収益4337億円の主な内訳はシステムサービス1408億円、アウトソーシング972億円、ハードウェア753億円、サポートサービス599億円、ソフトウェア474億円で、営業利益は426億円である。セグメント利益率はシステムサービスの36.3%が最も高い。2026年1月には約405億円でカタリナマーケティングジャパンの親会社を完全子会社化し、全国約1万3000店の購買データを扱う『AOUMI』を取り込んだ。アウトソーシング事業の資産は318億円から778億円へ膨らみ、その大半をこの買収で積んだのれんが占めている。
競合
この会社の顧客は、創業期に選んだ金融から60年動いていない。1965年の三井銀行本支店オンラインの受注以来、取引先の中心は銀行と信用金庫である。国産6社とIBMが市場の8割超を抑えるなかで、Univac機を地銀と信用金庫の勘定系へ据えてシェア3〜5%を確保した経路が、そのまま現在の位置を決めている。2021年6月にはパブリッククラウド上でフルバンキングシステムを稼働させる『BankVision on Azure』を国内で初めて動かし、2025年3月期には2金融機関が新たに稼働した。規模では届かない。売上収益4337億円は支配株主を持たないTISの7割強で、親会社の完全子会社となったNTTデータグループとは一桁違う。数の劣位を、乗り換えの起きにくい勘定系へ先に入ったことが埋めている。
BIPROGY:長期業績の推移(売上高・利益率)売上高(億円純利益率(%)
2006年3月期2026年3月期

設立ストーリー 米Sperryと三井物産の合弁で始めたメインフレーム代理店業 (1958年〜)

米Sperry・第一物産の2社合弁で生まれた日本レミントン・ユニバック

1958年3月、米スペリー・コーポレーション(Univac事業部)と第一物産(後の三井物産)が出資して[1]、東京に日本レミントン・ユニバック株式会社が設立された[2]。資本金7,000万円[3]、米Sperry製メインフレーム『Univac』の日本総代理店として営業を始めるための合弁会社で、IBM・富士通・日立・NECがしのぎを削る黎明期の日本コンピューター市場に、米国第二位のメインフレームメーカーが商社経由で参入した形だった。発足の翌1959年9月には親会社のスペリー・コーポレーション[4]が追加出資して資本参加し、米国本体が日本市場に資本面でも直接関与する体制を固めた。商社(三井物産)と米メーカーの2社合弁という出自は、以降30年以上にわたって資本構成と経営の自由度を規定する構造として残った。

  • BIPROGY 有価証券報告書【沿革】
    • [1]出資者は米スペリー・コーポレーション(Univac事業部)と第一物産(後の三井物産)
    • [2]1958年3月 日本レミントン・ユニバック株式会社が設立(米Sperryと第一物産の合弁)
    • [3]設立時資本金 7,000万円
    • [4]1959年9月 スペリー・コーポレーションの資本参加

事業はSperryブランドのメインフレームの輸入販売と保守を軸に進み、1968年4月には商号を日本ユニバックに変更[5]してUnivacブランドを社名に取り込んだ。1969年に日本ユニバック総合研究所を設立し[6]、1970年4月には本店を東京都港区に移し[7]、同年10月に東京証券取引所に株式を上場した[8]。当時の日本市場では通産省がIBMに対抗する国産メインフレーム振興策(電子計算機相互運用システム開発、後の通称『特定電子工業振興臨時措置法』体系)を進めていたが、日本ユニバックは米Sperryの製品を輸入して国内顧客に提供する代理店型の事業モデルで、官需よりも金融機関・流通業の事務処理基幹システムに販売チャネルを築いた。みずほ・農林中金・地方銀行などへの勘定系システム導入で実績を積み、メインフレーム事業者として国内中堅の位置を確保した。

  • BIPROGY 有価証券報告書【沿革】
    • [5]1968年4月 商号を日本ユニバックに変更
    • [6]1969年 日本ユニバック総合研究所を設立
    • [7]1970年4月 本店を東京都港区に移転
    • [8]1970年10月 東京証券取引所に上場

1970年代から1980年代前半にかけて、日本ユニバックはUnivacメインフレームの後継機種を顧客に切り替えさせる『機種更新』中心の事業を回し、保守サービスとソフトウェア受託開発を周辺収益として広げた。1983年7月には日本ユニバック[9]総合研究所を改組して日本ユニバック情報システムを設立し[10]、OA・コンピューターグラフィックス領域を子会社化して事業の縦の分化を始めた。しかし米Sperryから供給される製品の世代交替に業績が連動する構造は変わらず、米国本体の戦略変更がそのまま日本側の事業計画に反映される非対称な親子関係が30年続いた。1986年に米Sperryが米Burroughsと合併してユニシス・コーポレーションが誕生したとき[11]、日本側もそれを追って組織再編に着手する以外の選択肢はなかった。

  • BIPROGY 有価証券報告書【沿革】
    • [9]1983年設立子会社の社名は日本ユニバック情報システム、移管領域はOA・コンピューターグラフィックス
    • [10]1983年7月 日本ユニバック総合研究所を改組し日本ユニバック情報システムを設立
    • [11]1986年 米Sperryと米Burroughsが合併しユニシス・コーポレーションが誕生
  • BIPROGY 有価証券報告書【沿革】
    • [1]出資者は米スペリー・コーポレーション(Univac事業部)と第一物産(後の三井物産)
    • [2]1958年3月 日本レミントン・ユニバック株式会社が設立(米Sperryと第一物産の合弁)
    • [3]設立時資本金 7,000万円
    • [4]1959年9月 スペリー・コーポレーションの資本参加
    • [5]1968年4月 商号を日本ユニバックに変更
    • [6]1969年 日本ユニバック総合研究所を設立
    • [7]1970年4月 本店を東京都港区に移転
    • [8]1970年10月 東京証券取引所に上場
    • [9]1983年設立子会社の社名は日本ユニバック情報システム、移管領域はOA・コンピューターグラフィックス
    • [10]1983年7月 日本ユニバック総合研究所を改組し日本ユニバック情報システムを設立
    • [11]1986年 米Sperryと米Burroughsが合併しユニシス・コーポレーションが誕生

国産勢に挟まれたメインフレーム代理店の制約

1970年代の日本のメインフレーム市場は、IBM[12]日本法人と通産省主導の国産メーカー連合(富士通・日立・三菱・NEC・東芝・沖電気の6社2グループ体制)が市場の8割超を抑えており、米Sperryの代理店として参入した日本ユニバックの市場地位は3〜5%前後にとどまった[13]。国産勢が官公庁・製造業の基幹システムに食い込むなかで、日本ユニバックは三井物産の販売網と長年の顧客関係を頼りに金融・流通分野で受注を積み上げる差別化に進んだ。

  • 証券 1970年(松本)
    • [12]1970年代に国産勢+IBM合計シェアは市場の8割超
  • BIPROGY 有価証券報告書【沿革】
    • [13]1970年代の日本ユニバックの市場地位は3〜5%前後

しかし代理店事業の宿命として、自社の研究開発で次世代製品を生み出す余地は限られた。Univacメインフレームの性能・価格は米Sperryが決定し、新製品リリースのタイミングも米国本社の事業計画に従う構造で、日本市場の顧客要望を製品設計に反映させる経路は限られていた。1980年代に入りIBMの汎用機OS(MVS)が市場標準となる流れのなかで、Univac固有のOS(OS/1100系)を採用した顧客のシステム拡張は閉じた世界に縛られ、競合機種への移行コストの高さが顧客のロックインを支える一方、新規顧客の獲得は難しくなった。日本ユニバックの売上は1980年代後半まで横ばい圏で推移し、メインフレーム市場全体の伸び鈍化と国産勢の追い上げのなかで、事業構造の再設計が経営課題として経営陣に共有された。

加えて株主構成も特殊な制約を生んだ。米Sperry(後のユニシス・コーポレーション)と三井物産による典型的な日米合弁体制で、両親会社の利害調整が経営判断のスピードを縛った。米国本社は日本市場の収益最大化を求める一方、三井物産は同社株を有価証券として保有し配当と株価上昇を期待する立場で、両者の優先順位は常に一致するわけではなかった。1980年代半ばに米Burroughsとの世界規模の合併が進行する局面でも、日本側の組織再編は米国の動きに追従する形で進めるしかなく、自主的に事業構造を組み替える経営の自由度は乏しかった。1988年4月のバロース株式会社吸収合併と日本ユニシス[14]への商号変更は、この合弁構造の枠内で米国主導で実行された再編だった。

  • BIPROGY 有価証券報告書【沿革】
    • [14]1988年4月 バロース株式会社吸収合併・日本ユニシスへ商号変更
  • 証券 1970年(松本)
    • [12]1970年代に国産勢+IBM合計シェアは市場の8割超
  • BIPROGY 有価証券報告書【沿革】
    • [13]1970年代の日本ユニバックの市場地位は3〜5%前後
    • [14]1988年4月 バロース株式会社吸収合併・日本ユニシスへ商号変更

日米合弁30年の到達点と構造的限界

1988年4月、米Sperryと米Burroughsの世界合併(1986年9月発表、同年11月のユニシス・コーポレーション[15]新発足)に呼応する形で、日本ユニバックはバロース株式会社(米Burroughsの日本法人)を吸収合併し、商号を日本ユニシス株式会社に改めた[16]。同年7月には日本ユニシス情報システムからOA関連事業部門の営業[17]も譲り受けてグループ内再編を進め、日本市場におけるユニシス両ブランドの統合を完成させた。1958年の合弁設立から30年、日本ユニバック総合研究所・ソフト・エンジニアリング・情報システムなど周辺機能を子会社として整備し、金融・流通中心の顧客基盤と全国規模の保守体制を備えた中堅SIerとしての姿が形になった。

  • BIPROGY 有価証券報告書【沿革】
    • [15]ユニシス・コーポレーションは1986年9月発表・同年11月新発足
    • [16]1988年4月 日本ユニバックがバロース株式会社を吸収合併し日本ユニシス株式会社に商号変更
    • [17]1988年7月 日本ユニシス情報システムからOA関連事業部門の営業を譲受

ただし統合直後の日本ユニシスは、米ユニシスからの製品供給に依存するメインフレーム代理店という根本構造を継承した。米国本社で1990年代に進行するメインフレーム事業の衰退と組織再編は、日本側の事業ポートフォリオにも直接的な影響を及ぼす関係にあり、米国親会社の事業選択が日本市場の戦略を制約する状況は変わらなかった。1986年時点で米ユニシスは世界第二位のメインフレームメーカーだったが、IBMとの差は開く一方で、ダウンサイジング(メインフレームからクライアントサーバーへの移行)の波に米国本社が対応しきれない構造的問題を抱えていた。1980年代末の日本ユニシスは、米国本社の競争力低下と国産メインフレーム勢の追い上げを同時に受け止める位置に立ち、合弁出自の制約を抱えたまま1990年代の事業転換を迎えた。

加えて、合弁30年の経験を通じて社内には米Sperry/米Burroughs由来の技術者と三井物産・第一物産系の営業・管理層が並存する独特な人材構成が築かれた。技術側は米国本社のメインフレームOS(OS/1100、A series)の知見を持ち、銀行・公共領域の基幹システム構築案件に投入された一方、営業側は三井物産の商社人脈を活用して企業との商談を進める分業が定着した。この二極構造は、後のサービスインテグレーター化・パートナー連携の文化的下地となる一方、米国製品の輸入販売を超えた独自の事業モデルを生み出すことの難しさも同時に内包し、1988年の社名変更時点では事業の方向性を自前で決められない構造そのものに踏み込む議論には至っていなかった。

  • BIPROGY 有価証券報告書【沿革】
    • [15]ユニシス・コーポレーションは1986年9月発表・同年11月新発足
    • [16]1988年4月 日本ユニバックがバロース株式会社を吸収合併し日本ユニシス株式会社に商号変更
    • [17]1988年7月 日本ユニシス情報システムからOA関連事業部門の営業を譲受

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BIPROGYの沿革1958〜2022年における主な出来事を抜粋

時代年月社長・CEO出来事重要度
1958〜1987年米Sperryと三井物産の合弁で始めたメインフレーム代理店業スペリー・コーポレーションと第一物産の協定で日本レミントン・ユニバックを設立★★
日本ユニバックに商号を変更
日本ユニバック総合研究所発足
本社を移転
株式額面変更のため日本ユニバックに吸収合併
伊豆エグゼクテブ・センターを伊東市に開設
東京証券取引所に上場
日本ユニバック総合研究所を改組し日本ユニバック情報システムが発足
1988〜2011年米国親会社からの自立と「サービスインテグレータ」への転換バロース株式会社の吸収合併と日本ユニシスへの商号変更

1988年4月1日、日本ユニバックが米Burroughsの日本法人であるバロース株式会社を吸収合併し、商号を日本ユニシス株式会社に改めた組織再編。米国でスペリー・コーポレーションとバロース・コーポレーションが合併しユニシス・コーポレーションが発足したことに呼応する統合であった。

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★★★
日本ユニシス情報システムからコンピュータ・グラフィックス事業の営業を譲受
日本ユニシス情報システムより、OA関連事業部門の営業を譲受
東京ベイ開発センターを開設
本社機構を移転
札幌テクノセンターを開設
ユニアデックスを設立★★
ユニアデックスへハードウェア保守サービス事業を営業譲渡★★
籾井勝人日本ユニシス・ソフトウェアが地域ソフトウェア開発会社6社を吸収合併
籾井勝人米ユニシスの保有株全売却による日米合弁体制の解消

2006年3月15日、ユニシス・コーポレーションが保有する日本ユニシス株式30,224,900株をすべて売却し、1959年9月の資本参加から46年余続いた米国本社の出資が消えた資本政策上の転換。

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★★★
籾井勝人ケンブリッジ・テクノロジー・パートナーズを子会社化★★
籾井勝人ケンブリッジ買収とネットマークスTOBによるサービス事業への転換

2006年7月のケンブリッジ・テクノロジー・パートナーズ買収と、2007年の株式会社ネットマークスに対する公開買付けを軸に、機器の輸入販売と受託開発から、コンサルティング・システム構築・運用保守を通しで担う事業へ主力を移した転換。

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★★★
籾井勝人エイファスを子会社化
2012〜2024年「BIPROGY」への社名変更と社会課題解決型ビジネスエコシステム黒川茂大日本印刷と業務提携★★
黒川茂三井物産保有の20,726,410株を大日本印刷へ譲渡★★
黒川茂ユニアデックスがネットマークス・地域開発会社7社を吸収合併
黒川茂AFON IT等を子会社化
平岡昭良BIPROGYに商号変更し東京証券取引所プライム市場へ移行
出典・参考
  • BIPROGY 有価証券報告書【沿革】
  • 証券 1970年(松本)

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