浦賀重工業を吸収合併(1969年・住友重機械工業の決断)更新:2026/07/24論点造船を加えて規模で総合重機に並ぶか住友重機械工業:業績の推移売上高(億円)当期純利益率(%)データ出所造船大手の取り込みによる重工業メーカーへの転換何をなぜ決めたか:造船大手の取り込みによる重工業メーカーへの転換概要1969年6月30日、機械専業だった住友機械工業が造船大手の浦賀重工業を10対5.5の比率で吸収合併し、住友重機械工業が発足した。合併後の資本金は71億6,000万円、従業員は1万人をわずかに超える規模となった。別子銅山の内製工場を出自とする会社が、造船部門を抱える重工業メーカーへ移った合併である。背景住友機械工業は減変速機で国内シェア3割強の首位に立ちながら、三菱重工業や石川島播磨重工業に比べて規模が小さかった。浦賀重工業は20万〜30万重量トン型タンカーに対応する大型ドックを必要としながら、累積赤字約30億円で投資余力を失っていた。内容住友機械工業を存続会社とする吸収合併で、資本金17億6,000万円の負担で浦賀の造船設備と6,000人の従業員を引き継いだ。あわせて追浜に13万坪を埋め立て、160億〜170億円を投じて20万〜30万トン級の新造船ドックを建設する計画を進めた。含意追浜造船所は1970年からの輸出船ブームに間に合い、機械部門の不振を造船が補った。もっとも石油危機の後、船舶部門は50%操業体制へ入り、造船は長く同社の重荷へ転じた。いつ何が起きたか8件考察:安く買えたことと、うまく使えたこと考察考察:安く買えたことと、うまく使えたこと赤字の造船会社を救済したという説明では、この合併の芯を取り逃がす。住友機械工業が求めたのは造船そのものではなく、三菱重工業や石川島播磨重工業と並ぶ規模であった。専門店として絞るには間口を広げすぎており、残る選択肢は総合重機になることであった。代価は資本金17億6,000万円の負担にとどまり、浦賀は半額減資で累積赤字を消した後であった。もっとも、安く買えたことと、それが利益を生んだこととは別である。追浜の成功は、運輸省の認可が1年遅れて受注活動が輸出船ブームと重なり、完全円建て契約によって為替差損を負わずに済んだ偶然に多くを負っている。石油危機の後、船舶部門は50%操業体制へ入り、1979年3月期の経常利益は6億円まで減少した。買い物の巧拙は値段では決まらず、手にした設備をどの需要へ当てられるかで決まるといえる。Yutaka Sugiura, 2026年7月参考文献参考文献参考証券アナリストジャーナル 1969年10月号(日本証券アナリスト協会)証券アナリストジャーナル 1976年10月号(日本証券アナリスト協会)日経ビジネス 1974年5月13日号企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社, 1968)住友重機械工業 有価証券報告書【沿革】住友重機械工業 会社年鑑(単体業績)住友重機械工業 中期経営計画26(2024年2月発表)次に読む決断住友重機械工業の意思決定1987年住友重機械工業住友重機械工業造船・製鉄機械部門の希望退職主力2部門を対象とした1,700人の人員削減と事業規模の縮小1987年2008年住友重機械工業住友重機械工業独デマーグなど5社買収欧州機械メーカーを続けて取り込む5社連続取得2008年同じ問い:祖業転換への設備投資1969年東京ガス東京ガスアラスカ産LNGの導入15年の長期契約・東京電力との共同調達と根岸基地の建設1969年1971年東京電力HD東京電力HD福島第一原発の建設原子力を主力電源に据える選択と、その第一号機の実現1971年1964年日本電気硝子日本電気硝子滋賀高月にCRT工場新設ブラウン管ガラスへの後発参入と、専用工場による生産体制の確立1964年1975年大阪ガス大阪ガスブルネイLNGの導入全供給エリアの天然ガス転換1975年1977年ニチロニチロ北洋漁業の縮小で陸上転換二百カイリ規制を受けた漁労依存からの脱却と、加工・畜産事業への軸足移動1977年×出所