BIPROGYバロース株式会社の吸収合併と日本ユニシスへの商号変更

米国本社が一つになった以上、日本の販売会社も一社にするほかなかったのか

時期 1988年4月
意思決定者(推定) 日本ユニバック取締役会・ユニシス・コーポレーション 米国本社
論点 米国親会社の世界再編に対する日本法人の組み替え
概要
1988年4月1日、日本ユニバックが米Burroughsの日本法人であるバロース株式会社を吸収合併し、商号を日本ユニシス株式会社に改めた組織再編。米国でスペリー・コーポレーションとバロース・コーポレーションが合併しユニシス・コーポレーションが発足したことに呼応する統合であった。
背景
日本ユニバックは1958年に米スペリーと第一物産(現・三井物産)の合弁で設立され、米国製メインフレームの輸入販売と保守を軸に事業を営んできた。製品の企画も価格も米国側が決め、商標も使用権の設定を受ける立場であった。
内容
合併比率33対1で発行済株式総数は35,972千株増えて109,663千株となり、資本準備金は120億66百万円増加した。同じ日に日本ユニシス情報システムからコンピュータ・グラフィックス事業部門を、7月にOA関連事業部門を譲り受けた。前年12月には日本総代理店契約を更改している。
含意
二系統の顧客基盤と保守網は一社に集まった一方、製品を誰が決めるかという関係は変わらなかった。ユニシス・コーポレーションが保有株式を手放すのは2006年3月、社名から「ユニシス」が消えるのは2022年4月であった。
筆者の見解

統合の規模と、自由度の変化の落差

この合併で日本ユニバックが手にしたのは、二系統の顧客基盤と全国の保守網であり、手にしなかったのは製品を決める権限であった。合併比率33対1で発行済株式総数の三分の一近くにあたる株式を新たに発行し、商号まで米国本社の新社名に合わせながら、同じ月に効力を持った総代理店契約の中身は輸入販売・保守・商標使用権という従来どおりの三点にとどまっている。統合の規模と、経営の自由度の変化との落差に、この判断の性格が表れている。

もっとも、当時の日本ユニバックに別の選択肢があったとは考えにくい。製品も商標も米国側にあり、供給元が一社になった以上、日本側の販売会社が二つ並ぶ理由は消えていた。1988年4月に定めた社名は34年もった。総代理店契約のほうは1991年3月と2005年10月に一部を改め、2005年の改定では商標使用権等の一括使用許諾料として225百万ドルを支払う形に変わっている。

Yutaka Sugiura, 2026年7月

背景

日米合弁で始まった総代理店事業

日本レミントン・ユニバックは1958年3月29日、スペリー・コーポレーションと第一物産(現・三井物産)の協定に基づき、資本金7,000万円で設立された。翌4月1日にスペリーのユニバック事業部の日本総代理店として業務を開始し、1959年9月2日には同社の資本参加を受けた。1968年4月1日に商号を日本ユニバックへ改め、1970年4月に本店を東京都港区へ移し、同年10月1日に東京証券取引所へ上場した。米国メーカーの製品を輸入して国内で売る会社として、資本と商標の双方を米国側に握られたまま出発している[1]

事業規模は1970年代に伸びた。1970年3月期に380億円であった単体売上高は1975年3月期に708億円まで拡大し、経常利益も同じ期間に28億円から42億円へ動いた。ただし製品の企画も価格も米国側が決め、日本側の役割は輸入販売と保守にとどまった。1974年7月にはスペリーとユニバック製コンピュータの販売等に関する日本総代理店契約を結び、輸入販売・保守、技術情報と技術援助の提供、商標使用権の設定という三点で米国本社に依存する枠組みを契約として固めている[2][3]

1970年代後半の失速と分社

拡大は1976年3月期でいったん止まった。単体売上高は1976年3月期の723億円から1978年3月期に677億円へ減り、経常利益は34億円から13億円へ落ちた。1979年3月期以降は再び伸び、1985年3月期には売上高1,215億円・経常利益52億円まで戻したが、売上に対する経常利益の比率は1970年代前半の7%台に届かず4%台にとどまった。機種の更新周期に業績が振られる代理店型の収益構造が、この十年の数字に表れている[4]

事業の切り分けもこの時期に進んだ。1983年7月1日、日本ユニバック総合研究所を改組して日本ユニバック情報システムとし、OA関連システムとコンピュータ・グラフィックス関連システムの営業を同社へ譲渡した。1985年12月2日には日本ユニバック・ソフト・エンジニアリングを設立している。そして1986年9月、米国でスペリー・コーポレーションがバロース・コーポレーションと合併し、同年11月にユニシス・コーポレーションとして新発足した。日本市場には、同じ親会社を持つ販売会社が二つ並ぶ状態が生まれた[5]

決断

1988年4月1日、バロース株式会社を吸収合併

1988年4月1日、日本ユニバックはバロース株式会社を吸収合併し、商号を日本ユニシス株式会社に改めた。米国本社同士の合併から1年5カ月後にあたり、日本市場に並んで存在した二つの販売会社を一社にまとめる手続きであった。同じ日に日本ユニシス情報システムからコンピュータ・グラフィックス事業部門の営業を譲り受け、同年7月1日にはOA関連事業部門の営業も譲り受けている。米国側の再編に合わせ、日本側のグループも三カ月のあいだに組み替えられた[6]

合併の規模は資本の数字に残っている。1988年6月30日付で発行済株式総数は35,972千株増えて109,663千株となり、資本金は17億98百万円増の54億83百万円、資本準備金は120億66百万円増の152億81百万円になった。合併比率は33対1で、額面1万円のバロース株式1株に対し額面50円の日本ユニバック株式33株が割り当てられている。新たに発行した株式は合併後の発行済株式総数の三分の一近くを占め、吸収した側にとっても持分の希薄化を伴う統合であった[7]

同じ月に結び直された総代理店契約

合併と並行して、米国本社との取引の土台も結び直された。1987年12月、1974年7月に締結した日本総代理店契約を更改し、ユニシス製コンピュータ等に関する日本総代理店契約を締結している。契約期間は1988年4月より特に定めを置かず、内容は日本におけるユニシス製コンピュータの輸入販売と保守、技術情報・技術援助の提供、商標使用権の設定の三つであった。商号が日本ユニシスに変わる日と、新しい総代理店契約が効力を持つ日は同じ月に置かれた[8]

この設計により、日本ユニシスは二つのブランドの顧客と保守網を引き受けた一方、製品を米国から仕入れて売る位置は動かなかった。商標は使用権の設定を受ける対象であり、自社の資産ではない。ユニバック系とバロース系という性格の異なる二系統の機種を同時に抱え、既存顧客のシステムをどちらの系統で更新するかという実務も引き受けた。合併は販売網と顧客基盤を一つにまとめたが、何を売るかを決める権限の所在には手を触れていない[9]

結果

拠点整備と、変わらなかった仕入の構造

統合後の日本ユニシスは国内拠点の整備を進めた。1989年4月17日に東京都江東区へ東京ベイ開発センターを開設し、1992年9月1日に本社機構を江東区へ移し、1993年7月30日には札幌テクノセンターを開いた。1997年3月4日にユニアデックスを設立し、1999年10月1日にはハードウェア保守サービス事業を同社へ営業譲渡して、機器の保守を別会社の収益として切り出している。2003年8月1日には登記上の本店を東京都江東区豊洲へ移した[10]

一方で、仕入の構造は合併前と同じ形のまま続いた。2007年3月期の有価証券報告書は、事業等のリスクとしてユニシス・コーポレーションとの取引関係を挙げ、同社製コンピュータの日本総代理店として輸入販売と保守を行い、商標使用権の設定と技術情報・技術援助の提供を受けていると記している。同期の外貨建仕入高は130億5百万円で、為替の変動をそのまま受ける取引が残っていた。合併から19年を経ても、米国本社との関係の骨格は1987年12月の契約のままであった[11]

社名に残った「ユニシス」の34年

商号の変更は、米国本社の名を日本法人が名乗る形をつくった。1958年の日本レミントン・ユニバック、1968年の日本ユニバックに続く三度目の社名で、いずれも米国側の製品ブランドを冠している。世界規模の供給元を背景に持つことは金融機関や官公庁の顧客に対して働いた一方、海外で「UNISYS」のロゴを自由に使えない状態も同時に抱え込んだ。平岡昭良氏(社長)は2022年の社名変更にあたり、この権利関係にもどかしさを感じていたと述べている[12]

資本の側の変化はさらに遅れた。ユニシス・コーポレーションが保有株式30,224,900株を売却したのは2006年3月15日で、合併から18年後にあたる。三井物産が保有株式20,726,410株を大日本印刷へ譲渡したのは2012年8月であった。1988年の合併は、米国本社の意思決定が日本法人の商号と組織にそのまま及ぶ関係の到達点であり、その関係をほどくには次の四半世紀を要した[13]

出典・参考

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