1907年11月、北海道炭礦汽船・英アームストロング[1](アームストロング・ウイットウォース社)・英ビッカースの3社共同出資で日本製鋼所が設立された[2]。日英同盟下で軍艦の大砲や砲弾の国産化を急いでいた日本政府の要請を受けた形で、伊藤博文・松方正義ら政府要人の支持のもと、本店と工場は北海道炭礦汽船の拠点がある室蘭に置かれた。[3]もともと国家的視野に立っての設立だっただけに、陸海軍の兵器を中心に生産して順調な発展[4]をたどることになる。資本金は当時の民間製造業としては最大級の規模で、出資比率は日本側と英国側でほぼ拮抗し、経営も日英の役員が並ぶ国際色の強い体制でスタートした。英国二社と帝国海軍からの技術指導を受け、民間の兵器メーカーとしては異例の体制で業容を拡大し、1915年には本店を東京市に移し、1918年には大阪市に支店を開くなど、戦前日本で屈指の重工業メーカーへと急成長した。[5]
1919年12月には隣接する北海道製鉄株式会社を合併[6]して製鉄・採鉱事業を取り込み、輪西工場として銑鋼一貫の兵器複合拠点に再編した。翌1920年11月には海軍呉工廠の軍備拡張に備えて株式会社広島製作所を買収し、広島市外に広島工場を設置する[7]。のちに樹脂機械の主力工場となるこの広島拠点は、もとは大正6年9月創立の株式会社松田製作所で、海軍関係の小物部品の製作・加工を担う小工場だったが、当社の出資比率が7割に達した大正7年に広島製作所と改称し、当社からの下請けにかかわる弾丸等の仕上工事を担う拠点として出発したものだった[8]。日英同盟と帝国海軍の軍拡が、日本製鋼所の地理的配置を決めた構図である。創業から十年余りで、室蘭の鋳鍛鋼拠点と広島の兵器部品拠点という二極体制が形づくられ、第一次大戦後の不況期にあっても海軍の艦艇拡張計画を受けて受注を伸ばし、1930年前後には戦前の国策兵器産業を支える主軸企業に位置を占めた。
1930年前後の軍縮で兵器需要が落ち込むと、日本製鋼所は昭和6年3月25日の臨時株主総会で製鉄・採鉱事業の分離を決議し、同年9月18日に輪西製鉄株式会社を創立、10月1日付で製銑関係業務の分離を実行して製鉄事業から撤退した[9]。鋳鍛鋼素材・兵器・産業機械の三分野に事業を絞ったが[10]、この軍縮で製鉄を手放したことが、戦後に製鉄大手と全く違う道を歩む出発点となった。同じ室蘭の隣地に日本製鉄の高炉と日本製鋼所の鋳鍛鋼工場が並ぶ現在の地理的配置は、この製鉄事業からの撤退に由来するもので、兵器メーカーとしての性格をむしろ先鋭化させる結果を招いた。製鉄事業から解放された室蘭製作所は、以後は大砲の砲身や艦艇用の鋳鍛鋼素材の専業拠点として軍需一色に染まっていき、産業機械事業も砲金や軍用鋳物の派生として扱われた。大艦巨砲時代には室蘭製作所の1万トンプレスの巨大設備に示されるように、民間最大・最新鋭の兵器会社となっていた。[11]
1935年11月には神奈川県金沢町で横浜工場を起工、1936[12]年6月に竣工して操業を開始し、1941年には東京・府中に武蔵製作所(のちの東京製作所)を稼働させて陸軍向け戦車の量産を開始する。[13]昭和8年の小倉工廠創設を機に、広島工場は陸軍向けの小倉工廠の利用工場(監督工場)に指定され[14]、室蘭は砲身、広島は各種砲弾、武蔵は戦車という役割分担で軍需生産に全面的に転換した。戦時統制下で事業は伸び、四つの製作所と傘下の協力工場網を束ねる大企業へと膨張し、軍需省指定の基幹工場として国家の戦争遂行の中核を担うに至った。製品は車輪用車軸・船舶用品・電機用品から鉄鋼・化学・各種機械[15]まで重化学工業の必需品をほぼ網羅していた。この戦時拡張で積み上がった過剰設備と労働力は戦後の民需転換期に重くのしかかり、後年80年代から続く長期人員削減と構造改革の遠因ともなった。
1945年の敗戦で兵器生産は停止し、製作所[16]ごとに民需品への生産転換許可を逐次受けながら再出発した。過度経済力集中排除法に基づく法定整備計画のもと、1950年12月に旧日本製鋼所は解散[17]して商号を株式会社旧日本製鋼所と改めたうえで、新たに株式会社日本製鋼所を設立するという形式で再出発し、翌1951年6月には東京及び大阪の両証券取引所へ株式を上場した。[18]しかし戦前の兵器・素形材に代わる収益の柱はなかなか定まらず、1954年には150名規模の合理化を実施して経営再建を図り、鋳鍛鋼素材と石油化学向け各種産業機械、さらには化学プラント用の圧力容器などを組み合わせた民需メーカーとしての姿を十年近く模索しつづけ、戦後十数年は方向感を欠いた試行錯誤の時期だった。
転機は1961年だった。ドイツのアンケル社と技術提携してプラスチック射出成形機事業に参入[19]し、同年中に油圧ショベル事業にも新規参入する。[20]この二つが戦後の新規事業の中心となり、広島製作所が射出成形機、室蘭が素形材・兵器・鋳鍛鋼、横浜が化学機械という新たな役割分担が再定義された。1975年1月には広島製作所内に機械研究所(現先端技術研究所)を開設し[21]、射出成形機の開発力を組織的に強化する。広島は戦前の砲弾工場から戦後の樹脂機械拠点へと中身を組み替え、1978年8月には米国にJapan Steel Works America, Inc.を設立、1975年12月の日鋼プラスチック機械サービス設立、1981年12月の横浜製作所新工場起工とあわせ、国内外の販売・保守ネットワークの整備と化学機械の生産体制強化にも乗り出した。[22]
新規参入した2事業のうち、油圧ショベルは小松・日立建機との競争に敗れ、1982年9月には30%規模の減産に踏み切った。1984年3月期には早くも3期連続の最終赤字に転落[23]していた。1986年7月には室蘭製作所で600名規模の人員削減を開始し、1998年5[24]月にもさらに追加で300名を削減、累計で900名に達した。戦時統制で膨らんだ素形材・兵器生産能力の解体は、80年代から20年近くにわたる長期人員調整となって続き、同時期の室蘭製作所では鋳鍛鋼生産ラインの集約や遊休設備の整理も並行して進められ、労働組合との長期協議を経て段階的な合理化がようやく一区切りを迎える形となっていき、戦前型の重量物重工業からの転換を痛みをもって行った時期となった。
1992年3月には東京都府中の東京製作所跡地を売却し、固定資産売却益425億円を計上[25]する。跡地は府中インテリジェントパークとして再開発[26]された。しかし1994年3月期にも再び3期連続の最終赤字に沈み[27]、2000年4月には経営改善計画を発表して420名の人員削減に踏み切った。[28]この10年間、射出成形機のグローバル展開は、1992年7月のシンガポール[29]、1996年7月のマレーシア、1996年9月のタイ、1997年4月の香港、2002年5月の中国深圳、2008年7月の上海、2010年12月の寧波と進み、アジアを中心に販売・保守拠点を張り巡らせた。一方で構造不採算の素形材事業が連結決算の足を引っ張る体質は変わらず、樹脂機械の海外展開で稼いだ利益がそのまま室蘭製作所の赤字で相殺される収益構造が定着し、長期にわたって経営の制約として残り続けた。
https://the-shashi.com/api/companies.json https://the-shashi.com/api/5631/manifest.json https://the-shashi.com/api/5631/history.json https://the-shashi.com/api/5631/timeline.json https://the-shashi.com/api/5631/executives.json https://the-shashi.com/api/5631/shareholders.json https://the-shashi.com/api/5631/financials.json https://the-shashi.com/api/5631/financials-longterm.json https://the-shashi.com/api/5631/segments.json https://the-shashi.com/api/5631/regions.json https://the-shashi.com/api/5631/workforce.json | 時代 | 年月 | 社長・CEO | 出来事 | 重要度 |
|---|---|---|---|---|
| 1907〜1945年日英合弁で始まった国産兵器メーカーの拡張と戦時統制下の拡張期 | 北海道炭礦汽船・アームストロング・英ビッカースの3社共同出資で日本製鋼所を設立 | ★★ | ||
| 本店を移転 | ★ | |||
| 北海道製鉄を合併し製鉄・採鉱事業を兼営 | ★ | |||
| 広島製作所を買収 | ★ | |||
| 製鉄・採鉱事業の分離と輪西製鉄の設立、鋳鍛鋼・兵器・産業機械への集中 1931年12月、日本製鋼所は製鉄および採鉱事業を本体から分離し、輪西製鉄株式会社を設立した。1919年に北海道製鉄を合併して取り込んだ川上工程を12年で手放し、室蘭・広島の各工場は鋳鍛鋼品、兵器、産業機械の三分野に事業を絞った。 詳細を読む | ★★★ | |||
| 横浜工場を起工 | ★ | |||
| 陸軍・海軍の管理工場に指定 | ★ | |||
| 武蔵製作所(東京・府中)を新設 | ★ | |||
| 終戦により兵器生産を中止 | ★ | |||
| 敗戦を受け民需品生産への転換を開始 | ★★ | |||
| 1946〜1999年戦後の民需転換と油圧ショベル撤退・構造赤字との長い闘い | 過度経済力集中排除法に基づく再編で新日本製鋼所を設立 | ★★ | ||
| 新谷哲次 | 東京・大阪証券取引所に株式上場 | ★ | ||
| 柳武 | 独アンケル・ベルク社からの技術導入によるプラスチック射出成形機事業の立ち上げと、一般産業機械部門の拡大 1960年、日本製鋼所は西ドイツのアンケル・ベルク社と小型射出成形機の技術援助契約を結び、射出成形機事業を立ち上げた。1963年にはクラウス・マッファイ社と大型射出成形機の技術提携を結び、小型から大型までの品揃えを整えている。 詳細を読む | ★★★ | ||
| 柳武 | 油圧ショベル事業に新規参入 | ★★ | ||
| 小野達郎 | 広島製作所内に機械研究所を新設 | ★ | ||
| 小野達郎 | Japan Steel Works America, Inc.を設立 | ★ | ||
| 舘野万吉 | 横浜製作所の新工場が横浜市金沢地先工業団地で操業開始 | ★ | ||
| 舘野万吉 | デミング賞実施賞を受賞 | ★ | ||
| 舘野万吉 | 3期連続の最終赤字に転落 | ★★ | ||
| 八木直彦 | 油圧ショベルの自社生産から撤退 | ★★ | ||
| 八木直彦 | 室蘭製作所で600名規模の人員削減を開始 | ★★ | ||
| 八木直彦 | 東京・府中の東京製作所跡地を売却 | ★ | ||
| 八木直彦 | JSW Plastics Machinery (S)を設立 | ★ | ||
| 八木直彦 | 3期連続の最終赤字に転落 | ★ | ||
| 2000〜2020年風力発電機トラブルを契機とした素形材事業の分社化と構造改革 | 大西敬三 | 経営改善計画を発表し420名の人員削減を実施 | ★★ | |
| 永田昌久 | 三菱重工業から押出成形機事業を譲り受け | ★ | ||
| 永田昌久 | 室蘭製作所の製鋼・鍛錬設備の増強と、原子力発電向け大型鍛鋼への傾斜 2007年6月から9月にかけて、日本製鋼所は室蘭製作所の製鋼関連設備・鍛錬熱処理設備・機械加工設備の増強に着手した。当初は2007年度と2008年度の二年間で総額約550億円としていた計画は、翌年には鉄鋼製品関連事業を中心に総額800億円超へ引き上げられた。 詳細を読む | ★★★ | ||
| 永田昌久 | 本社を移転 | ★ | ||
| 佐藤育男 | 名機製作所・そのグループ会社を子会社化 | ★ | ||
| 佐藤育男 | YPK・そのグループ会社を子会社化 | ★ | ||
| 佐藤育男 | 当期純損失を計上 | ★ | ||
| 佐藤育男 | 連結純損失▲50億円を計上し3期連続赤字 | ★ | ||
| 宮内直孝 | 宮内直孝が代表取締役社長に就任 | ★ | ||
| 宮内直孝 | 素形材・エネルギー事業の日鋼MECへの吸収分割と、6年後の日本製鋼所M&Eの本体への吸収合併 2020年1月28日の取締役会決議を経て、同年4月1日、日本製鋼所は素形材・エネルギー事業と風力発電機器保守サービスの技術部門を吸収分割により100%子会社の日鋼MECへ承継させた。日鋼MECは同日に子会社3社を吸収合併し、日本製鋼所M&Eへ商号を変更している。 詳細を読む | ★★★ | ||
| 宮内直孝 | 圧縮機事業をブルックハルトジャパンに譲渡 | ★ | ||
| 松尾敏夫 | 松尾敏夫が代表取締役社長に就任 | ★ | ||
| 松尾敏夫 | 日本製鋼所M&Eを吸収合併し室蘭製作所を設置 | ★ |
免責事項およびポリシー
事実根拠:出所(日本製鋼所)