住友重機械工業造船大手・浦賀重工業の吸収合併と重工業メーカーへの転換

機械専業のまま残るか、赤字の造船会社を抱えるか——住友機械工業が選んだ道

時期 1969年6月
意思決定者(推定) 市川恒雄 社長
論点 機械専業からの脱皮と規模の拡大
概要
1969年6月30日、機械専業だった住友機械工業が造船大手の浦賀重工業を10対5.5の比率で吸収合併し、住友重機械工業が発足した。合併後の資本金は71億6,000万円、従業員は1万人をわずかに超える規模となった。別子銅山の内製工場を出自とする会社が、造船部門を抱える重工業メーカーへ移った合併である。
背景
住友機械工業は減変速機で国内シェア3割強の首位に立ちながら、三菱重工業や石川島播磨重工業に比べて規模が小さかった。浦賀重工業は20万〜30万重量トン型タンカーに対応する大型ドックを必要としながら、累積赤字約30億円で投資余力を失っていた。
内容
住友機械工業を存続会社とする吸収合併で、資本金17億6,000万円の負担で浦賀の造船設備と6,000人の従業員を引き継いだ。あわせて追浜に13万坪を埋め立て、160億〜170億円を投じて20万〜30万トン級の新造船ドックを建設する計画を進めた。
含意
追浜造船所は1970年からの輸出船ブームに間に合い、機械部門の不振を造船が補った。もっとも石油危機の後、船舶部門は50%操業体制へ入り、造船は長く同社の重荷へ転じた。
筆者の見解

安く買えたことと、うまく使えたこと

赤字の造船会社を救済したという説明では、この合併の芯を取り逃がす。住友機械工業が求めたのは造船そのものではなく、三菱重工業や石川島播磨重工業と並ぶ規模であった。西村恒三郎社長が自社を「田舎のデパートのようなもの」と評し、専門店へ絞るには間口を広げすぎていたと述べたとおり、残る道は総合重機になることであった。代価は資本金17億6,000万円の負担にとどまり、浦賀は半額減資で累積赤字を消した後であった。

もっとも、安く買えたことと、それが利益を生んだこととは別である。追浜の成功は、運輸省の認可が1年遅れて受注活動が輸出船ブームと重なり、完全円建て契約によって為替差損を負わずに済んだ偶然に多くを負っている。石油危機の後、船舶部門は50%操業体制へ入り、1979年3月期の経常利益は6億円まで落ちた。買い物の巧拙は値段では決まらず、手にした設備をどの需要へ当てられるかで決まるといえる。

Yutaka Sugiura, 2026年7月

背景

機械専業メーカーの規模の壁

住友機械工業は、1888年に住友別子鉱業所の工作方として発足した鉱山の内製工場を出自とする。1934年11月に住友機械製作として独立し、戦後は西ドイツのサイクロ社との提携で始めた減速機とバイエル変速機を伸ばし、両者を合わせて国内シェア3割を占める首位メーカーに育った。1961年に大府製造所、1965年に千葉工場を設けて拠点を分け、1967年8月には全面事業部制へ移っている[1][2][3]

しかし、機械を並べるだけでは越えられない壁もあった。西村恒三郎社長は後年、合併前の同社を「どんな機械でもそろえていたが三菱重工や石播に比べ規模が小さい」と述べ、「田舎のデパートのようなもの」と振り返っている。建設機械の小松製作所やポンプの荏原製作所のように専門店へ絞り込むには、すでに間口を広げすぎていた。進む道は一流の総合重機になるほかないというのが、当時の同社の見立てであった[4]

大型ドックを持てない浦賀重工業

一方の浦賀重工業は、1897年に榎本武揚の主唱で設立された浦賀船渠を前身とし、1962年に浦賀玉島デイゼル工業と合併して社名を改めた造船会社であった。資本金は64億円と住友機械工業の54億円を上回り、従業員は6,000人余と住友機械工業の2倍近くを抱えていた。だが経営は行き詰まり、累積赤字は約30億円に達していた。規模の大きさが、そのまま重さになっていた[5][6]

住友グループとの縁は、再建の要請から始まった。浦賀の主力銀行であった住友銀行が再建要員の派遣を求め、第一銀行の要請を受けた川崎重工業が造船部門を、住友機械工業が機械部門をそれぞれ担当する形で、2社が組んで立て直しに当たった。しかし4年の努力は実らず、川崎重工業は浦賀から手を引いた。残された住友機械工業の側では、知らない造船の面倒まで背負い込んだという受け止めが広がっていた[7][8]

決断

10対5.5の吸収合併

1968年5月、両社は合併覚書に調印し、同年11月には追浜造船所の建設申請を運輸省へ提出した。大手造船会社として残るには大型ドックの建設が避けられず、住友グループの具体的な支援がなければ建設を認めないとする運輸省の方針も、浦賀の背を押した。合併を拒むことは中小造船所への転落を意味した。同年2月には半額減資で累積赤字を一掃しており、外堀と内堀が順に埋められた末の合意であった[9][10]

1969年6月30日、資本金54億円の住友機械工業が浦賀重工業を10対5.5の比率で吸収合併し、住友重機械工業が発足した。引き継いだ資本金は17億6,000万円で、合併後の資本金は71億6,000万円となった。従業員は住友機械の4,000人と浦賀の6,000人を合わせ、1万人をわずかに超えた。産業機械の総合メーカーが、一挙に造船部門と6,000人の従業員を抱える会社へ変わった[11][12]

市川社長は合併の勘定を、株主向けの講演でこう説明している。浦賀は1968年2月の半額減資で過去の損失を処理しており、合併比率も10対5.5であったから、17億6,000万円の資本負担で設備を取得できた。従業員6,000人は懸案だが、労働力の確保が難しい時代であればうまく使えると述べた。造船は鋼材の使用量が多く、製鉄関係機械の受注でも有利に立てるという読みも重ねていた[13]

追浜への160億円

合併と一体で決めたのが、追浜での新造船ドック建設であった。浦賀と横須賀の造船所はいずれも10万トン級までしか建造できず、船舶の大型化に対応できない。そこで13万坪の埋立地を造成し、長さ560メートル、幅75メートル、深さ12.6メートルのドックを設ける計画を立てた。両側から進水させて1杯半の船を同時に建造できる両開き式とし、建設資金は160億〜170億円を見込んだ[14]

市川社長は、規模の追求そのものには一線を引いていた。50万トンから100万トンに達する超大型船が数多く現れる環境にはないとみて、20万〜30万トンの船を能率よく建造できるドックのほうが経済的だと判断した。営業部門には受注量にこだわるなと繰り返し、量より質を求めている。日本の造船界が世界市場の半分を占めながら利益なき繁忙といわれるのは、量の拡大に走った報いだという見方であった[15][16]

結果

認可の遅れと輸出船ブーム

根回しを済ませていた追浜造船所の建設申請は、通常なら数カ月で認可が下りる見込みであった。ところが正式認可は申請から1年後の1969年11月までずれ込んだ。認可が出るまで受注活動は許されず、開始も約1年遅れた。この遅れが結果を分けた。受注活動を始めた1970年初頭、輸出船市場は船価・隻数とも史上空前といわれるブームを迎え、住友重機械工業の受注はそこに正面からぶつかった[17]

売り手市場を背景に、同社は完全円建て契約を通した。1ドル360円から265円への変更にともなう総額129億円の為替差損は、いずれも旧来の浦賀造船所向けに受注した船で生じたもので、追浜向けの契約船にドル建ては1隻も含まれない。高船価に加えて前受金が大量に流入し、建設途上にあった追浜の工事資金にそのまま充てられた。1969年3月期に417億円だった売上高は、合併後の1970年3月期に904億円へ伸びた[18][19]

合併から5年後、造船と機械の位置は入れ替わっていた。設備投資の鎮静で機械の収益力が落ちる一方、1970年から1971年にかけて受注した高船価・低コストの船が順次収益に寄与し、造船が会社の収益基盤を支えた。ある造船会社の重役は「住重さんにすれば浦賀はほんとに安い買い物でしたよ」と語っている。造船なしにこの時期を迎えていれば苦境に追い込まれていた、という認識が社内外にあった[20][21]

石油危機後の反転

1973年の石油危機は流れを変えた。船舶本部の売上比率は1974年の45.7%から1975年に35.8%へ下がり、同社は他部門に先んじて50%操業体制を敷いた。造船部門の社外工は1974年9月末の2,981人から1977年3月末の予定で1,049人へ、社内工も4,570人から3,953人へ減らした。社外工の賃金は年間100億円から43億円へ縮み、これが造船部門の採算を支えた[22]

減量で当面の採算は保たれ、1976年3月期の経常利益は70億円を確保した。しかし造船不況は長引き、1979年3月期の経常利益は6億円まで落ちた。1980年代半ばには円高が重なり、1986年3月期と1987年3月期は連続して純損失を計上している。合併で得た造船は、1969年の想定とは逆の向きに働き続けた。同社が新造船事業からの撤退を決めたのは、合併から55年を経た2024年2月であった[23][24]

出典・参考
  • 証券アナリストジャーナル 1969年10月号「住友重機械工業の現状と将来」(日本証券アナリスト協会)
  • 証券アナリストジャーナル 1976年10月号「住友重機械工業 コミュニケーションを生かして一層の前進を」(日本証券アナリスト協会)
  • 日経ビジネス 1974年5月13日号「住友重機械工業 造船トップ参入へ危険な賭け」
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社, 1968)
  • 住友重機械工業 有価証券報告書【沿革】
  • 住友重機械工業 会社年鑑(単体業績)
  • 住友重機械工業 中期経営計画26(2024年2月発表)

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