{"title":"KDDの歴史概略","sections":[{"start_year":1952,"end_year":1959,"main_title":"国際電信電話株式会社法が定めた、独占と株式会社という二重の性格","subsections":[{"title":"電電公社の国際部門を切り出して発足した資本金33億円の特殊会社","text":"1952年に制定された国際電信電話株式会社法にもとづき、翌1953年、日本電信電話公社の国際部門が分離して国際電信電話株式会社が設立された。資本金は33億円、本社は東京都千代田区大手町1の5に置かれ、事業は国際電信・電話、写真通信、放送中継とされた。初代社長には渋沢敬三氏が就いている。日本の国際通信は明治4年、政府が大北電信会社に免許を与えて長崎・上海間と長崎・ウラジオストック間に海底ケーブルを敷設したところに始まり、以後80年にわたって政府の専掌事業として営まれてきた。政府が直営してきた事業が株式会社へ移ったのは、これが初めてである。\n\n民間の資本と機動力を国際通信に入れる試みは、戦前から二度あった。大正14年の日本無線電信、昭和7年の国際電話がそれで、両社は昭和13年に合併して国際電気通信となり、施設の建設と保守を担った。この体制のもとで日本は太平洋戦争前に50余りの国際通信回路を持つ世界有数の通信国になっている。ただし国際電気通信は1947年5月に解体され、事業は再び政府の手に戻った。1952年に電電公社が政府専掌事業を承継し、その翌年に国際部門だけが国際電信電話として切り出されたのは、この往復の末に選ばれた三度目の答えにあたる。同時代の企業史書『会社銀行八十年史』は「その運営は完全に民営に移されるに至つたが、これはわが国国際通信史上特記すべきことである」と記している。\n\nもっとも、民営に移されたといっても競争が持ち込まれたわけではない。国際通信を担う事業者は国際電信電話ただ一社と定められ、料金は郵政省の認可を要した。株式会社でありながら独占を法で保証されるという性格は、発足のときから会社に組み込まれていた。国内通信を担う日本電信電話公社が公社のままだったのに対し、国際通信だけが株式会社の形をとったことで、この二重性は国際電信電話に固有のものとなる。1979年の事件でも、1998年の法廃止でも、争点はこの二重性だった。","references":[{"title":"会社銀行八十年史（東洋経済新報社、1955年）「国際電信電話」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"会社銀行八十年史（東洋経済新報社、1955年）「国際電気」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"日本産業史 第4巻（日本経済新聞社、1994年）「通信－情報通信産業の誕生」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"国際電信電話株式会社法（昭和27年法律第301号）","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]}]},{"title":"戦災復旧と、米RCAに採用された通信路再分割装置","text":"発足後の数年は、戦時中に荒廃した施設を復旧し、急増する通信需要にサービス部門を追いつかせる作業に費やされた。1955年時点で対外通信網は直通電信回路44、直通電話回路31、直通写真回路13、放送の送受信網が約30に達し、国内では直営営業所22カ所を回線で結んでいる。電信網には国際標準の5単位テレプリンターを広く採用した。設備の実体は東京・大阪・長崎の3中央局と7カ所の無線送受信所であり、送信機91台、受信機92台、アンテナ344面を数えた。\n\n回線を増やす手段として、国際電信電話は一つの周波数で複数の回路を構成する多重通信装置を研究し、実用化した。なかでも一周波数から16通信路を作る通信路再分割装置は自社技術陣の手になるもので、米RCA通信会社に採用されている。国際通信の設備は相手国の事業者と接続して初めて機能するため、技術が国際的に通用するかどうかは事業の前提そのものだった。発足からわずか数年で自社開発の装置が米国側に採られたことは、電電公社から移ってきた技術者集団の水準を示している。ただしこの技術力は、国内では競争にさらされないまま蓄えられたものでもあった。","references":[{"title":"会社銀行八十年史（東洋経済新報社、1955年）「国際電信電話」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"会社銀行八十年史（東洋経済新報社、1955年）「国際電気」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"日本産業史 第4巻（日本経済新聞社、1994年）「通信－情報通信産業の誕生」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"国際電信電話株式会社法（昭和27年法律第301号）","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]}]}]},{"start_year":1960,"end_year":1978,"main_title":"海底ケーブルと衛星で世界をつないだ、営業を必要としなかった通信会社","subsections":[{"title":"大手町から霞が関ビルへ、通信量の伸びが押し出した本社移転","text":"1968年4月に完工した霞が関ビルは、貸し付け開始から1年たっても事務所部分の契約が埋まらずにいた。テナント獲得に自ら乗り出した三井不動産の江戸英雄社長は、大手町の本社が手狭で困っていた国際電信電話に目をつけ、元逓信次官の紹介で八藤副社長に面会している。社長が自ら売り込みに来たことに副社長は驚いたというが、国際電信電話はこれに応じて本社を霞が関ビルへ移した。全日空、シェル石油なども同様に契約し、開館時の成約は7割に達している。日本初の超高層ビルの主要な借り手の一社が、国際通信を独占する会社だった。\n\n江戸社長の回想に残っているのは、大手町の本社が手狭だったという事実と、国際電信電話がその後に新宿へ自社ビルを新築して移転したことだけで、移転を決めた経緯までは書かれていない。ただ、三井不動産の社長が自ら足を運んで迎え入れた借り手が、十数年のうちに自前の超高層ビルを建てる規模へ育ったことは確かである。大手町から霞が関へ、そして新宿へ。社屋の移り変わりが、国際通信という事業の伸びをたどっている。設備が増えれば、それを扱う人員も、相手国の事業者と交渉する部署も増える。技術と設備の会社が、同時に人を抱える会社へ変わった20年でもあったろう。","references":[{"title":"私の履歴書 経済人18「江戸英雄」（日本経済新聞社、1981年）","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"日経ビジネス 1991年9月16日号「市原博氏［国際電信電話］登場」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"日経ビジネス 1997年6月16日号「国際電信電話（KDD）海底ケーブルで国内参入」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"会社銀行八十年史（東洋経済新報社、1955年）「国際電信電話」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]}],"quotes":[{"speaker":"江戸英雄","role":"三井不動産社長（当時）","date":"1981","text":"そこで私は自分でテナント獲得に乗り出した。その一つにKDDがある。同社は当時大手町に本社を持っていたが、狭くて困っていることを知り、大和田悌二氏（元逓信次官）の紹介で社長不在のため八藤副社長に会ったら「社長までセールスをやるのですか」との話に「これがビル会社の社長の一番大事な仕事です」結局同社の本社を移してもらった。","source":"私の履歴書 経済人18「江戸英雄」（日本経済新聞社、1981年）","paragraph":1}]},{"title":"海底ケーブルと衛星、そして国交のない国へ引いた臨時回線","text":"設立と同時に電電公社から移ってきた技術者のひとりに、のちに社長となる市原博氏がいる。1948年に京都大学工学部を出て通信省・電電公社を歩み、1953年の設立とともに国際電信電話へ移った。以後、日米間の海底ケーブル敷設と衛星通信の導入に第一線で関わり、ケーブルの敷設では米国側と技術的な詰めを担当している。国際通信の設備は片側だけでは成立しない。相手国の事業者と規格・工程・費用を突き合わせる交渉が、そのまま技術者の仕事になっていた。回線統制部長からデータ通信部長、営業部長へと進んだ経歴は、設備を作る仕事が売る仕事へつながっていく過程でもあった。\n\n1972年の日中国交回復交渉では、市原氏が先遣隊に技術者として加わっている。交渉を支えるには24時間通信できる態勢が要るため、小型の衛星通信装置を現地に持ち込み、臨時の回線を開いた。本人は後年これを「この時は大変だった」と振り返っている。国交のない相手国との交渉が、民間会社の技術者と機材に支えられていたことになる。独占事業者であることは、こうした国家的な用務に応じる立場と表裏をなしていた。料金と事業範囲を法で縛られる代わりに、国が必要とする通信を断らない会社であることが求められていた。\n\nこの時期の国際電信電話に営業活動と呼べるものはほとんどなかった。1970年代末の営業利益率は20%に達し、料金は認可制で、顧客は他に選ぶ相手を持たない。のちに国内向けの販売促進で休日出勤を重ねた営業本部の課長が「入社以来こうした営業は初めて」と語ったのは1997年のことであり、逆にいえばそれまでの40年余りは、注文を取りにいく必要のない事業だった。技術と設備で成り立ち、営業を要しない会社という形が、この二十年で固まっている。","references":[{"title":"私の履歴書 経済人18「江戸英雄」（日本経済新聞社、1981年）","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"日経ビジネス 1991年9月16日号「市原博氏［国際電信電話］登場」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"日経ビジネス 1997年6月16日号「国際電信電話（KDD）海底ケーブルで国内参入」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"会社銀行八十年史（東洋経済新報社、1955年）「国際電信電話」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]}]}]},{"start_year":1979,"end_year":1996,"main_title":"KDD事件が暴いた独占の代償と、国際通信が競争に開かれるまでの17年","subsections":[{"title":"税引き利益98億円に対し交際費20億円という比率","text":"1979年、貴金属などの密輸と要人への過剰接待が発覚した。当時の報道が数字で示したのは、前3月期の税引き利益が約98億円だったのに対し、前年1年間の交際費が20億円に達していたという比率である。要人には100万円程度の買い物を配り、新宿の高級クラブでは多い時で一晩100万円近い飲食をしていた。国際電話の料金が高いと言われ続けていた時期にこれが表沙汰になったため、批判は経営陣個人にとどまらず、独占を許した制度そのものに向かった。\n\n同時代の論評は、この事件を担当者の金銭感覚の欠如では説明しきれないものと見ていた。日経ビジネスの時評は原因を会社の存立基盤に求め、「利益を上げることが目的の株式会社でありながら、独占が許されている」という二つの条件が重なると、経営目的は独占批判を避けながら利益を極大化することへ収斂すると書いた。競争相手がいれば合理化に向かうはずの努力が、監督官庁・政治家・報道に対する接待へ振り替えられた、という筋である。当時の観察者は、同じ条件のもとでは誰が経営しても同じ力が働くところまで踏み込んで書いていた。\n\n経営の立て直しには、外部から人を迎えた。1979年に山一証券の取締役相談役となっていた日高輝氏が、翌1980年から国際電信電話の会長を務めている。証券会社の再建に長く関わった人物を郵政省所管の特殊会社の会長に据えたことは、事件の収拾が社内の人事だけでは済まなかったことを示している。ただし、批判の的になった条件そのもの、すなわち独占を法で保証された株式会社という形は手つかずで残った。これが動くのは電気通信事業法の施行を待ってからで、事件からさらに5年余りの時間を要した。","references":[{"title":"日経ビジネス 1979年11月5日号「『株式会社で独占公認』KDDゆえ“密輸”と過剰接待の大まじめぶり」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"私の履歴書 経済人16「日高輝」（日本経済新聞社、1981年）","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"日経ビジネス 1987年6月8日号「所詮ムリだった第2KDD調整」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"日本産業史 第4巻（日本経済新聞社、1994年）「通信－情報通信産業の誕生」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"日経ビジネス 1991年9月16日号「市原博氏［国際電信電話］登場」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"日経ビジネス 1997年6月16日号「国際電信電話（KDD）海底ケーブルで国内参入」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]}]},{"title":"電気通信事業法と第2KDD調整、独占が制度から消えるまで","text":"1985年4月、郵政省は電気通信事業法を施行して通信市場を開放した。それまで国内は日本電信電話公社、国際は国際電信電話という独占で運営されてきた電気通信に、他の企業が参入できるようになる。国内では長距離通信に新電電各社が現れたが、国際通信への参入は2年遅れた。三菱商事・三井物産・住友商事・松下電器産業などが出資する日本国際通信（ITJ）と、伊藤忠商事・英ケーブル・アンド・ワイヤレス（C&W）・トヨタ自動車などが出資する国際デジタル通信（IDC）が1986年に設立されている。\n\n郵政省は市場規模から見て2社が共倒れになる恐れがあるとして、新規参入を1社に束ねる調整を経済界に持ちかけた。経団連情報通信委員長だった渡辺文夫氏が引き受けたこの一本化調整は、1987年に不調へ終わっている。ITJが国際電信電話の回線を借りて事業を始める計画だったのに対し、IDCはC&Wとともに太平洋に独自の光ファイバーケーブルを敷く計画で、設備の持ち方が正反対だったからである。調整の過程で外資の持株比率を3%未満に抑える案が漏れると、英サッチャー首相と米レーガン大統領が中曽根首相に親書を送るところまで問題は広がった。\n\n両社は1989年に専用線と一般電話のサービスを相次いで開始した。制度上の独占は1985年に消えていたが、実際に他社の回線で国際電話が通じたのはこの時点である。国際電信電話は通話できる相手国・地域の多さとオペレーターによるサービスで防戦した。競争の影響は数年で数字に出る。1991年3月期、同社は33年ぶりの減収減益に落ち込んだ。同じ年の6月、生え抜きとして2人目の社長に市原博氏が就任している。それまでの歴代トップは郵政省からの天下りが多く、技術と現場を知る社長の登板そのものが社内の期待を集めた。","references":[{"title":"日経ビジネス 1979年11月5日号「『株式会社で独占公認』KDDゆえ“密輸”と過剰接待の大まじめぶり」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"私の履歴書 経済人16「日高輝」（日本経済新聞社、1981年）","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"日経ビジネス 1987年6月8日号「所詮ムリだった第2KDD調整」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"日本産業史 第4巻（日本経済新聞社、1994年）「通信－情報通信産業の誕生」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"日経ビジネス 1991年9月16日号「市原博氏［国際電信電話］登場」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"日経ビジネス 1997年6月16日号「国際電信電話（KDD）海底ケーブルで国内参入」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]}]},{"title":"コールバックが崩した「正規料金」という前提","text":"1996年から、料金表に載らない安さが国際電話市場に入り込んだ。米国の交換機を経由して発信を米国側に付け替えるコールバックと、音声をデータとして送るインターネット電話である。平日昼間の対米3分で、コールバックは186円、インターネット電話は99円だった。国際電信電話の正規料金は450円である。ただし同社の料金は、国際比較で高かったわけではない。昼間5分の通話を正規の料金表で比べれば、米AT&Tの6.85ドル（1ドル115円換算で788円）に対し同社は690円で、むしろ安かった。\n\n差を生んだのは料金表の外側だった。通信の自由化が進んだ米国では、回線をまとめて安く売る特別料金が定着しており、再販業者が仕入れる日米間の原価は1分あたり20〜30円程度と言われた。航空券の格安販売と同じ仕組みである。認可を受けた料金でしか売れない第一種事業者と、届け出だけで価格を決められる第二種事業者との差でもあった。同社の営業利益率は1997年3月期に初めて5%を割った。独占を終わらせたのは参入者の数ではなく、価格の決まり方の変化だった。","references":[{"title":"日経ビジネス 1979年11月5日号「『株式会社で独占公認』KDDゆえ“密輸”と過剰接待の大まじめぶり」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"私の履歴書 経済人16「日高輝」（日本経済新聞社、1981年）","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"日経ビジネス 1987年6月8日号「所詮ムリだった第2KDD調整」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"日本産業史 第4巻（日本経済新聞社、1994年）「通信－情報通信産業の誕生」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"日経ビジネス 1991年9月16日号「市原博氏［国際電信電話］登場」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"日経ビジネス 1997年6月16日号「国際電信電話（KDD）海底ケーブルで国内参入」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]}]}]},{"start_year":1997,"end_year":2000,"main_title":"国内通信への参入と法の廃止、そして第二電電への合流という幕引き","subsections":[{"title":"専用線から始めた国内通信への参入と、1300億円の海底ケーブル","text":"1997年6月13日、国際電信電話株式会社法の改正法が成立し、国際電信電話は国内通信への参入を認められた。同月27日の株主総会で定款を変更し、7月26日から企業向けの国内電話を始めている。使ったのは国際電話で運用していた「ルートKDD」の仕組みで、顧客企業の構内交換機と同社の交換機を専用線で直結し、そこからNTTの市内網へ接続する形だった。料金は基本料が月額2万円、通話料は同社の契約者同士なら3分42円、相手がNTT加入者なら54円。距離に関係なく全国一律のため、100キロメートル超の平日昼間ではNTTより51%割安になった。契約回線は7600回線あり、翌3月期末に1万回線へ増やす計画だった。\n\n国内で回線を持つ手段として選んだのが海底ケーブルだった。日本列島を光ファイバーで環状に囲む列島周回海底ケーブル（JIH）は総延長1万300キロメートル、投資額1300億円で、日米間の太平洋ケーブルとつなげば国際回線に、国内で使えば長距離回線になる。地面を掘って光ファイバーを敷けば1キロメートルあたり1億円以上かかる。西本正社長は海に敷く方が「コストは一七〇分の一で済む」と語り、別の機会には10分の1とも述べている。数字は揺れているが、陸より海が安いという判断は変わらなかった。世界最長の太平洋光海底ケーブルを敷いてきた技術が、国内参入の元手として使われた。西本正社長は2000年度に本体で売上高4500億円、経常利益300億円を掲げ、うち国内通信で1200億円を稼ぐ構想を語っている。\n\n当時の国際電信電話は、規模を追う道をとらないと明言していた。英BTと米MCIの合併が難航していたことを引き合いに、西本社長は顧客をそっちのけにしてM&Aに労力を使うことへの疑問を口にしている。国際通信の目減りを国内と海外の新規事業で補い、単体で残るという構想である。この構想は3年後に合併という結末で覆る。ただし国際電話の価格がどこまで下がるかは、分割後のNTTの出方と欧米勢の戦略に左右され、当時は誰にも見えていなかった。","references":[{"title":"週刊東洋経済 1997年8月2日号「［編集長インタビュー］西本正 国際電信電話（KDD）社長」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"週刊東洋経済 1997年11月22日号「［特別レポート］合併か？ KDDとテレウェイの暗中模索」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"週刊東洋経済 1998年1月3日号「企業KDD 国際「電話屋」からの脱却」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"週刊東洋経済 1999年1月23日号「［フラッシュ］KDD崖っぷち、設立以来の危機」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"週刊東洋経済 1999年1月30日号「会社四季報」最新情報","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"日経ビジネス 1997年6月16日号「国際電信電話（KDD）海底ケーブルで国内参入」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"日経ビジネス 1997年11月17日号「トヨタが仕掛ける新たな通信再編」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]}],"quotes":[{"speaker":"西本正","role":"国際電信電話（KDD）社長","date":"1997-08-02","text":"確かに、大きくなるのがいいことばかりとは限りません。BTだけでも大きいのに、と思わないではありません。だいいち米国と英国ではカルチャーも違う。お客様そっちのけで、M&Aにエネルギーを使うのには賛成しかねます。\n金融や証券業界なら別ですが、通信は小さくても小回りが利いたほうがいい場合もあるのですから。","source":"週刊東洋経済 1997年8月2日号「［編集長インタビュー］西本正 国際電信電話（KDD）社長」","paragraph":3}]},{"title":"トヨタとの縁談、テレウェイ吸収合併、そして特殊会社の終わり","text":"1997年11月11日の朝日新聞朝刊が、国際電信電話とトヨタ系の日本高速通信（テレウェイ）が翌年秋に合併すると一面で報じた。発表に基づく記事ではなかった。同社は午前8時30分に役員会を開き、8時50分に「現時点で事実ではない」とのコメントを配り、9時には東京証券取引所で株式の売買が停止された。同日10時30分、KDD法廃止についての記者会見に臨んだ西本社長は「合併交渉の打診はしている」と認めている。翌12日の株価は前々日比920円高の6320円をつけた。\n\n交渉の力関係は単純ではなかった。事業規模では国際電信電話が上で、売上高3200億円はテレウェイの3倍あり、ブランドも技術者も同社に厚みがある。1997年時点で通信技術者を抱えていたのはNTTと国鉄由来の日本テレコム、そして同社だけだと業界では見られていた。一方、株式数から計算すると新会社の筆頭株主はトヨタ自動車になり、持株比率は2割前後と見込まれた。テレウェイは640億円の累損を抱えており、筆頭株主のトヨタが1998年2月までの増減資で一掃すると発表していた。「嫁入りではない。やるならあくまで婿取りだ」というトヨタ首脳の言葉が、この交渉の性格を示している。\n\n1998年12月1日、国際電信電話株式会社法が廃止されて同社は特殊会社でなくなり、同じ日に日本高速通信を吸収合併し、商号をケイディディ株式会社（略称KDD）へ改めた。1953年の設立から45年間、事業の範囲と料金を法で縛られてきた会社が、ふつうの株式会社になった日である。同時にそれは、国際通信を1社だけに担わせるという戦後の枠組みが完全に消えた日でもあった。ただし合併の条件をめぐる綱引きは長引き、一度は合併時期を延期している。合併で間接部門は膨らみ、役員数も社員数も規模に比して多いまま残った。","references":[{"title":"週刊東洋経済 1997年8月2日号「［編集長インタビュー］西本正 国際電信電話（KDD）社長」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"週刊東洋経済 1997年11月22日号「［特別レポート］合併か？ KDDとテレウェイの暗中模索」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"週刊東洋経済 1998年1月3日号「企業KDD 国際「電話屋」からの脱却」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"週刊東洋経済 1999年1月23日号「［フラッシュ］KDD崖っぷち、設立以来の危機」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"週刊東洋経済 1999年1月30日号「会社四季報」最新情報","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"日経ビジネス 1997年6月16日号「国際電信電話（KDD）海底ケーブルで国内参入」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"日経ビジネス 1997年11月17日号「トヨタが仕掛ける新たな通信再編」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]}],"quotes":[{"speaker":"東款","role":"テレウェイ社長","date":"1998-01-03","text":"だいたい会社比較にしても、大事なのは現在価値より将来価値です。国際といっても客はローカルにいるわけで、海の中に客はいません（笑）。どれだけ国内に客を持っているかでしょう。市場規模だって国際は五〇〇〇億円、国内は六兆円。同じウェイトではない。\n合併比率は「一対五」かって？　それならNOですよ。わが社の株主価値が減りますからね。","source":"週刊東洋経済 1998年1月3日号「企業KDD 国際「電話屋」からの脱却」","paragraph":2}]},{"title":"初の連結赤字と、単独では立てなくなった名門","text":"価格競争は法の廃止と合併をはさんで一段と激しくなった。合併の2か月前にあたる1998年10月に第二電電（DDI）が対米昼間3分240円で国際電話に参入し、12月にはKDDが450円から、日本テレコムとIDCが440円から、それぞれ240円へ下げた。翌1999年1月、DDIはさらに168円へ引き下げている。1999年3月期のKDDの連結決算は、売上高4010億円と前期比9.9%の増収でありながら、最終損益は10億円の赤字となる見込みになった。前期は49億円の黒字である。単体は土地建物賃貸料を営業外から売上高へ計上し直し、減価償却を定額法へ変更するなどのやりくりで黒字を保ったが、実質は営業赤字だった。\n\n赤字の原因は値下げだけではない。第一に、国際電話の市場規模そのものが小さい。1997年半ばで3500億円と神奈川県一県の国内通信市場にすぎず、1999年初めには3000億円に満たないところまで縮んでいた。第二に、1999年7月にはNTTが再編され、秋には長距離国際NTTが本格参入することが決まっていた。第三に、テレウェイとの合併で人員と間接部門が重くなり、会社四季報は「テレウェイとの合併で水膨れした間接部門の大幅な合理化が急務」と書いている。第四に、1997年時点で5800人いた人員を2001年3月期までに4300人（うち本体2800人）へ減らす計画を掲げてはいたが、値下げの速度に追いついていなかった。四つが同時に起きたことが、この時期のKDDを追い込んだ。\n\n合併相手から見たとき、KDDは技術者と設備を持つ会社だった。太平洋の光海底ケーブルを敷いた実績も、1997年10月に韓国デーコム・香港テレコムらと作ったアジア域内の接続網も、資金だけでは代えられない。2000年10月1日、KDDは第二電電・日本移動通信との合併により解散した。存続会社は第二電電で、株式の上場も合併とともに終わった。消えたのは法人格と上場、そして1953年から47年続いた国際通信専業という立場である。残ったのは海底ケーブルの敷設技術と国際通信網、アジアの事業者との関係、そして社員で、いずれも新会社へ引き継がれた。社名の3文字はKDDIという商号のなかに残っている。国際通信の独占に守られて技術を蓄えた会社が、その独占が制度から消えた15年後に、独占を崩した側と一つになった。","references":[{"title":"週刊東洋経済 1997年8月2日号「［編集長インタビュー］西本正 国際電信電話（KDD）社長」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"週刊東洋経済 1997年11月22日号「［特別レポート］合併か？ KDDとテレウェイの暗中模索」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"週刊東洋経済 1998年1月3日号「企業KDD 国際「電話屋」からの脱却」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"週刊東洋経済 1999年1月23日号「［フラッシュ］KDD崖っぷち、設立以来の危機」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"週刊東洋経済 1999年1月30日号「会社四季報」最新情報","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"日経ビジネス 1997年6月16日号「国際電信電話（KDD）海底ケーブルで国内参入」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"日経ビジネス 1997年11月17日号「トヨタが仕掛ける新たな通信再編」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]}]}]}],"summary":{"title":"サマリー","text":"","qa":[{"q":"なぜ1953年、日本の国際通信は公社ではなく株式会社の形で切り出されたのか","a":"国際通信は相手国の事業者と設備や費用を突き合わせて成り立ち、国の会計と人事では相手に合わせて動けない。戦前も日本無線電信と国際電話という民間会社に設備の建設と保守を担わせた前例があった。1952年の国際電信電話株式会社法にもとづき、翌1953年に日本電信電話公社の国際部門が資本金33億円で分離し、東京都千代田区大手町に国際電信電話株式会社が発足した。初代社長は渋沢敬三。ただし国際通信を担う事業者は1社に限られ、料金は郵政省の認可を要した。株式会社でありながら法で独占を保証される形が、発足時から組み込まれていた。"},{"q":"なぜ1997年、国際電話の独占事業者が国内通信への参入と1300億円の海底ケーブル投資を選んだのか","a":"料金表の外側に安い経路ができ、値下げでは追いつけなくなったためである。1996年から広がったコールバックやインターネット電話は平日昼間の対米3分で186円や99円となり、正規料金450円の国際電話から客が流れ出した。営業利益率は20年で20%から5%へ落ちた。1997年6月の法改正で国内参入が認められると、7月に企業向け国内電話を始め、日本列島を囲む光海底ケーブルに1300億円を投じた。陸上に敷けば1キロメートルあたり1億円以上かかる回線が、海底なら170分の1で済む。国際通信の敷設技術を国内の元手に替えた。"},{"q":"なぜ1998年に45年続いた特殊会社という形を手放し、2年後に第二電電へ合流したのか","a":"法が事業の範囲を国際通信に限る以上、他社との合併も国内での拡大も、法の廃止なしには選べなかった。1998年12月1日、国際電信電話株式会社法は廃止されて特殊会社でなくなり、同じ日にトヨタ系の日本高速通信を吸収合併し、商号をケイディディ株式会社へ改めた。ただし縛りが外れれば保護も消える。翌1999年3月期は値下げ競争で連結初の最終赤字に転じる見通しとなり、合併で膨らんだ間接部門の整理も残った。2000年10月、KDDは第二電電・日本移動通信との合併で解散し、海底ケーブルの技術と国際通信網は新会社へ引き継がれた。"}]}}