KDD日本高速通信(テレウェイ)の吸収合併と、商号のKDD株式会社への変更
嫁入りか婿取りか——国内の陸上網を得るために、国際電信電話はトヨタ系との合併条件をどこまで譲ったか
- 概要
- 1998年12月1日、国際電信電話がトヨタ自動車系の長距離通信会社である日本高速通信(テレウェイ)を吸収合併し、商号をKDD株式会社に改めた経営判断。1997年11月11日の朝日新聞朝刊が合併交渉を一面で報じたことで交渉が表に出て、合併比率と主導権をめぐる綱引きを経て実現した。
- 背景
- 1997年10月に長距離の日本テレコムと国際のITJが合併し、1999年にはNTTが再編されて本体で国際通信に出ることが決まっていた。国内から国際まで一貫して提供できなければ生き残れないという見方が広がるなか、国際専業の国際電信電話は市外を担う自前の陸上網を持っていなかった。
- 内容
- 相手のテレウェイは高速道路沿いに光ファイバーを持つ一方、640億円の累損と1530億円の借入を抱えていた。時価総額は国際電信電話の4000億円に対しテレウェイが推定700億円、売上高でも3倍の差があったが、新会社の筆頭株主はトヨタで持株比率2割前後と見込まれた。
- 含意
- 合併は当初予定の1998年10月から一度延期され、12月1日に実現した。国内の陸上網と700万の顧客は得たものの、国際電話の値下げ競争と間接部門の膨張が重なり、1999年3月期の連結決算は設立以来初の最終赤字となる見込みになった。
線を買うということ
時価総額で6倍近い開きがあり、売上高でも3倍あった側が、新会社の筆頭株主の座をトヨタに渡し、持株比率2割前後を受け入れた。事業でも技術者でも上に立つ会社が比率で押し切れなかったのは、国内に自前の陸上網を持たないという一点によるとみられる。「やるならあくまで婿取りだ」というトヨタ首脳の言葉も、「国際は5000億円、国内は6兆円」という東款社長の反論も、同じ弱みを突いていた。高速道路沿いの光ファイバーと700万の顧客は、その値段でしか買えなかった。
ただ、線を手に入れることと、その線で稼ぐことは別であった。合併から1カ月のうちに国際電話は対米3分240円まで下がり、翌月には第二電電が168円を出す。国内と国際を一貫して提供する体裁は整ったが、1999年3月期の連結は9.9%の増収で初の最終赤字となった。しかも合併で間接部門は膨らみ、身軽になるはずの再編がかえって重さを加えている。合併比率で譲った代償は、値下げが止まらない市場では回収の当てが立ちにくかったといえる。
Yutaka Sugiura, 2026年7月
背景
国内に線を持たない国際専業
1997年の通信業界では、国内と国際を隔ててきた垣根が崩れつつあった。同年10月には長距離の日本テレコム(JR系)と国際のITJ(商社系)が合併し、1999年にはNTTが再編されて本体で国際通信に進出することが決まっていた。国内から国際まで提供できなければ生き残れないというのが、当時の業界の見方である。国際専業の国際電信電話にとって、市外電話を担う自前の陸上網の不在は重かった[1]。
相手方のテレウェイは、高速道路沿いに光ファイバーを敷いていた。逆に、NTTと国鉄時代から技術者を抱える日本テレコムを除けば通信技術者は国際電信電話にしかいない、というのが業界の見立てで、資金力はあっても技術陣の薄いテレウェイにはその人材が魅力であった。両社は1997年の秋から、第二電電と国際デジタル通信(IDC)を交えた4社で回線を相互に大口再販する業務提携を結んでいる[2][3]。
決めかねていたトヨタ側の事情
縁談を持ちかけた側の事情も、余裕のあるものではなかった。トヨタ自動車にとって通信は住宅と並ぶ新規事業であったが、テレウェイ・日本移動通信(IDO)・IDCの3社はいずれも累損を抱えたまま業績が伸び悩んでいた。奥田碩社長は通信事業の再構築について「年内に決める」と期限を切っている。系列の通信会社の役員は、もう単独では生き残れず、トヨタ系だけで合併しても規模が小さくて意味がないと語った[4][5]。
1997年9月、トヨタは筆頭株主として1998年2月までの増減資に応じ、テレウェイの640億円の累損を一掃すると発表した。持株比率は5割超に上がる。業界はこれを、借金を消して合併の条件を整える動きと受け止めている。ただし累損が消えても1530億円の借入は残り、年50億円近い金利負担は経常利益10億円の会社には軽くない。株主資本比率59%の国際電信電話とは、財務の姿がまるで違っていた[6][7]。
決断
一面報道と、その日の顛末
1997年11月11日の朝日新聞朝刊が、国際電信電話とテレウェイが翌年秋に合併すると一面で報じた。発表に基づく記事ではない。第一報が会社に入ったのは前夜の深夜0時前後で、早版が出回る明け方には西本正社長の自宅へ他紙から確認の電話が入っている。同社は午前8時30分に役員会を開き、8時50分に現時点で事実ではないとのコメントを配り、9時には東京証券取引所で株式の売買が停止された[8]。
同日10時30分、記者会見に臨んだ西本社長は「合併交渉の打診はしている」と応じ、昼のニュースと夕刊が一斉に交渉中と伝えた。記事には合併比率も人事も新社名もなく、業界には郵政省からの漏洩ではないかという噂が流れている。それでも翌12日の株価は前々日比920円高の6320円まで急騰した。市場がこの組み合わせを大きな話と受け取ったことがうかがえる[9][10]。
婿取りか嫁入りか——比率と主導権
交渉の焦点は、合併比率と経営の主導権に絞られた。時価総額は国際電信電話が4000億円、テレウェイが推定700億円で、単純に比べれば8〜9対1になる。事業でも売上高3200億円の国際電信電話がテレウェイの3倍あり、ブランドも技術者も厚みがあった。それでも株式数から計算すると新会社の筆頭株主はトヨタで、持株比率は2割前後と見込まれる。「嫁入りではない。やるならあくまで婿取りだ」とトヨタ首脳は語っていた[11][12]。
テレウェイの東款社長は、合併比率が一対五なら「NOですよ」と応じ、それでは自社の株主価値が減ると退けた。大事なのは現在価値より将来価値であり、市場規模も国際の5000億円に対し国内は6兆円で同じ重みではない、という理屈である。国際電信電話が1300億円を投じる列島周回光海底ケーブルについても、需要を考えて投資全体を見直したい、余分なものを新会社は引き継いではならないと述べた[13][14]。
結果
1998年12月1日の合併と、膨らんだ間接部門
合併は当初1998年10月の予定であったが、比率をめぐる水面下の綱引きで時期が一度延期され、12月1日に実現した。同じ日に国際電信電話株式会社法が廃止され、商号はKDD株式会社に改まった。合併したテレウェイは1998年9月中間期で累損こそ消えたものの、76億円の最終赤字を計上している。国内の識別番号は、国際電信電話の001とテレウェイの0070のどちらを主にするかが持ち越された[15][16]。
合併の直後から、国際電話の値下げ競争が激しくなった。1998年10月に第二電電が対米昼間3分240円で参入し、12月にはKDDが450円から240円へ下げ、翌1999年1月に第二電電はさらに168円へ引き下げた。1999年3月期の連結は、売上高4010億円と9.9%の増収でありながら、設立以来初の最終赤字10億円となる見込みになった。合併で間接部門はかえって膨らみ、役員数も社員数も規模に比して多いまま残った[17][18]。
- 週刊東洋経済 1997年11月22日号「[特別レポート]合併か? KDDとテレウェイの暗中模索」
- 日経ビジネス 1997年11月17日号「トヨタが仕掛ける新たな通信再編」
- 週刊東洋経済 1998年1月3日号「[企業]KDD 国際「電話屋」からの脱却」
- 週刊東洋経済 1999年1月23日号「[フラッシュ]KDD崖っぷち、設立以来の危機」