1952年に制定された国際電信電話株式会社法にもとづき、翌1953年4月、日本電信電話公社の国際部門が分離して国際電信電話株式会社が設立された[1]。資本金は33億円[2]、本社は東京都千代田区大手町1の5[3]に置かれ、事業は国際電信・電話、写真通信、放送中継[4]とされ、社長には渋沢敬三氏[5]が就いた。日本の国際通信は明治4年、政府が大北電信会社に免許を与えて長崎・上海間と長崎・ウラジオストック間に海底ケーブルを敷設した[6]ときに始まり、以後80年にわたり政府の専掌事業として営まれた。政府が直営してきた事業が株式会社へ移った[7]のは、これが初めてである。
国際通信に民間の資本と機動力を入れる試みは戦前に二度あり、大正末期以降の無線通信の興隆期に国際水準の通信設備を急いで整える必要が生じた[8]ことから、大正14年に日本無線電信、昭和7年に国際電話が設立され、特例をもって施設の建設と保守にあたった[9]。この体制のもとで日本は太平洋戦争前に国際通信回路50余を持つ世界有数の通信国となった[10]。両社は昭和13年に合併して国際電気通信となったが、戦後の1947年5月に解体され[11]、事業は政府の手へ戻った。1952年4月に日本電信電話公社が政府専掌の国際通信事業を承継し[12]、その翌年に国際部門だけが切り出されたのは、この往復の末に選ばれた三度目の答えにあたる。
民営に移されたといっても競争が持ち込まれたわけではなく、国際通信を担う事業者は国際電信電話ただ一社と定められ[13]、料金は郵政省の認可を要した。国内通信を担う日本電信電話公社が公社のままだったのに対し、国際通信だけが株式会社の形をとった[14]ため、独占を法で保証された株式会社という性格は同社に固有のものとなった。この法は、1998年5月8日公布の法律によって廃止される[15]までの45年間、事業の範囲と料金を縛り続けた。1979年に表面化した事件でも、1998年の法廃止の議論でも、争点はこの性格に集まった[16]。
発足後の数年は、戦時中に荒廃した施設の復旧と、戦後に急増した通信需要へサービス部門を追いつかせる作業[17]にあてられた。1955年時点で対外通信網は直通電信回路44、直通電話回路31、直通写真回路13に達し、ほかに放送の送信網と受信網が約30あった[18]。国内では直営営業所22カ所を相互に結ぶ回線を保有した[19]。内外の電信網には国際標準の5単位テレプリンターを広く採用し、通信の正確さと速さが上がった[20]。国際通信の設備は相手国の事業者と接続してはじめて働く[21]ため、規格を国際標準に合わせることが復旧と拡充の前提だった。
回線を増やす手段として、同社は一つの周波数で複数の回路を構成する多重通信装置を研究し、実用化した[22]。なかでも一周波数から16通信路を構成する通信路再分割装置は自社の技術陣が開発したもので、米国のRCA通信会社に採用された[23]。サービスの面では、国際電報、航行中の船舶との無線電報、国際写真、放送電報、国際電話、海外ラジオ放送の中継まで、海外を結ぶ国際電気通信の一切が同社の手で行われた[24]。設備の実体は東京・大阪・長崎の3中央局と7カ所の無線送受信所であり、送信機91台、受信機92台、アンテナ344面を数えた[25]。
1968年4月に完工した霞が関ビルは日本で最初の超高層ビルで、その1年前から貸し付けが始まっていた[26]が、オフィス部分はビル不況のさなかで契約に結びつかなかった[27]。テナント獲得に自ら乗り出した三井不動産の江戸英雄社長[28]は、大手町の本社が手狭で困っていた[29]国際電信電話に目をつけ、元逓信次官の大和田悌二氏の紹介で八藤副社長に面会する[30]。社長までセールスをやるのかと問われた江戸英雄氏は、これがビル会社の社長の一番大事な仕事だと答え、この面会で本社の移転が決まった[31]。同じようにして全日空やシェル石油とも契約がまとまり、開館時の成約は7割に達した[32]。国際電信電話はその後、新宿にビルを新築して移転している[33]。
1926年に大阪の呉服屋に生まれた市原博氏[34]は、1953年の設立と同時に電電公社から移った技術者のひとりで、のちに社長となった。大学で電気工学を専攻し[35]、1948年に京都大学工学部を卒業している。通信省と電電公社を経て1953年に国際電信電話へ入社し[36]、日米間の海底ケーブル敷設と衛星通信の導入という最先端の技術に携わった[37]。海底ケーブルの敷設では、第一線で米国側と技術的な詰めを担当している[38]。その後は国際部次長、回線統制部長を歴任した[39]。設備を作る仕事が、そのまま相手国の事業者との交渉になる職場だった[40]。
1972年、田中首相の日中国交回復交渉の先遣隊が中国へ渡ったとき、市原氏は技術者として同行した[41]。国交のない相手国との交渉を24時間支える態勢が要るため、小型の衛星通信装置を持ち込み、ようやく臨時の回線を開いた[42]。本人は後年これを『この時は大変だった』[引用元]と振り返っている。転機になったのは1976年のデータ通信部長就任で、コンピューターとの接続をはじめ難しい技術を伴うデータ通信では、技術を熟知しなければ十分な営業活動ができない[43]。それまでセールストークとは縁がなかったが、市原氏はユーザー回りの先頭に立った[44]。
この時期の国際電信電話に営業活動と呼べるものはほとんどなく、1970年代末の営業利益率は20%に達し[45]、料金は認可制で、顧客はほかに選ぶ相手を持たなかった。市原氏は1979年に営業部長、1980年に東京支社副支社長へ進み、1982年に取締役、1987年に常務、1989年に副社長となった[46]。役員のなかで誰よりも営業に通じているという評価[47]は、この経歴から来ている。のちに国内向けの販売促進で休日出勤を重ねた営業本部の岡田哲也担当課長が『入社以来こうした営業は初めて』[引用元]と述べた[48]のは1997年のことで、それまでの40年余りは注文を取りに行く必要のない事業だった。
1979年に発覚した貴金属などの密輸と要人への過剰接待をめぐって当時の報道が数字で示したのは、前3月期の税引き利益が約98億円だったのに対し、前年1年間の交際費が20億円に達していた[49]という比率である。商売上必要だとして要人に100万円程度の貢ぎ物を配り、新宿の高級クラブを頻繁に利用して、多いときには一晩で100万円近い飲み食いをしていた[50]。競争相手もない企業に過剰接待の必然性はなく、国際電話の高い料金と重ねて批判を招いた[51]。追及は経営陣の刑事責任にとどまらず、認可と監督にあたる郵政省の責任にも及んだ[52]。
事件の原因は担当者の金銭感覚では説明がつかず、一方で独占が許され、他方で利益を上げなければならない株式会社となれば、経営目的は独占批判を避けながら極大利益を上げることになる[53]。そこで怖いのは世間・監督官庁・政治家・報道といったお目付役の存在で、業績が良いために必要以上に媚びを売る[54]。一般企業なら血の出るような合理化に向かう努力が、国際電信電話では過剰接待にすり替わった[55]。この意識のずれは、株式会社であり完全独占であるという二つの条件を重ね持つことから生じていた[56]。立て直しには外部から人を迎え、1979年に山一証券の取締役相談役となっていた日高輝氏が、翌1980年から国際電信電話の会長を務めた[57]。批判の的になった条件そのものが動くのは、1985年4月の電気通信事業法の施行[58]を待ってからだった。
1985年4月、郵政省は電気通信事業法を施行して通信市場を開放した[59]。それまで国内は日本電信電話公社、国際は国際電信電話という独占で運営されてきた電気通信[60]に、他の企業の参入が認められた。同時に、自前の回線設備を持つ第一種電気通信事業者と、他社の回線を借りて役務を提供する第二種電気通信事業者の区分が置かれた[61]。国内では長距離通信に新電電各社が現れ、国際通信では三菱商事・三井物産・住友商事・松下電器産業などが出資する日本国際通信(ITJ)と、伊藤忠商事・英ケーブル・アンド・ワイヤレス・トヨタ自動車などが出資する国際デジタル通信(IDC)が1986年に設立された[62]。
郵政省は市場規模から見て2社が共倒れになる恐れがあるとして、新規参入を1社に束ねる調整を経済界へ持ちかけた[63]。経団連情報通信委員長だった渡辺文夫氏が引き受けたこの一本化調整は、1987年に不調へ終わっている[64]。ITJが国際電信電話の回線をまた借りして事業を始める計画だったのに対し、IDCはケーブル・アンド・ワイヤレスとともに太平洋へ独自の光ファイバーケーブルを敷く計画[65]で、設備の持ち方が正反対だったからである。調整の過程で外資の持株比率を3%未満に抑える非公開の協議が漏れると、英サッチャー首相と米レーガン大統領が中曽根首相に親書を送る通商摩擦[66]にまで広がった。認可権を持つ郵政省の前に、民間による調整の限界[67]があった。
ITJとIDCは1989年に専用線と一般電話のサービスを相次いで開始した[68]。制度上の独占は1985年に消えていた[69]が、他社の回線で実際に国際電話が通じたのはこの時点である。国際通信の市場規模は約3000億円[70]にとどまるなかへ強力な親会社を持つ新会社2社が入り、対抗して通信料金を下げたこともあって、国際電信電話は1991年3月期に33年ぶりの減収減益へ落ち込んだ[71]。同じ年の6月に社長へ就いた市原博氏は、郵政省の監督下にあって歴代トップに天下りが多いなか、増田元一元社長に次ぐ2人目の生え抜き社長[72]だった。
平日昼間の対米3分で、コールバックは186円、インターネット電話は99円だった。小野田エンジニアリングは1997年3月にコールバックへ切り替え、月100万円を超えていた国際電話代が4月には70万円になった[73]。コールバック業者は30社以上あり、国際電話市場の4〜5%を占めるまで[74]になっていた。
国際電信電話の料金は国際比較で高かったわけではなく、昼間5分の通話を正規の料金表で比べれば、米AT&Tの6.85ドル(1ドル115円換算で788円)に対し同社は690円[75]で、むしろ安かった。差を生んだのは料金表の外側で、通信の自由化が進んだ米国では回線をまとめて安く売る特別料金が定着し、再販業者が仕入れる日米間の原価は1分あたり20〜30円程度と言われた[76]。原価に適正利益を加えた価格を郵政省に認可される第一種事業者と、届け出だけで価格を決められる第二種事業者の差[77]でもある。同社の営業利益率は20年で20%から5%へ下がり、1997年3月期には初めて5%を割り込んだ[78]。
同じ改正でNTTも子会社を通じて国際通信へ出る道が開かれた[79]。使ったのは国際電話で運用していた『ルートKDD』の仕組みで、顧客企業の構内交換機と同社の交換機を専用線で直結し[80]、そこからNTTの市内網へつなぐ形である。
国内で回線を持つ手段として選んだのが海底ケーブルで、1996年8月に15人のプロジェクトチームを組み、嶋谷吉治部長が海岸線を歩いて漁協と折衝した[81]。日本列島を光ファイバーで環状に囲む列島周回海底ケーブル(JIH)は総延長1万300キロメートル、投資額1300億円の計画だった[82]。
1998年7月1日には通話料6秒1円の国内通信サービスを出し、開始から1週間で1日あたり30万通話に達している[83]。ただし国内回線をほとんど持たない同社はNTTへ接続料を払うため、短時間の通信では収入より支払いが上回った[84]。
1997年の時点でNTTと国鉄由来の日本テレコムを除けば同社にしか通信技術者はいないと見られ、資金力はあっても技術者の少ないテレウェイにとって同社の技術陣は魅力[85]だった。
1998年12月1日、国際電信電話株式会社法が廃止されて同社は特殊会社でなくなった[86]。
赤字の原因は値下げだけではなく、国際電話の市場規模そのものが1997年半ばで3500億円と神奈川県一県の国内通信市場にすぎなかった[87]。1999年3月期の連結売上高は、KDDの4057億円が第二電電の3分の1にとどまり、未公開の日本移動通信の4107億円にも及ばない規模だった[88]。
2000年10月1日、KDDは合併により解散し、株式の上場も終わっている[89]。消えたのは法人格と上場、そして1953年から47年続いた国際通信専業という立場[90]だった。
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|---|---|---|---|---|
| 1952〜1959年国際電信電話株式会社法が定めた、独占と株式会社という二重の性格 | 国際電信電話法が公布 | ★ | ||
| 国際通信を担う特殊会社の設立が決定 | ★ | |||
| 国際電信電話が発足 | ★ | |||
| 日本電信電話公社の国際部門を承継 | ★ | |||
| 1960〜1978年海底ケーブルと衛星で世界をつなぎ、営業を持たずに設備を広げた歳月 | 日中国交回復交渉の先遣隊に技術者を派遣 | ★ | ||
| 小型衛星通信装置で臨時回線を開設 | ★ | |||
| 1979〜1996年KDD事件が暴いた独占の代償と、国際通信が競争へ開かれるまで | 貴金属の密輸と過剰接待が発覚(KDD事件) | ★★ | ||
| 経営陣の刑事責任と郵政省の監督責任を追及 | ★ | |||
| 山一証券取締役相談役だった日高輝氏が会長に就任 | ★★ | |||
| 電気通信事業法の施行で通信市場が開放され、国際通信の法律上の独占が終わる | ★ | |||
| 日本国際通信と国際デジタル通信が設立 | ★ | |||
| ITJとIDCが専用線と国際電話のサービスを開始 | ★ | |||
| 国際通信の独占が実態として崩壊 | ★ | |||
| 1997〜2000年国内通信への参入と法の廃止、そして第二電電への合流という幕引き | ルートKDDの国内延伸による企業向け国内電話への参入と、列島周回海底ケーブルの敷設 1997年6月の国際電信電話株式会社法の改正を受け、KDDが同年7月26日に企業向け国内電話を始めた経営判断。顧客企業と交換機を専用線で結ぶ既存の『ルートKDD』を国内通話へ広げ、1998年4月には個人向け国内長距離にも参入した。 詳細を読む | ★★★ | ||
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事実根拠:出所(KDD)