3社が持ち寄ったものは性格がまるで違っていた。DDIはセルラー8社を通じた国内の携帯営業基盤、KDDは海底ケーブルと光ファイバーの基幹網と研究開発の陣容、IDOは関東甲信・東海のcdmaOne網を出した。西本社長の見通しどおり、固定通信の背骨はKDD側の基幹網で置き換わっている。合わせれば国際も国内も持つ全国網となり、足し算としては成立していた。旧3社の均衡を優先した役員構成も、たすきがけの排除という取り決めの不履行も、ツーカーとauの二重のブランドも、摩擦を避けて3社をまとめる設計の一部であった。
2000年9月のドコモの携帯シェアは6割に迫り、KDDI陣営は3割を割っていた。規格と組織の整理は後の年に持ち越された。CDMAに一本化されたのは発足から1年半後の2002年3月で、16社の寄せ集めという自己認識も2006年まで消えなかった。摩擦を避けた分の先送りである。1997年の日本高速通信をめぐる交渉に始まり、1999年5月のDDI・IDO構想の破談を経て、同年12月の合意に至る3年間は、株主どうしの隔たりを縮めることに使われた。