KDDIDDI・KDD・IDOの三社合併——長距離・国際・携帯を1社に束ねたKDDIの発足

存続会社は第二電電、残した名前はKDD——京セラとトヨタが3年かけて詰めた距離

時期 1999年12月
意思決定者(推定) 稲盛和夫 第二電電名誉会長
論点 次世代携帯電話の投資負担と非NTT陣営の再編
概要
2000年10月1日、第二電電(DDI)を存続会社としてKDDと日本移動通信(IDO)が合併し、KDDIが発足した。3社の単純合算で連結売上高2兆630億円、従業員9700人となり、NTTに次ぐ国内2位の通信会社が生まれた。長距離電話のDDI、国際通信のKDD、関東・中部の携帯電話のIDOという、事業も出自も異なる3社の統合だった。
背景
1999年2月にNTTドコモがiモードを投入したころ、携帯電話の加入数はドコモ2200万台に対しDDI系セルラー500万台・IDO320万台と差が開いていた。2001年に始まる次世代携帯電話で郵政省は3グループにしか免許を与えない方針を示しており、DDIは有利子負債1兆円超、IDOは累積損失、KDDは主力の国際通信の値下がりを抱えていた。
内容
合併の申し入れは1998年12月、IDOの塚田健雄社長が稲盛和夫DDI名誉会長を訪ねた場から始まる。1999年4月にDDI・IDOの合併構想が表面化して5月に破談し、11月に再燃してKDDを含む3社へ拡大、12月15日に最終合意した。時価総額の差から存続会社はDDIとなり、KDDの社名は営業名称「KDDI」として残った。
含意
発足時の役員は53人にのぼり、常勤48人の内訳は旧DDI25人・旧KDD14人・旧IDO9人だった。有利子負債は2兆円、上場初日の株価は年初来最安値をつけた。稲盛名誉会長は合併直後の会見で「2年前に合併できていれば、NTTドコモにここまで引き離されることはなかった」と述べている。
筆者の見解

3社で足りたのか、遅すぎたのか

この合併で3社が持ち寄ったものは、性格がまるで違っていた。DDIはセルラー8社を通じた国内の携帯営業基盤を、KDDは海底ケーブルと光ファイバーの基幹網および研究開発の陣容を、IDOは関東甲信・東海のcdmaOne網を出した。西本社長は合併後のネットワークがほとんどKDDの基幹網に頼ることになると見通しており、実際に固定通信の背骨はKDD側の資産で置き換わった。合わせれば全国を覆い、国際も国内も持つ会社になる。足し算としては成立していた。

それでも稲盛名誉会長は、合併直後の記者会見で「2年前に合併できていれば、NTTドコモにここまで引き離されることはなかった」と述べている。2000年9月の時点でドコモの携帯シェアは6割に迫り、KDDI陣営は3割を割っていた。1997年に日本高速通信をめぐる交渉が不調に終わり、1999年5月にDDI・IDOの構想が破談し、同年12月にようやく3社でまとまるまでの3年は、株主同士の距離を詰めるために費やされた時間でもある。合併の遅れは競争条件の悪化として返ってきた。

寄合いという性格は、合併の設計そのものに埋め込まれていた。2006年の時点でも、KDDIはセルラー各社の合流を含めて「細分化すると実に16もの会社が集結した寄り合い所帯」と自社の内部統制担当者に説明されている。旧3社の均衡を優先した役員構成、たすきがけの排除という取り決めの不履行、ツーカーとauの二重のブランド——いずれも短期の摩擦を避ける選択であり、代わりに規格と組織の整理が後年へ持ち越された。CDMAへの一本化に踏み切るのは、発足から1年半を経た2002年3月である。

Yutaka Sugiura, 2026年7月

背景

4年で開いたドコモとの差

1996年1月の時点で、携帯電話の総加入台数は870万台だった。うちNTTドコモが420万台、DDIのセルラーグループが170万台、IDOが110万台で、セルラーとIDOを足せばドコモの3分の2に届いていた。それが1998年12月には総加入3900万台のうちドコモ2200万台、セルラー500万台、IDO320万台となり、2社を足してもドコモの3分の1強まで下がった。市場が4倍以上に膨らむあいだに、非NTT勢の取り分だけが縮んだ[1]

3社の財務はいずれも余裕を欠いていた。IDOは営業区域が関東甲信と東海に限られたまま設備投資がかさみ、1997年3月期に59億円、1998年3月期に385億円の最終赤字を出した。DDIも傘下のPHS9社のほとんどが債務超過に陥り、衛星電話の日本イリジウムは契約が伸びずに清算が近づいていた。有利子負債は1999年春の時点でDDIが9400億円、IDOが4000億円あり、そこへcdmaOneの設備投資として両社がそれぞれ3000億〜4000億円を投じていた[2][3]

免許枠は3つしかなかった

再編を促したのは規制でもあった。2001年に始まる次世代携帯電話について、郵政省は3グループにしか免許を与えない方針を示していた。1枠は規格作りを主導したNTTドコモが取る。もう1枠はJ-フォンを展開する日本テレコム陣営が確実視されていた。残りは1枠で、IDOは関東甲信と東海、DDIのセルラーはそれ以外と営業区域が分かれており、一緒になれば全国を覆える関係にあった。合併は当事者の意思である以前に、枠の数から導かれる帰結でもあった[4]

KDDの事情は2社と違った。1998年12月に根拠法である国際電信電話株式会社法が廃止され、同じ日にトヨタ系の日本高速通信を吸収合併して商号をケイディディに変えたばかりだった。しかし主力の国際通信は値下げ競争が最も激しく、携帯電話事業を持たない。1999年3月期の連結売上高は4057億円で、DDIの3分の1どころか、非上場のIDOの4107億円にも届かなかった。株式時価総額は1999年12月に1兆円を割り込み、成長を織り込まれていない事実が数字に出ていた[5][6]

決断

「一緒になりましょう」——1998年12月の申し入れ

最初に動いたのはIDOだった。1998年12月、塚田健雄社長が稲盛和夫DDI名誉会長を訪ね、「このままでは共倒れになってしまいます。一緒になりましょう」と切り出した。両者は年に数回食事をともにする間柄で、塚田社長は稲盛名誉会長を通信事業に精通した数少ない経営者とみていた。稲盛名誉会長は申し入れを受けたうえで条件を1つ挙げている。「私は通信に命を懸けてきました。合併については、方式はいろいろありましょうが、出資比率は京セラ、DDI、稲盛優位としていただきたい」(日経ビジネス 2000/10/23)。1%でも2%でも多くしてほしい、という求め方だった[7][8]

1999年4月の構想と、5月の破談

話が表に出たのは1999年4月13日、cdmaOneの発表会見の席だった。塚田社長は「DDIセルラーとIDOは合併のための準備に入っている」と公言し、会見後には「NTTグループは株式会社の皮を被った“国家”。対抗するために、我々はDDI(第二電電)と合併し、その次は外資と一緒になるだろう」とまで述べた。しかし同じ日、トヨタ自動車の社長就任会見に臨んだ張富士夫副社長は「業務提携以上のことは話し合いも全然ない」と否定している。塚田社長自身も「銀行を含めた一部の大株主とは温度差を感じる」と認めていた[9]

1カ月で構想は止まった。IDOの筆頭株主であるトヨタ自動車と東京電力に合併の意思が薄く、塚田社長は「この一カ月間に進展は全くない」と語る。DDI側も業務提携以上の関係はないと否定に転じた。決定的だったのは人事で、推進役の塚田社長が1999年6月に退任し、会長にも相談役にも残らずIDOの経営から離れることが決まった。稲盛名誉会長と太いパイプを持つ唯一の人物が去れば、両社をつなぐ線は切れる。1999年5月の時点で、DDI・IDO2社の合併は消えた[10]

稲盛和夫と豊田家の3年

交渉が長引いた理由は、京セラとトヨタの株主同士の関係にあった。発端は1997年、トヨタ傘下の日本高速通信をめぐってKDDとDDIを含む3社合併やDDI単独での買収が探られたときにさかのぼる。事業規模で勝るDDI側の陣頭に立った稲盛名誉会長の進め方は、資本の論理を前に出す強いものだった。当時のDDIは1993年に新電電で初めて株式を上場し、1997年3月期に連結売上高1兆円を超えていた。一方の日本高速通信は1997年3月時点で650億円の累積損失を抱え、同年末にトヨタの引き受けによる増減資でようやく累損を消していた[11]

豊田章一郎名誉会長や豊田英二氏をはじめとする豊田家の反発は強かった。ただし稲盛名誉会長の側に含むところはなかったらしく、「失言があったのなら、それをトヨタに詫びたい。しかし正直言って、どの言葉が問題だったのかが分からない」とDDI幹部に漏らしている。1998年秋には2人が会談したという噂が業界に流れ、それだけで合併観測が広がった。財界の場で顔を合わせても言葉を交わさない場面があったと関係者は述べており、当事者2社の距離が交渉の速度を決めていた[12][13]

距離を縮めたのは市況だった。時価総額でトヨタを追い抜いたNTTドコモがiモードで走り、DDIは有利子負債1兆円超、IDOは累積損失を抱えたまま時間だけが過ぎていく。合併の合意にあたって稲盛名誉会長は、新会社の名誉会長をトヨタ側から出してほしいと申し入れた。「京セラとトヨタが、全面的にバックアップすることの“象徴”としてのポストです」。トヨタ側はこの求めに豊田章一郎名誉会長を充て、2000年初めには両者の会談の場が設けられた[14]

存続会社はDDI、名前はKDD

1999年11月初めに交渉が再開し、12月初旬に3社社長の会合で合意ができた。12月15日に最終合意、翌16日にDDIが2社を吸収合併すると発表する。存続会社をDDIとしたのは、市場が付けた企業価値の差による。西本正KDD社長は「未公開企業のIDOは別として、DDIとKDDには株式市場が判断した企業価値が厳然として存在している」としたうえで、「企業価値が大きかったのはDDIであり、それを基準に合併比率や社長人事が決定したのは仕方がないことだ」(週刊東洋経済 2000/01/22)と述べている。KDDとDDIはかつてKDDを存続会社とする案で交渉し、合併比率が折り合わずに破談していた[15][16][17]

法人としてのKDDは消え、社名だけが残った。西本社長は伝統ある社名の消滅に迷いはなかったかと問われ「全くなかった」と答えている。ただし「商売をするうえで、外国ではKDDのほうが名前が売れている。それを捨てるのはもったいないので営業用の名称は『KDDI』に決めた」(週刊東洋経済 2000/01/22)とも述べており、合併新会社の商号は株式会社ディーディーアイ、営業上の名称はKDDIという二本立てで発足した。社章バッジも株式欄もKDDIで統一している。KDDの社員5800人にとっては、合併によってポストと働き場所が増え、次世代携帯電話という新しい事業に参画できる意味が大きかった[18][19]

結果

53人の役員と2兆円の有利子負債

2000年10月1日に発足したKDDIの役員は、非常勤5人を含めて53人だった。日本テレコムの30人、NTTドコモの28人、東京電力の32人と比べて多く、海外を含むアナリスト説明会のたびに指摘を受けたと奥山雄材社長は認めている。常勤48人の内訳は旧DDI25人、旧KDD14人、旧IDO9人。執行部門はDDI出身者が長を務めれば副にKDD出身者を置く配置で、合併合意の際に「たすきがけ人事はしない」と決めていた取り決めは守られなかった[20]

市場の評価も厳しかった。営業初日となる2000年10月2日の株価は3万5000円安と年初来の最安値まで下げている。機関投資家が挙げた理由は経営体制への不透明感、2兆円の有利子負債、携帯電話事業の不振の3つだった。牛尾治朗会長は取締役会議長の立場から「違う者同士を無理に1つにまとめるより、お互いの長所を生かすことが、この会社には得策」と述べ、DDIの効率経営、トヨタの国際展開力、KDDの技術力を組み合わせる方針を掲げた。統合を急がないという判断は、裏返せば寄合いを当面そのまま抱えるという判断でもあった[21][22]

持ち寄った規格とブランドの整理

携帯電話では、旧IDOと旧DDI系セルラーがすでに2000年7月にブランドを「au」へ統一していた。しかし東名阪で営業するツーカー3社の扱いが定まらず、小野寺正副社長は「次世代サービスまでのつなぎ役として活用したい」と説明するにとどまる。そのツーカーの設備投資は2000年度だけで1000億円を超えていた。解約率もドコモの1.6%に対しauは3%を超え、加入純増数では2000年1月から9月までのうち5月を除くすべての月でJ-フォンに負けている。持ち寄った加入者基盤は、そのままでは戦力にならなかった[23]

会社の形は発足から1年かけて整えられた。2001年3月にセルラー電話会社7社を統合した株式会社エーユーを株式交換で完全子会社とし、4月に商号をKDDI株式会社へ改めて本店を東京都新宿区へ移す。6月には執行役員制を導入し、50人を超えていた役員を12〜15人に絞り、社長の上に5人いた取締役も3人へ減らした。社長は69歳の奥山雄材氏から53歳の小野寺正副社長に交代する。稲盛名誉会長と豊田章一郎名誉会長は取締役名誉会長から最高顧問に退き、合併契約で副社長として処遇すると決まっていた元郵政事務次官の五十嵐三津雄氏が副社長に就いた[24][25]

小野寺社長の昇格は京セラとトヨタの双方に受け入れられた。京セラにとってはDDI主導の運営を内外に示す人事となる。トヨタにとっては、有利子負債2兆円を抱える会社に社長を出す負担を避けられた。トヨタ自身も連結の実質有利子負債が2.5兆円あり、環境対応や海外生産拠点への投資を控えていた。もっともKDDIの役員は「消去法の人事」とも漏らしており、寄合いの人材層の薄さは合併から半年を経ても解消していない[26][27]

出典・参考
  • 日経ビジネス 2000年1月3日号「打倒NTTへ DDI、KDD、IDO合併が長期化した本当の事情 稲盛氏とトヨタ創業家の“確執”が沈静」
  • 日経ビジネス 2000年10月23日号「KDDI 打倒NTT、「稲盛・豊田」丸船出 3年の歳月経て京セラ・トヨタ並び立つ」
  • 日経ビジネス 2001年4月23日号「KDDI、意表つく旧DDI小野寺氏の社長昇格 五十嵐・元郵政次官は副社長に、京セラ主導をトヨタ静観」
  • 週刊東洋経済 1999年4月24日号「矯激 DDI・IDO合併構想 追い詰められた新電電陣営の現実」
  • 週刊東洋経済 1999年5月29日号「断線 DDI・IDO合併破談 取り残されるトヨタ 浮かぶ「撤退」の二文字」
  • 週刊東洋経済 1999年12月25日号「救済 通信3社大合併の深層 “名門”KDDはなぜDDIにのみ込まれたか」
  • 週刊東洋経済 2000年1月22日号「特別レポート モバイル進出がKDDを救う 西本正KDD社長「通信3社大合併」を語る」
  • 週刊東洋経済 2000年9月30日号「地盤沈下 DDIとの合併に不安を持つIDO」
  • 週刊東洋経済 2006年9月30日号「「内部統制」虎の巻07 KDDI 内部統制作業を機にグループで業務標準化」
  • KDDI 有価証券報告書【沿革】

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